説明

情報取得方法

【課題】二次イオン質量分析法を利用する細胞表層近傍の細胞内変化の検出において、標識物質などの化学物質の細胞内への導入を要しないことで、これらの影響を受けない状態の細胞内変化を検出する方法を提供すること。
【解決手段】細胞表層に存在する受容体が受容する外界刺激に応答した細胞内の情報を取得するための二次イオン質量分析法であって、少なくとも、(1)細胞に前記外界刺激を与えた後、該細胞内に存在する物質の質量情報スペクトルを取得する工程と、(2)前記外界刺激を与えない細胞において、前記物質の質量情報スペクトルを取得する工程と、(3)前記(1)及び(2)の工程において取得される質量情報スペクトルを比較し、差分を取ることによって前記外界刺激による質量情報スペクトルの変化を検出する工程とを有することを特徴とする二次イオン質量分析法。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、外界刺激によって応答する細胞内の状態変化を検出するための方法に関する。
【背景技術】
【0002】
近年のゲノム解析の進展に伴い、生体機能の発現に直接的に関与するタンパク質の機能解析や生産量解析、細胞内における局在解析が進められている。また、細胞は細胞外の環境変化に応答して様々な機能を発現することが知られている。この細胞の機能発現は細胞外の環境変化を細胞表層の受容体が感知し、その刺激を細胞内に存在する物質の相互作用を通して細胞各所に伝達し、様々な機能を発現する最終的な表現型として表現される。前記のような、ある種の刺激(シグナル)を他の種のシグナルに変換して伝達していくことは一般にシグナル伝達と呼ばれている。このシグナル伝達経路は、細胞への刺激と細胞の表現型を関連づける重要な伝達経路であるため、シグナル伝達に関わる物質の機能や相互作用情報を取得する研究が盛んに行われている。上記のような研究の一例として、シグナル伝達関連物質に蛍光標識を施し、前記シグナル伝達関連物質の活性化によって発せられる特徴的な蛍光を検出することによって、細胞内の情報伝達に関連する情報を取得る方法が報告されている(非特許文献1)。非特許文献1では、Raichu−Rasと呼ばれるRasタンパク質とRafタンパク質との細胞内での相互作用を検知する方法が開示されている。この方法では、Rasタンパク質のアミノ末端に標識マーカーとしてYellow Fluorescent Protein(YFP)を融合した融合タンパク質を作成する。また、Rafタンパク質が有するRas結合ドメインのカルボキシ末端に標識マーカーとしてCyan Fluorescent Protein(CFP)を融合した融合タンパク質を作成する。そしてRasのカルボキシ末端とRafのアミノ末端とをスペーサーで繋いだ分子を細胞内に導入することでRasタンパク質とRafタンパク質の細胞内での相互作用を検知している。Raichu−Rasは活性化因子の作用によりRasがGTP結合型になると、Ras結合ドメインに対する親和性が向上し、分子内で結合する。その結果、分子内に融合されているYFP及びCFPが物理的に接近することで生じるFRETを検出し、細胞内でのタンパク質分子同士の相互作用を検出するというものである。
【非特許文献1】Developmental Cell,Vol3,245-257,2002
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0003】
しかしながら、上記報告における標識マーカーを利用して、細胞内における情報伝達に関与する物質の量や相互作用を検出するためには、細胞内にあらかじめ標識マーカーを導入しておく必要がある。そのため、標識マーカー導入によって細胞や情報伝達経路が何らかの影響を受ける可能性がある。
【0004】
よって、本発明の目的は、細胞内情報を取得するための分析方法において、標識マーカーなどの化学物質を細胞内に導入することなく、細胞内の情報伝達に関与する物質の量や相互作用を検出することができる方法を提供することにある。
【課題を解決するための手段】
【0005】
上記課題を解決するための細胞内情報の取得方法は、以下の通りである。
【0006】
本発明にかかる細胞内情報の取得方法は、細胞表層に存在する受容体が受容する外界刺激に応答した細胞内の情報を取得するための二次イオン質量分析法であって、少なくとも、
(1)細胞に前記外界刺激を与えた後、該細胞内に存在する物質の質量情報スペクトルを取得する工程と、
(2)前記外界刺激を与えない細胞において、前記物質の質量情報スペクトルを取得する工程と、
(3)前記(1)及び(2)の工程において取得される質量情報スペクトルを比較し、差分を取ることによって前記外界刺激による質量情報スペクトルの変化を検出する工程と、を有することを特徴とする二次イオン質量分析法である。
【発明の効果】
【0007】
本発明によれば、外界刺激によって応答した細胞の状態変化を、細胞内へ標識などの化学物質を導入することなく検出することが可能となる。
【発明を実施するための最良の形態】
【0008】
《飛行時間型二次イオン質量分析》
飛行時間型二次イオン質量分析法(Time Of Flight Secondary Ion Mass Spectrometry: TOF-SIMS)は、個体試料の最表面にどのような原子または分子が存在するかを調べるための分析方法である。そして、TOF−SIMSは10e9 atoms/cm2(最表面一原子層の1/10e5に相当する量)の極微量成分の検出能を有するという特徴をもつ。
【0009】
高真空中で、高速のパルスイオンビーム(一次イオン)を固体試料表面に照射すると、スパッタリング現象によって表面の構成成分が真空中に放出される。このとき、発生するイオン(二次イオン)を電場によって一方向に収束し、一定距離だけ離れた位置で検出する。前記二次イオンは、質量対電荷比に応じた速度で飛行するため、二次イオンが発生してから一定の飛行距離を飛行して検出されるまでの時間(飛行時間)を測定することで、発生した二次イオンの質量を分析することができる。TOF−SIMSにおいて、試料表面に照射される一次イオンはその照射量の制御または、一次イオンの種類を選択することができるため、一次イオンの試料表面への侵入深度を制御することができる。そのため、試料の最表面(深さ数nm)の情報を取得することができ、細胞表層近傍に存在する所望の物質に関する質量情報を高感度に得ることが可能となり好ましい。また、TOF−SIMS分析において発生する二次イオンは、正または負の電荷をもったイオンとして発生するが、前記電荷の正負は対象となる物質の質量や種類に依存する。そのため、二次イオン検出モードは正及び負の両モードを用いて、同様の被検対象に対し各々測定し、質量情報スペクトルを取得することが試料表面に存在する様々な物質に関する情報を取得する上で好ましい。
【0010】
TOF−SIMSは、後述する細胞表層に存在する受容体と外界刺激となるリガンドとの結合によって生じる細胞内情報伝達及び細胞内変化に関する情報の取得に用いることができる。特に、TOF−SIMSは上記のように細胞表層近傍の検出に適するので、リガンドが結合した受容体が存在する細胞表層近傍で発生する初期の情報伝達に関連する情報を選択的に取得する方法に好適に用いることができる。
【0011】
細胞内部における二次イオン発生の深度を一次イオン照射量の調節または一次イオン種の選択により、細胞内深部の情報取得を抑制することが可能となる。そのため、外界刺激に応じた情報伝達の初期情報に関わる細胞表層に存在する物質の検出感度の向上が期待できる。一方、試料表面への一次イオン侵入深度を制御し、細胞内深さ方向の情報取得を段階的に行うことにより、細胞内情報伝達及び細胞内変化に関わる物質の細胞内深さ方向への情報伝達を解析することができる。加えて、TOF−SIMSでは、イオン照射範囲を1μm程度に絞ることが可能である。それゆえ、細胞の所望の領域に外界刺激を与えた後、所望の経過時間後に細胞表層の情報をイオン照射範囲を走査することで限定的に取得することによって外界刺激の細胞表層伝播の様相を観察することができる。TOF−SIMS分析を用いることで、上記の深さ方向の情報取得、及び細胞表層平面方向の情報取得を組み合わせることにより、外界刺激に応答した情報伝達の経路に関する情報が得られるため好ましい。
【0012】
《外界刺激》
