説明

嗅覚ディスプレイ用の要素臭決定方法及び要素臭決定装置

【課題】 数十程度の汎用的な要素臭を決定することが可能な、嗅覚ディスプレイ用の要素臭決定方法を提供する。
【解決手段】 要素臭決定方法は、複数の要素臭を調合することによって対象臭を生成する嗅覚ディスプレイに用いられる要素臭を決定する方法であり、質量分析器によって分析された複数の候補要素臭の質量分析データを取得する質量分析データ取得ステップS1と、NMF法を用いて、取得された前記候補要素臭の質量分析データから複数の基底ベクトルを抽出する基底ベクトル抽出ステップS2と、抽出された前記基底ベクトルを表現可能な単一臭の組み合わせを要素臭として決定する要素臭決定ステップS3と、を含む。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、嗅覚ディスプレイにおいて用いられる要素臭を決定するための方法及び装置に関する。
【背景技術】
【0002】
ユーザに様々な匂いを提供するために、嗅覚ディスプレイが用いられている。嗅覚ディスプレイは、多くの要素臭から選択された要素臭を調合することによって、ユーザが選択した様々な匂いを提供する装置である。従来の嗅覚ディスプレイでは、より実際の匂いに近い様々な匂いを提供するために、取り扱う要素臭の数を増やすための工夫が行われており、数十程度の要素臭を瞬時に調合することが可能となっている(例えば、特許文献1,2参照)。
【0003】
近年、より実際の匂いに近い様々な匂いを提供するのに好適な要素臭を決定することが、嗅覚ディスプレイの課題の一つとなっている。非特許文献1では、匂い分子の形状に基づく7原臭説が開示されているが、7つの要素臭では、様々な匂いを提供するには不十分である。一方、非特許文献2では、嗅覚レセプタの数は、遺伝子工学の手法に基づいて347であるとされているが、嗅覚レセプタに対応する347種類の要素臭を用意するのは大変であり、また、347種類の要素臭の全てが重要な貢献をしているかは不明である。
【0004】
【特許文献1】特開2002−277367号公報
【特許文献2】国際公開第2007/122879号パンフレット
【非特許文献1】E. Amoore, 原訳 匂い−その分子構造、恒星社厚生閣版、1972年
【非特許文献2】S. S. Sciffman, T. C. Pearce, Handbook of Machine olfaction, T. C. Pearce et al, Eds., Wiley-VCH, 2003, p22.
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0005】
このように、嗅覚ディスプレイに用いられる要素臭が7種類では、様々な匂いを提供するには不十分であり、一方、347種類では多すぎる。これに対し、数十程度の要素臭を瞬時に調合可能な嗅覚ディスプレイが開発されたため、数十程度の汎用的な要素臭を決定することができれば、大部分の匂いを提供することが可能な嗅覚ディスプレイを実現することができると期待されている。
【0006】
本発明は、前記事情を鑑みて創案されたものであり、数十程度の汎用的な要素臭を決定することが可能な、嗅覚ディスプレイ用の要素臭決定方法及び要素臭決定装置を提供することを課題とする。
【課題を解決するための手段】
【0007】
前記課題を解決するため、本発明は、複数の要素臭を調合することによって対象臭を生成する嗅覚ディスプレイに用いられる要素臭を、要素臭決定装置が決定する要素臭決定方法であって、質量分析器によって分析された複数の候補要素臭の質量分析データを取得する質量分析データ取得ステップと、NMF法を用いて、取得された前記候補要素臭の質量分析データから複数の基底ベクトルを抽出する基底ベクトル抽出ステップと、抽出された前記基底ベクトルを、実存する単一臭のマススペクトルを用いて近似することによって近似ベクトルを生成し、生成された前記近似ベクトルを要素臭として決定する要素臭決定ステップと、を含むことを特徴とする。
【0008】
前記要素臭決定ステップでは、非負拘束最小二乗法を用いて、前記近似ベクトルを構成する前記単一臭のマススペクトルにかかる係数を決定することが好ましい。
【0009】
また、前記単一臭は、前記複数の候補要素臭のいずれかであることが好ましい。
【0010】
また、本発明の要素臭決定装置は、複数の要素臭を調合することによって対象臭を生成する嗅覚ディスプレイに用いられる要素臭を決定する要素臭決定装置であって、質量分析器によって分析された複数の候補要素臭の質量分析データを取得する質量分析データ取得部と、NMF法を用いて、取得された前記候補要素臭の質量分析データから複数の基底ベクトルを抽出する基底ベクトル抽出部と、抽出された前記基底ベクトルを、実存する単一臭のマススペクトルを用いて近似することによって近似ベクトルを生成し、生成された前記近似ベクトルを要素臭として決定する要素臭決定部と、を備えることを特徴とする。
