説明

イオントラップ飛行時間型質量分析装置

【課題】イオントラップからイオンを出射する際のターンアラウンドタイムを短縮することにより質量分解能を改善する。
【解決手段】イオン出射前のクーリング行程の最終段階で、捕捉電場を形成するためにリング電極に印加する矩形波電圧の周波数を数周期の期間だけ上昇させる。これにより、イオントラップ内部の閉じ込めポテンシャルが浅くなり、捕捉されているイオンの速度が下がる。そのため、矩形波電圧の印加が停止され加速電場が形成された際のイオンのターンアラウンドタイムが短くなり、同一質量電荷比のイオンの飛行時間のばらつきが小さくなる。閉じ込めポテンシャルが浅くなることでイオンは空間的に拡がるが、その拡がりがTOFMSにおいて補正可能なエネルギ幅内に収まるように周波数を上昇させる時間を定めておくことにより、質量分解能を改善することができる。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、電場によりイオンを捕捉して蓄積するイオントラップと、該イオントラップから出射されたイオンを質量電荷比に応じて分離して検出する飛行時間型質量分析装置と、を備えるイオントラップ飛行時間型質量分析装置に関し、さらに詳しくは、イオントラップにおいてイオン捕捉用の高周波電圧として矩形波電圧を用いる、いわゆるデジタルイオントラップを使用したイオントラップ飛行時間型質量分析装置(以下「IT−TOFMS」と略す)に関する。
【背景技術】
【0002】
IT−TOFMSは、多段のMSn分析が可能であるというイオントラップ(IT)の特徴と、高質量分解能、高質量精度での質量分析が可能であるという飛行時間型質量分析装置(TOFMS)の特徴とを併せ持ち、タンパク質や糖鎖などの高分子化合物の組成解析、構造解析などに特に威力を発揮している。
【0003】
イオントラップには3次元四重極型、リニア型などがあるが、以下の説明では、リング電極と一対のエンドキャップ電極とを備える3次元四重極型を例に挙げて説明する。3次元四重極型のイオントラップでは、リング電極及びエンドキャップ電極で囲まれる空間にイオンを捕捉するためにリング電極に高周波電圧を印加する。従来、イオン捕捉用の高周波電圧を印加するためにはLC共振回路が用いられていたが、近年、高周波電圧として矩形波電圧を用いた、いわゆるデジタルイオントラップが開発されている(特許文献1〜3、非特許文献1参照)。デジタルイオントラップでは、特許文献1に記載のように、直流電源で生成される直流高電圧を高速の半導体スイッチで切り替えて矩形波電圧を生成する駆動回路が採用されており、原理的に、任意のタイミングで瞬時に(LC共振回路に比べれば格段に高速に)電圧の印加停止や印加開始を行うことが可能である。
【0004】
IT−TOFMSでは、分析対象である全てのイオンが同一のエネルギで加速された場合に、質量電荷比の相違による飛行速度の相違によってイオンは適切に分離されて検出器に到達する。そのため、加速エネルギが付与される直前に各イオンが有するエネルギにばらつきがあると、それが飛行速度の差として現れ誤差の原因となる。そこで、例えばMSn分析では、次のような制御が行われる。即ち、試料由来のイオンがイオントラップに捕捉された後、特定の質量電荷比をもつイオンの選択と選択されたイオンをプリカーサイオンとした衝突誘起解離とを繰り返すことにより、イオントラップ内に分析対象のイオンを残す。最終的に残ったイオンはイオントラップ内に導入されているアルゴンなどのクーリングガスとの衝突によりクーリングされる。クーリングにより、各イオンが持つエネルギは減衰されるとともに、各イオンはイオントラップ中心付近に集められる。そしてその後に、エンドキャップ電極に直流電圧を印加することでイオントラップ内に強い直流電場を形成し、該電場によりイオンに加速エネルギを与えてイオントラップから一斉に出射させてTOFMSに送り込む。
【0005】
上述したようにイオントラップからイオンを出射する前にはクーリングが行われるが、クーリング状態でもイオンは捕捉電場によって振動し、或る程度の空間的拡がり(つまり位置分布)を持つ。一対のエンドキャップ電極間に印加される電圧により形成される加速電場は電位勾配をもつため、出射時点で各イオンに付与されるポテンシャルエネルギはそのイオンの位置に依存する。そのため、イオントラップから出射されるイオンは或る程度のエネルギ幅を持つことになる。
【0006】
イオンを直線的に飛行させるリニア型TOFMSの場合には、同一質量電荷比のイオンが持つ上記エネルギ幅が飛行速度の相違となり、質量分解能を下げる一因となる。これに対し、リフレクトロン型TOFMSでは、リフレクトロンがポテンシャルエネルギの相違を補正する作用を有する。詳細は省略するが、よく知られているデュアルステージリフレクトロンでは2次のエネルギ収差まで補正が可能である。そのため、イオントラップを出射したイオンが持つエネルギが或るエネルギ範囲内でばらついていても、リフレクトロンでこれを修正しイオンの飛行時間を或る程度の範囲内に収めることができ、質量分解能の低下を回避することができる。