本発明において外界刺激とは、細胞外部の状態変化によって細胞に与えられる刺激のことであり、刺激とは、細胞内の状態変化を起こす物理的または化学的作用のことである。本発明における刺激には、細胞表層に存在する、後述する受容体に相互作用可能な生理活性物質の細胞への接触、ならびに細胞への光の照射や温度、pHの変化、ずり応力等の機械的刺激が含まれる。受容体に相互作用可能な生理活性物質としては、アゴニストや低分子化合物、ホルモン、ペプチド、糖鎖等のリガンドが挙げられる。
【0013】
《受容体》
本発明における受容体とは、細胞表層に存在し、外界刺激となる各種の生理活性物質を特異的に認識することで、生理活性物質の作用を細胞内へと伝達するタンパク質や糖、脂質であり、中でもタンパク質は細胞膜(貫通型)受容体と言われる。受容体は、ペプチドホルモン、神経伝達物質、増殖因子などのリガンドを含む、細胞膜を通過できない水溶性の物質と細胞膜表面で相互作用する。受容後はセカンドメッセンジャーと呼ばれる細胞質内の情報伝達物質や細胞質内で相互作用する他のタンパク質などを介して間接的に細胞内へ情報を伝達する。受容体の種類として大きく分類すると、タンパク質型の受容体としてGタンパク質共役型受容体、チロシンキナーゼ型受容体のような酵素共役型受容体、あるいはイオンチャネル型受容体が知られている。また、ウイルスが細胞に感染する際に、ウイルス表層タンパク質が認識する脂質膜のラフト構造と呼ばれるスフィンゴリン脂質も受容体として知られている。これら受容体にリガンドが結合した際の細胞表層及び細胞内に存在する所望の物質の質量情報を取得することで、外的刺激に応じた細胞内情報伝達及び細胞内変化の情報を得ることができる。
【0014】
《細胞内変化》
本発明における細胞内変化とは、外界刺激に応じた細胞内の状態変化であり、外界刺激がリガンドの場合は受容体にリガンドが結合した際におこる細胞内の変化であり、具体的には細胞内情報伝達に関わる物質の増減及び活性化や、前記物質間の相互作用を含む。細胞内情報伝達に関わる物質としては、例えば、タンパク質、脂質、核酸、イオン等が挙げられるが、本発明においてTOF−SIMSを用いて検出できる物質である限り特に限定されない。しかし、タンパク質は一般に分子量が大きく、TOF−SIMS分析においてイオン化するためには酵素や酸を用いて分解し低分子化する必要があるため、細胞及び細胞内タンパク質に分解処理を施すことなくイオン化することは困難である。そのため、本発明において、低分子の脂質や核酸、イオン等がイオン化効率の面で検出対象として好ましい。脂質類としては、リン脂質や脂肪酸等が有り、具体的には、膜上に局在するフォスファチジルイノシトールポリリン酸や、フォスファチジルイノシトールポリリン酸の分解によって生じるイノシトールポリリン酸、ジアシルグリセロール等が挙げられる。また、核酸としては、グアノシンポリリン酸やサイクリックアデノシン一リン酸のような低分子ヌクレオチドも挙げられる。イノシトールポリリン酸やジアシルグリセロールまたはサイクリックアデノシン一リン酸等は、セカンドメッセンジャーとして知られ、細胞内微小器官及び細胞膜上に存在する細胞内受容体に受容されることにより情報伝達に関わることが知られている。また、グアノシンポリリン酸等は、細胞内情報伝達に関わるタンパク質と結合して、このタンパク質の活性制御を担うことが知られている。具体的には、例えば、後述するGタンパク質のαサブユニットは、グアノシン二リン酸が結合している場合、不活性型であるが、グアノシン三リン酸が結合することによって活性型となることが知られている。また、細胞内イオンはカルシウムイオンやナトリウムイオン等があり、例えば、細胞内器官上の受容体にセカンドメッセンジャーが受容することによって、一過的に前記器官内に存在するカルシウムイオンが放出され、細胞質内のイオン濃度が変化することが知られている。あるいは、外界刺激に応じて細胞表層にあるイオンチャネルを介して細胞外カルシウムイオンを細胞内に取り込むことによっても細胞内イオン濃度が変化することが知られている。上記のように、細胞内受容体に受容されるセカンドメッセンジャーとなる物質や、細胞内タンパク質の活性制御を行う物質等の細胞内存在量や局在を検知することによって、細胞内情報伝達及び細胞内変化を検知することができる。
<細胞表層に存在する受容体による細胞外刺激の受容における細胞内変化>
<Gタンパク質共役型受容体への刺激が与えられた場合>
Gタンパク質共役型受容体(G-protein Coupled Receptor; GPCR)とは、一般的にアミノ末端を細胞外に持つ7回膜貫通型の膜タンパク質であり、Gタンパク質と共役して情報伝達を担う受容体群のことである。GPCRと共役するGタンパク質はα、β、γサブユニットからなるヘテロ三量体のタンパク質であり、αサブユニットはGDPまたはGTPを特異的に結合し、不活性型のGDP結合型と活性型のGTP結合型が存在することが知られている。GPCRにリガンドが結合していない場合、Gタンパク質のαサブユニットは、GDPが結合した不活性型で存在している。しかし、アゴニストとなるリガンドがGPCRに結合することによって、Gタンパク質のαサブユニットがGTP結合型となり活性化し、βγサブユニットと解離する。この解離したαサブユニットがエフェクター分子を活性化することにより、セカンドメッセンジャーの産生を引き起こすことが知られている。細胞内情報伝達とは、上記のようにしてリガンドの受容体への結合という細胞外刺激を、シグナルに変換することにより伝達されることが知られている。GPCRの例としては、例えば、エピネフリンやノルエピネフリンを結合するα1レセプターや、アンジオテンシンIIと結合するAT1レセプター、ヒスタミンH1レセプター、ブラジキニンB2レセプター、ムスカリンM1レセプター、プリンレセプター、B細胞抗原レセプター、アドレナリンβレセプター、ヒスタミンH2レセプター等が知られている。また、エフェクター分子としては、ホスホリパーゼCやアデニル酸シクラーゼが知られている。ホスホリパーゼCはイノシトールリン脂質を基質としてセカンドメッセンジャーとなるイノシトール3リン酸とジアシルグリセロールを一過的に産生することにより情報を伝達する。アデニル酸シクラーゼはATPを基質としてセカンドメッセンジャーとなるサイクリックAMPを一過的に産生する。GPCRへの外界刺激によって生じる細胞内情報伝達及び細胞内変化を知るために検知する物質としては、例えば、Gタンパク質αサブユニットに結合して存在量が変化するGTPやGDPがある。リガンドのGPCRへの結合によって、Gタンパク質αサブユニットのGTP結合型が増加する。そのため、所望のGPCRが存在する細胞膜近傍におけるGTPあるいはGDPの存在量の変化をTOF−SIMSによって取得することにより、Gタンパク質の活性制御を検出することができる。あるいはセカンドメッセンジャーとなるイノシトール3リン酸やジアシルグリセロール、サイクリックAMP等の存在量変化を検知することもできる。
【0015】
<酵素共役型受容体への刺激が与えられた場合>
酵素共役型受容体は、多くは一回膜貫通型のタンパク質であり、タンパク質リン酸化酵素が知られている。それぞれ酵素共役の種類によりチロシンキナーゼ型受容体、チロシンキナーゼ会合型受容体、チロシンホスファターゼ型受容体、セリン・スレオニンキナーゼ型受容体、膜結合型グアニル酸シクラーゼ型受容体等がある。酵素共役型受容体による細胞外刺激の細胞内伝達系は、一般的に細胞外ドメインにあるリガンド結合部位に特定のリガンドが結合することによって、受容体の細胞内ドメインであるリン酸化酵素が自己リン酸化によって活性化し、情報を伝達する。例えば、チロシンキナーゼ型受容体の例としては、上皮成長因子(Epidermal Growth Factor: EGF)や線維芽細胞増殖因子(Fibroblast Growth Factor:FGF)、血小板由来増殖因子(Platelet-deriyed Growth Factor: PDGF)のような増殖因子を受容する受容体や、神経成長因子(Nerve Growth Factor: NGF)を受容するTropomyosin Receptor Kinase A(TrkA)、インスリン受容体等が知られている。またセリン・スレオニンキナーゼ型受容体の例としては、骨形成因子である骨形成タンパク質(Bone Morphogenetic Protein; BMP)や、トランスフォーミング増殖因子β(Transforming Growth Factor β;TGF−β)等のサイトカインに対する受容体が知られている。
【0016】
