説明

チロソール高生産性酵母変異株及び当該酵母変異株を用いた発酵アルコール飲料の製造方法

【課題】チロソールを多く生産することができる酵母変異株、および、趣向の多様化に合わせた発酵アルコール飲料の開発。
【解決手段】トリプトファン要求性であり、かつエタノール耐性を示す、サッカロマイセス・セレビシエ変異株trp3E5(NITE AP-978)からなる、チロソール高生産性酵母変異株。該変異株を用いて発酵することを含む、発酵アルコール飲料の製造方法、および、該変異株を用いて製造されたアルコール飲料および清酒。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、チロソール高生産性酵母変異株及び当該酵母変異株を用いた発酵アルコール飲料の製造方法などに関する。
【背景技術】
【0002】
発酵アルコール飲料の品質は、その味によって大きく左右される。このため、発酵アルコール飲料の呈味の改善に向けて、酵母の改良が古くから行われてきた。
【0003】
発酵アルコール飲料における呈味成分として、糖、有機酸、アミノ酸、ペプチドなどの種々の成分がこれまでに同定されている。発酵アルコール飲料の呈味成分の1つであるチロソールは発酵アルコール飲料に多量に含まれると苦味を呈するが、適量含まれると味に幅を持たせたり、味にコクやしまりをもたせたりすることが知られている(非特許文献1)。
【0004】
ここで、特開2004-215644号公報(特許文献1)には、チロソール高生産性酵母変異株を得たこと、及びその酵母変異株を用いてチロソールを多く含む発酵アルコール飲料を製造したことが記載されている。チロソール高生産性酵母変異株は、自然変異又は人工変異処理した酵母変異株の中から2−フルオロ−L−チロシン耐性を有する酵母変異株を分離することにより得たものである。このチロソール高生産性酵母変異株を用いて製造した発酵アルコール飲料中のチロソールの含有量は約150 ppmであり、これは、変異前の酵母を用いた場合と比較して約2.5倍の量である。
【0005】
また、特開平5-49465号公報(特許文献2)には、香気成分のうちβ−フェネチルアルコールおよびそのエステルと、呈味成分のうちチロソールとを多く生成する酵母変異株を得たこと、及びその酵母変異株を用いて発酵アルコール飲料を製造したことが記載されている。この酵母変異株を用いて製造した発酵アルコール飲料中のチロソールの含有量は約160 ppmであり、これは、変異前の酵母を用いた場合と比較して約6倍の量である。
【0006】
現在、消費者が求める発酵アルコール飲料の趣向は多様化している。趣向の多様化に合わせた発酵アルコール飲料の開発のため、新たなチロソール高生産性酵母変異株が求められていた。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0007】
【特許文献1】特開2004-215644号公報
【特許文献2】特開平5-49465号公報
【非特許文献】
【0008】
【非特許文献1】やまがた技術ニュースNo.35, pp4 (2005)
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0009】
上記状況において、チロソールを多く生産することができる新たな酵母変異株が求められていた。
【課題を解決するための手段】
【0010】
本発明者らは、上記課題を解決するために鋭意研究を重ねた結果、トリプトファン要求性であり、かつエタノール耐性を示す酵母変異株が、チロソールを多く生産することができる新たな酵母変異株であることなどを見出し、本発明を完成するに至った。
【0011】
すなわち、本発明は、以下に示す、チロソール高生産性酵母変異株、その酵母変異株の取得方法、及びその酵母変異株を用いた発酵アルコール飲料の製造方法などを提供する。
[1] トリプトファン要求性であり、かつエタノール耐性を示す、チロソール高生産性酵母変異株。
[2] チロソール高生産性酵母変異株が、サッカロマイセス・セレビシエ変異株である、上記[1]記載の酵母変異株。
[3] サッカロマイセス・セレビシエ変異株が、サッカロマイセス・セレビシエtrp3E5株(NITE AP-978)である、上記[2]記載の酵母変異株。