【0007】
しかしながら、IT−TOFMSには、質量分解能を悪化させる別の要因としてターンアラウンドタイムがある。いま、イオントラップから出射される直前に、初期速度として同じ絶対値でTOFMSへの方向成分を持つイオンとそれと反対方向の成分を持つイオンとを考える。イオン出射のための加速電場が形成されると、前者のイオンは加速電場の下り電位勾配によって加速され、そのままTOFMSへと送り出される。一方、イオントラップ中心付近にある後者のイオン(TOFMSとは反対方向の速度成分を持つイオン)は、まず加速電場の上り電位勾配によって減速された後に方向を転じて加速される。このイオンが再びイオントラップ中心位置を初期速度で通過するまでの時間τTAがターンアラウンドタイムと呼ばれ、以下の(1)式で表される。
τTA=(2v0m)/(zeE) …(1)
但し、v0はTOFMSが位置する方向と反対方向の初期速度、mはイオンの質量、zはイオンの荷数、eは素電荷、Eは出射時の加速電場の強さ、である。
【0008】
即ち、イオン出射開始時点でTOFMSとは反対方向に向かうイオンはターンアラウンドタイムτTAだけ遅れて元の位置に戻り、それから同じ初期速度でもってTOFMSへと向かうことになる。したがって、こうしたイオンは当初からTOFMSの方向へと向かうイオンに比べて、ターンアラウンドタイムτTAの分だけ遅れて検出器に到達することになる。同一の質量電荷比を有するイオンにおけるターンアラウンドタイムに起因する飛行時間の差はリフレクトロンによっても補正することは不可能であり、検出器で両者を識別することもできないため、質量分解能の低下をもたらすことになる。
【0009】
近年のTOFMSの技術では、十分に調整されたリフレクトロンを用いることによって、±10%程度の幅を持つポテンシャルエネルギの補正は可能である。そのため、結果的に、リフレクトロンでは補正できないターンアラウンドタイムがIT−TOFMSにおいて質量分解能の改善を制限する最も支配的な要素である。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0010】
【特許文献1】特表2003−512702号公報
【特許文献2】特表2007−524978号公報
【特許文献3】国際公開第2008/07377号パンフレット
【非特許文献】
【0011】
【非特許文献1】古橋ほか3名、「デジタルイオントラップ質量分析装置の開発」、島津評論、島津評論編集部、2006年3月31日、第62巻、第3・4号、pp.141-151
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0012】
試料の構造解析のための組成推定を高い確度で行うために、質量分析の分野では、より高い質量精度及び質量分解能で分析を行うことがますます求められている。本発明はこうした要請に応えるために成されたものであり、その目的とするところは、リフレクトロン飛行時間型質量分析装置で補正することができないイオントラップにおけるターンアラウンドタイムを短縮することにより、質量分解能を向上させることができるイオントラップ飛行時間型質量分析装置を提供することにある。
【課題を解決するための手段】
【0013】
上記課題を解決するために成された第1発明は、複数の電極からなるイオントラップと、該イオントラップから出射されたイオンを質量分析する飛行時間型質量分析器と、を具備し、分析対象であるイオンをイオントラップ内部に一旦捕捉し、その捕捉されているイオンをクーリングガスに接触させて運動エネルギを減衰させることによりクーリングを行った後に、イオントラップ内部に加速電場を形成してイオンをイオントラップから一斉に出射させて飛行時間型質量分析器に導入し分析するイオントラップ飛行時間型質量分析装置において、
a)前記複数の電極のうちの少なくとも1つの電極にイオン捕捉用の高周波矩形波電圧を印加する電圧印加手段と、
b)前記クーリングの実行時に、前記少なくとも1つの電極に高周波矩形波電圧を印加するべく前記電圧印加手段を動作させる制御手段であって、所定周波数及び所定振幅の矩形波電圧を前記少なくとも1つの電極に印加することでイオンを所定のポテンシャルで捕捉している状態から、イオン出射直前の所定時間ポテンシャルを浅くするべく前記矩形波電圧の周波数を上げるように前記電圧印加手段を制御する制御手段と、
を備えることを特徴としている。
【0014】
