説明

イオントラップ質量分析装置

【課題】イオン捕捉用の高周波電場をイオントラップ内に形成するためにリング電極に矩形波電圧を印加するデジタルイオントラップを用いた質量分析装置において、MSn分析の際に生成される低質量のプロダクトイオンを的確に捕捉し検出可能とする。
【解決手段】MSn分析において、低質量のプロダクトイオンが生成される開裂操作(S16)の前にリング電極に印加されるイオン捕捉用の矩形波電圧の振幅を下げる(S10)。矩形波電圧の振幅を下げることにより安定捕捉条件を満たす最小質量が下がり、低質量のプロダクトイオンも捕捉可能となる。一方、イオントラップに捕捉されるイオンのm/zが比較的高い状態のとき(S1〜S7)には、矩形波電圧の振幅は大きいので擬電位ポテンシャルは深く、高い効率でイオンを捕捉することが可能である。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、高周波電場の作用によってイオンを捕捉するイオントラップを備えるイオントラップ質量分析装置に関し、さらに詳しくは、デジタル駆動方式のイオントラップを用いたイオントラップ質量分析装置に関する。
【背景技術】
【0002】
質量分析装置においてイオントラップは、高周波電場の作用によりイオンを捕捉して閉じ込めたり、特定の質量電荷比(m/z値)を持つイオンを選別したり、さらにはそうして選別したイオンを開裂させたりするために用いられる。典型的なイオントラップは、図8に示すように、内面が回転1葉双曲面形状である1個のリング電極21と、このリング電極21を挟んで対向して配置された内面が回転2葉双曲面形状である一対のエンドキャップ電極22、24とからなる3次元四重極型のイオントラップであるが、これ以外に、平行配置された4本のロッド電極から成るリニア型のイオントラップも知られている。本明細書では、便宜上、「3次元四重極型」を例に挙げてイオントラップの説明を行う。
【0003】
従来の一般的なイオントラップでは、通常、リング電極21に正弦波状の高周波電圧を印加することで、リング電極21及びエンドキャップ電極22、24で囲まれる空間にイオン捕捉用の高周波電場を形成し、この高周波電場によりイオンを振動させながら閉じ込める。これに対し、近年、正弦波状の高周波電圧の代わりに矩形波電圧をリング電極21に印加することでイオンの閉じ込めを行うイオントラップが開発されている(特許文献1、特許文献2、非特許文献1など参照)。この種のイオントラップは、通常、ハイ、ローの二値の電圧レベルを有する矩形波電圧が使用されることから、デジタルイオントラップ(Digital Ion Trap、以下「DIT」と略す)と呼ばれる。
【0004】
DITを利用したイオントラップ質量分析装置(以下「DIT−MS」と略す)では、非特許文献1に記載のように、捕捉したいイオンの質量範囲に応じた所定の周波数を有する矩形波高電圧を捕捉用高周波電圧としてリング電極21に印加し、それによりイオントラップ2内に目的とするイオンを閉じ込める。こうして閉じ込めたイオンを質量電荷比に応じて順次イオン出射口25から排出させ、その外側に設けた図示しない検出器により検出する。例えば、リング電極21に印加する矩形波高電圧(通常、振幅は数百V以上)を所定の分周比で分周した矩形波低電圧(通常、振幅は数V程度)をエンドキャップ電極22、24に印加し、その矩形波高電圧及び矩形波低電圧の周波数を同時に走査する。これにより、イオントラップ2内に捕捉されているイオンを、質量電荷比の順に共鳴励起させイオン出射口25を通して外部に排出し、検出器により順次検出してマススペクトルを作成する。
【0005】
よく知られているように、イオントラップにおけるイオン安定捕捉条件はマシューダイヤグラムを用いて説明することができる。これはDITでも同様である。DITにおいて捕捉され得るイオンの最小質量(LMC:Low Mass Cutoff)は、次の(1)式で表される。
[m/e]LMC =(V/qr02π2)・(4π2/Ω2 ) …(1)
q=4eV/mr02 Ω2
ここで、mはイオンの質量、eはイオンの価数、Vは高周波の矩形波電圧の振幅(厳密には矩形波電圧の1周期での平均交流成分)、Ωは矩形波電圧の周波数、r0はリング電極21の内接半径、である。
【0006】
一般に、DIT−MSでは矩形波電圧の振幅Vを一定に保ち、矩形波電圧の周波数Ωを制御することで質量走査が行われる。より低い質量のイオンをイオントラップ2内に安定的に捕捉するには、(1)式から、矩形波電圧の周波数Ωを高くするか、或いは、矩形波電圧の振幅Vを小さくする必要があることが分かる。
【0007】