【発明の効果】
【0011】
本発明によれば、数十程度の汎用的な要素臭を決定することができる。
【発明を実施するための最良の形態】
【0012】
以下、本発明の実施形態について、適宜図面を参照しながら説明する。同様の部分には同一符号を付し、重複する説明を省略する。
【0013】
図1は、本発明の実施形態に係る要素臭決定装置を示すブロック図である。図2は、本発明の実施形態に係る要素臭決定方法を示すフローチャートである。要素臭決定装置10は、例えば、CPU、RAM、ROM及び入出力回路から構成されており、図1に示すように、機能ブロックとして、質量分析データ取得部11と、基底ベクトル抽出部12と、要素臭決定部13と、を備えている。
【0014】
質量分析データ取得部11は、質量分析器又は質量分析器データベース20から、質量分析器によって分析された複数の候補要素臭の質量分析データを取得する(図2の質量分析データ取得ステップS1)。質量分析データは、候補要素臭ごとに、当該候補要素臭のID(例えば、ナンバー等)と、マススペクトルデータすなわちm/zと、を含むデータである。取得された質量分析データは、基底ベクトル抽出部12に出力される。
【0015】
基底ベクトル抽出部12は、NMF(Non-negative Matrix Factorization)法(非負値行列分解法、非負行列因子分解法ともいう)を用いて、取得された質量分析データから複数の基底ベクトルを抽出する(図2の基底ベクトル抽出ステップS2)。詳細には、基底ベクトル抽出部12は、質量分析データのマススペクトルデータからなるデータ行列を用いてNMF法による反復計算を行い、所望の基底ベクトル数に対応する近似行列を計算することによって、基底ベクトルを抽出する。NMF法は、D. D. Lee and H. S. Seung, Nature, 401 (1999) 788等に開示されている手法である。マススペクトルデータは負の値をとらないので、NMF法は、マススペクトルデータから基底ベクトルを抽出するのに好適である。抽出された基底ベクトルは、要素臭決定部13に出力される。
【0016】
要素臭決定部13は、抽出された前記基底ベクトルを、実存する単一臭のマススペクトルを用いて近似することによって近似ベクトルを生成し、生成された近似ベクトルを要素臭として決定する(図2の要素臭決定ステップS3)。詳細には、要素臭決定部13は、非負拘束最小二乗法を用いて、近似ベクトルを構成する単一臭のマススペクトルにかかる係数、すなわち、近似ベクトルを構成する単一臭の構成比を決定する。マススペクトルデータは負の値をとらないので、非負拘束最小二乗法は、基底ベクトルを近似する近似ベクトルを構成するマススペクトルデータの構成比を決定するのに好適である。
【0017】
かかる要素臭決定装置10による要素臭決定方法では、既に大量のデータが収集されて汎用化されている質量分析器のデータを利用するので、従来の官能検査のデータを利用する方法と比べて、より汎用的な要素臭を決定することができる。
【実施例1】
【0018】
質量分析器データベースとして、米国NISTによるNIST05というデータベースを利用した。NIST05は、16.3万のマススペクトルデータを格納しており、本実施形態において、質量分析データ取得部11が、この中から任意の1万のマススペクトルデータを取得した。
【0019】
続いて、基底ベクトル抽出部12が、質量分析データのマススペクトルデータからなるデータ行列を用いてNMF法による反復計算を行い、所望の基底ベクトル数に対応する近似行列を計算した。図3は、基底ベクトル数及びNMF法の反復回数を変え、取得されたマススペクトルデータからなるデータ行列と近似行列との残差を計算した結果を示すグラフである。図3に示すように、基底ベクトル数が増加するにつれて残差は減少し、反復回数100回程度で残差は十分に収束した。
【0020】
続いて、要素臭決定部13が、他成分で構成される対象臭を表現可能な基底ベクトルを決定した。基底ベクトル数は、100とした。ここで、対象臭として、表1に示す構成比を有するりんご臭を採用した。図4は、本発明の比較例に係る、対象臭を表現する基底ベクトルの構成比を決定する方法を説明するグラフであって、基底ベクトルの構成比を、基底ベクトルの射影成分を用いて決定する方法を説明するグラフである。図5は、本発明の実施例1に係る、対象臭を表現する基底ベクトルの構成比を決定する方法を説明するグラフであって、基底ベクトルの構成比を、非負拘束最小二乗法を用いて決定する方法を説明するグラフである。図4及び図5の例において、反復計算の回数は、ともに1000回である。
【0021】
【表1】