また上記課題を解決するために成された第2発明は、複数の電極からなるイオントラップと、該イオントラップから出射されたイオンを質量分析する飛行時間型質量分析器と、を具備し、分析対象であるイオンをイオントラップ内部に一旦捕捉し、その捕捉されているイオンをクーリングガスに接触させて運動エネルギを減衰させることによりクーリングを行った後に、イオントラップ内部に加速電場を形成してイオンをイオントラップから一斉に出射させて飛行時間型質量分析器に導入し分析するイオントラップ飛行時間型質量分析装置において、
a)前記複数の電極のうちの少なくとも1つの電極にイオン捕捉用の高周波矩形波電圧を印加する電圧印加手段と、
b)前記クーリングの実行時に、前記少なくとも1つの電極に高周波矩形波電圧を印加するべく前記電圧印加手段を動作させる制御手段であって、所定周波数及び所定振幅の矩形波電圧を前記少なくとも1つの電極に印加することでイオンを所定のポテンシャルで捕捉している状態から、イオン出射直前の所定時間ポテンシャルを浅くするべく前記矩形波電圧の振幅を小さくするように前記電圧印加手段を制御する制御手段と、
を備えることを特徴としている。
【0015】
第1及び第2発明に係るイオントラップ飛行時間型質量分析装置において、イオントラップとして例えば3次元四重極型イオントラップ、リニア型イオントラップなどを用いることができる。3次元四重極型イオントラップの場合には、「前記複数の電極のうちの少なくとも1つの電極」とはリング電極である。
【0016】
また第1及び第2発明に係るイオントラップ飛行時間型質量分析装置において、飛行時間型質量分析器は例えばリフレクトロン飛行時間型質量分析器などのエネルギ収束作用を有する飛行時間型質量分析器である。
【0017】
イオントラップにおいて質量分解能を低下させる大きな要因であるターンアラウンドタイムを短縮するためには、イオンを出射するための加速電場を強くする(電位勾配を急にする)、或いは、イオン出射直前のイオンの速度を下げるといった対策が考えられる。ただ、加速電場を強くするにはイオントラップを構成する電極へ印加する電圧を上げる必要があるが、放電の問題があるために印加電圧の増加には制約がある。
【0018】
一方、イオンの速度を下げるためには、イオントラップの閉じ込めポテンシャルの深さを浅くするという選択肢がある。非特許文献1などによれば、イオントラップの閉じ込めポテンシャル井戸の深さDzは以下の(2)式で示される。
Dz∝V2/Ω2 …(2)
3次元四重極型のデジタルイオントラップでは、Ωはリング電極に印加される矩形波電圧の角周波数、Vは該矩形波電圧の振幅である。上記(2)式から、閉じ込めポテンシャルを浅くするには矩形波電圧の角周波数Ωを大きくするか振幅Vを小さくすればよいことが分かる。しかしながら、そうした条件でイオンのクーリングを行うとイオンの位置分布が拡がりすぎ、イオン出射時にTOFMSで許容可能(補正可能)なエネルギ幅を超えてしまって質量分解能が悪化することになる。
【0019】
そこで、第1及び第2発明に係るイオントラップ飛行時間型質量分析装置では、クーリング期間の殆どで閉じ込めポテンシャルが深い状態が維持されるように、つまり空間的に十分に狭い範囲にイオンを閉じ込めるように高周波矩形波電圧の周波数及び振幅を設定し、クーリング期間の最後、つまりイオンを出射する直前に所定時間だけ矩形波電圧の周波数を増加する及び/又は振幅を縮小することにより、閉じ込めポテンシャルを浅くする。閉じ込めポテンシャルが浅くなるとイオントラップ内で振動しているイオンの速度が下がるため、イオン出射用の加速電場が形成された際にTOFMSとは反対方向に速度成分を有しているイオンのターンアラウンドタイムが短縮される。これにより、同一質量電荷比を持つイオンが検出器に到達する際の時間のばらつきが小さくなり、質量分解能を改善することができる。
【0020】
上述のようにイオントラップにおいて閉じ込めポテンシャルが浅くなると、イオントラップ内で振動しているイオンの速度は下がるが、同時に、電場による拘束が弱まるためイオンの拡がりが大きくなる。このイオンの拡がりはエネルギのばらつきとなるから、このばらつきがTOFMSで補正可能な範囲を超えてしまうと、このエネルギばらつきに起因する速度分散が質量分解能を左右することになる。そこで、イオン出射直前のポテンシャルを浅くする期間、つまり上記所定時間は、ポテンシャルを浅くしたことによるエネルギばらつきがTOFMSで補正可能な範囲に留まるように定めることが望ましい。
【0021】
即ち、第1及び第2発明に係るイオントラップ飛行時間型質量分析装置の好ましい態様として、前記所定時間の長さは、ポテンシャルを浅くしたことによるイオンの空間的な拡がりが飛行時間型質量分析器のエネルギ収束作用で補正可能な範囲に収まるように定められるようにするとよい。これが所定時間の長さの上限である。
【0022】