通常、上記矩形波電圧は正負の直流高電圧をパワーMOSFET等の半導体スイッチング素子で切り替えることで生成される。そのため、矩形波電圧の周波数は、入手可能な半導体素子で得られる性能(速度)の限界によりその上限が決まってしまい、上述したように、矩形波電圧の周波数を上げることでLMCを下げるのには限界がある。
【0008】
一方、LMCを下げるために矩形波電圧の振幅を小さくしようとした場合には、次のような問題がある。矩形波電圧がリング電極21に印加されている状態では、イオントラップ2内には、次の(2)式で近似される深さの擬電位ポテンシャルが形成される。
Dz=(π2/48)・qV …(2)
即ち、この擬電位ポテンシャルは矩形波電圧の振幅Vに比例するため、矩形波電圧の振幅を小さくすると擬電位ポテンシャルも浅くなる。イオントラップ2内においてイオンは擬電位ポテンシャルが落ち込んだポテンシャル井戸の中で振動しつつ捕捉されるため、擬電位ポテンシャルが浅くなるとイオンの捕捉効率が下がる。擬電位ポテンシャルの深さはイオンの質量mには反比例するため、質量が大きなイオンほど捕捉効率が下がることになる。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0009】
【特許文献1】特表2007−527002号公報
【特許文献2】特開2008−282594号公報
【非特許文献】
【0010】
【非特許文献1】古橋、竹下、小河、岩本、ディン、ギルズ、スミルノフ、「デジタルイオントラップ質量分析装置の開発」、島津評論、島津評論編集部、2006年3月31日、第62巻、第3・4号、pp.141−151
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0011】
上述のような擬電位ポテンシャルの観点からイオンの捕捉効率を上げるには矩形波電圧の振幅を大きくする必要があるが、そうするとLMCが高くなり、低質量イオンを捕捉して検出することができなくなる。こうした現象は特に、MSn分析において低質量のイオンを検出したい場合に大きな問題となる。何故なら、MSn分析では、比較的大きな質量(分子量)を有するイオンを複数段階に開裂させて低質量のプロダクトイオンに断片化し質量分析に供することで構造情報を取得するが、低質量イオンが検出できなくなると構造情報が不足して正確な構造解析に支障をきたすことになるからである。
【0012】
本発明は上記課題を解決するために成されたものであり、その目的とするところは、MSn分析を実行する際に、高質量であるプリカーサイオンを確実に捕捉しつつ、開裂により生成される低質量のプロダクトイオンを高い効率で捕捉して検出することができるイオントラップ質量分析装置を提供することにある。
【課題を解決するための手段】
【0013】
上記課題を解決するために成された本発明は、複数の電極からなるイオントラップを有し、該イオントラップに捕捉した各種イオンの中で特定の質量電荷比を有するイオンをプリカーサイオンとして選択的に残すイオン選別を行い、それに引き続いて、選択したプリカーサイオンを開裂させる、という操作を少なくとも1回実行した後に、捕捉されているイオンをイオントラップ内から排出して検出するMSn(nは2以上)分析実行可能なイオントラップ質量分析装置において、
a)イオンを捕捉する高周波電場を形成するために、前記複数の電極の少なくとも1つに矩形波電圧を印加する電圧印加手段と、
b)MSn分析を実行する際に、m段目(mは1〜n−1の中の任意の1又は複数の値)のイオン選別実行の時点からそれにより選択されたプリカーサイオンの開裂実行の時点までの期間中の任意の時点で、前記矩形波電圧の振幅を、そのm段目のイオン選別実行の時点よりも前の期間における振幅よりも小さくするように切り替えるべく前記電圧印加手段を制御する制御手段と、
を備えることを特徴としている。
【0014】
上記開裂操作は、イオントラップ内に適宜の衝突誘起解離ガスを導入し、励振させたプリカーサイオンを衝突誘起解離ガスに衝突させることで該プリカーサイオンの開裂を促してプロダクトイオンを生成するものとすることができる。
【0015】
上記イオントラップは、3次元四重極型イオントラップ又はリニア型イオントラップである。3次元四重極型イオントラップの場合、通常、イオントラップは、環状のリング電極と、該リング電極を挟んで対向配置された一対のエンドキャップ電極とからなり、リング電極に上記イオン捕捉用の矩形波電圧が印加される。一方、リニア型イオントラップの場合、通常、イオントラップは、中心軸を取り囲むように互いに平行に配置された4本のロッド電極からなり、中心軸を挟んで対向する2本のロッド電極が上記リング電極に代わるものである。