[4] 親株の自然変異又は人工変異処理によりトリプトファン要求性酵母変異株を得る工程と、
トリプトファン要求性酵母変異株からエタノール耐性株を分離する工程とを含む、
チロソール高生産性酵母変異株の取得方法。
[5] チロソール高生産性酵母変異株が、サッカロマイセス・セレビシエ変異株である、上記[4]記載の方法。
[6] サッカロマイセス・セレビシエ変異株が、サッカロマイセス・セレビシエtrp3E5株(NITE AP-978)である、上記[5]記載の方法。
[7] 上記[1]〜[3]のいずれか1項記載の酵母変異株を用いて発酵することを含む、発酵アルコール飲料の製造方法。
[8] 発酵アルコール飲料が清酒である、上記[7]記載の方法。
[9] 上記[7]又は[8]記載の方法によって製造された発酵アルコール飲料。
【発明の効果】
【0012】
本発明により新たなチロソール高生産性酵母変異株が提供される。本発明のチロソール高生産性酵母変異株を用いることで、発酵アルコール飲料のチロソールの含有量を、親株を用いた場合に比べて増やすことができる。本発明の好ましい態様によれば、発酵アルコール飲料のチロソールの含有量を、親株を用いた場合の約1.5倍以上にすることができる。本発明のチロソール高生産性酵母変異株を用いることで、味に幅があり、またコクが増した発酵アルコール飲料を製造することができる。
【図面の簡単な説明】
【0013】
【図1】各酵母(K901、trp3又はtrp3E5)で醸造した清酒中の有機酸の含有量(mg/l)を測定した結果を示すグラフである。
【発明を実施するための形態】
【0014】
以下、本発明について詳細に説明する。
本明細書に記載した全ての文献及び刊行物は、その目的にかかわらず参照によりその全体を本明細書に組み込むものとする。
【0015】
1.本発明の概要
チロソールは、酵母の菌体内のチロシンがEhrlich経路によりチロソールに変換されることにより生成する。酵母の菌体内のチロシンは、酵母の菌体外から輸送により取り込まれるか、あるいは、酵母の菌体内で生合成経路により合成される。
【0016】
チロシンなどの芳香族アミノ酸は酵母の生育に必須である。このため、芳香族アミノ酸の菌体内への輸送が止まれば酵母の生育は完全に芳香族アミノ酸生合成経路に依存するようになると考えられる。逆に、酵母の芳香族アミノ酸生合成経路を遮断すれば、酵母の菌体内への芳香族アミノ酸の輸送に酵母の生育が完全に依存するようになると考えられる。
【0017】
本発明者らは、先ず、清酒用の酵母であるtrp3株を入手した。trp3株は、芳香族アミノ酸生合成経路が遮断された酵母変異株であり、清酒用の酵母である親株K901から自然変異で取得された(Hashimoto et al., AEM 312-319, Vol. 71, No. 1(2005))。このtrp3株では、芳香族アミノ酸の輸送に酵母の生育が完全に依存していると考えられる。このtrp3株はエタノールに感受性であった。trp3株がエタノールに感受性であった理由は、酵母の芳香族アミノ酸輸送体Tat2はエタノールのようなストレス存在下で分解されるためであると考えられる。すなわち、trp3株がエタノールにさらされるとtrp3株の細胞表層からTat2がなくなり、これにより菌体内への芳香族アミノ酸の輸送がストップしたことにより酵母の生育が阻害されたと考えられる。
【0018】
本発明者らは、次に、trp3株からエタノール耐性株を取得した(trp3E5株)。Trp3E5株においては、芳香族アミノ酸輸送体Tat2の分解が抑えられ、Tat2が細胞表層に留まり続け、芳香族アミノ酸を酵母の菌体内に取り込み続けると考えられる。このtrp3E5株を用いて発酵アルコール飲料を製造すれば、Tat2による酵母の菌体内への取り込みにより発酵アルコール飲料のチロシン含有量が減ると考えられる。そして、酵母の菌体内へ取り込まれたチロシンは脱アミノ化されてチロソールに変換されるので、trp3E5株で造った発酵アルコール飲料では、チロソールの含有量が増えると考えられる。
【0019】