上記所定時間の適切な値の範囲は、TOFMSにおけるエネルギ収束の能力に依存するほか、様々な要素や条件に依存する。具体的には、閉じ込めポテンシャルをその変化前よりもどの程度浅くするのか、つまり矩形波電圧の周波数の増加の程度や振幅の縮小の程度に依存するのはもちろんのこと、クーリング条件でもあるイオントラップ内部のクーリングガス圧、クーリングガスの種類、クーリング時間などにも依存する。したがって、分析で使用される条件の下で予め実験的に決めることが望ましい。
【0023】
本願発明者の実験的な検討によれば、その変化前に対してポテンシャルの深さが半分程度になるように矩形波電圧の周波数の増加又は振幅の縮小が定められる状況においては、上記所定時間を矩形波電圧の周期数で1〜10程度の範囲に相当する時間に設定するとよい。所定時間がこれよりも短いとイオン速度低下の効果が殆ど得られず、所定時間がこれよりも長いとイオン速度低下による質量分解能改善よりイオンの空間的拡がりによる質量分解能低下の影響が大きくなりすぎる。
【0024】
イオンはその質量が大きくなるほど移動しにくくなるから、上記所定時間の長さは分析対象であるイオンの質量電荷比にも依存する。そこで、第1及び第2発明に係るイオントラップ飛行時間型質量分析装置において、制御手段は、分析対象であるイオンの質量電荷比に応じて上記所定時間の長さを変える構成とするとよい。具体的には、分析対象であるイオンの質量電荷比が大きいほど所定時間を長くするとよい。もちろん、イオンの質量電荷比によって変化後のポテンシャルの深さを変えるように、矩形波電圧の周波数の増加の程度や振幅の縮小の程度を調整してもよい。
【発明の効果】
【0025】
第1及び第2発明に係るイオントラップ飛行時間型質量分析装置によれば、同一質量電荷比をもつイオンにおける飛行時間差(飛行時間のばらつき)の大きな要因である、イオントラップからイオンを出射する際のターンアラウンドタイムが短縮されるため、質量分解能を向上させることができる。
【図面の簡単な説明】
【0026】
【図1】本発明の一実施例によるIT−TOFMSの全体構成図。
【図2】本実施例のIT−TOFMSによる質量分析の手順の一例を示すフローチャート。
【図3】本実施例及び従来のIT−TOFMSにおいてイオン出射時点の前後にリング電極に印加される矩形波電圧の概略波形図。
【図4】本実施例のIT−TOFMSにおけるイオン出射直前のイオントラップ内部のポテンシャル形状を示す概念図。
【図5】図3に示した波形の矩形波電圧を印加した場合の、矩形波電圧遮断タイミングでのイオンの位置分布と速度分布との関係のシミュレーション結果を示す図。
【図6】図3に示した波形の矩形波電圧を印加した場合におけるm/z702のマスプロファイル実測結果を示す図。
【図7】実測結果に基づく、矩形波電圧の周波数を増加させる周期数と質量分解能との関係を示す図。
【図8】本発明の他の実施例のIT−TOFMSにおいてイオン出射時点の前後にリング電極に印加される矩形波電圧の概略波形図。
【発明を実施するための形態】
【0027】
以下、本発明の一実施例によるIT−TOFMSについて、添付図面を参照して説明する。図1は本実施例のIT−TOFMSの要部の構成図である。
【0028】
図1において、図示しない真空室の内部には、イオン化部1、イオンガイド2、イオントラップ3、及び飛行時間型質量分析器(TOFMS)4が配設されている。イオン化部1は、試料が液体試料である場合にはエレクトロスプレイイオン化法などの大気圧イオン化法、試料が気体試料である場合には電子イオン化法や化学イオン化法など、試料が固体試料である場合にはレーザイオン化法など、様々なイオン化法を用いて試料成分をイオン化するものとすることができる。
【0029】
イオントラップ3は、1個の円環状のリング電極31と、それを挟むように対向して設けられた一対のエンドキャップ電極32、34とから成る3次元四重極型のイオントラップである。入口側エンドキャップ電極32のほぼ中央にはイオン導入口33が穿設され、出口側エンドキャップ電極34のほぼ中央にはイオン導入口33とほぼ一直線上にイオン出射口35が穿設されている。
【0030】
TOFMS4は複数の電極板からなるリフレクトロン42を備えた飛行空間41とイオン検出器43とを有し、図示しない直流電圧発生部よりリフレクトロン42に印加される電圧により形成される電場によってイオンは折り返されてイオン検出器43に到達し検出される。
【0031】
イオントラップ駆動部5はイオントラップ3を構成する各電極31、32、34に電圧を印加するものであって、駆動信号生成部51、リング電圧発生部52、エンドキャップ電圧発生部53を含む。後述するようにリング電圧発生部52は、駆動信号生成部51からの駆動信号に基づいて所定周波数、所定振幅の矩形波電圧を生成しリング電極31に印加する。エンドキャップ電圧発生部53は駆動信号生成部51からの駆動信号に基づいて、イオントラップ3内部からTOFMS4に向けてイオンを出射する際にエンドキャップ電極32、34にそれぞれ所定の直流電圧を印加する。そのほかプリカーサイオン選別時などには、エンドキャップ電圧発生部53はリング電極31に印加される矩形波電圧に同期した分周信号をエンドキャップ電極32、34に印加する。こうした制御については本発明の趣旨ではなく、非特許文献1等に詳しく説明されているので、説明を省略する。