【0016】
本発明に係るイオントラップ質量分析装置において、一例として、3次元四重極型イオントラップを用いて2段階の開裂操作を伴うMS3分析を実行する場合について考え、m=2であるものとする。この場合、例えばイオントラップの外部で生成された各種イオンがイオントラップに導入されて捕捉された後、1段目のイオン選別として特定の質量電荷比を有するイオンがプリカーサイオンとして選択され、選択されたプリカーサイオンの開裂操作が実行され、それにより生成されたプロダクトイオンがイオントラップ内に捕捉される。次に、2段目のイオン選別として、各種プロダクトイオンの中の特定の質量電荷比を有するイオンがプリカーサイオンとして選択され、選択されたプリカーサイオンの開裂操作が実行され、それにより生成されたプロダクトイオンがイオントラップ内に捕捉される。その後に、イオントラップ内に捕捉されていたプロダクトイオンが質量電荷比に応じて順次排出され、イオントラップの外部に設けられた検出器により検出される。
【0017】
1段目のイオン選別、開裂操作、及びプロダクトイオンの捕捉の過程において、制御手段の制御の下に電圧印加手段は、所定周波数で相対的に大きな第1振幅を有する矩形波電圧をリング電極に印加することで、イオントラップ内にイオン捕捉用の高周波電場を形成する。このとき、LMCは比較的高いものの、1段目のプリカーサイオンの質量電荷比は比較的高く、これから生成されるプロダクトイオンも全般的に高い質量電荷比を持つものが多いため、こうしたイオンは安定的にイオントラップ内に捕捉される。また、擬電位ポテンシャルは十分に深いので、高い効率でイオンを捕捉することが可能である。
【0018】
これに対し、2段目のイオン選別、開裂操作、及びプロダクトイオンの捕捉の過程において、制御手段の制御の下に電圧印加手段は、遅くても実質的に開裂操作が開始される時点までの任意の時点で、リング電極に印加する矩形波電圧の振幅を上記第1振幅よりも小さな第2振幅に切り替える。ここで、「実質的に開裂操作が開始される時点」とはイオンの励振が開始される時点であり、例えばイオントラップ内に衝突誘起解離ガスが供給されるだけでイオンが未だ励振されていない期間は、上記時点の以前となる。
【0019】
即ち、2段目の開裂操作でプロダクトイオンが生成され始める時点では矩形波電圧の振幅が小さくされている。矩形波電圧の振幅が小さくなったことでLMCは下がり、開裂により生成される低質量のプロダクトイオンもマシューダイヤグラムに基づく安定捕捉条件を満たすようになる。それにより、低質量のプロダクトイオンも捕捉されるようになる。一方、矩形波電圧の振幅が小さくなるに伴い捕捉対象のイオンの質量も小さくなるので、捕捉対象のイオンに対する擬電位ポテンシャルは適度な深さを保ち、イオン捕捉効率も十分に高い状態に保たれる。もちろん、矩形波電圧の振幅を小さくしたときにプリカーサイオンを捕捉できないほど擬電位ポテンシャルが下がってしまうと開裂操作自体に支障をきたすから、プリカーサイオンを捕捉可能なポテンシャルが得られるように振幅を決めておくことが必要である。
【0020】
前述のように、LMCは矩形波電圧の振幅に依存し、擬電位ポテンシャルも矩形波電圧の振幅と捕捉対象のイオンの質量に依存する。したがって、nが3以上であるMSn分析において何段目で矩形波電圧の振幅を小さくするのかは、プリカーサイオンの質量電荷比(換言すれば開裂により生じるプロダクトイオンの質量範囲)などに応じて適宜に決めることができる。また、多段階の開裂操作を行う場合には、矩形波電圧の振幅を1回だけでなく複数回段階的に小さくしてもよい。
【0021】
通常、MSn分析における各段のプリカーサイオンの質量電荷比はユーザが分析パラメータの1つとして入力設定するから、制御手段は、入力設定されたプリカーサイオンの質量電荷比に応じて矩形波電圧の振幅を小さくするタイミングやその振幅値などを決定するようにしてもよい。例えば、入力設定されたプリカーサイオンの質量電荷比が予め定めた閾値以下である場合に、その段の開裂操作の開始の時点で矩形波電圧の振幅を所定の値に下げるように決めておけば、制御が簡素化される。
【発明の効果】
【0022】
本発明に係るイオントラップ質量分析装置によれば、MSn分析を行う際に、開裂前のプリカーサイオンを確実に捕捉しつつ、開裂により生じる低質量のプロダクトイオンも高い効率で捕捉することができる。これにより、低質量のプロダクトイオンも高い感度で検出することが可能となり、プロダクトイオンの情報を利用した高分子化合物の構造解析が容易になり、その精度向上も図れる。
【図面の簡単な説明】
【0023】