チロシンキナーゼ型受容体がリガンドと結合した場合の情報伝達の例を以下に挙げる。上皮成長因子受容体(EpidermalGrowth Factor Receptor:EGFR)は、EGFをリガンドとして結合することが知られている。EGFが細胞表層に存在するEGFRに結合した細胞では、まずEGFR自身の細胞内ドメインであるチロシンキナーゼ活性が刺激され、EGFRの自己リン酸化が起こる。その後、以下に記すようなタンパク質の相互作用(Grb2→SOS→Ras→raf→MEK→MAPK)によるカスケードを経て、細胞増殖という表現型に繋がることが知られている。前記のような情報伝達のカスケードは、通常、最初の刺激から過程が進むにつれて情報伝達に関与する酵素や分子の数が増大することが知られている。例えば前記カスケードにおける情報伝達関連物質のRasタンパク質は細胞膜に局在しており、通常GDP結合型の不活性型で存在している。EGF刺激による情報が伝達されるとRasタンパク質はSOSタンパク質との作用によりGTP結合型となり活性型となる。情報の伝達に伴い活性型Rasが増加するため、結果として細胞表層近傍におけるGTPの存在量が変化することとなる。そのため、リガンドとなるEGF刺激を加える前後の細胞内情報を比較することでGDP及びGTPの存在量変化を検知することで、細胞内情報伝達が起こっていることを確認できる。上記のようにTOF−SIMS分析によって得られる質量情報スペクトルから、情報伝達に関連する物質量の定量を行うことによって、リガンドと受容体の結合による情報伝達を検知することができる。
【0017】
《細胞内変化の検出方法》
TOF−SIMSを用いて外界刺激に応じた細胞内変化及び/または細胞内情報伝達を検出するためには、複数の細胞集団又は/及び単一細胞に対して取得する細胞内に存在する物質の質量情報スペクトルを比較することによって生じる差分を検知する必要がある。細胞への刺激となる外界刺激は細胞の表層に存在する受容体を通して細胞内に伝達されるため、細胞表層近傍の情報伝達関連物質の質量情報スペクトルを観察することが、外界刺激に応じた初期の細胞内変化を検知する上で有効である。それゆえ、試料表面分析が可能なTOF−SIMSによる分析が、細胞表層近傍に存在する物質のイオン化効率向上及び感度向上の点で好ましい。
【0018】
外界刺激に応じた細胞内変化を検出するためには、少なくとも以下の3つの工程を含む。
第一工程: 細胞に外界刺激を与えた後、この細胞内に存在する物質の質量情報スペクトルを取得する工程。
第二工程: 外界刺激を与えない細胞において、第一工程で質量情報スペクトルを取得した物質の質量情報スペクトルを取得する工程。
第三工程: 第一及び第二の工程において取得される質量情報スペクトルを比較し、差分を取ることによって外界刺激による質量情報スペクトルの変化を検出する工程。
第一の工程は、(a)情報を取得したい細胞に外界刺激を与える工程と、(b)外界刺激を与えた細胞の内部に存在する物質の質量情報スペクトルを取得する工程とに分けることができる。(b)の質量スペクトルを取得する工程は、外界刺激を与えた細胞への一次イオン照射により発生する二次イオンから外界刺激を与えた細胞内に存在する物質の質量情報スペクトルを取得する工程である。第二の工程は、外界刺激を与えない細胞への一次イオン照射により発生する二次イオンから外界刺激を与えない細胞内に存在する物質の質量情報スペクトルを取得する工程である。
【0019】
また、上記工程は、細胞内に存在する物質の質量情報スペクトルを取得する工程である第一工程及び第二工程と、取得した質量情報を比較し、差分を取ることにより細胞内変化を検出する工程である第三工程とに分けて考えることができる。
【0020】
<細胞内に存在する物質の質量情報スペクトルの取得>
第一工程は、細胞に外界刺激を与え、細胞内に存在する物質の質量情報スペクトルを取得する工程である。細胞に外界刺激を与える方法としては、例えば、細胞をガラスプレート上に培養しておき、外界刺激が低分子化合物やペプチド等(以下、リガンド等と記載)である場合、培養した細胞上に添加することができる。あるいは、リガンド等を緩衝液に溶解後、培養細胞上に滴下することもできる。このように緩衝液に溶解したリガンド等を滴下することは、細胞の所望の領域を均一にかつ迅速に刺激を加えることが可能となるので好ましい。あるいは、リガンド等を溶解した緩衝液中に培養細胞を懸濁することもでき、細胞表面全体を同時に刺激することが可能となるため好ましい。また、細胞上に存在するリガンド等が結合する所望の受容体において、細胞表層に存在する分子数及び細胞表層に対する占有面積は受容体の種類によって様々である。そのため、細胞表層全体にリガンド等を均一に接触させることが、リガンド等と受容体の反応効率を向上させるためには好ましい。
【0021】
外界刺激が細胞表層に存在する受容体に結合するリガンドである場合、リガンドを細胞に付与しTOF−SIMSを用いた分析を行う前に、リガンド付与細胞を洗浄し、受容体と結合しなかったリガンドや細胞上に非特異的に吸着したリガンドを除くこともできる。このような洗浄工程による余剰のリガンドの除去は、TOF−SIMSで細胞内物質の情報を取得する際のノイズの発生を抑制し、細胞内物質のイオン化に関するシグナルーノイズ比の向上が期待できるため好ましい。
【0022】
一方、TOF−SIMSを用いて細胞内物質の質量情報スペクトルを取得する前に、細胞の凍結工程を導入することもできる。例えば、細胞への外界刺激の効果が最終的な表現型として観察されるのは数秒〜数日のオーダーと様々である。また、表現型を示すために細胞外刺激を細胞内へ伝達するために関わる伝達物質の変化は、伝達物質の種類や、伝達物質が情報伝達経路において役割を担う箇所(経路の上流または下流など)等の順番によっても異なる。また、表現型を示すよりも短時間のうちに変化することが知られ、ミリ秒〜数分のようなオーダーである場合もある。細胞へ刺激が与えられてから数秒〜数分後の細胞内変化を検出したい場合、刺激の付与からTOF−SIMSで情報取得する間にも刻々と細胞内の状態は変化していくことが予想される。そのため所望の時間経過後の細胞状態を検知したい場合、細胞の状態変化をその時間経過後の状態で止める必要がある。つまり、細胞を瞬間的に凍結し、細胞をその時間経過後の状態で維持することが、その時点での細胞内情報を取得するためには好ましい。また、細胞を瞬間的に凍結することは、細胞内に存在する水分をガラス状で凍結させ、結晶成長を抑制することによって細胞内微小器官及び細胞膜の破壊を抑制することができる。細胞内微小器官や細胞膜破壊の抑制は、細胞内構造を維持し、細胞内及び細胞表層に存在する物質の立体的配置が変化することを抑制することができるため、細胞表層近傍の情報を取得することにおいて好ましい。細胞試料の凍結方法としては、液体窒素や液体ヘリウムで冷却した鏡面仕上げの銅ブロックに細胞試料を押し付ける冷却金属圧着凍結法や、加圧凍結、冷媒への浸漬凍結等が利用できる。
【0023】
上記のような方法で、試料細胞を調製し、所望の経過時間後に、細胞内に存在する物質に関する質量情報スペクトルをTOF−SIMSを用いて取得する。外界刺激付与後の経過時間の設定は、細胞が外界刺激の付与によって細胞内変化を引き起こすのに必要十分であり、また外界刺激に応じて変化した細胞内物質の質量情報スペクトルをTOF−SIMSを用いて取得するのに必要十分な時間を経過していれば、特に限定されない。
【0024】
外界刺激に応答した細胞における細胞内情報伝達及び/または細胞内変化を経時的に観察する場合、TOF−SIMSによる分析は破壊分析であるため、同じ細胞または細胞集団に対して連続的にイオン照射を行うことは好ましくない。そのため、細胞内物質の質量情報スペクトルの比較を行う対象数分の、細胞集団または単一細胞を用意することが好ましい。
【0025】
本工程において用いられる細胞は、一回のTOF−SIMSによる分析を行う際の試料とする複数の集団にあらかじめ分けてから、各々独立に同様の外界刺激を与えることができる。細胞を複数の集団にあらかじめ分ける方法としては、培養細胞を培地または緩衝液に懸濁し分取する方法や、セルソーターや顕微鏡観察下において、単一細胞を取得する方法等が考えられるが、これらに限定されない。分離した細胞集団または単一細胞に各々独立に外界刺激を与えることは、外界刺激の付与後、TOF−SIMSにより質量情報スペクトルを取得するまでに、細胞に他の余計な刺激を与えることなく、所望の時間、所望の外界刺激に曝すことが可能となるため好ましい。また、本発明では、細胞が外界刺激を付与されてから、所望の時間経過後にTOF−SIMSによる分析を行う。外界刺激付与後、比較的短時間の時間間隔においてTOF−SIMSによって情報を得たい場合、予め細胞を個々独立の集団として分離しておく方が、細胞の分離工程を経ることによる時間経過を除くことができるため好ましい。
