説明

ガスモニタリング装置及びガスモニタリング方法

【課題】化学兵器剤の一種であるジフェニルシアノアルシン(DC)やジフェニルクロロアルシン(DA)の実時間検出が可能なガスモニタリング装置を提供する。
【解決手段】大気圧化学イオン化質量分析法を用いて正イオン化モードで測定し、DCとDAに共通のイオンの強度からDCとDAの総量を測定し、DCに特有のイオンの強度からDCの濃度を測定し、これらの差をDAの濃度とする。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は質量分析技術に属し、特に質量分析計を用いて大気中の化学兵器剤の濃度をリアルタイムで測定し表示するガスモニタリング装置に係わる。
【背景技術】
【0002】
世界的にテロの脅威が増している。特に、化学兵器剤(以下では化学剤と記載する)を用いた化学テロは、化学剤の製造が核兵器などに比べて容易である上、実際に発生するとその被害が甚大であることから、各国で警戒が強化されている。我が国でも、松本サリン事件や地下鉄サリン事件などにおいて化学剤が悪用されており、その対策は焦眉の急である。また、戦時中に旧日本軍によって製造されたと推定される化学兵器が中国や国内に埋設されていることが明らかとなっており、一部では工事等に伴って環境中に漏洩した化学剤による健康被害が報告されている。遺棄化学兵器及び兵器内に保持されている化学剤の発掘、回収、無害化処理は、安全かつ速やかに進めることが求められている。
【0003】
化学剤が実際に使用され、又は漏洩した場合には、化学剤の種類及び大気中の濃度を即時に把握し、その情報を避難、治療、除染等に活用する必要がある。そこで、種々の分析法の中でもスピード、感度、選択性に優れた方法として知られている質量分析法を用いた化学剤検出器が提案されている(特開2004−158296号公報及び特開2004−286648号公報)。図11を用いて、大気圧化学イオン化質量分析法を用いた従来の化学剤検出器を説明する。化学剤検出器は、試料導入部1、イオン化部2、質量分析部3、制御部4、吸入ポンプ5、計測処理用計算機6、真空ポンプ7から構成される。試料導入部1に挿入された試料16は、加熱され気化される。気体となった試料は吸入ポンプ5によってイオン化部2に導かれる。イオン化部2に導入された試料はコロナ放電領域に送られイオン化される。生成されたイオンは質量分析部3に導かれ、質量分析される。質量分析された結果は、計測処理用計算機6にて処理され表示される。得られた結果が、化学剤の測定結果の特徴を有していた場合に検出と見なす。
【0004】
また、大気圧化学イオン化質量分析法を用いたガスモニタリング装置として、特開2000−162189号公報には、排ガスのモニタリング装置が開示されている。この装置では、排ガスを大気圧化学イオン化質量分析計に引き込み、排ガス中に含まれるダイオキシン関連化合物の濃度を表示している。特開2005−274565号公報には、ルイサイト、ジフェニルシアノアルシン、ジフェニルクロロアルシンを、誘導体化処理を行った後にガス分析器で分析することが記載されている。
【0005】
【特許文献1】特開2004−158296号公報
【特許文献2】特開2004−286648号公報
【特許文献3】特開2000−162189号公報
【特許文献4】特開2005−274565号公報
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0006】
これまで、サリンなどの致死性化学剤の分析法、検出法は詳しく検討されてきた。一方で、暴動鎮圧用途に開発され、くしゃみ剤あるいは嘔吐剤と呼ばれるジフェニルシアノアルシン(以下ではDCと記載する)とジフェニルクロロアルシン(以下ではDAと記載する)は、第二次大戦以降は製造されていないため、これらDC、DAの分析法、検出法はあまり検討されてこなかった。しかしながら、遺棄化学兵器の処理においては、過去に製造されたDCやDAの漏洩による健康被害や環境汚染が心配されている。
【0007】
特開2005−274565号公報には、DCとDAを、誘導体化処理を行った後にガス分析器で分析する技術が開示されている。しかしながら、この方法では、以下の2点において課題が残されていた。
【0008】
第一の課題は、検出時間である。上記の技術では、試料ガスの吸引と捕集→誘導体化処理→ガスクロマトグラフによる分析、というステップを経るので、結果を得るために数十分の時間を要すると考えられる。しかしながら、人が化学剤に暴露されると、瞬時に効果が現れるため、化学剤の漏洩時には一刻も早く警報を発報する必要がある。そこで、DCとDAを、複雑な操作を行わずに即時に検出できる装置が求められていた。
【0009】