【0032】
イオントラップ3の内部にはバルブ等を含むガス導入部6からクーリングガス又はCIDガスが選択的に導入される。通常、クーリングガスとしては、測定対象であるイオンと衝突してもそれ自身がイオン化せず又は開裂もしない安定したガス、例えばヘリウム、アルゴン、窒素などの不活性ガスが利用される。
【0033】
イオン化部1、TOFMS4、イオントラップ駆動部5、ガス導入部6等の動作はCPUを中心に構成される制御部7により制御される。また、制御部7にはユーザが分析条件等を設定するための操作部8が付設されている。
【0034】
図2は本実施例のIT−TOFMSにおいてMS/MS分析を行う際の処理手順のフローチャートである。図2に従ってMS/MS分析の際の基本的な動作を説明する。
【0035】
イオン化部1は目的試料の成分分子又は原子を所定のイオン化法によりイオン化する(ステップS1)。生成されたイオンはイオンガイド2によって輸送され、イオン導入口33を通してイオントラップ3内に導入されてその内部に捕捉される(ステップS2)。イオントラップ3へイオンを導入する際には、通常、エンドキャップ電圧発生部53から入射側のエンドキャップ電極32に、イオンガイド2から送られてくるイオンを引き込むような直流電圧が印加され、出射側のエンドキャップ電極34にはイオントラップ3に入射したイオンが押し戻されるような直流電圧が印加される。
【0036】
イオン化部1がMALDIのようにパルス状にイオンを生成するものである場合には、到来するイオンパケットをイオントラップ3内に取り込んだ直後にリング電極31に矩形波電圧を印加することで捕捉電場を発生させ、導入されたイオンを捕捉する。またイオン化部1が大気圧イオン化法のようにほぼ連続的にイオンを生成するものである場合には、イオンガイド2のロッド電極の一部に抵抗体をコートすることにより、イオンガイド2末端部に電位の窪みを形成し、その窪みにイオンを一時的に蓄積し、短時間に圧縮してイオントラップ3に導入するようにすることができる。
【0037】
イオントラップ3内にイオンを蓄積した後に、イオントラップ駆動部5からリング電極31に印加する矩形波電圧のデューティ比を変化させたり、エンドキャップ電極32、34に印加する共鳴励起排出用の矩形波信号の周波数を走査したりすることにより、不要なイオンをイオントラップ3内部から除去し、特定の質量電荷比を有するイオンを選択的にイオントラップ3内に残す(ステップS3)。
【0038】
その後に、ガス導入部6によりCIDガスをイオントラップ3内に導入し、プリカーサイオンの質量電荷比に応じた周波数を持つ小振幅の矩形波電圧をエンドキャップ電極32、34間に印加する。すると、運動エネルギを付与されたプリカーサイオンが励振してCIDガスに衝突し、解離を生じてプロダクトイオンが生成される(ステップS4)。こうして生成したプロダクトイオンもリング電極31に印加される矩形波電圧によって形成される捕捉電場により捕捉される。
【0039】
その後、ガス導入部6よりクーリングガスをイオントラップ3内に導入し、リング電極31に所定周波数及び所定振幅の矩形波高電圧を印加することで形成した捕捉電場によりイオンを捕捉しつつイオンをクーリングする(ステップS5)。所定時間クーリングを実施した後に、エンドキャップ電極32、34間に直流高電圧を印加することでイオンに運動エネルギを付与し、イオン出射口35を通してイオンを出射させTOFMS4に導入する(ステップS6)。同一の加速電圧により加速されたイオンは質量電荷比が小さいほど大きな速度を有するから、先行して飛行してイオン検出器43に到達して検出される(ステップS7)。イオントラップ3からのイオンの出射時点を起点としてイオン検出器43からの検出信号を時間経過に伴って記録すると、飛行時間とイオン強度との関係を示す飛行時間スペクトルが得られる。飛行時間はイオンの質量電荷比と対応するから、飛行時間を質量電荷比に換算することでMS/MSスペクトルが作成される。
【0040】
なお、イオンの解離を伴わない通常の質量分析を行う場合には、ステップS3、S4の処理を省略すればよく、MS3分析以上の多段階の解離を伴う質量分析を行う場合には、ステップS3〜S4(又はS5)の処理を任意の回数繰り返せばよい。
【0041】