【0026】
一方、一つの集団として存在する細胞に外界刺激を付与後すぐ、または所望の時間経過後に、複数の集団に分けることもできる。この場合、あらかじめ必要十分量の被検対象となる細胞集団を準備しておき、この細胞集団に一度に外界刺激を付与する。外界刺激を付与した後、TOF−SIMS分析によって分析可能な必要十分量の細胞集団を、所望の時間経過後に元の細胞集団から分離することを必要な回数繰り返すことで、外界刺激付与による所望の時間経過後の細胞集団を所望の数だけ得ることが可能となる。この場合、外界刺激付与前の細胞集団は一つの集団であるため、外界刺激を与える操作を一度に行うことが可能となるため、細胞に外界刺激を与える時点の細胞集団の状態を同一にすることが可能となり好ましい。
【0027】
被検対象となる細胞集団または単一細胞は、二次元的に広がりがある。そのため、一次イオン照射位置によっては複数の細胞集団あるいは単一細胞における細胞内質量情報を比較し差分を取る場合に、位置誤差が大きく影響する場合が考えられる。被検対象となる細胞の大きさや数は顕微鏡観察によって測定することができるため、顕微鏡観察によって被検対象となる細胞集団あるいは単一細胞が有する分析可能な表面積を計算することが可能である。TOF−SIMSにおける一次イオンの細胞表面二次元方向への照射範囲は一次イオン種や照射エネルギーによって制御することが可能である。被検対象となる細胞集団あるいは単一細胞の表面積に合わせて一次イオン照射範囲を制御し走査することによって、細胞集団あるいは単一細胞の全表面近傍にある細胞内物質の積算された質量情報スペクトルを得ることができる。比較したい複数の細胞集団あるいは単一細胞の数を合わせ、これらが有する全表面近傍の積算された質量情報スペクトルを取得し、比較し差分を取ることは、細胞集団あるいは単一細胞上の位置による質量情報スペクトルの違いの影響を抑制できるため好ましい。
【0028】
また、TOF−SIMSは試料表面に照射される一次イオンの種類や、一次イオンの照射エネルギーを選択することによって、一次イオンが、照射される試料内部への到達深度を制御することが可能である。そのため、二次イオンとして発生する物質の試料表面から試料内部方向への距離を制御することが可能である。TOF−SIMSの一次イオンに用いられるイオンビームの種類にはガリウムイオンやビスマスイオンのような単原子イオンから、Au3+のようなクラスターイオン等様々な種類が知られている。これらのイオンビームでは、一般に、粒子径が小さいほど、試料表面からより内部まで侵入することが知られている。例えば、2つの細胞集団に対して外界刺激を付与し、同程度の時間が経過した後の2つの細胞集団に関して、一方の細胞集団に対しては粒子系の小さいイオンビームを用いてTOF−SIMS分析を行い、細胞集団の細胞内質量情報スペクトルを取得する。他方の細胞集団に対しては、粒子系の大きいイオンビームを用いてTOF−SIMS分析を行い、細胞集団の細胞内質量情報スペクトルを取得する。同様の外界刺激を与えた2つの細胞集団に対し、イオンビーム径の異なるTOF−SIMSにより得られた質量情報スペクトルを比較し、差分を取る方法は、イオンビームの到達深度の差に起因する細胞表層からの所望の深度での物質の質量情報取得に好適である。例えば、細胞内深部の特定の領域に関する情報は、外界刺激に応じた細胞内変化または情報伝達が、所望の経過時間後において細胞内に伝達される様子や、情報伝達関連物質の細胞内部における局在に関する情報を取得することが出来る可能性があり好ましい。
【0029】
第二工程は、外界刺激を与えない細胞において、TOF−SIMSを用いて細胞内に存在する物質の質量情報スペクトルを取得する工程である。外界刺激を与えないことを除いて、第一の工程で使用する細胞と同等の細胞を用いる。また、第二工程において質量情報スペクトルを取得する物質の分子量の範囲は、第一工程において質量情報スペクトルを取得する当該範囲を少なくとも含んでいる。それにより、第二工程は、第一工程で情報を取得しようとする物質を少なくとも検出することができる。第二工程におけるTOF−SIMSの条件は、第三工程で外界刺激の有無による違いのみを比較するために、通常、第一工程における条件と同一にして行う。
【0030】
なお、第一及び第二工程による細胞内質量情報スペクトルの取得に関しては、特に順番は限定されず、第一工程、第二工程の順番でもその逆であっても構わない。
【0031】
<質量情報スペクトルの比較>
第三工程は、第一工程及び第二工程において取得される質量情報スペクトルを比較し、差分を取ることによって外界刺激による質量情報スペクトルの変化を検出し、外界刺激に応答した細胞の変化を検知する工程である。この工程によって、所望の細胞内物質の質量情報スペクトルが外界刺激の有無や、外界刺激付与後の経過時間に応じて示す変化を検知することができ、細胞内変化及び細胞内情報伝達に関する情報を取得することができる。
【0032】
第一工程及び第二工程で取得される複数の質量情報スペクトルを比較し差分を取る方法としては、質量情報スペクトル中に特定のピークとして表現される特定の質量情報を有する物質について物質の存在量変化あるいは質量変化を検知する方法が挙げられる。この場合、例えば、外界刺激に応じて存在量または質量が変化する物質を予め選択しておき、この物質にのみ注目するため、TOF−SIMSによる一次照射における条件を、選択された物質がイオン化しやすいように設定することができる利点があり好ましい。上記のように注目する物質は、細胞への外界刺激の有無や経過時間による細胞内変化が観察される限りにおいては、物質の種類や、数、量等は特に限定されない。このような物質の例としては、外界刺激を与えることによって細胞内に存在する量が経時的または/及び一過的に変化する物質や、所望の低分子の修飾、または分解による質量変化が生じる物質が挙げられる。具体的には、Gタンパク質の活性化、不活性化を制御するグアノシンニリン酸やグアノシン三リン酸が挙げられる。あるいは、セカンドメッセンジャーと呼ばれる物質、セカンドメッセンジャーを産生するための基質材料等が挙げられる。具体的には、アデノシン三リン酸やサイクリックアデノシン一リン酸、またはホスファチジルイノシトール、ホスファチジルイノシトール三リン酸、イノシトール三リン酸、ジアシルグリセロール等が挙げられる。本発明における細胞内変化を検出する物質としては、これらのポリリン酸ヌクレオチドや、脂質、リン脂質類は比較的低分子のものが多く、TOF−SIMSにおけるイオン化効率が高いため好ましい。
【0033】
また、上記のように単一の分子における変化を検知することもできるが、2以上の複数の分子について前記分子の存在量や存在量比または/及び質量の変化を検知することもできる。例えば、外界刺激に応じて活性化される酵素の作用により分解される物質(基質)と、基質の分解によって生じる物質(反応物)に着目すると、基質量の減少及び反応物量の増加の関連性が確認でき、より詳細な細胞内変化の情報を取得できるので好ましい。複数の物質の存在量変化及び/または質量変化を検知する場合、上記のような基質と反応物のような関連のある物質同士でもよいが、各々独立の複数の物質に関する情報から細胞内変化を検知することも可能である。
【0034】
一方、TOF−SIMS分析による質量情報スペクトルに含まれる単一または複数の特定の物質の存在量変化または/及び質量変化を検知する方法のほかにも次の方法がある。すなわち、質量情報スペクトル全体に対し、アルゴリズム解析を施すことにより、外界刺激を細胞に賦与する前後の質量情報スペクトル間における差分を検出することによって細胞内変化を検知することもできる。全スペクトル情報に関するアルゴリズム解析から複数の質量情報スペクトル間の差分を検知する場合、例えば、外界刺激を細胞に与えた場合に生じ得る、想像しない物質における存在量変化又は/及び質量情報変化を検知する可能性がある。このような手法の場合、TOF−SIMSで取得できる細胞表層近傍に存在する物質全体に関する質量情報を網羅的に解析することになるため、総合的な細胞の変化を検知することができるため好ましい。また、外界刺激によって予期しない細胞内物質の存在量または分子量変化が起こった場合でも検知することが可能となるため、未知の(新規な)情報伝達系や情報伝達に関わる物質についての知見を得る可能性があり好ましい。