【図1】本発明の一実施例であるMALDI−DIT−MSの要部の概略構成図。
【図2】本実施例のMALDI−DIT−MSにおけるイオン捕捉用の矩形波電圧波形の一例を示す図。
【図3】本実施例のMALDI−DIT−MSにおけるMS2分析時の手順を示すフローチャート。
【図4】本実施例のMALDI−DIT−MSにおけるMS3分析時の手順を示すフローチャート。
【図5】本実施例のMALDI−DIT−MSにおけるMS2分析時に得られるMS2スペクトルの実測例。
【図6】本実施例のMALDI−DIT−MSにおけるMS3分析時に得られるMS3スペクトルの実測例。
【図7】図6のMS3スペクトルの低質量範囲の拡大スペクトル。
【図8】3次元四重極型イオントラップの概略構成図。
【発明を実施するための形態】
【0024】
本発明に係るイオントラップ質量分析装置の一実施例であるMALDI−DIT−MSについて、添付図面を参照して説明する。図1は本実施例のMALDI−DIT−MSの要部の概略構成図である。
【0025】
本実施例によるMALDI−DIT−MSは、目的試料をイオン化するイオン化部1と、イオンを質量電荷比に応じて分離する3次元四重極型のイオントラップ2と、イオンを検出する検出部3と、を備える。
【0026】
マトリクス支援レーザ脱離イオン化法(MALDI)を用いたイオン化部1は、パルス状のレーザ光を出射するレーザ照射部11、目的試料成分を含むサンプルSが付着されたサンプルプレート12、レーザ光の照射によってサンプルSから放出されたイオンを引き出すとともにその引き出し方向を限定するアパーチャ13、引き出されたイオンを案内するイオンレンズ14、などを含む。もちろん、MALDI以外の他のレーザイオン化法やレーザ光を用いないイオン化法を用いても構わない。
【0027】
イオントラップ2は、図8に示したものと同様の構成であり、円環状の1個のリング電極21と、これを挟むように対向して配置された、入口側エンドキャップ電極22及び出口側エンドキャップ電極24と、からなり、これら3個の電極21、22、24で囲まれた空間が捕捉領域となる。入口側エンドキャップ電極22の略中央にはイオン入射口23が穿設され、イオン化部1から出射したイオンはイオン入射口23を経てイオントラップ2内に導入される。一方、出口側エンドキャップ電極24の略中央にはイオン出射口25が穿設され、イオン出射口25を経てイオントラップ2内から排出されたイオンは検出部3に到達して検出される。さらに、イオントラップ2にはガス供給部26が付設されており、制御部5の指示に基づいてガス供給部26はCIDガスやクーリングガスをイオントラップ2に供給する。
【0028】
検出部3は、イオンを電子に変換するコンバージョンダイノード31と、コンバージョンダイノード31から到来する電子を増倍して検出する二次電子増倍管32とからなり、入射したイオンの量に応じた検出信号をデータ処理部4に送る。データ処理部4は、イオントラップ2において質量分離されつつ順次排出されるイオンに対して検出部3で得られる検出信号に基づいて、マススペクトル(MSnスペクトル)を作成する機能などを有する。
【0029】
主電源部(本願発明における電圧印加手段に相当)6はリング電極21にイオン捕捉用の矩形波電圧を印加するものであって、正極性直流電圧である第1電圧VHを発生する第1電圧源61と、負極性直流電圧である第2電圧VLを発生する第2電圧源62と、第1電圧源61の出力端と第2電圧源62の出力端との間に直列に接続された第1スイッチング素子63及び第2スイッチング素子64と、を含む。スイッチング素子63、64は例えばパワーMOSFETである。
【0030】
制御部(本願発明における制御手段に相当)5は、第1スイッチング素子63及び第2スイッチング素子64が交互にオンするように(但し、少なくとも同時にオンすることがないように)、所定周波数の駆動パルスを各スイッチング素子63、64に供給する。第1スイッチング素子63がオンするとき第1電圧VHが出力され、第2スイッチング素子64がオンするときに第2電圧VLが出力されるから、出力電圧VOUTは理想的には、ハイレベルがVH、ローレベルがVLである所定周波数f(周期t)の矩形波電圧となる。ここでは、第1電圧VH及び第2電圧VLは絶対値が同じで極性が逆の高電圧であり、その電圧値は制御部5からの指示に基づいて後述するように複数段階に切り替え可能となっている。通常、その電圧値は百V〜1kV程度の範囲であり、また周波数fは通常数十kHz〜数MHz程度の範囲である。
【0031】