次に、本実施例のIT−TOFMSに特徴的な動作について説明する。上記ステップS5のクーリング行程においては、従来、イオン出射時点直前まで一定周波数及び一定振幅の矩形波電圧をリング電極31に印加することにより、イオンをイオントラップ3中心部付近のできるだけ狭い空間に閉じ込めるようにしていた。これに対し、本実施例のIT−TOFMSでは、制御部7は、クーリング行程の最終段階、つまりはイオン出射直前の所定時間の間だけ、リング電極31に印加する矩形波電圧の周波数をそれ以前よりも上昇させるようにイオントラップ駆動部5を制御する。
【0042】
図3は本実施例及び従来のIT−TOFMSにおいてイオン出射前後にリング電極31に印加される矩形波電圧の概略波形図である。
この例では、クーリング行程において捕捉電場を形成するために、振幅が±150V(300Vp-p)、周波数が500kHzである矩形波電圧2をリング電極31に印加している。図3(a)に示すように、従来は、この矩形波電圧をイオン出射時点の直前まで印加し続け、矩形波電圧の1周期内の(3/2)π(=270°)の位相位置において矩形波電圧の印加を停止し、それに代えてエンドキャップ電極32、34に直流電圧を印加することでイオントラップ3内部からイオンを出射させる。
【0043】
なお、矩形波電圧の1周期内で(3/2)π(=270°)の位相位置において矩形波電圧の印加を停止してイオン出射を行う利点については前述の特許文献3に説明されているので、ここでは説明を省略する。
【0044】
これに対し、本実施例のIT−TOFMSでは、図3(b)に示すように、矩形波電圧の印加停止の直前の4〜5周期の期間だけ、矩形波電圧の振幅は一定のまま、周波数を500kHzから700kHzに上昇させている。このような周波数の切替えは2種類の電圧(+150V、−150V)を切り替える半導体スイッチの制御信号を切り替えるだけであるので殆ど瞬時に行うことができる。(2)式に示したように、閉じ込めポテンシャルは矩形波電圧の角周波数の2乗に反比例するから、500kHzから700kHzへの周波数増加はポテンシャルを約1/2に減じることになる。即ち、図4に示すように、リング電極31に矩形波電圧が印加されることで、イオントラップ3内部にはZ軸に沿って深さDzのポテンシャル井戸が形成され、この井戸の底でイオンは振動する。上述のようにポテンシャルが1/2に減じることは、このポテンシャル井戸が浅くなることを意味する。
【0045】
ポテンシャル井戸が浅くなると、それだけイオンに対する捕捉力は弱まる。その結果、振動しているイオンが持つ運動エネルギ、即ち速度は低下することになる。このため、矩形波電圧の印加が停止され、イオン出射のための加速電場が形成された時点でのイオンの速度は従来に比べて低くなり、それによってターンアラウンドタイムは短縮されることになる。ただし、速度が低下する代わりに、捕捉力が下がった分だけイオンは空間的に拡がり易くなる。図5は図3に示した波形の矩形波電圧を印加した場合の、矩形波電圧停止タイミングでのイオンの位置分布(横軸)と速度分布(縦軸)との関係のシミュレーション結果を示す図である。
【0046】
この図5から、500kHzから700kHzに矩形波電圧の周波数を増加させた場合には、その周波数を500kHzに保った場合と比べて、位置分布が広がっているものの速度分布、即ちイオンが持つ運動エネルギの分布は小さくなっていることが分かる。イオンの空間的な拡がりはイオンが出射する際の初期ポテンシャルエネルギのばらつきとなるが、TOFMS4のリフレクトロン42で補正可能なエネルギ範囲内でありさえすれば飛行時間のばらつきにはつながらず、問題とはならない。一方、イオンの初期速度、即ち初期運動エネルギの拡がりはTOFMS4では補正できないターンアラウンドタイムの拡大につながるため、空間的な拡がりを多少犠牲にしても速度分布を狭めることにより、TOFMS4での質量分解能は向上する。この実施例では、±2mm程度の位置分布に起因する初期ポテンシャルエネルギ分布はTOFMS4のリフレクトロン42で十分に補正可能な範囲である。したがって、イオンの位置分布に拡がりがあってもその影響は顕在化せず、イオンの速度分布を抑えてターンアラウンドタイムを短縮したことによる質量分解能の向上の効果を十分に享受することができる。
【0047】
本実施例のIT−TOFにおける質量分解能改善の効果を検証するために、図3に示した2つの条件でm/z702のマスプロファイルを実測し、さらに質量分解能を求めた。その結果を図6に示す。図6(a)及び(b)でそれぞれ上部に示したのが、実測したマスプロファイル波形であり、下部に示したのが質量分解能とイオン取得数との関係である。図6(a)に示すように従来は質量分解能が12000程度であったのに対し、図6(b)に示すように本実施例によれば質量分解能は14000以上に向上していることが分かる。また、マスプロファイル波形を比較しても、本実施例では従来に比べて明らかにピークの幅が狭くなっており、質量分解能が向上していることが確認できる。