【0035】
上記のように、細胞に対して外界刺激を付与した場合において、所望の経過時間における細胞内物質の質量情報スペクトルを比較し差分を取ることで、外界刺激に応じた細胞内情報伝達及び/または細胞内変化の経時的な情報を取得することができる。
【0036】
細胞への外界刺激によって引き起こされる細胞内情報伝達、細胞内状態変化の一例を挙げる。例えば、EGFが細胞表層に存在する受容体であるEGFRに結合することにより、EGFRの細胞内ドメインであるチロシンキナーゼ部位が自己リン酸化することによって、細胞内情報伝達が起こることが知られている。EGFとEGFRの結合による情報伝達の経路はよく研究されており、様々なタンパク質が関わることで情報を伝達し、細胞増殖を促す。EGF刺激による代表的な情報伝達経路として、EGF→EGFR→Grb2→SOS→Ras→Raf→MEK→MAPK→細胞増殖というものが知られている。
【0037】
例えば、EGFRを細胞表層に有する細胞にEGFを接触させることによって生じる前記EGFRの細胞内ドメインであるチロシンキナーゼの自己リン酸化の活性化は、数秒〜数分のオーダーで維持される。そのため、EGF刺激を加えてから数分以内のうちに、EGF刺激付与細胞における細胞内物質の質量情報スペクトルをTOF−SIMSを用いて取得することにより、EGF添加前後においてGDP及びGTPの存在量の変化を確認することができる。また、前記カスケードにおける情報伝達関連物質のRasタンパク質は細胞膜に局在しており、通常GDP結合型の不活性型で存在している。EGF刺激による情報が伝達されるとRasタンパク質はSOSタンパク質との作用によりGTP結合型となり活性型となる。このRasタンパク質の活性化はEGF添加後の数分〜十数分で活性が増大することが知られており、情報の伝達に伴い活性型Rasが増加するため、結果として細胞表層近傍におけるGDPまたは/及びGTPの存在量が変化する。
【0038】
EGFRを細胞表層に生産している細胞に関して、細胞集団を2つの細胞集団に分け、アゴニストとなるEGF刺激を加える一方の細胞集団と、EGF刺激を加えない細胞集団とを用意する。EGF刺激を与えた細胞集団に関して、所望の時間経過後に細胞内物質の質量情報スペクトルをTOF−SIMSを用いて取得する。一方、EGF刺激を与えない細胞集団に関しても、EGF刺激後の細胞集団と同様に細胞内物質の質量情報スペクトルを取得する。上記のようにして、同様の細胞集団に対してEGF刺激の有無における細胞内質量情報を各々得ることができる。このようにして得られる2つの質量情報スペクトルを比較し、差分を取ることで、GDP及びGTPの存在量を示すピークの変化を検知することができる。上記のようにTOF−SIMS分析によって得られる質量情報スペクトルから、情報伝達に関連する物質量の定量を行うことによって、リガンドと受容体の結合による情報伝達を検知することができる。
【0039】
《イオン化促進物質》
本発明における受容体と相互作用する物質を二次イオンの発生効率を向上させる材料によって標識することにより、高い検出感度でTOF−SIMS分析を行うことができる。そのような材料としてイオン化促進物質を好適に用いることができる。本発明において、二次イオン化効率を向上させるために使用されるイオン化促進物質は、イオン化を促進する効果を有する物質であれば限定されるものではないが、金属を含む物質が好ましい。この金属としては、金(Au)、銀(Ag)、白金(Pt)等の遷移金属やビスマス(Bi)等の典型金属を挙げることができ、金(Au)及び銀(Ag)が好ましく、これらのうち少なくとも1種を含む物質をイオン化促進物質として好適に用いることができる。
【0040】
《リガンドの標識方法》
本発明におけるリガンドへのイオン化促進物質の標識方法としては、細胞への刺激として用いられるリガンド及びイオン化促進物質の種類に応じて適宜選択することができ、リガンドの受容体への結合能を阻害しない限りにおいては特に限定されない。例えば、リガンドへの物理吸着や、イオン化促進物質に化学的な修飾を施すことによりリガンドへ標識することができる。例えば、リガンドがペプチドである場合、ペプチドの末端にチオール基を付加しておくことでイオン化促進物質として金コロイドを物理的に吸着させることができる。また、金コロイド表面にカルボキシ基を付加しておくことで、ペプチドやタンパク質様のリガンドに対して、ペプチドやタンパク質が持つアミノ基と当該業者既知の方法で共有結合的に付加させることができる。共有結合的な付加の場合、リガンドとイオン化促進物質が解離しないため、イオン化促進物質をリガンドが結合した受容体近傍に保持する上で好ましく、受容体近傍に存在する物質のイオン化を選択的に促進することが期待できる。
【0041】
また、ペプチド性リガンドを用いる場合、イオン化促進物質の標識方法としては、イオン化促進物質を構成する材料に対する親和性材料をペプチド性リガンドに融合することによって、リガンドの部位特異的に標識をすることができる。このような材料親和性ペプチドの例としては、金結合性ペプチドや銀結合性ペプチドなどが知られている(Mehmet Sarikaya, Candan Tamerler, Alex K.-Y.Jin, Klaus Schulten, Francois Baneyx: Molecular biomimetics: nanotechnology through biology. Nature materials 2: 577-585, 2003)。これらの材料親和性ペプチドをイオン化促進物質の材料に合わせて適宜選択することができる。また、材料親和性ペプチドとしては抗体断片を用いることもでき、例えば、金結合性抗体断片(特開2005−312446号公報を参照)をペプチド性リガンドに融合することで、部位特異的に金を標識することもできる。上記のような材料親和性ペプチドもしくは抗体断片をリガンドに融合することによって、イオン化促進物質をリガンドと融合する材料親和性ペプチドもしくは抗体断片の領域に選択的に標識することができる。これにより、リガンドの受容体認識(被認識)部位にイオン化促進物質が結合することによるリガンドと受容体の結合阻害の可能性を抑制することができる。
【0042】
TOF−SIMS分析を行う細胞の外界刺激としてイオン化促進物質を標識したリガンドを用いることによって、イオン化促進物質標識済みリガンドが結合した細胞において、リガンドが結合した受容体近傍の物質のイオン化を選択的に促進することが可能となる。それにより、TOF−SIMSを用いて細胞表層の質量情報スペクトルを取得する際のシグナル−ノイズ比を向上させることができる。
【0043】
また、イオン化促進物質近傍の物質のイオン化を促進するため、細胞表層における二次元的な空間分解能の高い情報を取得することが可能となる。
【実施例】
【0044】
以下、実施例を用いて更に詳細に本発明を説明するが、本発明は、これらの実施例に限定されるものではなく、材料、組成条件、反応条件等、同様な効果を得られる範囲で自由に変えることができる。
【0045】
(実施例1) EGFでの細胞刺激
(1−1)細胞培養
アフリカミドリザル腎臓由来のCOS−7(大日本住友製薬)を10%FBS(Fetal Bovine Serum)、グルタミン酸を含むDMEM(Dulbecco’s modified eagle’s medium)培地を用いて、37℃、5%CO2インキュベーターで培養する。
【0046】
(1−2)リガンド付与
(1−1)で得られるCOS−7をDMEM培地で洗浄し血清を除いた後、新たなDMEM培地を加え、COS−7を洗浄する。洗浄済みCOS−7に、EGF(Epidermal Growth Factor:コスモバイオ)を50ng/mlとなるように添加した新たなDMEM培地を添加する。
【0047】
(1−3)凍結
(1−2)で調製するEGF添加COS−7をEGF添加後1分後に上清を除去し、細胞を加圧凍結装置 HPM010(BAL−TEC社製)を用いて急速凍結する。
【0048】
(1−4)TOF−SIMS分析