補助電源部7はイオントラップ2のエンドキャップ電極22、24にそれぞれ相違する矩形波低電圧を印加するものである。制御部5は主電源部6に供給する駆動パルスを適宜の比(この例では1/4)で分周したパルス信号を補助電源部7に与える。補助電源部7はこの信号に基づき周波数がf/4であって、ローレベルが0[V]、ハイレベルが+VE、パルス幅がdである矩形波低電圧と、これとは逆極性の矩形波低電圧とを生成し、必要に応じ励振用電圧としてエンドキャップ電極22、24にそれぞれ印加する。
【0032】
CPUやメモリ、各種ハードウエア回路などを含んで構成される制御部5には、ユーザが分析のための各種パラメータなどを入力するための入力部8と、データ処理部4で得られるマススペクトル等の分析結果などが表示される表示部9とが接続されている。
【0033】
本実施例のMALDI−DIT−MSでは通常の質量分析のほかにMSn分析が行える。図3及び図4はMS2分析、MS3分析を実行する場合の処理手順を示すフローチャートである。まず、本実施例のMALDI−DIT−MSにおいてMS2分析を行う際の動作について説明する。
【0034】
分析に先立って、ユーザ(分析者)はプリカーサイオンの質量電荷比を分析パラメータの1つとして入力部8から入力する。分析が開始されると、制御部5はまず、主電源部6に対し第1電圧VH=1000V、第2電圧VL=−1000Vを初期値として設定する(ステップS1)。これにより、主電源部6からリング電極21に図2(a)に示すような矩形波電圧が印加される。
【0035】
イオン化部1において、制御部5の制御の下にレーザ照射部11は短時間レーザ光を出射する。レーザ光はサンプルSに照射され、サンプルS中のマトリックスは急速に加熱されて目的成分を伴い気化する。この際に目的成分がイオン化される(ステップS2)。発生したイオンはイオンレンズ14により形成される静電場によって収束され、イオン入射口23を経てイオントラップ2内に導入され、上記矩形波電圧の印加により形成される高周波電場によって捕捉される(ステップS3)。
【0036】
イオントラップ2内に安定的に捕捉されるイオンの質量範囲は、リング電極21に印加される矩形波高電圧の周波数に依存する。したがって、上記のようにイオンをイオントラップ2内に閉じ込めておくに際し、制御部5は所定周波数の駆動パルスをスイッチング素子63、64に供給し、これに応じた周波数の矩形波高電圧が主電源部6で生成されてリング電極21に印加される。なお、このときには、エンドキャップ電極22、24への印加電圧は接地電位に維持される。
【0037】
次に、制御部5は先に設定された質量電荷比を有するイオンのみをプリカーサイオンとして残し、他のイオンを共鳴励起排出するように、リング電極21及びエンドキャップ電極22、24に印加している電圧の周波数を走査するべく主電源部6を制御する(ステップS4)。プリカーサイオン選択の詳しい手法は非特許文献1などに開示されているが、簡単に説明すると、まずリング電極21に印加している矩形波電圧のデューティ比を0.5から変化させることにより、プリカーサイオンから質量電荷比が離れた不要なイオンを発散させて除去する。その後に、プリカーサイオンの質量電荷比に対応した周波数を除き、矩形波電圧の周波数を走査して不要なイオンを共鳴励起排出させることにより、高い分解能で目的とするプリカーサイオンのみをイオントラップ2内に残す。
【0038】
その後、ガス供給部26からCIDガスをイオントラップ2内に導入し(ステップS5)、プリカーサイオンを共鳴励起させるように矩形波電圧の周波数を設定することにより、エネルギーを付与したプリカーサイオンをCIDガスに衝突させて開裂を促進する(ステップS6)。これにより、プリカーサイオンが開裂してより低質量の各種プロダクトイオンが生成され、これがイオントラップ2内に捕捉される。それから、ガス供給部26からクーリングガスをイオントラップ2内に導入し、生成されたプロダクトイオンのクーリングを行う(ステップS7)。
【0039】
適宜の時間、クーリングを行って捕捉領域にプロダクトイオンを安定的に捕捉した後に、リング電極21、エンドキャップ電極22、24に印加する矩形波電圧の周波数を走査することで、捕捉していたイオンを質量電荷比に応じて順次共鳴励起させ、イオン出射口25から排出させる。排出されたイオンは検出部3に導入されて検出される。これによりイオンの質量分離及び検出が行われる(ステップS8)。データ処理部4は、上記の周波数走査に伴って検出部3から順次得られる検出信号を処理することにより、プロダクトイオンのマススペクトル、つまりMS2スペクトルを作成する。次に分析すべきサンプルSが未だあればステップS9からS1に戻り、全ての分析が完了していれば分析を終了する。
【0040】