【0022】
図4に示すように、基底ベクトルの射影成分を用いて基底ベクトルの構成比を決定した場合には、対象臭のマススペクトルと、基底ベクトルからなる近似臭のマススペクトルとのピーク位置が一致せず、近似誤差が大きい。これに対し、図5に示すように、非負拘束最小二乗法を用いて基底ベクトルの構成比を決定した場合には、基底ベクトルからなる近似臭のマススペクトルとのピーク位置が一致し、近似誤差が小さい。
【0023】
かかる相違は、基底ベクトル間の直交性が原因であると考えられる。基底ベクトル数が少なく、基底ベクトル間の直交性が保たれている間は、どちらの方法でも結果はほぼ同じである。しかし、基底ベクトルは非負という制約を受けるため、基底ベクトル数が増えてくると、基底ベクトル同士が直交しない場合が生じる。比較例に係る射影を用いる方法は、基底ベクトル間の直交性を前提とした方法であるので、直交性が満たされなくなると精度が低下してしまう。
【0024】
図6は、比較例及び実施例1における、基底ベクトル数と残差との関係を示すグラフである。図6の例において、反復計算の回数は、1000回である。図6に示すように、基底ベクトル数が64以下である場合には、比較例における残差と実施例1における残差とはほぼ同じである。しかし、基底ベクトル数が64を超える場合には、比較例における残差は増加するのに対し、実施例1における残差は減少する。かかる結果により、基底ベクトルの構成比を決定するには、非負拘束最小二乗法の方が安定しており好ましいことがわかった。
【実施例2】
【0025】
質量分析器データベースとして、精油データベース等を利用した。まず、質量分析データ取得部11が、104種の匂いの構成成分である322種の単一臭のマススペクトルデータを取得した。104種の匂いの名称を表2に示し、322種の単一臭のID(NIST_ID)及び名称(name)の一覧を表3〜表9に示す。精油データベース等から得られた単一臭のマススペクトルデータは、質量分析器ごとのバラツキを防ぐため、規格化されている。
【0026】
【表2】

【表3】

【表4】

【表5】

【表6】

【表7】

【表8】

【表9】

【0027】
続いて、基底ベクトル抽出部12が、322種のマススペクトルデータからなるデータ行列を用いてNMF法による反復計算を行い、基底ベクトル数10に対応する近似行列を計算した。続いて、要素臭決定部13が、基底ベクトルを近似する近似ベクトルを生成するために、322種の単一臭のマススペクトルデータにかかる係数、すなわち、単一臭の構成比を決定し、単一臭によって近似された基底ベクトルの近似ベクトル(すなわち、要素臭)を決定した。決定された32種の近似ベクトル01〜32を構成する単一臭のID(NIST_ID)とその係数すなわち構成比(ratio)を表10〜17に示す。表10〜表17における単一臭のID(NIST_ID)は、表3〜表9における単一臭のID(NIST_ID)に対応している。なお、かかる近似ベクトルの決定段階において、構成比(ratio)が0.0001未満の単一臭は省略した。例えば、近似ベクトル01は、3種の単一臭を調合することによって生成可能である。
【0028】
【表10】

【表11】

【表12】

【表13】

【表14】

【表15】

【表16】

【表17】

【0029】
図7は、NMF法を用いて抽出された基底ベクトルの残差と、単一臭によって近似された近似ベクトルの残差と、を示すグラフである。図7には、代表的な2種の基底ベクトルに関して示されている。図7(a)(b)に示すように、基底ベクトルは、単一臭を用いて近似可能であることがわかった。
【0030】
図8は、実施例2の基底ベクトル及び近似ベクトルにおける、ベクトル数と残差との関係を示すグラフである。図8に示すように、ベクトル数が大きくなると、残差の差がやや広がった。近似基底ベクトルの場合には、ベクトル数が50を超える場合には、残差があまり減少しなくなるので、ベクトル数は32〜50が好適であるものと考えられた。
【0031】
図9は、匂いが104種以下の場合における、NMF法を用いて抽出された基底ベクトルの残差と、単一臭によって近似された近似ベクトルの残差と、を示すグラフである。図9の場合において、残差は、匂いの数で割った平均残差であり、ベクトル数は32である。匂いが26種の場合には単一臭は116種、匂いが52種の場合には単一臭は217種、匂いが78種の場合には単一臭は280であった。また、匂いが52種の場合には、使用する匂いのセットを5通りに変えて残差を計算した。その結果を表18に示す。
【0032】
【表18】

