説明

核酸塩基種を識別する方法と塩基配列決定方法

【課題】走査型プローブ顕微鏡を用いてピリミジン塩基であるシトシンとチミンを識別する。
【解決手段】表面が導電性をもつ基板表面にチミンを固定し、走査型プローブ顕微鏡のプローブとチミン間の距離を固定した状態でプローブと基板間に加えるバイアス電圧を変化させてプローブとチミンとの間に流れるトンネル電流を測定し、バイアス電圧に対する対数変換されたトンネル電流の変化率が変化する変曲バイアス電圧を求める。試料核酸中のピリミジン塩基をもつ部分を伸長させた状態で固定し、同様にバイアス電圧を変化させてプローブと塩基との間に流れるトンネル電流の変化を測定し、そのバイアス電圧の変化に対するトンネル電流の変化に基づき、変曲バイアス電圧の前後での変化の割合からそのピリミジン塩基種を識別する。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は核酸(DNA又はRNA)の個々の塩基種を識別する方法と、その方法を核酸の塩基に順次適用することにより核酸の塩基配列を決定する方法に関するものである。
【背景技術】
【0002】
DNAやRNAなどの核酸の塩基配列の決定法としては、マキサム・ギルバート法やサンガー法が広く用いられてきた。このうちサンガー法は、塩基配列決定の対象となるDNAと、蛍光標識されたDNA伸長阻害剤との反応を利用して様々な鎖長のDNA相補鎖を複製し、電気泳動法を利用して塩基配列を決定するものである。現在ではサンガー法はDNA塩基配列分析の主流となり、種々の改良が加えられてきている(特許文献1参照。)。
【0003】
また近年、特定の遺伝子の塩基配列の変異(1塩基多型:SNPs)を検出する方法として、DNAアレイを用いた検出方法が開発され、商品化されている。この方法では、既知のDNAを固定した基板上に蛍光標識した未知のDNAを流してハイブリダイゼーションさせることにより、蛍光標識した未知のDNAと結合した既知のDNAから塩基配列を読み取る(特許文献2参照。)。
【0004】
この他に提案されている技術としては、相補鎖合成時に、基板上に固定された蛍光標識DNAポリメラーゼと、その種類ごとに特異的に蛍光標識されたヌクレオチドとの間で起こる蛍光共鳴エネルギー移動(FRET)を光学的に観察することにより元の塩基配列を決定する方法(特許文献3参照。)や、自己凝集又はハイブリダイズしたDNAの三次元構造、形状などを、走査型プローブ顕微鏡を用いて測定し、塩基配列を決定する方法(特許文献4,5参照。)等がある。
【0005】
走査型プローブ顕微鏡の1つである走査型トンネル顕微鏡(STM)は、プローブ(探針)と試料表面間に流れるトンネル電流を利用して試料表面を観察するものであり、半導体や金属の表面構造を原子レベルで観察することができるという特徴から、近年盛んに用いられている顕微鏡である。
【0006】
走査型トンネル顕微鏡を使用した測定モードの1つに、プローブと試料との距離を固定した状態でプローブと試料との間に印加するバイアス電圧を掃引してそのバイアス電圧変化に依存したトンネル電流の変化を測定して試料表面の電子状態を観察する走査型トンネル分光法(STS)がある。この走査型トンネル分光法を生体分子の観察に利用して核酸の塩基配列を決定しようとする試みがなされている(特許文献6参照)。
【0007】
走査型トンネル顕微鏡を使用した他の試みとして、同一フィードバック条件で観察される塩基の高さの違いを利用してプリン塩基(グアニン及びアデニン)とピリミジン塩基(シトシン及びチミン)を区別する方法が報告されている (非特許文献1参照。)。
【0008】