第二の課題は、選択性である。上記技術の様に誘導体化を行うと、DCとDAが同じ物質へと変化する。このため、DCとDAの総量を求めることはできるが、DC、DA個別の濃度を把握できないと言う課題があった。DC、DAの毒性は詳しくは分かっていないが、半数致死量(その濃度に1分間暴露された場合に半数の人間が死亡する濃度)は、DCが1000〜10000mg−min/m3、DAが15000mg−min/m3程度と推定されている。この様に、DCの方が、DAよりも、毒性が強いと考えられている。従って、遺棄化学兵器処理に従事する作業員が、万一DC、DAに暴露された場合を想定すると、治療法の決定などで、各々の濃度を個別に把握することは重要である。
【0010】
以上の様な理由により、DC、DAの各々の濃度を、即時に知ることができる化学剤モニタリング装置が望まれていた。
【課題を解決するための手段】
【0011】
本発明では、大気圧化学イオン化質量分析法を用い、DC、DAの各々の濃度を即時に測定できる化学剤モニタリング装置を提供する。
【0012】
具体的には、本発明のガスモニタリング装置は、試料ガスを導入するガス導入部と、試料ガスに含まれる成分をコロナ放電によりイオン化するイオン源と、イオン源で生成されたイオンのm/z(質量を価数で割った値)を分析する質量分析計と、質量分析計で得られたイオン強度から試料ガスに含まれる測定対象物質の濃度を求める演算部と、演算部で求めた演算結果を表示する表示部と、を有し、測定対象物質に含まれるジフェニルシアノアルシンとジフェニルクロロアルシンに共通する信号からジフェニルシアノアルシンとジフェニルクロロアルシンの和の濃度を算出し、ジフェニルシアノアルシンに固有の信号からジフェニルシアノアルシンの濃度を算出し、前記和の濃度とジフェニルシアノアルシンの濃度の差から前記ジフェニルクロロアルシンの濃度を算出する。このとき好適には、ジフェニルシアノアルシンとジフェニルクロロアルシンに共通する信号としてm/z=229のイオン強度信号を用い、ジフェニルシアノアルシンに固有の信号としてm/z=256のイオン強度信号を用いる。
【発明の効果】
【0013】
本発明によれば、遺棄化学兵器の処理において、万一化学剤の漏洩事故が発生した場合、即時にDC、DAの正確な濃度を把握できる。このため、作業員や周辺住民の避難、誘導、治療、除染などを行なう際に重要な、漏洩化学剤の種類や濃度の情報を迅速に提供できる。また、毒性の異なるDCとDAについて個別に濃度を測定することができるため、避難や治療、除染などの事後対策を適切に行うことができる。
【発明を実施するための最良の形態】
【0014】
以下、本発明の実施の形態について、図を用いて詳細に説明する。
図1は、本発明を実施するのに必要な、装置全体の構成を示すブロック図である。代表例として、遺棄化学兵器の発掘回収の際に大気中に放出される化学剤濃度を監視する場合について記載する。
【0015】
遺棄化学兵器の発掘・回収等の際には、土壌が化学剤で汚染されている危険性がある上、土壌中に未発見の化学兵器等が含まれている可能性があるため、慎重な管理が求められる。このため、発掘回収現場21の周辺にテント22が設けられる。テント22は、内部で化学剤のガスが発生した場合に、テント外への漏洩を防止するため、外気に比べて陰圧に保つ必要がある。このため、テント22内の空気は送気ファン23により常に排気されており、吸気口33から外気がテント内に供給されている。テント22内の圧力は吸気と排気とのコンダクタンスのバランスで決定される。テント22内の空気を外部に排出する排気管25には、活性炭フィルタなどの化学剤除去フィルタ24が設けられており、テント22内の作業の過程で化学剤のガスが発生した場合でも外部への漏洩を防ぐことができる。しかしながら、フィルタ24のトラブル、例えばフィルタの破過、に備えて、排気管25の気体の一部を導入配管28により分岐し、化学剤検出器29に導入する。化学剤検出器29の検出信号は、データ処理装置30に送られる。データ処理装置30は、化学剤由来の信号が格納されているデータベース31を参照し、化学剤検出器29の検出信号と化学剤濃度との関係(すなわち、感度)から化学剤濃度を算出して、化学剤濃度を表示部32に表示する。
【0016】
データベース31に格納されている情報は、例えば図12に示した様に、物質名101、質量スペクトル上の信号の出現位置(m/z)と各々のm/zにおける感度102、103、104、などが挙げられる。また、表示部32には、図13に示すように、物質名201、その物質の濃度202の他、危険度を容易に判別できるようなアラーム203などを設けると良い。アラーム203には、管理基準値以下の場合には青色灯、管理基準値を超えた場合には黄色灯、管理基準を大幅に超え、作業員を急遽避難させる必要が生じた場合には赤色灯を点灯させるなど、色分けすると分かりやすい。さらに、管理基準値を超えた場合には、音で警報を発する機能や、管理者に有線又は無線で通報する機能を設けると良い。