【0033】
図9に示すように、匂いの種類が増加すると誤差が若干増加するように見えるが、表18に示すように残差のばらつきも大きいため、匂いの種類が増加しても残差が増加するとはいえないことがわかった。したがって、32種の要素臭を用いれば、104種以上の匂いがあったとしても、残差を増加させることなくより多くの匂いを表現することができると考えられた。
【図面の簡単な説明】
【0034】
【図1】本発明の実施形態に係る要素臭決定装置を示すブロック図である。
【図2】本発明の実施形態に係る要素臭決定方法を示すフローチャートである。
【図3】基底ベクトル数及びNMF法の反復回数を変え、取得されたマススペクトルデータからなるデータ行列と近似行列との残差を計算した結果を示すグラフである。
【図4】本発明の比較例に係る、対象臭を表現する基底ベクトルの構成比を決定する方法を説明するグラフであって、基底ベクトルの構成比を、基底ベクトルの射影成分を用いて決定する方法を説明するグラフである。
【図5】本発明の実施例1に係る、対象臭を表現する基底ベクトルの構成比を決定する方法を説明するグラフであって、基底ベクトルの構成比を、非負拘束最小二乗法を用いて決定する方法を説明するグラフである。
【図6】比較例及び実施例1における、基底ベクトル数と残差との関係を示すグラフである。
【図7】NMF法を用いて抽出された基底ベクトルの残差と、単一臭によって近似された近似ベクトルの残差と、を示すグラフである。
【図8】実施例2の基底ベクトル及び近似ベクトルにおける、ベクトル数と残差との関係を示すグラフである。
【図9】匂いが104種以下の場合における、NMF法を用いて抽出された基底ベクトルの残差と、単一臭によって近似された近似ベクトルの残差と、を示すグラフである。
【符号の説明】
【0035】
10 要素臭決定装置
11 質量分析データ取得部
12 基底ベクトル抽出部12
13 要素臭決定部13

【特許請求の範囲】
【請求項1】
複数の要素臭を調合することによって対象臭を生成する嗅覚ディスプレイに用いられる要素臭を、要素臭決定装置が決定する要素臭決定方法であって、
質量分析器によって分析された複数の候補要素臭の質量分析データを取得する質量分析データ取得ステップと、
NMF法を用いて、取得された前記候補要素臭の質量分析データから複数の基底ベクトルを抽出する基底ベクトル抽出ステップと、
抽出された前記基底ベクトルを、実存する単一臭のマススペクトルを用いて近似することによって近似ベクトルを生成し、生成された前記近似ベクトルを要素臭として決定する要素臭決定ステップと、
を含むことを特徴とする要素臭決定方法。
【請求項2】
前記要素臭決定ステップでは、
非負拘束最小二乗法を用いて、前記近似ベクトルを構成する前記単一臭のマススペクトルにかかる係数を決定する
ことを特徴とする請求項1に記載の要素臭決定方法。
【請求項3】
前記単一臭は、前記複数の候補要素臭のいずれかである
ことを特徴とする請求項2に記載の要素臭決定方法。
【請求項4】
複数の要素臭を調合することによって対象臭を生成する嗅覚ディスプレイに用いられる要素臭を決定する要素臭決定装置であって、
質量分析器によって分析された複数の候補要素臭の質量分析データを取得する質量分析データ取得部と、
NMF法を用いて、取得された前記候補要素臭の質量分析データから複数の基底ベクトルを抽出する基底ベクトル抽出部と、
抽出された前記基底ベクトルを、実存する単一臭のマススペクトルを用いて近似することによって近似ベクトルを生成し、生成された前記近似ベクトルを要素臭として決定する要素臭決定部と、
を備えることを特徴とする要素臭決定装置。

【図1】
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【図2】
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【図3】
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【図4】
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【図5】
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【図6】
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【図7】
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【図8】
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【図9】
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【公開番号】特開2009−300188(P2009−300188A)
【公開日】平成21年12月24日(2009.12.24)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2008−153458(P2008−153458)
【出願日】平成20年6月11日(2008.6.11)
【新規性喪失の例外の表示】特許法第30条第1項適用申請有り 社団法人電気学会、「平成20年電気学会全国大会講演論文集」、第212ページ、平成20年3月19日に発行
【国等の委託研究の成果に係る記載事項】(出願人による申告)平成19年度、総務省、戦略的情報通信研究開発推進制度「高臨場感嗅覚ディスプレイの研究」にかかる委託研究、産業技術力強化法第19条の適用を受ける特許出願
【出願人】(304021417)国立大学法人東京工業大学 (1,821)
【Fターム(参考)】