走査型トンネル分光法を使用した他の試みとして、特定のバイアス電圧範囲におけるピークの有無を利用してプリン塩基についてグアニンであるかアデニンであるかを識別する方法も報告されている (非特許文献2参照。)。
【0009】
また、別の方法としては、プローブ先端に各塩基を予め修飾しておき、解読対象である塩基種との電気的相互作用の違いを利用して塩基を識別する試みもなされている(非特許文献3参照。)。しかし、この方法は、いまのところグアニンのみの識別にとどまっており、他の塩基についての識別はできていない。
【0010】
このような走査型プローブ顕微鏡による核酸塩基識別は、現在最も一般的に応用されている塩基配列識別技術であるサンガー法に比較して、一度に解読できる核酸鎖長に原理的な制限がなく、また、従来解読困難とされてきた繰り返し配列の解読にも応用できるため、次世代シーケンス技術として有望である。
【特許文献1】特開平05−038299号公報
【特許文献2】特表2003−528626号公報
【特許文献3】米国特許第6,210,896B1号公報
【特許文献4】特開平9−299087号公報
【特許文献5】特開平10−215899号公報
【特許文献6】WO2007/013370パンフレット
【非特許文献1】蛋白質 核酸 酵素 Vol.48 No.5 2003 pp.614-620
【非特許文献2】田中裕行、川合知二、第53回応用物理学関係連合講演会(2006春季)要旨集、pp.1453
【非特許文献3】Umezawa et. al.PNAS, Vol.103, No.1, pp.10 - 14, 2006
【非特許文献4】J.Vac.Sci.Technol. B25(1) 2007 pp.242-246
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0011】
走査型プローブ顕微鏡又は走査型トンネル分光法を利用した核酸塩基種識別に対する上記の報告を総合すると、プリン塩基とピリミジン塩基の間の識別、及びグアニン塩基の特定の可能性が示されていることになる。さらに進めて、それらの技術を塩基配列の解読に応用するためには、ピリミジン塩基であると識別されたときにその塩基がシトシンであるのかチミンであるのを識別することが必要となる。シトシンとチミンを識別する試みとして、走査型トンネル分光法により塩基の電流-電圧特性を測定し、得られた電流の電圧に対する対数変化をプロットすることで、その傾きおよびバイアス電圧値がゼロにおける切片の値を得ることでチミンを識別する方法が報告されている(非特許文献4)。しかしながら、この方法においては信頼できる電流の対数変化のデータを得るために、広範囲に渡るバイアス電圧の掃引を行わなければならず、測定時間が長くなるために、高電界印加による生体分子の破壊や、定常的な温度ドリフトの影響でプローブ先端と塩基間の距離が変化し、トンネル電流の値が変化する恐れがある等、識別の指標としての再現性が十分でなく、得られた結果からも、完全にシトシンとチミンが識別されているとは言い難い。このように、現在までのところ走査型プローブ顕微鏡又は走査型トンネル分光法を利用してシトシンとチミンを識別する有効な手段は知られていない。
【0012】
本発明は、このような問題に対処するため、走査型トンネル分光法を用いてピリミジン塩基であるシトシンとチミンを識別する方法(請求項1〜3)と、その方法を利用して核酸の塩基配列を決定する方法(請求項4〜7)を提供することを目的とするものである。
【課題を解決するための手段】
【0013】