【0017】
図2は、大気圧化学イオン化質量分析法を用いた化学剤検出器のイオン源部を示す図である。導入配管28を介して導入された気体は、いったんイオンドリフト部34に導入される。このイオンドリフト部34は、ほぼ大気圧状態にある。イオンドリフト部34に導入された気体の一部は、コロナ放電部35に導入され、残りは排気管36aを通してイオン源外に排出される。コロナ放電部35に導入された気体は、針電極37に高電圧を印加する事で針電極37の先端付近に生成されるコロナ放電領域38に導入され、イオン化される。このとき、コロナ放電領域38では、針電極37から対向電極39に向かってドリフトするイオンの流れにほぼ対向するような方向に気体が導入される。
【0018】
生成したイオンは、電界により対向電極39の開口部40を通して、イオンドリフト部34に導入される。このとき、対向電極39と第1細孔41の開口する電極との間に電圧を印加することにより、イオンをドリフトさせ、効率良く第1細孔41に導く事ができる。第1細孔41から導入されたイオンは、第2細孔42及び第3細孔43を通して、真空部44に導入される。コロナ放電部35に流入する気体の流量制御は、高感度かつ安定に探知するために重要である。このため、排気管36bに流量制御部45を設けると良い。また、イオンドリフト部34やコロナ放電部35、導入配管28などは、試料の吸着を防ぐ観点から、ヒーター(図示せず)などにより加熱しておくと良い。導入配管28や排気管36aを通過する気体の流量は、ダイアフラムポンプのような吸引ポンプ46の容量及び配管のコンダクタンスにより決定することができるが、導入配管28や排気管36aにも流量制御部45のような制御装置を設けても良い。吸引ポンプ46を、気体の流れから見てイオン生成部(すなわち、図示した構成ではコロナ放電部35)の下流に設ける事で、吸引ポンプ46の内部の汚染(試料の吸着等)による測定に対する影響が少なくなる。
【0019】
図3は、化学剤検出器の質量分析部の装置構成を示す図である。質量分析計に、四重極イオントラップ質量分析計(以下では、イオントラップ質量分析計と記載する)を使用した例を示す。図2に示した構造を有するイオン源47には、導入配管28及び排気管36a,36bが結合されている。イオン源に導入された気体中に含まれる成分は、一部がイオン化される。イオン源により生成したイオン及びイオン源に導入された気体の一部は、第1細孔41、第2細孔42、第3細孔43を介して真空ポンプ48により排気された真空部44に取り込まれる。これらの細孔は、直径0.3mm程度であり、細孔の開口する電極はヒータ(図示せず)により、100℃から300℃程度に加熱される。第1細孔41から取り込まれなかったガスは、排気管36a,36bからポンプを介して装置の外部に排気される。
【0020】
細孔41,42,43の開口する電極の間は差動排気部49a,49bになっており、荒引きポンプ50により排気される。荒引きポンプ50には、通常、ロータリポンプ、スクロールポンプ、又はメカニカルブースタポンプなどが用いられる。また、細孔41,42,43の開口する電極には、電源(図示せず)により電圧が印加できるようになっており、差動排気部49a,49bのイオン透過率を向上させると同時に、残留する分子との衝突により、断熱膨張で生成したクラスタイオンの開裂を行う。図3では、荒引きポンプ50に排気速度900リットル/分のスクロールポンプ、真空部44を排気する真空ポンプ48に排気速度300リットル/秒のターボ分子ポンプを使用した。ターボ分子ポンプの背圧側を排気するポンプとして、荒引きポンプ50を兼用している。第2細孔42と第3細孔43間の圧力は約100パスカルである。また、第2細孔42の開口する電極を除去し、第1細孔41と第3細孔43の2つの細孔で構成された差動排気部にすることも可能である。ただし、上記の場合に比較して、流入するガス量が増えるので、使用する真空ポンプの排気速度を増やす、細孔間の距離を離すなどの工夫が必要となる。また、この場合も、両細孔間に電圧を印加することは重要となる。
【0021】