生体組織の試料表面に存在している成分を、TOF−SIMSによって、イメージング測定を行う際、本実施態様において利用可能なTOF−SIMS分析条件の一例を以下に示す。なお、測定領域の範囲は、試料自体のサイズ、検出対象の想定される分布状態(局在部位など)を考慮の上、適宜変更することができる。
<一次イオン>
一次イオン:25keV Bi3+、0.1pA(パルス電流値)、ランダムスキャンモード
一次イオンのパルス周波数:2.5kHz(400μs/shot)
一次イオン・パルス幅:1ns(Duty比 1/100,000)
一次イオン・ビーム径:約1μm
電子線照射: パルス電流量 10μA
<二次イオン>
二次イオン検出モード:negative 二次イオン引き出し電圧:2kV
測定領域:50μm×50μm
二次イオンimageのpixel数:128×128
積算回数:256
ホルダ温度:−140℃
上記の測定条件では、二次元イメージングにおける空間分解能は、1μmに相当する。
【0049】
上記の条件で、(1−3)で調製する凍結済みCOS−7細胞をスライドガラスの平面に貼り付け、細胞内物質の質量情報スペクトルを取得する。
【0050】
(1−5)対照実験
(1−2)でEGFを添加する作業を省き、EGF未添加状態のCOS−7培養細胞を取得する。上記のように取得する培養細胞を(1−3)(1−4)と同様の作業を行うことによって細胞内物質の質量情報スペクトルを取得する。
【0051】
(1−6)取得情報の比較
(1−4)で取得されるEGF添加済みCOS−7細胞の細胞内物質の質量情報スペクトルと、(1−5)で取得されるEGF未添加COS−7細胞の細胞内物質の質量情報スペクトルとを比較し、両質量情報スペクトルの差分を取る。この結果から、グアノシン二リン酸(GDP)のピークを示す分子量約443のピークと、グアノシン三リン酸(GTP)のピークを示す分子量約523のピークに関して両スペクトルにおける検出量が変化することが確認できる。このことから、細胞表層近傍においてGDP、GTPの存在量が変化していることが確認できる。この変化は、EGF添加により生じるEGFRの細胞内ドメインであるチロシンキナーゼの自己リン酸化から開始される情報伝達カスケードのうち、Rasタンパク質がGDP結合型からGTP結合型になることにより生じる。つまり、細胞表層に存在するRasタンパク質にGTPが結合することによって細胞表層近傍のGDP又は/及びGTPの存在量が変化することを示している。このようにEGF刺激によってEGFR細胞内ドメインのチロシンキナーゼが活性化され情報伝達が開始されることを確認できる。上記のような結果から、EGF添加前後の細胞表層近傍の情報をTOF−SIMSで取得することにより細胞内情報伝達に関する情報を取得することができる。
【0052】
(実施例2)イオン化促進
(2−1)融合ポリペプチドの生産工程
以下の(a)〜(c)で構成される融合ポリペプチド(遺伝子配列及びアミノ酸配列はそれぞれ配列番号7及び8に記載)の発現ベクターをpGEX−6P−1(Amersham Biosciences製)ベクターをもとに構築する。
(a)EGF(遺伝子配列及びアミノ酸配列はそれぞれ配列番号1及び2に記載)。
(b)リンカー(遺伝子配列及びアミノ酸配列はそれぞれ配列番号3及び4に記載)。
(c)金結合性ペプチドの7回繰り返し配列(遺伝子配列及びアミノ酸配列はそれぞれ配列番号5及び6に記載)。
上記ポリペプチドをコードする遺伝子は、遺伝子断片を取得する際によく行われるオーバーラップPCRにより取得する。取得される増幅遺伝子断片の5’末端にはBamHI、3’末端にはEcoRIの制限酵素サイトを付加しておき、pGEX−6P−1ベクターのフレームと合うように増幅遺伝子断片を導入する。その後、DNAシーケンサーにて配列を確認する。
【0053】
上記のように構築されるポリペプチド発現ベクターにて大腸菌Escherichia coli BL21を形質転換する。16時間インキュベーションを行った後、培養プレートからシングルコロニーをつつき取り、3mlの2×YT培地に植菌して、37℃で振とう培養(前培養)を行う。2×YT培地組成は16wt%トリプトン、10wt%イーストエクストラクト、5wt%塩化ナトリウムからなり、使用時に終濃度100μg/mlとなるようにアンピシリンを添加して用いる。12時間後、その培養物の3mlを250mlの2×YT培地(終濃度100μg/mlのアンピシリンを含む)に加え、28℃で振とう培養を行う。培養液の吸光度OD600が0.8に達したところで、培養液に終濃度1mMとなるようにIPTG(イソプロピル−β−D−ガラクトピラノシド)を添加してポリペプチドの生産を誘導し、12時間培養する。
【0054】
(2―2)融合ポリペプチドの精製工程
IPTG誘導した大腸菌を集菌(8,000×g,2分、4℃)し、1/10量の4℃リン酸緩衝生理食塩水((PBS)NaCl;8g、Na2HPO4;1.44g、KH2PO4;0.24g、KCl;0.2g、精製水;1000ml)に再懸濁する。凍結融解およびソニケーションにより菌体を破砕し、遠心(8,000×g、10分、4℃)して固形夾雑物を取り除く。誘導され発現されたGST融合ポリペプチドをグルタチオン・セファロース4B(アマシャムバイオサイエンス(株)製)で業者推奨の方法にて精製する。使用するグルタチオン・セファロースは、予め非特異的吸着を抑える処理を行う。すなわち、グルタチオン・セファロースを同量のPBSで3回洗浄(8,000×g、1分、4℃)した後、4%ウシ血清アルブミン含有PBSを同量加えて、4℃で1時間処理する。処理後、同量のPBSで2回洗浄し、1/2量のPBSに再懸濁する。前処理したグルタチオン・セファロース 40μlを、無細胞抽出液1mlに添加し、4℃で静かに攪拌する。前記の手順で、GST融合ポリペプチドをグルタチオン・セファロースに吸着させる。吸着後、遠心(8,000×g、1分、4℃)してグルタチオン・セファロースを回収し、400μlのPBSで3回洗浄する。その後、10 mMグルタチオン40μlを添加し、4℃で1時間攪拌して、吸着した融合ポリペプチドを溶出する。遠心(8,000×g、2分、4℃)して上清を回収した後、PBSに対して透析しグルタチオンを除去し、GST融合ポリペプチドを精製する。SDS−PAGEにより、GST融合ポリペプチドのバンドを確認する。
【0055】
GST融合ポリペプチドをPreScissionプロテアーゼ(アマシャム・ファルマシア・バイオテク(株)製、5U)を用いて業者推奨の方法にて消化する。消化後、グルタチオン・セファロースに通してプロテアーゼとGSTとを除去後、SDS−PAGEにより17kDaのバンドの確認を行う。
【0056】
(2−3)融合ポリペプチドへの金コロイドの付加
金コロイド(粒径 40nm)を9×1010/mL濃度となるよう50mM KH2PO4バッファー(pH8.0)に懸濁する。金コロイド溶液1mlに、(2−2)で精製される融合タンパク質を6μg添加し、室温で30分ゆっくりと振とうしながらインキュベートし、金コロイド上に融合タンパク質を固定化する。続いて、10%ウシ血清アルブミンを加え、ブロッキングをした後、未反応の融合タンパク質及びウシ血清アルブミンを除くため遠心分離する。上清を除去し、50mM KH2PO4バッファーで再懸濁し、金コロイド標識融合ポリペプチドを得る。
【0057】
(2−4)細胞培養
アフリカミドリザル腎臓由来のCOS−7(大日本住友製薬)を10%FBS、グルタミン酸を含むDMEM培地を用いて、37℃、5%CO2インキュベーターで培養する。
(2−5)リガンド付与
(2−4)で得られるCOS−7をDMEM培地で洗浄し血清を除いた後、新たなDMEM培地を加え、COS−7を洗浄する。洗浄済みCOS−7に(2−3)で作成する金コロイド標識融合ポリペプチド溶液を添加する。
(2−6)凍結
(2−5)で調製する金コロイド標識融合ポリペプチド添加COS−7を、金コロイド標識融合ポリペプチド溶液添加1分後に上清を除去し、さらに50mM KH2PO4バッファーで洗浄し、未反応の金コロイド標識融合ポリペプチドを除く。その後、COS−7を加圧凍結装置 HPM010(BAL−TEC社製)を用いて急速凍結する。
(2−7)TOF−SIMSでの情報取得
実施例1の(1−4)で用いるCOS−7を、(2−6)で調製するCOS−7を用いること以外は、(1−4)と同様にしてCOS−7細胞の細胞内物質の質量情報スペクトルを取得する。