ピリミジン塩基であるシトシンとチミンについては、それらを表面が導電性をもつ基板表面に固定し、走査型プローブ顕微鏡のプローブと塩基間の距離を固定した状態でプローブと基板間に加えるバイアス電圧を変化させてプローブと塩基との間に流れるトンネル電流を測定し、バイアス電圧に対するトンネル電流の変化の挙動を比較すると大きな違いのあることが見出された。チミンではバイアス電圧に対する対数変換されたトンネル電流の変化率が特定のバイアス電圧で変化する(この特定のバイアス電圧を変曲バイアス電圧と呼ぶ。)のに対し、シトシンはそのような変曲バイアス電圧をもたない。本発明のピリミジン塩基種識別方法は、その変曲バイアス電圧の前後におけるトンネル電流の変化の挙動の違いを利用して対象となるピリミジン塩基がシトシンであるのかチミンであるのかを識別しようとする方法である。
【0014】
すなわち、試料核酸中のピリミジン塩基種を識別する本発明の識別方法は以下の工程(A)から(C)を含んでいる。
(A)表面が導電性をもつ基板表面にチミンを固定し、走査型プローブ顕微鏡のプローブとチミン間の距離を固定した状態で前記プローブと基板間に加えるバイアス電圧を変化させて前記プローブとチミンとの間に流れるトンネル電流を測定し、バイアス電圧に対する対数変換されたトンネル電流の変化率が変化する変曲バイアス電圧を求める工程、
(B)表面が導電性をもつ基板表面に識別の対象となる試料核酸中のピリミジン塩基をもつ部分を伸長させてそれぞれの塩基が基板に直接接触した状態で固定し、前記プローブとピリミジン塩基間の距離を固定した状態で前記変曲バイアス電圧を間に含む特定の電圧範囲で前記プローブと基板間に加えるバイアス電圧を変化させて前記プローブと塩基との間に流れるトンネル電流の変化を測定する工程、及び
(C)工程(B)で求められたバイアス電圧の変化に対するトンネル電流の変化に基づき、変曲バイアス電圧の前後での変化の割合からそのピリミジン塩基がシトシンであるかチミンであるかを識別する工程。
【0015】
工程(B)におけるバイアス電圧の変化はその特定の範囲で連続的に行ってもよいが、測定時間を短縮するために、工程(B)におけるバイアス電圧の変化をその特定の範囲の最低バイアス電圧、変曲バイアス電圧及び最高バイアス電圧の3点で行うようにしてもよい。その場合、工程(C)における識別は最低バイアス電圧と変曲バイアス電圧の間でのトンネル電流の変化率と、変曲バイアス電圧と最高バイアス電圧の間でのトンネル電流の変化率との比率に基づいて行うのが好ましい。
【0016】
バイアス電圧を変化させたときのトンネル電流の変化が大きいときは、トンネル電流を対数変換して処理する方が好ましい。その場合には、工程(C)における識別は対数変換されたトンネル電流の変化率に基づいて行うと識別が容易になる。
【0017】
走査型プローブ顕微鏡を用いて核酸中の塩基がプリン塩基であるかピリミジン塩基であるかを識別することについて既知の方法がある(非特許文献1参照。)。また、プリン塩基については、走査型プローブ顕微鏡を用いてそれがグアニンであるかアデニンであるかを識別することについても既知の方法がある(非特許文献2参照。)。それらの既知の方法に本発明のピリミジン塩基種識別方法を組み合わせると、核酸の全ての塩基種を識別することができる。
【0018】
すなわち、試料核酸中の塩基種を識別する本発明の識別方法は以下の工程(A)から(F)を含んでいる。
(A)表面が導電性をもつ基板表面にチミンを固定し、走査型プローブ顕微鏡のプローブとチミン間の距離を固定した状態で前記プローブと基板間に加えるバイアス電圧を変化させて前記プローブとチミンとの間に流れるトンネル電流を測定し、バイアス電圧に対する対数変換されたトンネル電流の変化率が変化する変曲バイアス電圧を求める工程、
(B)表面が導電性をもつ基板表面にグアニンを固定し、走査型プローブ顕微鏡のプローブとグアニン間の距離を固定した状態で前記プローブと基板間に加えるバイアス電圧を変化させて前記プローブとグアニンの間に流れるトンネル電流を測定し、トンネル電流のバイアス電圧による微分曲線上でのグアニンのピークを検出し、そのピーク検出バイアス電圧を求める工程、