生成されたイオンは第3細孔43を通過後、収束レンズ51により収束される。この収束レンズ51には、通常3枚の電極からなるアインツエルレンズなどが用いられる。イオンはさらにスリット電極52を通過する。第3細孔43を通過したイオンは、収束レンズ51によりスリット電極52の開口部に収束し、通過するが、収束されない中性粒子などはこのスリット部分に衝突し質量分析計側に行きにくい構造となっている。スリット電極52を通過したイオンは、多数の開口部を備えた内筒電極53と外筒電極54よりなる二重円筒型偏向器55により偏向かつ収束される。二重円筒型偏向器55では、内筒電極の開口部より滲みだした外筒電極の電界を用いて偏向かつ収束している。この詳細は、特開平7−85834に開示されている。二重円筒型偏向器55を通過したイオンは、リング電極56とエンドキャップ電極57a,57bで構成されるイオントラップ質量分析計に導入される。ゲート電極58は質量分析計へのイオンの入射のタイミングを制御するために設けられている。つば電極59a,59bは、イオンがリング電極56とエンドキャップ電極57a,57bを保持する石英リング60a,60bに到達し、石英リング60a,60bが帯電するのを防止するために設けられている。イオントラップ質量分析計の内部には、ヘリウムガス供給管(図示せず)からヘリウムが供給され、0.1パスカル程度の圧力に保たれている。イオントラップ質量分析計は、質量分析計制御部(図示せず)により制御される。
【0022】
質量分析計内に導入されたイオンは、ヘリウムガスと衝突してエネルギーを失い、交流電界により捕捉される。捕捉されたイオンは、リング電極56とエンドキャップ電極57a,57bに印加された高周波電圧を走査することによって、イオンのm/zに応じてイオントラップ質量分析計の外に排出され、イオン取り出しレンズ61を経て検出器62により検出される。検出された信号は増幅器63によって増幅後、データ処理装置64にて処理される。イオントラップ質量分析計は内部(リング電極56とエンドキャップ電極57a,57bとで囲まれた空間)にイオンを捕捉する特性を有するので、探知対象物質の濃度が低く生成されるイオン量が少ない場合でもイオンの導入時間を長くすると検出できる。従って、試料濃度が低い場合でも、イオントラップ質量分析計のところでイオンの高倍率濃縮が可能であり、試料の前処理(濃縮など)を非常に簡便化できる。
【0023】
さて、図1から図3を用いて説明した化学剤モニタリング装置において取得したDCの質量スペクトルを図4に、DAの質量スペクトルを図5に示す。イオン化には、正イオン化モードを使用した。この測定においては、DC及びDAのヘキサン溶液を、導入配管28に注入した。試薬の注入量は、各々約20ngである。
【0024】
正の大気圧化学イオン化質量分析法において、主たるイオン化プロセスには水蒸気が関与している。まずコロナ放電により窒素分子がイオン化されるが、窒素分子イオンはすぐに大気中の水蒸気をイオン化してヒドロニウムイオン(H3+)を生成する。多くの化学物質は、このヒドロニウムイオンとの化学反応により、イオン化される。
まず、図4について説明する。DCは、以下の構造を有する化学物質である。
【0025】
【化1】

【0026】
DCの分子量は255であるし、大気圧化学イオン化法で観測されるイオンは常に1価であることから、m/z=256に観測される信号は、
DC+H3+→(DC+H)++H2O (1)
の反応で生成される、DCのプロトン付加擬似分子イオンであると考えられる。また、m/z=229に観測されるイオンは、
DC+H3+→(DC−CN)++HCN+H2O (2)
の反応で生成される、DCからCNが脱離した分解物イオンであると考えられる。
次に、図5について説明する。DAは、以下の構造を有する化学物質である。
【0027】
【化2】

【0028】
DAの分子量は264であるので、m/z=265に観測される信号は、
DA+H3+→(DA+H)++H2O (3)
の反応で生成される、DAのプロトン付加擬似分子イオンであると考えられる。また、m/z=229に観測されるイオンは、
DA+H3+→(DA−Cl)++HCl+H2O (4)
の反応で生成される、DAからClが脱離した分解物イオンであると考えられる。
【0029】
試料溶液を配管に注入すると、瞬時(1秒以内)に図4及び図5に示した信号が得られたので、正イオン化モードの大気圧化学イオン化質量分析法を用いれば、DC及びDAのガスがイオン源に到達すると即時に検出できることが分かった。特に、分解物イオンm/z=229の強度が強いので、この信号を測定することにより、非常にスピーディかつ感度よくDC及びDAを測定できることが、今回の実験で初めて明らかとなった。従来技術の様に複雑な操作は不要であり、信頼性を高めるために信号を積算した場合でも、ガスの吸引から数秒で結果を出すことができるため、DCやDAが漏洩した場合に、即座に警報を発報することが可能となった。
【0030】