EGF添加により刺激されたCOS−7の細胞内物質に関する質量情報スペクトルについて、次の(A)及び(B)の2つのEGFを添加したもので比較し、両スペクトルの差分を取る。
(A)実施例1の(1−4)において得られる金コロイド非標識のEGF。
(B)本工程(2−7)で得られる金コロイド標識融合ポリペプチド。
その結果、金コロイド標識融合ポリペプチドを用いた当該質量情報スペクトルの方が、GDPのピークである分子量約443のピークと、GTPのピークである分子量約523のピークが増幅して検出されることが確認できる。また、質量情報スペクトルから確認されるGDPとGTPの存在量比は、(1−4)で取得される金コロイド非標識のEGF添加により刺激されたCOS−7の細胞内物質に関する当該存在量比とほぼ同程度であることも確認される。このことから、外界刺激となるリガンドへの金コロイドの修飾により、リガンドが結合する細胞表層に存在する受容体近傍の細胞内物質のイオン化を促進し、検出感度を向上することが確認できる。
【0058】
(実施例3) カルバコールでのHEK細胞刺激
(3−1)HEK細胞培養
HEK細胞(インビトロジェン)を10%FBS、グルタミン酸を含むDMEM培地を用いて、37℃、5%CO2インキュベーターで培養する。
【0059】
(3−2)リガンド付与
(1−1)で得られるHEK細胞をDMEM培地で洗浄し血清を除いた後、新たなDMEM培地を加え、HEK細胞を洗浄する。洗浄済みHEK細胞に、カルバコール(コスモバイオ)を30μMとなるように添加する。
【0060】
(3−3)凍結
(3−2)で調製するカルバコール添加HEK細胞をカルバコール添加、1分後に上清を除去し、細胞を加圧凍結装置 HPM010(BAL-TEC社製)を用いて急速凍結する。
【0061】
(3−4)TOF−SIMS分析
生体組織の試料表面に存在している成分を、TOF−SIMSによって、イメージング測定を行う際、本実施態様において利用可能なTOF−SIMS分析条件の一例を以下に示す。なお、測定領域の範囲は、試料自体のサイズ、また、検出対象の想定される分布状態(局在部位など)を考慮の上、適宜変更することができる。
<一次イオン>
一次イオン:25keV Ga+、0.1pA(パルス電流値)、ランダムスキャンモード
一次イオンのパルス周波数:10kHz(100μs/shot)
一次イオン・パルス幅:1ns(Duty比 1/100,000)
一次イオン・ビーム径:約0.5μm
電子線照射: パルス電流量 10μA; パルス幅 96μs
<二次イオン>
二次イオン検出モード:negative 二次イオン引き出し電圧:2kV
測定領域:50μm×50μm
二次イオンimageのpixel数:128×128
積算回数:256
ホルダ温度: 0℃
上記の測定条件では、二次元イメージングにおける空間分解能は、1μmに相当する。
【0062】
上記の条件で、(3−3)で調製する凍結済みHEK細胞をスライドガラスの平面に貼り付け、細胞内物質の質量情報スペクトルを取得する。
【0063】
(3−5)対照実験
(3−2)でカルバコールを添加する作業を省き、カルバコール未添加状態のHEK培養細胞を取得する。上記のように取得する培養細胞を(3−3)(3−4)と同様の作業を行うことによって細胞内物質の質量情報スペクトルを取得する。
【0064】
(3−6)取得情報の比較
(3−4)で取得されるカルバコール添加済みHEK細胞の細胞内物質の質量情報スペクトルと、(3−5)で取得されるカルバコール未添加HEK細胞の細胞内物質の質量情報スペクトルとを比較し、両質量情報スペクトルの差分を取る。そうすると、グアノシン二リン酸(GDP)のピークを示す分子量約443のピークと、グアノシン三リン酸(GTP)のピークを示す分子量約523のピークに関して両スペクトルにおける検出量が変化することが確認できる。このことから、細胞表層近傍においてGDP、GTPの存在量が変化していることが確認できる。この変化は、カルバコールがHEK細胞の細胞表層に存在するムスカリン酸受容体に結合することによって、細胞内のムスカリン酸受容体近傍に存在する三量体Gタンパク質のαサブユニットがGTP結合型となり活性化されることにより生じる。つまり、カルバコール刺激によって三量体Gタンパク質のαサブユニットがGTP結合型となったために、細胞表層近傍に存在するGDP又は/及びGTPの存在量が変化することを示している。このようにカルバコール刺激によってムスカリン酸受容体の細胞内ドメイン近傍に存在するGタンパク質のαサブユニットが活性化され情報伝達が開始されることを確認できる。上記のような結果から、カルバコール添加前後の細胞表層近傍の情報をTOF−SIMSで取得することにより細胞内情報伝達に関する情報を取得することができる。
【0065】
(実施例4) カルバコールでのHEK細胞刺激の経時変化
(4−1)HEK細胞培養
HEK細胞を10%FBS、グルタミン酸を含むDMEM培地を用いて、37℃、5%CO2インキュベーターで培養する。
【0066】
(4−2)リガンド付与
(4−1)で得られるHEK細胞をDMEM培地で洗浄し血清を除いた後、新たなDMEM培地を加える。ここにカルバコールを30μMとなるように添加する。
【0067】
(4−3)凍結
(4−2)で調製するカルバコール添加HEK細胞をカルバコール添加、0.5分後、1分後、3分後、5分後、10分後に上清を除去する。その後、細胞を加圧凍結装置 HPM010(BAL-TEC社製)を用いて急速凍結する。
【0068】
(4−4)TOF−SIMS分析
生体組織の試料表面に存在している成分を、TOF−SIMSによって、イメージング測定を行う際、本実施態様において利用可能なTOF−SIMS分析条件の一例を以下に示す。なお、測定領域の範囲は、試料自体のサイズ、また、検出対象の想定される分布状態(局在部位など)を考慮の上、適宜変更することができる。
<一次イオン>
一次イオン:25keV Ga+、0.1pA(パルス電流値)、ランダムスキャンモード
一次イオンのパルス周波数:10kHz(100μs/shot)
一次イオン・パルス幅:1ns(Duty比 1/100,000)
一次イオン・ビーム径:約0.5μm
電子線照射: パルス電流量 10μA; パルス幅 96μs
<二次イオン>
二次イオン検出モード:negative 二次イオン引き出し電圧:2kV
測定領域:50μm×50μm
二次イオンimageのpixel数:128×128
積算回数:256
ホルダ温度: 0℃
上記の測定条件では、二次元イメージングにおける空間分解能は、1μmに相当する。
【0069】
上記の条件で、(4−3)で調製するカルバコールに対する接触時間の異なる凍結済みHEK細胞をスライドガラスの平面に各々貼り付け、細胞内物質の質量情報スペクトルを取得する。
【0070】
(4−5)対照実験
(4−2)でカルバコールを添加する作業を省き、カルバコール未添加状態のHEK培養細胞を取得する。上記のように取得する培養細胞を(4−3)(4−4)と同様の作業を行うことによって細胞内物質の質量情報スペクトルを取得する。
【0071】
(4−6)取得情報の比較
(4−4)(4−5)で取得されるカルバコールへの接触時間が各々0分、0.5分、1分、3分、5分、10分のHEK細胞の細胞内物質の質量情報スペクトルをそれぞれ比較する。当該質量情報スペクトルから観察される分子量約443のGDPを示すピークと分子量約523のGTPを示すピークの比が、カルバコール接触時間0分で得られるものよりカルバコール刺激から0.5分、1分と時間が経過するにつれて変化することが確認できる。また、3分、5分、10分間のカルバコールと接触させたHEK細胞の質量情報スペクトルを比較し差分を取ると、分子量約426のイノシトール三リン酸のピークが時間経過に伴って増大していくことが確認される。これは次のような情報伝達過程が働いていることを示している。まず、カルバコールがHEK細胞の細胞表層に存在するムスカリン酸受容体に結合することによって、細胞内のムスカリン酸受容体近傍に存在する三量体Gタンパク質のαサブユニットがGTP結合型となり活性化される。続いて、活性型αサブユニットによって活性化されるエフェクター分子の働きによって、セカンドメッセンジャーであるイノシトール三リン酸が産生される。つまり、カルバコール刺激によってセカンドメッセンジャーであるイノシトール三リン酸の細胞表層近傍における存在量が変化することを示している。このようにカルバコール刺激によってムスカリン酸受容体の細胞内ドメイン近傍に存在するGタンパク質のαサブユニットが活性化され情報伝達が開始されることを確認及び、セカンドメッセンジャーであるイノシトール3リン酸の検出を行うことができる。上記のような結果から、カルバコール添加前後の細胞表層近傍の情報をTOF−SIMSで取得することにより細胞内情報伝達に関する情報を取得することができる。