上記MS2分析では、捕捉対象のイオンの質量電荷比や共鳴励起排出するイオンの質量電荷比などに応じて矩形波電圧の周波数は変化するが、矩形波電圧の振幅は基本的に一定(±1000V)に維持される。即ち、ここでは、本願発明における矩形波電圧の振幅の切り替えは行われない。
【0041】
次に、本実施例のMALDI−DIT−MSにおいてMS3分析を行う際の動作について図4に従って説明する。図4中で図3に示したステップと同一の処理を行うステップについては、同じステップ番号を付している。
【0042】
分析に先立って、ユーザ(分析者)は1段目と2段目の各プリカーサイオンの質量電荷比を分析パラメータの1つとして入力部8から入力する。分析が開始されると、制御部5はまず、主電源部6に対し第1電圧VH=1000V、第2電圧VL=−1000Vを初期値として設定する(ステップS1)。これにより、主電源部6からリング電極21に図2(a)に示すような矩形波電圧が印加される。以下、ステップS2〜S7までは上記MS2分析と同様であるので説明を略す。
【0043】
ステップS7において、適宜の時間、クーリングを行って捕捉領域にプロダクトイオンを安定的に捕捉した後に、2段目のイオン選別及び開裂操作を実行するが、その前に、制御部5はリング電極21に印加される矩形波電圧の振幅を1/2にするべく、主電源部6に対し第1電圧VH=500V、第2電圧VL=−500Vに切り替える指示を与える。これにより、主電源部6からリング電極21に印加される矩形波電圧は図2(b)に示すように振幅が小さくなる。その振幅切替えの後に、制御部5は先に設定された2段目のプリカーサイオンのみをイオントラップ2内に残し、他のイオンを共鳴励起排出するように、リング電極21及びエンドキャップ電極22、24に印加している電圧の周波数を走査するべく主電源部6を制御する(ステップS14)。プリカーサイオン選択の手法はステップS4と同じである。
【0044】
その後、ステップS5〜S7と同様のステップS15〜S17の手順で、CIDガスを導入し、プリカーサイオンの共鳴励起によるCIDの実行、及び、生成されたプロダクトイオンのクーリング、を順次行う。2回の開裂操作を経て、イオントラップ2内に捕捉されるプロダクトイオンの質量範囲は最初にイオントラップ2内に捕捉されたイオンの質量範囲よりもかなり低くなる。そのプロダクトイオンの一部は、リング電極21に印加される矩形波電圧が±1000Vであった場合のLMCを下回る質量電荷比を有する。これに対しこの実施例の装置では、上述のようにステップS10でリング電極21に印加される矩形波電圧が±500Vに下げられているため、その時点でLMCも低くなっている。これにより、2段目の開裂操作で生成された低質量のプロダクトイオンの質量電荷比はLMCを下回ることがなく、安定的にイオントラップ2内に捕捉される。
【0045】
その後、ステップS8と同様のステップS18において、捕捉していたイオンを質量電荷比に応じて順次共鳴励起排出させ、検出部3により検出する。データ処理部4は、上記の周波数走査に伴って検出部3から順次得られる検出信号を処理することにより、プロダクトイオンのマススペクトル、つまりMS3スペクトルを作成する。分析すべきサンプルSが未だあればステップS19からS20に進み、制御部5は主電源部6に対し第1電圧VH=1000V、第2電圧VL=−1000Vに切り替える指示を与え、ステップS2へと戻る。これにより、次のサンプルのMS3分析は、矩形波電圧が±1000Vである状態から開始される。一方、ステップS19で全ての分析が完了していると判定されれば分析を終了する。
【0046】
以上説明したように、MS3分析では、1段目のイオン選別・開裂操作の段階ではリング電極21に印加される矩形波電圧は±1000Vであるが、2段目のイオン選別・開裂操作の段階ではリング電極21に印加される矩形波電圧は±500Vに下げられる。したがって、イオントラップ2に捕捉する対象のイオンの質量範囲又は質量電荷比が高いときには擬電位ポテンシャルを深くして高いイオン捕捉効率を実現できる。一方、開裂によって低質量のプロダクトイオンが生成された状態ではLMCは引き下げられているので、低質量イオンの質量範囲はLMCを下回ることはなく安定捕捉条件を満たす。このとき、捕捉対象のイオンは高質量ではないので、矩形波電圧の振幅を小さくしても擬電位ポテンシャルは浅くならず、高い効率でプロダクトイオンを捕捉できる。これにより、低質量のプロダクトイオンを質量分離・検出に供することができる。
【0047】