DCとDAの濃度を個別に求めるには、各々に対して独自の信号であるm/z=256とm/z=265の測定を行えば良い。図4及び図5から明らかなように、m/z=256やm/z=265の信号は弱いので、極低濃度のDCやDAの濃度を個別に求めるには、タンデム質量分析が有効である。タンデム質量分析は、分析分野でよく知られているので、手法の説明は省略するが、質量スペクトル上に出現する化学ノイズを低減できるため、微弱な信号も検出することができるようになる。実験の結果、DCのm/z=256をプリカーサーイオンとしてタンデム質量分析を行うと、m/z=256→229の解離が観測された。これは、
(DC+H)+→(DC−CN)++HCN (5)
の反応が起こった結果だと考えられる。次にDAのm/z=265をプリカーサーイオンとしてタンデム質量分析を行うと、m/z=265→229の解離が観測された。これは、
(DA+H)+→(DA−Cl)++HCl (6)
の反応が起こった結果だと考えられる。
【0031】
次に、本発明で開示した装置において、m/z=256→229のタンデム質量分析を行った場合のDCの検出下限を検討した結果を以下に記載する。この実験では、体積10リットルのステンレス容器を用いた。DCを溶解させたヘキサン溶液をステンレス容器に注入し、気化させて所望の濃度のDCのガスを発生させ、容器を装置に接続してDCに由来するイオンの強度を測定した。図6は、図内に示した各々の濃度のガスを装置に吸引した場合のイオン強度である。容器の接続後、ガスの吸引に従い、容器内のガスが容器外から引き込まれる空気によって希釈され、濃度が薄くなっていくので、信号は徐々に弱くなってくる。この様に、測定中にガス濃度が変化してしまうため、容器接続後1分程度の間に得られる信号を平均して各々の濃度のイオン強度とし、検量線を作成した。DCの検量線を図7に示す。図7の結果から、本発明で開示した装置の感度(検量線の傾き)は34000カウント/(μg/m3)であった。一方、DCを含まない大気を吸引した場合、100回の測定から求めたバックグラウンドの信号のゆらぎ(標準偏差σ)は340カウントであったから、DCの検出下限を3σで定義すると、約0.03μg/m3であった。
【0032】
以上に示した実験において、一回あたりの測定時間は約2秒であるから、あらかじめ測定場所において空気のデータを取得しバックグラウンドの標準偏差σを求め、アラームの閾値を定めておけば、DCの漏洩が発生した場合には即時に検出しアラームを発することができる。また、検量線と信号強度から容易にDC濃度を求めることができるから、本発明によれば、極低濃度のDCの濃度を、ほぼ実時間で測定することが可能となった。
【0033】
次に、m/z=265→229のタンデム質量分析によるDAの検出下限を、上述のDCの場合と同様に求めたが、約1μg/m3であった。これは、DCに比べてDAの方が分解しやすいためである。図4と図5とを比較すれば明らかなように、DC特有のm/z=256のイオン強度よりも、DA特有のm/z=265のイオン強度の方が弱い。このため、タンデム質量分析を行った後のDAのm/z=265→229のイオン強度も、DCのm/z=256→229に比較すると弱いので、極低濃度のDAの測定はその分だけ難しくなる。
【0034】
以上のことから、1μg/m3以下の極低濃度のDAの濃度を実時間で測定するためには、DCとDAに共通する信号(例えばm/z=229)からDCとDAの総量の濃度を算出し、DC特有のm/z=256→229の信号からDCの濃度を算出し、両者の差からDAの濃度を算出するとよい事が実験の結果明らかとなった。
【0035】
確認のため、DA及びDCから得られるm/z=229,256,265の信号の強度を比較した結果を図8から図10に示す。図4及び図5と同様に、試料溶液を導入配管28に注入した。図8から図10において、矢印は試料溶液を注入したタイミングを示す。この測定において、細孔の開口する電極や配管の温度は120℃とし、コロナ放電の電流は10マイクロアンペアに設定した。
【0036】
まず、図8はDCの測定結果である。m/z=229と256には試料由来の信号が検出されたが、265には検出されていない。m/z=229と256の信号の面積で比を算出すると、5:1であった。図9はDAの測定結果である。m/z=229と265には試料由来の信号が検出されたが、256には検出されていない。m/z=229と265の信号の面積で比を算出すると、50:1であった。
【0037】
m/z=229は分解物であるから、測定条件、例えば細孔の開口する電極の温度やコロナ放電部の放電電流などを変化させると、m/z=229と256や265の強度比は変化する。しかしながら、同一の装置で測定条件を統一して繰り返し評価した場合には、強度比はほぼ一定であった。
【0038】