事実、trp3E5株を用いて清酒を醸造したところ、醸造した清酒のチロシン含有量は、81.7±2.8 ppmであり、trp3株を用いて醸造した清酒よりも減っていた(n=3、p<0.01)。一方、trp3E5株を用いて醸造した清酒のチロソール含有量は、227.7±2.7ppmであり、親株K901と比較してチロソールは大幅に増加しており( n = 3, p < 0.01)、その増加量は、親株K901と比べると、約3.1倍にも達した。
【0020】
また、trp3E5株を用いて醸造した清酒は、親株K901を用いて醸造した清酒と比較して、より味に幅があり、かつコクがさらに増していた。
【0021】
2.本発明の酵母変異株
本発明の酵母変異株は、トリプトファン要求性であり、かつエタノール耐性を示す、チロソール高生産性酵母変異株である。
【0022】
「チロソール高生産性」とは、本発明の酵母変異株を用いて発酵アルコール飲料を醸造したときに、醸造した発酵アルコール飲料のチロソール含有量が、変異によりトリプトファン要求性とエタノール耐性とを獲得する前の酵母(以下、「親株」という。)を用いて醸造した発酵アルコール飲料と比較して、増えること、例えば、1.5倍以上、2.0倍以上、2.5 倍以上、又は3.0倍以上に増えることを意味する。好ましくは、チロソール含有量は、親株を用いた場合と比較して、これらの各値以上で、かつ、10倍以下、9.5倍以下、9.0倍以下、又は8.5倍以下である。より好ましくは、チロソール含有量は、親株を用いた場合と比較して、1.5倍〜10倍、1.5倍〜9.5倍、又は1.5倍〜9.0倍の範囲である。さらに好ましくは、チロソール含有量は、親株を用いた場合と比較して、1.5倍〜9.0倍の範囲である。
【0023】
本発明のいくつかの態様では、本発明の酵母変異株を用いて発酵アルコール飲料を醸造したときに、醸造した発酵アルコール飲料のチロソール含有量が増えると同時に、チロシンの含有量が減る。チロソールの含有量は、上記したのと同様である。チロソールの含有量が上記したように増えると同時に、チロシンの含有量は、親株を用いた場合と比較して、例えば、0.90倍以下、0.85倍以下、0.80倍以下、又は0.75倍以下に減る。より好ましくは、チロシンの含有量は、これらの各値以下で、かつ、0.10倍以上、0.15倍以上、0.20倍以上、又は0.25倍以上である。さらに好ましくは、チロソールの含有量が上記したように増えると同時に、チロシンの含有量は、親株を用いた場合と比較して、例えば、0.10倍〜0.90倍、0.15倍〜0.90倍、0.20倍〜0.90倍、又は0.25倍〜0.90倍の範囲である。特に好ましくは、チロソールの含有量が上記したように増えると同時に、チロシンの含有量は、親株を用いた場合と比較して、0.25倍〜0.90倍の範囲である
【0024】
発酵アルコール飲料中のチロソールおよびチロシンの含有量は、実施例に記載の方法にて測定することができる。
【0025】
本発明の好ましい態様では、本発明の酵母変異株を用いて醸造した発酵アルコール飲料は、さらに、親株を用いた場合と比較して、リンゴ酸の含有量が高く、例えば、1.5倍以上、2.0倍以上、2.5 倍以上、又は3.0倍以上高い。好ましくは、リンゴ酸の含有量は、親株を用いた場合と比較して、これらの各値以上で、かつ、10倍以下、9.5倍以下、9.0倍以下、又は8.5倍以下である。より好ましくは、リンゴ酸の含有量は、親株を用いた場合と比較して、1.5倍〜10倍、1.5倍〜9.5倍、又は1.5倍〜9.0倍の範囲である。さらに好ましくは、リンゴ酸の含有量は、親株を用いた場合と比較して、1.5倍〜9.0倍の範囲である。
発酵アルコール飲料中のリンゴ酸の含有量も、実施例に記載の方法にて測定することができる。
【0026】
本発明の酵母変異株は、トリプトファン要求性であるため、最少培地上では生育できず、生育にはトリプトファンを補うことが必要である。本発明の酵母変異株において、トリプトファン要求性変異は、TRP1遺伝子、TRP2遺伝子、TRP3遺伝子、TRP4遺伝子、TRP5遺伝子等からなる群から選択される少なくとも1つの遺伝子に起因するものであり、好ましくは、TRP1遺伝子、TRP2遺伝子、TRP3遺伝子、TRP4遺伝子又はTRP5遺伝子に起因するものであり、さらに好ましくは、TRP3遺伝子に起因するものである。トリプトファン要求性の有無の決定、及び変異した遺伝子の検出は、それぞれ、後述の方法により行うことができる。