上記実施例のMALDI−DIT−MSによる実測例を示し、その効果を説明する。測定した試料はブラジキニンフラグメント1-7(Bradykinin fragment 1-7)であり、MALDI用マトリックスは2,5-Dihydroxybenzoic acid(DHB)である。
【0048】
図5は矩形波電圧が±1000V一定であるときのMS2スペクトルの実測例である。この場合、検出可能な最低質量のプロダクトイオンはm/z200である。ここに出現しているいずれのプロダクトイオンをプリカーサイオンに設定してMS3分析を行っても、得られるプロダクトイオンの最低質量はm/z200となり、質量電荷比がそれ以下のプロダクトイオンは観測できない。
【0049】
図5に示したMS2スペクトル中のy6(m/z642)のプロダクトイオンをプリカーサイオンとして選択する直前に矩形波電圧を±500Vに低下させて(つまり図4に示したシーケンスにより)MS3分析を実行して得られたMS3スペクトルが図6である。矩形波電圧の振幅の切替えにより、検出可能なプロダクトイオンの最低質量はm/z62.6まで下がる。
【0050】
図7は図6の低質量範囲(m/z130以下)の拡大スペクトルである。このスペクトルから、フェニルアラニンのインモニウムイオン(m/z120)、アルギニンのインモニウムイオン・関連イオン(m/z112、98)が十分な感度で検出されていることが分かる。これらイオンはいずれも矩形波電圧が±1000Vである場合(LMCがm/z200である場合)には検出できないものであり、本願発明により、従来は検出できなかった低質量のプロダクトイオンが確実に検出できるようになることが確認できた。
【0051】
図4に示したMS3分析のシーケンスでは、2段目のプリカーサイオンの選択(ステップS14)の直前にリング電極21に印加する矩形波電圧の振幅を切り替えているが、プリカーサイオンからプロダクトイオンが生成される前に矩形波電圧の振幅を切り替えさえすればよいから、ステップS14からS16の直前までの間に矩形波電圧の振幅を切り替えればよい。但し、矩形波電圧の振幅の切替えの指示を行っても実際にリング電極21に印加される矩形波電圧波形が変化するまでに時間遅延が生じる場合があるから、そうしたことを考慮して切替えのタイミングを決めることが必要である。また、振幅切替え後の振幅(電圧値)はその電圧印加により形成される擬電位ポテンシャルがプリカーサイオンを捕捉できるポテンシャル以上である必要がある。したがって、そうした条件を満たすように振幅値を決めておく必要がある。
【0052】
また、前述したようにLMCや擬電位ポテンシャルはリング電極21に印加される矩形波電圧の振幅や対象とするイオンの質量に依存し、分析したいプリカーサイオンの質量電荷比やそれから生成されるプロダクトイオンの質量範囲は様々であるから、上記のようにMS3分析の2段目のイオン選別・開裂操作の際に矩形波電圧の振幅を下げるというのは単に一例にすぎない。
【0053】
プリカーサイオンの質量電荷比が設定されれば、開裂により生成されるプロダクトイオンの質量範囲もおおよそ予測が可能であるから、プリカーサイオンの質量電荷比に基づいて矩形波電圧の振幅の切り替えの要否やさらには振幅を下げる際のその振幅値を判断することが可能である。そこで、分析に先立って設定されるプリカーサイオンの質量電荷比を判断して矩形波電圧の振幅切り替えのタイミング(MSn分析の何段目で振幅を切り替えるか)を決定する機能を制御部5に持たせ、プリカーサイオンの質量電荷比の設定とほぼ同時に、図3、図4に示したような測定シーケンスを決めるようにすることができる。もちろん、MS4分析、MS5分析など多段階の開裂操作を伴う場合には、例えば±1000V→±500Vという2段階だけでなく、例えば±1000V→±500V→±250Vというように3段階以上に振幅を切り替えるようにしてもよい。
【0054】
また、図3に示したMS2分析では、矩形波電圧の振幅を±1000V一定としたが、ステップS4のプリカーサイオン選択からステップS6のCID実行の時点までの期間の任意の時点で、矩形波電圧の振幅を±1000Vから例えば±500Vに下げてもよい。1段目のイオン選択・開裂操作において、m/z500といった比較的低い質量電荷比のプリカーサイオンを選択した場合、開裂操作で生成されるプロダクトイオンはより低い質量範囲に亘る傾向がある。この場合に、CID実行までに矩形波電圧の振幅を小さくし、LMCを下げることにより、1段目の開裂操作で生成するプロダクトイオンをより多く捕捉し検出することができる。これによって、より多くの構造情報を得ることができる。
【0055】