(C)表面が導電性をもつ基板表面に試料核酸の識別の対象となる塩基配列をもつ部分を、伸長させてそれぞれの塩基が基板に直接接触した状態で固定する工程、
(D)走査型プローブ顕微鏡を用いてプローブと塩基との間に流れるトンネル電流が一定になるようにフィードバック制御してトポグラフィ像を測定し、塩基像の高さに基づいてその塩基がプリン塩基であるかピリミジン塩基であるかを識別する工程、
(E)工程(D)でプリン塩基と識別された塩基に対しては、プローブと塩基間の距離を固定した状態で前記ピーク検出バイアス電圧を間に含む特定の範囲でプローブと基板間に加えるバイアス電圧を変化させて前記プローブと塩基との間に流れるトンネル電流を測定し、前記ピーク検出バイアス電圧におけるトンネル電流のバイアス電圧による微分曲線上にピークが検出されるか否かによりそのプリン塩基がグアニンであるかアデニンであるかを識別する工程、
(F)工程(D)でピリミジン塩基と識別された塩基に対しては、プローブと塩基間の距離を固定した状態で前記変曲バイアス電圧を間に含む特定の電圧範囲で前記プローブと基板間に加えるバイアス電圧を変化させてプローブと塩基との間に流れるトンネル電流の変化を測定する工程、及び
(G)そのトンネル電流の変化の割合に基づいてそのピリミジン塩基がシトシンであるかチミンであるかを識別する工程。
【0019】
工程(E)におけるバイアス電圧の変化を特定の範囲の最低バイアス電圧、変曲バイアス電圧及び最高バイアス電圧の3点で行い、ピリミジン塩基の識別を最低バイアス電圧と変曲バイアス電圧の間でのトンネル電流の変化率と、変曲バイアス電圧と最高バイアス電圧の間でのトンネル電流の変化率との比率に基づいて行うようにすれば、測定時間を短縮することができる。
【0020】
また、工程(E)における識別を対数変換されたトンネル電流の変化率に基づいて行えば識別が容易になる。
【0021】
試料核酸の塩基配列の決定は、工程(D)から(G)を基板に固定された試料核酸の塩基に沿って順次実行することにより、実現することができる。
【0022】
プリン塩基とピリミジン塩基との間の識別方法及びプリン塩基種間の識別方法については、上に示した既知の方法に限らず、走査型プローブ顕微鏡を用いた方法であれば他の方法も本発明のピリミジン塩基種識別方法と組み合わせて試料核酸の塩基種識別方法とすることができ、さらには試料核酸の塩基配列決定方法を構成することができる。
【発明の効果】
【0023】
本発明のピリミジン塩基種識別方法は、変曲バイアス電圧の前後におけるトンネル電流の変化からシトシンとチミンを識別するので、狭い範囲のバイアス電圧変化を測定するだけでよく、測定時間が短くてすむ。
【0024】
本発明の塩基配列決定方法によれば、走査型プローブ顕微鏡による高速のシーケンシングが可能になる。
【発明を実施するための最良の形態】
【0025】
本発明を実施する走査型プローブ顕微鏡としては、原子間力顕微鏡、走査型近接場光顕微鏡等さまざまな種類のものを使用することができるが、好ましい一例は走査型トンネル顕微鏡(STM)である。以下の実施例では走査型トンネル顕微鏡を使用する。
【0026】
走査型トンネル顕微鏡の概要を図1に概略的に示す。走査型トンネル顕微鏡はその構成要素として先端に探針をもつ微小プローブ2と、制御装置4を備えている。試料の核酸6は少なくとも表面が導電性の基板8の表面上に固定されて走査型プローブ顕微鏡内のステージ上に載置される。制御装置4はプローブ2と基板8の表面との間にバイアス電圧Vsを印加し、プローブ2から試料核酸6に流れるトンネル電流Itを検出するとともに、プローブ2の位置制御を行なう。