【0072】
(実施例5)CHO細胞のATP刺激
(5−1)CHO細胞培養
Chinese Hamster Ovary(CHO: 大日本住友製薬)を10%FBS、グルタミン酸を含むDMEM培地を用いて、37℃、5%CO2インキュベーターで培養する。
【0073】
(5−2)CHO細胞内情報の取得
実施例4におけるカルバコールをATP(タカラバイオ)に、HEK細胞をCHO細胞に変更する以外は実施例4と同様にして実験を行う。ATPへの接触時間が各々0分、0.5分、1分、3分、5分、10分のCHO細胞の細胞内物質の質量情報スペクトルをそれぞれ比較する。その結果、当該質量情報スペクトルから観察される分子量約443のGDPを示すピークと分子量約523のGTPを示すピークの比が、ATP接触時間0分で得られるものより、ATP刺激から0.5分、1分と時間が経過するにつれて変化することが確認できる。
【0074】
また、3分、5分、10分間のATPと接触させたCHO細胞の質量情報スペクトルを比較し差分を取ると、分子量約426のイノシトール三リン酸のピークが時間経過に伴って増大していくことが確認される。これは、次のような情報伝達過程が働いていることを示している。まず、ATPがCHO細胞の細胞表層に存在するプリン受容体に結合することによって、細胞内のプリン受容体近傍に存在する三量体Gタンパク質のαサブユニットがGTP結合型となり活性化される。続いて、活性型αサブユニットによって活性化されるエフェクター分子の働きによって、セカンドメッセンジャーであるイノシトール三リン酸が産生される。つまり、ATP刺激によってセカンドメッセンジャーであるイノシトール三リン酸の細胞表層近傍における存在量が変化することを示している。このようにATP刺激によってプリン受容体の細胞内ドメイン近傍に存在するGタンパク質のαサブユニットが活性化され情報伝達が開始されることを確認及び、セカンドメッセンジャーであるイノシトール3リン酸の検出を行うことができる。上記のような結果から、ATP添加前後の細胞表層近傍の情報をTOF−SIMSで取得することにより細胞内情報伝達に関する情報を取得することができる。
【0075】
(実施例6)DT40細胞のM4刺激
(6−1)DT40細胞培養
ニワトリB細胞DT40(RIKEN Cell Bank)を10%FBS、グルタミン酸を含むRPMI 1640培地(コスモバイオ)を用いて、37℃、5%CO2インキュベーターで培養する。培養後1000rpmで5分間遠心し、細胞を回収する。
【0076】
(6−2)リガンド付与
(6−1)で得られるDT40をRPMI 1640培地で洗浄し血清を除いた後、新たなRPMI 1640培地を加えて再懸濁する。再懸濁されたDT40溶液を6本の遠沈管に分注し、1000rpmで5分間遠心し、細胞を回収する。回収したDT40にM4を30μMとなるよう調整したRPMI 1640培地を添加する。
【0077】
(6−3)凍結
(6−2)で調製するM4添加DT40をM4添加、0.5分後、1分後、3分後、5分後、10分後にポアサイズ0.45μmフィルターを用いてろ過し、上清を除去する。その後、細胞を加圧凍結装置 HPM010(BAL-TEC社製)を用いて急速凍結する。
【0078】
(6−4)TOF−SIMS分析
生体組織の試料表面に存在している成分を、TOF−SIMSによって、イメージング測定を行う際、本実施態様において利用可能なTOF−SIMS分析条件の一例を以下に示す。なお、測定領域の範囲は、試料自体のサイズ、また、検出対象の想定される分布状態(局在部位など)を考慮の上、適宜変更することができる。
<一次イオン>
一次イオン:25keV Ga+、0.1pA(パルス電流値)、ランダムスキャンモード
一次イオンのパルス周波数:10kHz(100μs/shot)
一次イオン・パルス幅:1ns(Duty比 1/100,000)
一次イオン・ビーム径:約0.5μm
電子線照射: パルス電流量 10μA; パルス幅 96μs
<二次イオン>
二次イオン検出モード:negative
二次イオン引き出し電圧:2kV
測定領域:50μm×50μm
二次イオンimageのpixel数:128×128
積算回数:256
ホルダ温度: 0℃
上記の測定条件では、二次元イメージングにおける空間分解能は、1μmに相当する。
【0079】
上記の条件で、(6−3)で調製するカルバコールに対する接触時間の異なる凍結済みDT40をスライドガラスの平面に各々貼り付け、細胞内物質の質量情報スペクトルを取得する。
(6−5)対照実験
(6−2)でM4を添加する作業を省き、M4未添加状態のDT40細胞を取得する。上記のように取得する培養細胞を(6−3)(6−4)と同様の作業を行うことによって細胞内物質の質量情報スペクトルを取得する。
【0080】
(6−6)DT40細胞内情報の取得
M4への接触時間が各々0分、0.5分、1分、3分、5分、10分のDT40細胞の細胞内物質の質量情報スペクトルをそれぞれ比較する。そうすると、当該質量情報スペクトルから観察される分子量約443のGDPを示すピークと分子量約523のGTPを示すピークの比が、M4接触時間0分で得られるものより、M4刺激から0.5分、1分と時間が経過するにつれて変化することが確認できる。また、3分、5分、10分間のM4と接触させたDT40細胞の質量情報スペクトルを比較し差分を取ると、分子量約426のイノシトール三リン酸のピークが時間経過に伴って増大していくことが確認される。これは、次のような情報伝達経路が働いていることを示している。まず、M4がDT40細胞の細胞表層に存在するプリン受容体に結合することによって、細胞内のB細胞抗原受容体近傍に存在する三量体Gタンパク質のαサブユニットがGTP結合型となり活性化される。続いて、活性型αサブユニットによって活性化されるエフェクター分子の働きによって、セカンドメッセンジャーであるイノシトール三リン酸が産生される。つまり、M4刺激によってセカンドメッセンジャーであるイノシトール三リン酸の細胞表層近傍における存在量が変化することを示している。このようにM4刺激によってB細胞抗原受容体の細胞内ドメイン近傍に存在するGタンパク質のαサブユニットが活性化され情報伝達が開始されることを確認及び、セカンドメッセンジャーであるイノシトール3リン酸の検出を行うことができる。上記のような結果から、M4添加前後の細胞表層近傍の情報をTOF−SIMSで取得することにより細胞内情報伝達に関する情報を取得することができる。

【特許請求の範囲】
【請求項1】
細胞表層に存在する受容体が受容する外界刺激に応答した細胞内の情報を取得するための二次イオン質量分析法であって、少なくとも、
(1)細胞に前記外界刺激を与えた後、該細胞内に存在する物質の質量情報スペクトルを取得する工程と、
(2)前記外界刺激を与えない細胞において、前記物質の質量情報スペクトルを取得する工程と、
(3)前記(1)及び(2)の工程において取得される質量情報スペクトルを比較し、差分を取ることによって前記外界刺激による質量情報スペクトルの変化を検出する工程と、を有することを特徴とする二次イオン質量分析法。
【請求項2】
前記(1)の工程が、前記外界刺激の付与から設定した時間経過後に該外界刺激を与えた細胞を凍結する工程を含むことを特徴とする請求項1に記載の二次イオン質量分析法。
【請求項3】
前記外界刺激として、前記受容体と相互作用する物質を用いることを特徴とする請求項1または2に記載の二次イオン質量分析法。
【請求項4】
前記受容体と相互作用する物質が、二次イオンの発生効率を向上させる材料によって標識されることを特徴とする請求項3に記載の二次イオン質量分析法。

【公開番号】特開2008−268021(P2008−268021A)
【公開日】平成20年11月6日(2008.11.6)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2007−112053(P2007−112053)
【出願日】平成19年4月20日(2007.4.20)
【出願人】(000001007)キヤノン株式会社 (59,756)
【Fターム(参考)】