【0048】
上述したように、リング電極31に印加する矩形波電圧の周波数を上げるとイオンの速度は低下する反面、イオンの位置分布は拡がるから、周波数を増加させる時間を長くしすぎるとイオンの初期位置が拡がり過ぎて、それによるエネルギのばらつきがTOFMS4での補正能力を超えてしまう。そうなると、ターンアラウンドタイムの短縮による分解能改善効果より、エネルギのばらつきに起因する分解能低下の影響が上回り、意図する効果が得られない。一方、矩形波電圧の周波数を増加させる時間が短かすぎてもイオンの速度があまり下がらず、やはり意図する効果が得られないことになる。したがって、矩形波電圧の周波数を増加させる時間の長さを適切な範囲に収める必要がある。
【0049】
図7は、矩形波電圧の周波数を700kHzに増加させる期間(該電圧波形の周期数)と質量分解能との関係を実測により調べた結果である。イオンの質量電荷比によってポテンシャルの影響度合いが変わるから、分析対象イオンの質量電荷比もパラメータとしている。この結果から、質量分解能は周期数(つまりは周波数を増加させている時間)に依存し、また質量電荷比にも依存していることが分かる。一部例外はあるものの、質量電荷比が低いほど最も高い質量分解能が得られる最適周期数は小さくなる傾向にある。これは、質量電荷比が低いほど運動速度が速いために、ポテンシャルの低下に伴う位置分布の拡がる程度が大きくなるためであると推測できる。こうした結果から、高い質量分解能を達成するには、矩形波電圧の周波数を増加させる期間を適切に設定する必要があることが分かる。また、分析対象のイオンの質量電荷比又は質量電荷比の範囲に応じて、矩形波電圧の周波数を増加させる期間を変化させる(質量電荷比が大きいほど時間を長くする)ことがより好ましいことが分かる。
【0050】
矩形波電圧の周波数を上昇させる期間を実際にどの程度の長さ(周期数)にするのが適当であるのかは、イオンの質量電荷比だけでなく、矩形波電圧の振幅やイオントラップ3内のクーリング条件(クーリングガスの種類、ガス圧など)、TOFMS4で補正可能なエネルギ分布範囲などにも依存する。したがって、こうした様々な条件に応じて適切な周期数を決めておく、或いは条件の変化や設定に応じて適切に周期数を変更することが必要である。上記実施例におけるシミュレーションや実測結果からみると、ポテンシャルを1/2程度に落とした場合に、矩形波電圧の周期数で1〜10程度の範囲の時間とすれば、ターンアラウンドタイムの短縮による質量分解能改善の効果が得られるということができる。
【0051】
一般にクーリング行程期間の長さは10〜100msec程度であるのに対し、矩形波電圧の周波数を上昇させている期間は1〜十数μsec程度にすぎず、周波数を上昇させている期間はクーリング行程全体の中でごく僅かであるといえる。
【0052】
上述した(2)式から、閉じ込めポテンシャルΦを小さくするにはリング電極31に印加する矩形波電圧の振幅Vを小さくしてもよいことが分かる。この場合のイオン出射前後の矩形波電圧のタイミング図を図8に示す。閉じ込めポテンシャルは矩形波電圧の振幅の2乗に比例するから、上記実施例のようにポテンシャルを約半分にするには、切替え後の振幅V2を切替え前の振幅V1の0.7〜0.71倍程度に設定すればよい。これにより、上記実施例と同様に、イオン出射直前に閉じ込めポテンシャルが下がってイオンの速度が低下し、ターンアラウンドタイムを短縮することができる。振幅を下げる時間(周期数)や質量電荷比に応じてその時間を変更することが望ましいことについても、上記実施例と同様である。
【0053】
なお、上記実施例は本発明の一例にすぎず、本発明の趣旨の範囲で適宜、変形、追加、修正を行っても本願特許請求の範囲に包含されることは当然である。
【0054】
例えば上記実施例はイオントラップとして3次元四重極型イオントラップを用いた構成であるが、本発明はリニアイオントラップを用いたイオントラップ飛行時間型質量分析装置に対しても適用可能であって、3次元四重極型イオントラップを用いた場合と同様の効果が得られる。
【符号の説明】
【0055】
1…イオン化部
2…イオンガイド
3…イオントラップ
31…リング電極
32…入口側エンドキャップ電極
33…イオン導入口
34…出口側エンドキャップ電極
35…イオン出射口
4…飛行時間型質量分析器(TOFMS)
41…飛行空間
42…リフレクトロン
43…イオン検出器
5…イオントラップ駆動部
51…駆動信号生成部
52…リング電圧発生部
53…エンドキャップ電圧発生部
6…ガス導入部
7…制御部
8…操作部

【特許請求の範囲】
【請求項1】