【0027】
走査型トンネル顕微鏡の測定モードの1つは、プローブ2と塩基との間に流れるトンネル電流Itが一定になるようにプローブ2の高さをフィードバック制御(FB)するモードであり、塩基の高さに関する情報を得ることができる。
【0028】
他の動作モードは、プローブ2と塩基間の距離を固定してバイアス電圧Vsを変化させてトンネル電流Itの変化を測定する走査型トンネル分光法(STS)である。
【0029】
本発明では、基板8の表面に固定された試料核酸6に対して、まずフィードバック制御によりトポグラフィ像を測定し、塩基の位置を特定するとともに、核酸を構成する塩基像の高さの違いに基づいてその塩基がプリン塩基であるかピリミジン塩基であるかを識別する。例えば、測定される塩基高さが異なる2種類の塩基が測定された場合、高い方の塩基はプリン塩基と識別され、低い方の塩基はピリミジン塩基と識別される。
【0030】
次に、プローブ2を特定の塩基上に移動させ、フィードバック回路を切り、プローブ2と塩基間の距離を固定する。走査型トンネル分光法を適用してプリン塩基についてはグアニンであるかアデニンであるかを識別し、ピリミジン塩基についてはシトシンであるかチミンであるかを識別する。
【0031】
プリン塩基種の識別を行うときは、プローブ−塩基間に印加されたバイアス電圧Vsを例えば−2.5V〜1Vの範囲で変化させてプローブと塩基との間に流れるトンネル電流を測定し、トンネル電流のバイアス電圧Vsによる微分値に特有のピークが検出されればそのプリン塩基がグアニン、検出されなければアデニンであると識別する。
【0032】
ピリミジン塩基種の識別を行うときは、プローブ−塩基間に印加されたバイアス電圧Vsを、図1(B)に示されるようなある特定の範囲C、例えば1〜3Vの範囲で変化させ、バイアス電圧の変化に対するプローブと塩基との間に流れるトンネル電流の変化を測定することにより、変曲バイアス電圧前後でのバイアス電圧に対するトンネル電流の変化の割合の違いを利用して、ピリミジン塩基のシトシン及びチミンを識別する。
【0033】
この特定の範囲Cは予め求めた変曲バイアス電圧を間に挟むように予め設定された適当な範囲であり、シトシンとチミンの両者の電流-電圧特性に最も顕著な差異が現れるバイアス電圧範囲である。その電圧範囲に関する情報は予め取得して設定しておく。その設定した電圧範囲にのみ限ってデータを取得し、変曲バイアス電圧前後での変化率の違いを算出する。これにより、短い測定時間で信頼性の高いデータを取得することができる。
【0034】
以下、図2〜図8を参照してピリミジン塩基のシトシン及びチミンを識別する方法をさらに具体的に説明する。
【0035】
図2により、まずDNAサンプルの調製方法を示す。3'末端をチオール化した合成DNA(保護基つき:オペロンバイオテクノロジーズ社製)をジチオスレイトール水溶液中に懸濁させた溶液を、固相抽出カラム(Sep−Pakカートリッジ:Waters社製)10を用いて脱保護処理を行い、DNA溶液12を調製した。得られたDNA溶液12中にPiranha洗浄(レジスト剥離剤SH−303:関東化学製に30分間浸漬後、30分間超純水洗浄)を行った金薄膜基板(サファイア基板表面に金薄膜を形成したもの)14を3時間浸漬し、金薄膜表面にDNAを吸着させた。その後、DNAが吸着した金薄膜基板14を超純水中で30分間洗浄し、乾燥させたものをSTM観察用サンプルとした。
【0036】
図3は印加バイアス電圧を1V、トンネル電流Itを1pAとするフィードバック条件で取得した金薄膜基板上のシトシン塩基のSTM像である。
【0037】