ここで、トリプトファン要求性変異株は、トリプトファンの生合成経路が遮断されており、その生育を、芳香族アミノ酸の輸送に完全に依存していると考えられる。
【0027】
また、本発明の酵母変異株は、エタノール耐性であり、エタノールストレス存在下においても、生育することができる。
「エタノールのストレス存在下」とは、本発明の酵母変異株が、例えば、1 v/v %以上、5 v/v %以上、10 v/v %以上、15 v/v %以上、又は20 v/v %以上の濃度のエタノールの存在下に置かれることを意味する。エタノールのストレス存在下は、好ましくは、本発明の酵母変異株が、1 v/v %〜7 v/v %、5 v/v %〜10 v/v %、又は10 v/v %〜20 v/v%のエタノール存在下に置かれることを意味する。
エタノール耐性の有無の確認は、後述の方法により行うことができる。
【0028】
本発明の好ましい態様では、酵母変異株は、これらの濃度のエタノールのストレス存在下においても、細胞表面のTat2がほとんど分解されない。細胞表面のTat2がほとんど分解されない、とは、エタノールのストレス存在下における細胞表面のTat2の数が、エタノールのストレス非存在化における細胞表面のTat2の数の60%以上、70%以上、80%以上、85%以上、90%以上、91%以上、92%以上、93%以上、94%以上、95%以上、96%以上、97%以上、98%以上、又は99%以上あることを意味する。細胞表面のTat2がほとんど分解されないことの確認は、例えば、J. Cell Biol. 2003 June 23; 161(6): 1117-1131.などに記載の方法又はそれに準じる方法にしたがって、細胞内でのTAT2の局在を調べることなどにより行うことができる。
【0029】
本発明の酵母変異株は、従来のエタノール発酵に用いられている酵母(親株)の変異株である。従来のエタノール発酵に用いられる酵母としては、サッカロマイセス(Saccharomyces)属、ザイゴサッカロマイセス(Zygosaccharomyces)属、シゾサッカロマイセス(Schizosaccharomyces)属などに属する酵母が挙げられる。エタノール発酵に用いられるサッカロマイセス属酵母としては、サッカロマイセス・セレビシエ(Saccharomyces cerevisiae)、サッカロマイセス・パストリアヌス(Saccharomyces pastorianus)、サッカロマイセス・カールスペルゲンシス(Saccharomyces carlsbergensis)などを挙げることができる。ザイゴサッカロマイセス属酵母としては、ザイゴサッカロマイセス・ロキシー (Zygosaccharomyces rouxii)などを挙げることができる。シゾサッカロマイセス属酵母としては、シゾサッカロマイセス・ポンベ(Schizosaccharomyces pombe)などを挙げることができる。本発明の酵母変異株は、好ましくは、サッカロマイセス・セレビシエ変異株である。サッカロマイセス・セレビシエとしては、例えば、清酒酵母(例、きょうかい酵母清酒用7号(K7号)、9号(K9号)、701号(K701号)、901号(K901号)、1801号(K1801号)等)、ビール酵母(例、サッカロマイセス・セレビシエ NBRC1951、NBRC1952、NBRC1953、NBRC1954等)、ワイン酵母(例、ブドウ酒用きょうかい1号、3号、4号等)、ウイスキー酵母(例、サッカロマイセス・セレビシエNCYC90等)、焼酎酵母(例、焼酎用2号、焼酎用3号等)、パン酵母などを挙げることができる。本発明では、これらの例示したサッカロマイセス・セレビシエの変異株を好ましく用いることができる。
【0030】
本発明の酵母変異株は、より好ましくは、清酒酵母K901号の変異株である。清酒酵母K901号の変異株としては、酵母変異株NITE AP-978などを挙げることができる。
「NITE AP-978」は、実施例で「trp3E5」として樹立した株である。trp3E5は、2010年9月15日付で、独立行政法人製品評価技術基盤機構 特許微生物寄託センター(〒 292-0818千葉県木更津市かずさ鎌足2-5-8 NITEバイオテクノロジー本部 特許微生物寄託センター)に受領番号NITE AP-978として寄託した。