また上記実施例では、イオントラップ2自体で質量分離を行ってイオンを検出するようにしていたが、イオントラップ2に捕捉した各種プロダクトイオンを一斉にイオントラップ2から放出して飛行時間型質量分析計で質量分離・検出する構成の質量分析装置に本発明を適用可能なことは明らかである。
【0056】
また、上記実施例はイオントラップが3次元四重極型の構成であるが、リニア型イオントラップも基本的にイオンの捕捉の原理は同じであるから、リニア型イオントラップを用いたイオントラップ質量分析装置に本発明を適用可能であることも当然である。
【0057】
また、それ以外の点についても、上記実施例は本発明の一例にすぎないから、本発明の趣旨の範囲で適宜、変形、追加、修正を行っても本願特許請求の範囲に包含されることは当然である。
【符号の説明】
【0058】
1…イオン化部
11…レーザ照射部
12…サンプルプレート
13…アパーチャ
14…イオンレンズ
2…イオントラップ
21…リング電極
22…入口側エンドキャップ電極
23…イオン入射口
24…出口側エンドキャップ電極
25…イオン出射口
26…ガス供給部
3…検出部
31…コンバージョンダイノード
32…二次電子増倍管
4…データ処理部
5…制御部
6…主電源部
61…第1電圧源
62…第2電圧源
63、64…スイッチング素子
7…補助電源部
8…入力部
9…表示部

【特許請求の範囲】
【請求項1】
複数の電極からなるイオントラップを有し、該イオントラップに捕捉した各種イオンの中で特定の質量電荷比を有するイオンをプリカーサイオンとして選択的に残すイオン選別を行い、それに引き続いて、選択したプリカーサイオンを開裂させる、という操作を少なくとも1回実行した後に、捕捉されているイオンをイオントラップ内から排出して検出するMSn(nは2以上)分析実行可能なイオントラップ質量分析装置において、
a)イオンを捕捉する高周波電場を形成するために、前記複数の電極の少なくとも1つに矩形波電圧を印加する電圧印加手段と、
b)MSn分析を実行する際に、m段目(mは1〜n−1の中の任意の1又は複数の値)のイオン選別実行の時点からそれにより選択されたプリカーサイオンの開裂実行の時点までの期間中の任意の時点で、前記矩形波電圧の振幅を、そのm段目のイオン選別実行の時点よりも前の期間における振幅よりも小さくするように切り替えるべく前記電圧印加手段を制御する制御手段と、
を備えることを特徴とするイオントラップ質量分析装置。
【請求項2】
請求項1に記載のイオントラップ質量分析装置であって、
前記イオントラップは、リング電極と、該リング電極を挟んで対向して配置された一対のエンドキャップ電極とからなり、前記電圧印加手段は、前記リング電極にイオン捕捉用の矩形波電圧を印加することを特徴とするイオントラップ質量分析装置。
【請求項3】
請求項2に記載のイオントラップ質量分析装置であって、
MSn分析における各段のプリカーサイオンの質量電荷比をユーザが入力設定するための入力手段をさらに備え、
前記制御手段は、前記入力手段により設定されたプリカーサイオンの質量電荷比に応じて、前記矩形波電圧の振幅を小さくするタイミング及び又はその振幅値を決定することを特徴とするイオントラップ質量分析装置。

【図1】
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【図2】
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【図3】
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【図4】
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【図8】
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【図5】
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【図6】
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【図7】
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【公開番号】特開2011−108488(P2011−108488A)
【公開日】平成23年6月2日(2011.6.2)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2009−262177(P2009−262177)
【出願日】平成21年11月17日(2009.11.17)
【出願人】(000001993)株式会社島津製作所 (3,708)
【Fターム(参考)】