この画像中の塩基上にプローブを移動させてフィードバック回路を切り、プローブと塩基との間の距離を約1nmに固定して取得した電流-電圧特性を図4に示す。また、得られた電流-電圧特性のうち、バイアス電圧が1V〜3Vの範囲で計測された電流値についてその対数値を算出し、電圧値に対して再プロットした結果を図5に示す。図5のグラフが直線状を示すことから、バイアス電圧が1V〜3Vの範囲におけるシトシン塩基の電流-電圧特性は、印加バイアス電圧に対してトンネル電流が指数関数的に変化する特徴をもつことがわかる。
【0038】
図6に、印加バイアス電圧を1V、トンネル電流Itを1pAとするフィードバック条件で測定された金薄膜基板上のチミン塩基のSTM像を示す。
【0039】
シトシン塩基の場合と同様に、図6の画像中の塩基上にプローブを移動させてフィードバック回路を切り、プローブと塩基との間の距離を約1nmに固定して電流-電圧特性を取得した。取得した電流-電圧特性を図7に示す。また、得られた電流-電圧特性のうちバイアス電圧が1V〜3Vの範囲で計測される電流値の対数をシトシン塩基の場合と同様に算出し、電圧値に対してプロットした結果を図8に示す。この図よりわかるように、チミン塩基のもつ電流-電圧特性は、印加バイアス電圧が約2Vとなるポイントを境に傾きが不連続に増加しており、シトシン塩基で観察された連続的な指数関数的変化とは異なる特徴をもつことがわかる。このように、シトシン塩基の測定においてトンネル電流Itが対数変換された電流-電圧特性の傾きが不連続に変化するバイアス電圧(約2V)を本発明では変曲バイアス電圧と呼んでいる。
【0040】
ピリミジン塩基種の識別では変曲バイアス電圧を挟む狭い電圧範囲でバイアス電圧を変化させるだけでよい。そのバイアス電圧変化の一例は、例えば2Vを間に挟む1V〜3Vの範囲の連続的な変化である。
【0041】
バイアス電圧変化の他の例は変曲バイアス電圧とその前後の2点の合計3点の電圧値での不連続な変化である。例えば、図3から図8の結果から、プローブと塩基間に印加するバイアス電圧が1V、2V、及び3V近傍において測定されるトンネル電流の値を測定する。それらのトンネル電流測定値の対数値を印加バイアス電圧に対してプロットすることで、バイアス電圧が1Vと2Vの間、及びバイアス電圧が2Vと3Vの範囲でのそれぞれの平均変化率を近似的に求める。それらの平均変化率の比率をシトシンとチミンで比較することにより、対象となるピリミジン塩基がシトシンであるかチミンであるかを識別することができる。
【0042】
このような知見に基づけば、シトシンとチミンとの間の識別に最も有効なバイアス電圧値V1、V2、V3(この場合は(V1,V2,V3)=(1V,2V,3V))の情報を予め設定しておき、当該電圧値におけるトンネル電流値のみを測定することで、短い測定時間で信頼性の高いデータを取得することができる。
【0043】
上に述べた識別方法に必要となるデータ処理の一例を図9に示す。STS測定時には、コンピュータなどのデータベースに予め保存されているバイアス電圧Vs(V1,V2,V3)を印加した際に得られたトンネル電流(I1,I2,I3)がコンピュータ20に取り込まれる。コンピュータ20ではそれらのトンネル電流(I1,I2,I3)がそれぞれ対数値(LogI1、LogI2、LogI3)に変換される。次にそれぞれの電圧、対数電流値を基にV1〜V2間、V2〜V3間のそれぞれの平均変化率a1、a2が次のように求められる。
1=(LogI2−LogI1)/(V2−V1
2=(LogI3−LogI2)/(V3−V2
【0044】