次に、DCとDAとを混合した溶液を作成し、導入配管28に注入した結果を図10に示す。m/z=229,256,265の全てに信号が観測されたが、これらの信号の面積で比を算出すると、59:1.6:1であった。m/z=229にはDCとDAが共に信号を与えるが、DCのみの信号であるm/z=256を5倍し、DAのみの信号であるm/z=265を50倍して、両者の和を取ると、観測されたm/z=229の強度とほぼ一致した。図10に示した結果から、DCとDAとが混合された試料に対するm/z=229の強度は、DCの寄与分とDAの寄与分の和として表されることが確認された。
【0039】
つまり、極低濃度ではDA固有の信号であるm/z=265を検出することは難しくなっていくが、あらかじめDCとDAとを用いてm/z=229,256,265の強度比を測定し、装置や実験条件毎にデータベース化しておけば、DCとDAに共通する信号であるm/z=229と、DC特有の信号であるm/z=256の強度から、仮にm/z=265の信号が得られなくとも、DAの濃度を推定することが可能になった。
【0040】
DA濃度を推定する流れを図14に示す。まず、試料ガスを大気圧化学イオン化質量分析法によって質量分析し、m/z=229,256,265の信号強度を測定する(S11)。次に、m/z=256の信号と検量線を用いてDC濃度を算出する(S12)。次に、そのDC濃度から、DCに起因するm/z=229の強度を求める(S13)。実測されたm/z=229の信号強度からDCの寄与分を引いて、DAに起因するm/z=229の信号強度を算出する(S14)。最後に、DAに起因するm/z=229の信号強度から、検量線を用いてDA濃度を算出する(S15)。
【産業上の利用可能性】
【0041】
本発明によれば、極低濃度のDCやDAの濃度を迅速かつ正確に把握することができるので、遺棄化学兵器の処理などにおいて、環境漏洩モニタリングが可能となり、作業員や周辺住民等の安全に寄与することができる。
【図面の簡単な説明】
【0042】
【図1】本発明を実施するのに必要な、装置全体の構成を示すブロック図である。
【図2】化学剤検出器のイオン源部を示す図である。
【図3】化学剤検出器の質量分析部を示す図である。
【図4】DCの質量スペクトルを示す図である。
【図5】DAの質量スペクトルを示す図である。
【図6】タンデム質量分析によるDCの検出信号を示す図である。
【図7】タンデム質量分析によるDAの検量線を示す図である。
【図8】質量分析によるDCの検出信号を示す図である。
【図9】質量分析によるDAの検出信号を示す図である。
【図10】質量分析によるDCとDAの混合試料の検出信号を示す図である。
【図11】従来の化学剤検出器の概略を示す図である。
【図12】データベースの内容を説明する図である。
【図13】表示部を示す図である。
【図14】濃度を求めるためのフローチャートを示す図である。
【符号の説明】
【0043】
1…試料導入部、2…イオン化部、3…質量分析部、4…制御部、5…吸入ポンプ、6…計測処理用計算機、7…真空ポンプ、16…試料、21…発掘回収現場、22…テント、23…送気ファン、24…化学剤除去フィルタ、25…排気管、28…導入配管、29…化学剤検出器、30…データ処理装置、31…データベース、32…表示部、33…吸気口、34…イオンドリフト部、35…コロナ放電部、36a,36b…排気管、37…針電極、38…コロナ放電領域、39…対向電極、40…開口部、41…第1細孔、42…第2細孔、43…第3細孔、44…真空部、45…流量制御部、46…吸引ポンプ、47…イオン源、48…真空ポンプ、49a,49b…差動排気部、50…荒引きポンプ、51…収束レンズ、52…スリット電極、53…内筒電極、54…外筒電極、55…二重円筒型偏向器、56…リング電極、57a,57b…エンドキャップ電極、58…ゲート電極、59a,59b…つば電極、60a,60b…石英リング、61…イオン取り出しレンズ、62…検出器、63…増幅器、64…データ処理装置

【特許請求の範囲】
【請求項1】
試料ガスを導入するガス導入部と、
前記試料ガスに含まれる成分をコロナ放電によりイオン化するイオン源と、
前記イオン源で生成されたイオンのm/zを分析する質量分析計と、
前記質量分析計で得られたイオン強度から、前記試料ガスに含まれるジフェニルシアノアルシンとジフェニルクロロアルシンの濃度を求める演算部と、
前記演算部で求めた結果を表示する表示部と、を有し、
前記演算部は、前記質量分析計で得られたジフェニルシアノアルシンとジフェニルクロロアルシンに共通する信号からジフェニルシアノアルシンとジフェニルクロロアルシンの和の濃度を算出し、ジフェニルシアノアルシンに固有の信号からジフェニルシアノアルシンの濃度を算出し、前記和の濃度と前記ジフェニルシアノアルシンの濃度の差からジフェニルクロロアルシンの濃度を算出することを特徴とするガスモニタリング装置。