【0031】
3.本発明の酵母変異株の取得方法
本発明の酵母変異株の取得方法は、親株の自然変異又は人工変異処理によりトリプトファン要求性酵母変異株を得る工程と、トリプトファン要求性酵母変異株からエタノール耐性株を分離する工程とを含む。
【0032】
先ず、トリプトファン要求性酵母変異株を得る工程では、親株が自然変異した又は親株を人工変異処理した酵母変異株について、トリプトファン要求性の有無を決定し、トリプトファン要求性が有ることを確認できた酵母変異株をトリプトファン要求性酵母変異株として選別する。
【0033】
親株としては、上記したエタノール発酵に用いられる酵母を挙げることができる。好ましくは、親株は、前記サッカロマイセス・セレビシエであり、さらに好ましくは、前記清酒酵母K901号である。
【0034】
自然変異とは、人工変異処理を行わずに、親株が自然に変異したことを意味する。一方、人工変異処理とは、突然変異処理手段を用いて親株を変異させる処理を意味する。突然変異処理手段として、微生物の変異処理に用いられる公知の突然変異処理手段を用いることができる。突然変異処理手段としては、例えば、紫外線による処理;γ線、x線、β線などの放射線による処理;メタンスルホン酸エチル(ethyl methanesulfonate: EMS)、アジ化ナトリウムなどの化学変異処理剤による処理などを挙げることができる。
本発明では、トリプトファン要求性酵母変異株を、好ましくは、遺伝子組換え技術を用いずに得る。
【0035】
トリプトファン要求性の有無は、Method in Yeast Genetics 2005 (Cold Spring Harbor Laboratory Course Manual)に記載の方法、Hashimoto et al., AEM 312-319, Vol. 71, No. 1(2005)に記載の方法などに従って、確認することができる。例えば、トリプトファン要求性の有無は、アミノ酸のプールを作り、それらのアミノ酸のプールを含む培地での増殖を調べることにより、確認することができる。
トリプトファン要求性酵母変異株において、変異した遺伝子の検出は、公知の方法により行うことができ、より具体的には、Hashimoto et al., AEM 312-319, Vol. 71, No. 1(2005)に記載の方法などにより行うことができる。
【0036】
トリプトファン要求性酵母変異株としては、例えば、Hashimoto et al., AEM 312-319, Vol. 71, No. 1(2005)に記載のtrp3株(RAK1922)が挙げられる。このtrp3株は、酵母遺伝資源センター(NBRP酵母) (カタログNo. BY25432)から入手することができる。
【0037】
次に、トリプトファン要求性酵母変異株からエタノール耐性株を分離する工程では、トリプトファン要求性酵母変異株が自然変異した又はトリプトファン要求性酵母変異株を人工変異処理した酵母変異株について、エタノール耐性の有無を決定し、エタノール耐性が有ることを確認できた酵母変異株をエタノール耐性株として選別する。自然変異及び人工変異処理は、前記の通りである。エタノール耐性の有無を決定する方法としては、公知の方法を挙げることができる。より具体的には、後述の実施例に記載の方法、エタノールの存在下でトリプトファン要求性酵母変異株を長期間連続培養してそこで増殖してくる株をエタノール耐性が有ると決定する方法 (Brown et al.、Eur. J. Appl. Microbiol. Biotechnol.、 16、 116 (1983))、エタノール緩衝液中で生存するトリプトファン要求性酵母をエタノール耐性が有ると決定する方法(原ら:醸協、71、301、(1976))などを挙げることができる。
【0038】
さらに、本発明の酵母変異株の取得方法においては、上記分離されたエタノール耐性株が、チロソール高生産性であるか否かの確認を行ってもよい。エタノール耐性株がチロール高生産性であるか否かは、例えば、後述の方法にて発酵アルコール飲料を製造し、製造した発酵アルコール飲料のチロソール含有量を測定することにより行うことができる。チロソール含有量の測定は、後述の実施例に記載の方法により行うことができる。また、エタノール耐性株がチロール高生産性であるか否かを判断するための発酵アルコール飲料のチロソール含有量は、前記の通りである。