最後に2つの平均変化率の比の値(a2/a1)が計算され、その比の値が1より大きなある定数Pとの大小関係が求められて、(a2/a1)がP以上であればそのピリミジン塩基はチミンであり、(a2/a1)がPより小さければそのピリミジン塩基はシトシンであるというように、ピリミジン塩基種の識別処理がなされる。これにより、電流―電圧特性取得からシトシン−チミン識別にいたる一連の処理を自動化することができる。
【0045】
このシトシン−チミン識別を、走査型トンネル顕微鏡を用いたプリン塩基とピリミジン塩基間の識別方法、及び走査型トンネル顕微鏡を用いたプリン塩基種の識別方法と組み合わせることにより、図10に示されるように、走査型トンネル顕微鏡を用いて基板上に固定されたDNAの塩基配列を自動的に決定することができるようになる。
【0046】
そのために、トポグラフィ像の高さからプリン塩基とピリミジン塩基を識別するための塩基高さのしきい値を設定し、データベースに保持する。また、ピリミジン塩基種の識別のための変曲バイアス電圧を求め、シトシンとチミンとの間の識別に最も有効なバイアス電圧値V1、V2(変曲バイアス電圧)及びV3をデータベースに保持する。バイアス電圧値V1、V2及びV3でのトンネル電流の対数値に基づく上記の平均変化率の比の値(a2/a1)からシトシンであるかチミンであるかを判定するための定数Pも設定し、これもデータベースに保持する。さらに、プリン塩基種の識別のためのピーク検出バイアス電圧を求め、グアニンに特有のピークを検出するためのバイアス電圧の変化範囲を設定して、それらもデータベースに保持する。
【0047】
測定にあたっては、表面が導電性をもつ基板表面に試料DNAを固定し、走査型トンネル顕微鏡を用いてプローブと塩基との間に流れるトンネル電流が一定になるようにフィードバック制御してトポグラフィ像を測定し塩基の位置を特定する。
【0048】
次に、塩基配列を決定しようとする塩基配列部分の端の塩基にプローブを位置決めする。その塩基については既に求められている塩基像の高さの違いに基づいてその塩基がプリン塩基であるかピリミジン塩基であるかを判定する。その塩基がプリン塩基と識別された場合は、プローブと塩基間の距離を固定した状態で、データベースに保持されているバイアス電圧範囲でバイアス電圧を変化させてプローブと塩基との間に流れるトンネル電流を測定し、ピーク検出バイアス電圧におけるピークが検出されるか否かによりそのプリン塩基がグアニンであるかアデニンであるかを識別する。その塩基がピリミジン塩基と識別された場合は、プローブと塩基間の距離を固定した状態で、データベースに保持されている3点のバイアス電圧でプローブと塩基との間に流れるトンネル電流を測定し、上述の平均変化率の比の値(a2/a1)を計算し、その比の値とデータベースに保持された定数Pとの比較によりそのピリミジン塩基がシトシンであるかチミンであるかを識別する。
【0049】
このようにして、塩基配列を決定しようとする塩基配列部分の端の塩基から順にプローブを位置決めしてその塩基種を識別する作業を自動的に進めることにより、試料DNAの塩基配列が決定される。
実施例は本発明を、走査型トンネル顕微鏡を用いて実現する方法を示しているが、他の走査型プローブ顕微鏡である原子間力顕微鏡や走査型近接場光顕微鏡などを用いても同様に実現することができる。また、DNAに限らずRNAにも同様に適用することができる。
【産業上の利用可能性】
【0050】
本発明は走査型プローブ顕微鏡を用いて核酸中のピリミジン塩基種を識別するのに利用することができ、さらにその方法を利用して走査型プローブ顕微鏡を用いた核酸の塩基配列決定方法に利用することができる。
【図面の簡単な説明】
【0051】
【図1】(A)は本発明を実施する走査型トンネル顕微鏡を示す概略構成図、(B)は走査型トンネル分光法によるシトシンとチミンのバイアス電圧−トンネル電流特性を示すグラフである。