複数の電極からなるイオントラップと、該イオントラップから出射されたイオンを質量分析する飛行時間型質量分析器と、を具備し、分析対象であるイオンをイオントラップ内部に一旦捕捉し、その捕捉されているイオンをクーリングガスに接触させて運動エネルギを減衰させることによりクーリングを行った後に、イオントラップ内部に加速電場を形成してイオンをイオントラップから一斉に出射させて飛行時間型質量分析器に導入し分析するイオントラップ飛行時間型質量分析装置において、
a)前記複数の電極のうちの少なくとも1つの電極にイオン捕捉用の高周波矩形波電圧を印加する電圧印加手段と、
b)前記クーリングの実行時に、前記少なくとも1つの電極に高周波矩形波電圧を印加するべく前記電圧印加手段を動作させる制御手段であって、所定周波数及び所定振幅の矩形波電圧を前記少なくとも1つの電極に印加することでイオンを所定のポテンシャルで捕捉している状態から、イオン出射直前の所定時間ポテンシャルを浅くするべく前記矩形波電圧の周波数を上げるように前記電圧印加手段を制御する制御手段と、
を備えることを特徴とするイオントラップ飛行時間型質量分析装置。
【請求項2】
複数の電極からなるイオントラップと、該イオントラップから出射されたイオンを質量分析する飛行時間型質量分析器と、を具備し、分析対象であるイオンをイオントラップ内部に一旦捕捉し、その捕捉されているイオンをクーリングガスに接触させて運動エネルギを減衰させることによりクーリングを行った後に、イオントラップ内部に加速電場を形成してイオンをイオントラップから一斉に出射させて飛行時間型質量分析器に導入し分析するイオントラップ飛行時間型質量分析装置において、
a)前記複数の電極のうちの少なくとも1つの電極にイオン捕捉用の高周波矩形波電圧を印加する電圧印加手段と、
b)前記クーリングの実行時に、前記少なくとも1つの電極に高周波矩形波電圧を印加するべく前記電圧印加手段を動作させる制御手段であって、所定周波数及び所定振幅の矩形波電圧を前記少なくとも1つの電極に印加することでイオンを所定のポテンシャルで捕捉している状態から、イオン出射直前の所定時間ポテンシャルを浅くするべく前記矩形波電圧の振幅を小さくするように前記電圧印加手段を制御する制御手段と、
を備えることを特徴とするイオントラップ飛行時間型質量分析装置。
【請求項3】
請求項1又は2に記載のイオントラップ飛行時間型質量分析装置であって、
前記所定時間の長さは、ポテンシャルを浅くしたことによるイオンの空間的な拡がりが飛行時間型質量分析器のエネルギ収束作用で補正可能な範囲に収まるように定められることを特徴とするイオントラップ飛行時間型質量分析装置。
【請求項4】
請求項3に記載のイオントラップ飛行時間型質量分析装置であって、
前記矩形波電圧の周波数の増加又は振幅の縮小は、その変化前に対してポテンシャルの深さが半分になるように定められることを特徴とするイオントラップ飛行時間型質量分析装置。
【請求項5】
請求項4に記載のイオントラップ飛行時間型質量分析装置であって、
前記所定時間の長さは、矩形波電圧の周期数で1〜10の範囲に相当する時間に設定されることを特徴とするイオントラップ飛行時間型質量分析装置。
【請求項6】
請求項3〜5のいずれかに記載のイオントラップ飛行時間型質量分析装置であって、
前記制御手段は、分析対象であるイオンの質量電荷比に応じて前記所定時間の長さを変えることを特徴とするイオントラップ飛行時間型質量分析装置。

【図1】
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【図2】
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【図3】
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【図4】
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【図7】
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【図8】
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【図5】
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【図6】
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【公開番号】特開2012−123959(P2012−123959A)
【公開日】平成24年6月28日(2012.6.28)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2010−272205(P2010−272205)
【出願日】平成22年12月7日(2010.12.7)
【出願人】(000001993)株式会社島津製作所 (3,708)
【Fターム(参考)】