【0039】
また、本発明のいくつかの態様では、上記分離されたエタノール耐性株が、チロソール高生産性であるか否かの確認に加えて、製造した発酵アルコール飲料のチロシンの含有量が減っていることの確認を行ってよい。製造した発酵アルコール飲料のチロシンの含有量が減っていることの確認は、発酵アルコール飲料のチロシンの含有量を測定することにより行うことができる。チロシン含有量の測定は、後述の実施例に記載の方法により行うことができる。また、エタノール耐性株を用いて製造したアルコール飲料のチロシン含有量が減っていることを確認する基準は、前記の通りである。
本発明の別のいくつかの態様では、さらに、製造した発酵アルコール飲料のリンゴ酸の含有量が増えていることの確認を行ってよい。製造した発酵アルコール飲料のリンゴ酸の含有量が増えていることの確認は、発酵アルコール飲料のリンゴ酸の含有量を測定することにより行うことができる。リンゴ酸の含有量の測定は、後述の実施例に記載の方法により行うことができる。また、エタノール耐性株を用いて製造したアルコール飲料のリンゴ酸含有量が増えていることを確認する基準は、前記の通りである。
【0040】
4.発酵アルコール飲料の製造方法
本発明の発酵アルコール飲料の製造方法は、本発明の酵母変異株を用いて発酵することを含む。本発明の酵母変異株を用いての発酵は、公知の方法に従って行うことができる。
【0041】
製造する発酵アルコール飲料は、例えば、清酒、ビール、ワイン、ウイスキー、焼酎などであり、好ましくは、清酒、ビール、ワインなどであり、より好ましくは、清酒である。
【0042】
本発明の好ましい態様の発酵アルコール飲料は、チロソールが適量含まれているため、味に幅があり、またコクがあるという特徴がある。
【0043】
以下、実施例を挙げて本発明をより具体的に説明する。実施例は、例示又は説明のために示されているのであって、本発明をそれらに限定するものではない。
【実施例】
【0044】
1. 親株K901とtrp3株の取得
親株K901は、日本醸造協会から購入した。
trp3株(RAK1922)は、山口大学赤田倫治教授から供与を受けた(Hashimoto et al., AEM 312-319, Vol. 71, No. 1(2005))。trp3株は、親株K901の変異株であり、芳香族アミノ酸生合成経路が遮断されている。trp3株では、芳香族アミノ酸の輸送に酵母の生育が完全に依存していると考えられる。このtrp3株はエタノールに感受性であった。trp3株はエタノールに感受性であることの確認は、10 v/v % エタノール含有YPDプレートにtrp3株を塗布しその増殖を調べることにより行った。このような条件下で培養したところ、trp3株はコロニーをほとんど形成しなかった。
【0045】
trp3株がエタノールに感受性であったのは、酵母の芳香族アミノ酸輸送体Tat2はエタノールのようなストレス存在下で分解されるためであると考えられる。すなわち、trp3株がエタノールにさらされるとtrp3株の細胞表層からTat2がなくなり、これにより菌体内への芳香族アミノ酸の輸送がストップしたことにより酵母の生育が阻害されたと考えられる。
【0046】
2. trp3E5株の取得
trp3株から、以下の手順によりエタノール耐性株を取得した(trp3E5株)。
清酒酵母をOD600が3以上になるように増殖させた後、1.7ml K-P buffer (pH 7.0)に懸濁し、Ethyl methane sulfonateを50μl加え、30℃で60分ゆっくり振盪しながら反応させ、Ethyl methane sulfonateを8ml加え、水で洗った後10 v/v %エタノール含有YPDプレートに塗布した。このような条件で培養し、コロニーを形成したものを、エタノール耐性株として取得した。
【0047】
trp3E5株においては、芳香族アミノ酸輸送体Tat2の分解が抑えられ、Tat2が細胞表層に留まり続け、芳香族アミノ酸を酵母の菌体内に取り込み続けると考えられる。