【請求項2】
請求項1記載のガスモニタリング装置において、前記ジフェニルシアノアルシンとジフェニルクロロアルシンに共通する信号はm/z=229のイオン強度信号であり、前記ジフェニルシアノアルシンに固有の信号はm/z=256のイオン強度信号であることを特徴とするガスモニタリング装置。
【請求項3】
請求項2記載のガスモニタリング装置において、m/z=229のイオン強度信号におけるジフェニルシアノアルシンの感度とジフェニルクロロアルシンの感度、及びm/z=256のイオン強度信号におけるジフェニルシアノアルシンの感度に関する情報を格納した記憶部を有することを特徴とするガスモニタリング装置。
【請求項4】
試料ガスを大気圧化学イオン化質量分析法によって質量分析し、ジフェニルシアノアルシンとジフェニルクロロアルシンに共通する信号とジフェニルシアノアルシンに固有の信号を測定する工程と、
前記ジフェニルシアノアルシンに固有の信号に基づいてジフェニルシアノアルシン濃度を算出する工程と、
前記算出されたジフェニルシアノアルシン濃度に基づいて、前記測定されたジフェニルシアノアルシンとジフェニルクロロアルシンに共通する信号の強度のうちジフェニルシアノアルシンに起因する強度を求める工程と、
前記測定されたジフェニルシアノアルシンとジフェニルクロロアルシンに共通する信号の強度から、前記ジフェニルシアノアルシンに起因する強度を差し引いて、ジフェニルクロロアルシンに起因する信号強度を算出する工程と、
前記測定されたジフェニルシアノアルシンとジフェニルクロロアルシンに共通する信号の強度のうちの前記ジフェニルクロロアルシンに起因する信号強度に基づいてジフェニルクロロアルシンの濃度を算出する工程と
を有することを特徴とするガスモニタリング方法。
【請求項5】
請求項4記載のガスモニタリング方法において、前記ジフェニルシアノアルシンとジフェニルクロロアルシンに共通する信号はm/z=229のイオン強度信号であり、前記ジフェニルシアノアルシンに固有の信号はm/z=256のイオン強度信号であることを特徴とするガスモニタリング方法。

【図1】
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【図2】
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【図3】
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【図4】
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【図5】
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【図6】
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【図7】
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【図8】
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【図9】
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【図10】
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【図11】
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【図12】
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【図13】
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【図14】
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【公開番号】特開2008−58238(P2008−58238A)
【公開日】平成20年3月13日(2008.3.13)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2006−237892(P2006−237892)
【出願日】平成18年9月1日(2006.9.1)
【出願人】(000005108)株式会社日立製作所 (27,607)
【出願人】(592083915)警察庁科学警察研究所長 (23)
【Fターム(参考)】