【0048】
このtrp3E5株を用いて発酵アルコール飲料を製造すれば、Tat2による酵母の菌体内への取り込みにより発酵アルコール飲料のチロシン含有量が減ると考えられる。そして、酵母の菌体内へ取り込まれたチロシンは脱アミノ化されてチロソールに変換されるので、trp3E5株で造った発酵アルコール飲料では、チロソールの含有量が増えると考えられる。
【0049】
そこで、trp3E5株を用いて、発酵アルコール飲料のうち清酒の醸造を行った。
【0050】
3. 清酒の醸造
trp3E5株を用いて、以下の手順により清酒を醸造した。清酒酵母trp3E5株を標準の条件で培養し、1x107 cellsに相当する細胞を遠心で集めた後、集めた細胞を水で洗い、これに、60gの乾燥米と23gの乾燥麹と200 mlの水と45μlの90 v/v % 乳酸を加え15℃で2週間発酵させることにより、清酒を醸造した。また、親株K901号およびtrp3株をそれぞれ用いてtrp3E5株と同様の手順にて清酒を醸造した。
【0051】
そして、醸造した清酒におけるチロシン含有量及びチロソール含有量を、photo diode-array detectorを装備したAgilent 1100 HPLC system (Agilent Technologies, Inc.).を用いて測定した。測定条件は次の通りである:カラム Unizon UK-C18 (2.0 mm x 150 mm, Imtakt Corp.); カラム温度 30 ℃; 流量 0.2 mL/min; 検出UV at 280 nm。最初の溶媒(mobile phase A (0.1 vol% trifluoroacetic acid in water) / mobile phase B (0.1 vol% trifluoroacetic acid in acetonitrile) = 98 / 2 (v/v)) を最初5分置き、その後、60% mobile phase B に5分から23分で達するようにlinear gradientを行った。
【0052】
trp3E5株を用いて醸造した清酒のチロシン含有量は、表1に示すように81.7±2.8 ppmであり、trp3株を用いて醸造した清酒よりも減っていた(n=3、p<0.01)。trp3E5株を用いて醸造した清酒のチロシン含有量の減少量は、親株と比較して、約0.59倍にも達した。一方、trp3E5株を用いて醸造した清酒のチロソール含有量は、表1に示すように227.7±2.7ppmであり、親株K901と比較してチロソールは大幅に増加しており( n = 3, p < 0.01)、その増加量は、親株K901と比べると、約3.1倍にも達した。
【0053】
【表1】

【0054】
ヒトにおいては、チロソールの官能閾値は80〜140ppmと言われている(やまがた技術ニュース No.35, pp4 (2005))。親株K901を用いて醸造した清酒のチロソール含有量が72.9±0.6ppmであり、官能閾値より下であったところ、酵母変異株trp3E5を用いて醸造した清酒のチロソール含有量は官能閾値を超える227.7±2.7ppmであり、ちょうど官能閾値をまたいでチロソールが増加したことが分かる。
【0055】
次に、醸造した清酒における有機酸の含有量を、以下の測定装置及び測定条件にて測定した。カラム温度 40℃;pre-column流速 0.5 ml/min、 post-column流速0.6ml/min; post-column BTB法;カラム shodex KC-811(7.8mmI. D. *300mm)*2+KC-G;カラム温度 40℃;ポンプ日立L-2420;UV/VIS detector L-2420;eluent 3 mmol/l HClO4; ポストカラムバッファー 0.1 mmol/l bromothymol blue、 30 mmol/l Na2HPO4;検出 440nm。
【0056】
その結果を、図1に示す。測定した有機酸は、クエン酸(citrate)、ピルビン酸(pyruvate)、リンゴ酸(malate)、コハク酸(succinate)、乳酸(lactate)及び酢酸(acetate)である。
trp3E5株を用いて醸造した清酒のリンゴ酸の含有量は、図1に示すように約670mg/lであり、親株K901やtrp3株を用いて醸造した清酒のリンゴ酸の含有量(それぞれ、約190mg/lと約320mg/l)よりも大幅に多く、その増加量は、親株K901と比べると、約3.5倍にも達した。ここで、特開2004-215644号公報のチロソール高生産性酵母変異株TY24を用いて醸造した清酒のリンゴ酸の含有量は、変異前の酵母KAを用いて醸造した清酒とほとんど変わらないことが知られている(山形県工業技術センター報告35号 p.1-6 (2004-2)の表8)。また、特開平5-49465号公報の酵母変異株を用いて醸造した清酒については、リンゴ酸の含有量は不明であるものの、官能検査で酸味が指摘されていないことから、変異前の酵母を用いて醸造した清酒とほとんど変わっていないものと考えられる。
【0057】
訓練されたパネル4人で独立した3点の仕込みで3点識別法により酵母変異株trp3E5で醸造した清酒が親株K901で醸造した清酒と識別できるかを調べた。具体的には、以下の手順で3点識別法を行った。
1セット3個として、3セット用意した。それぞれのセットには酵母変異株trp3E5を用いて醸造した清酒1つと親株K901を用いて醸造した清酒2つの計3個が含まれていた。これらをめくかししてランダム化し、訓練されたパネルに3つのうち1つだけ異なる香味を持つ清酒を指摘させ、その特徴を記述させた。これを1人のパネルにつき3セット行った。
【0058】
その結果、酵母変異株trp3E5で醸造した清酒と親株K901で醸造した清酒とを、識別危険率0.1%で有意に識別できた。また、酵母変異株trp3E5を用いて醸造した清酒の特徴として、味の幅やコクが増したといった意見が6件、酸味が増したという意見が6件、渋味が増したという意見が4件得られた。チロソール含有量は約227.7ppmであるので、チロソールが識別されることは間違いないが、この濃度のチロソールは、はっきりとした苦味としては認識されず味の幅やコクとして認識された。また、酵母変異株trp3E5で醸造した清酒ではリンゴ酸含有量が多いため、酸味が増したと認識されたものと考えられる。
【産業上の利用可能性】
【0059】
本発明のチロソール高生産性酵母変異体は、清酒のみならず、様々な発酵アルコール飲料の製造に適用可能である。

【特許請求の範囲】
【請求項1】
トリプトファン要求性であり、かつエタノール耐性を示す、チロソール高生産性酵母変異株。
【請求項2】
チロソール高生産性酵母変異株が、サッカロマイセス・セレビシエ変異株である、請求項1記載の酵母変異株。
【請求項3】
サッカロマイセス・セレビシエ変異株が、サッカロマイセス・セレビシエtrp3E5株(NITE AP-978)である、請求項2記載の酵母変異株。
【請求項4】
親株の自然変異又は人工変異処理によりトリプトファン要求性酵母変異株を得る工程と、
トリプトファン要求性酵母変異株からエタノール耐性株を分離する工程とを含む、
チロソール高生産性酵母変異株の取得方法。
【請求項5】
チロソール高生産性酵母変異株が、サッカロマイセス・セレビシエ変異株である、請求項4記載の方法。
【請求項6】
サッカロマイセス・セレビシエ変異株が、サッカロマイセス・セレビシエtrp3E5株(NITE AP-978)である、請求項5記載の方法。
【請求項7】
請求項1〜3のいずれか1項記載の酵母変異株を用いて発酵することを含む、発酵アルコール飲料の製造方法。
【請求項8】
発酵アルコール飲料が清酒である、請求項7記載の方法。
【請求項9】
請求項7又は8記載の方法によって製造された発酵アルコール飲料。

【図1】
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【公開番号】特開2012−85614(P2012−85614A)
【公開日】平成24年5月10日(2012.5.10)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2010−237519(P2010−237519)
【出願日】平成22年10月22日(2010.10.22)
【出願人】(504209655)国立大学法人佐賀大学 (176)
【Fターム(参考)】