【図2】DNAサンプルの調製方法を工程順に示す図である。
【図3】フィードバック条件で取得した金薄膜基板上のシトシン塩基のSTM像である。
【図4】プローブとシトシンとの距離を固定して取得したトンネル電流-電圧特性を示すグラフである。
【図5】図4の結果でトンネル電流を対数変換して示すグラフである。
【図6】フィードバック条件で取得した金薄膜基板上のチミン塩基のSTM像である。
【図7】プローブとチミンとの距離を固定して取得したトンネル電流-電圧特性を示すグラフである。
【図8】図7の結果でトンネル電流を対数変換して示すグラフである。
【図9】ピリミジン塩基種の識別方法を実現するデータ処理の一例を示すフローチャートである。
【図10】DNAの塩基配列決定方法を示すフローチャートである。
【符号の説明】
【0052】
2 プローブ
4 制御装置
6 試料核酸
8 基板
12 DNA溶液
14 金薄膜基板

【特許請求の範囲】
【請求項1】
以下の工程(A)から(C)を備えて試料核酸中のピリミジン塩基種を識別する識別方法。
(A)表面が導電性をもつ基板表面にチミンを固定し、走査型プローブ顕微鏡のプローブとチミン間の距離を固定した状態で前記プローブと基板間に加えるバイアス電圧を変化させて前記プローブとチミンとの間に流れるトンネル電流を測定し、バイアス電圧に対する対数変換されたトンネル電流の変化率が変化する変曲バイアス電圧を求める工程、
(B)表面が導電性をもつ基板表面に識別の対象となる試料核酸中のピリミジン塩基をもつ部分を、伸長させてそれぞれの塩基が基板に直接接触した状態で固定し、前記プローブとピリミジン塩基間の距離を固定した状態で前記変曲バイアス電圧を間に含む特定の電圧範囲で前記プローブと基板間に加えるバイアス電圧を変化させて前記プローブと塩基との間に流れるトンネル電流の変化を測定する工程、及び
(C)工程(B)で求められたバイアス電圧の変化に対するトンネル電流の変化に基づき、前記変曲バイアス電圧の前後での変化の割合からそのピリミジン塩基がシトシンであるかチミンであるかを識別する工程。
【請求項2】
工程(B)におけるバイアス電圧の変化は前記特定の範囲の最低バイアス電圧、前記変曲バイアス電圧及び最高バイアス電圧の3点で行い、
工程(C)における識別は前記最低バイアス電圧と変曲バイアス電圧の間でのトンネル電流の変化率と、変曲バイアス電圧と前記最高バイアス電圧の間でのトンネル電流の変化率との比率に基づいて行う請求項1に記載のピリミジン塩基種識別方法。
【請求項3】
工程(C)における識別は対数変換されたトンネル電流の変化率に基づいて行う請求項1又は2に記載のピリミジン塩基種識別方法。
【請求項4】
以下の工程(A)から(G)を備えて試料核酸中の塩基種を識別する識別方法。
(A)表面が導電性をもつ基板表面にチミンを固定し、走査型プローブ顕微鏡のプローブとチミン間の距離を固定した状態で前記プローブと基板間に加えるバイアス電圧を変化させて前記プローブとチミンとの間に流れるトンネル電流を測定し、バイアス電圧に対する対数変換されたトンネル電流の変化率が変化する変曲バイアス電圧を求める工程、
(B)表面が導電性をもつ基板表面にグアニンを固定し、走査型プローブ顕微鏡のプローブとグアニン間の距離を固定した状態で前記プローブと基板間に加えるバイアス電圧を変化させて前記プローブとグアニンの間に流れるトンネル電流を測定し、トンネル電流のバイアス電圧による微分曲線上でのグアニンのピークを検出し、そのピーク検出バイアス電圧を求める工程、
(C)表面が導電性をもつ基板表面に試料核酸の識別の対象となる塩基配列をもつ部分を、伸長させてそれぞれの塩基が基板に直接接触した状態で固定する工程、
(D)走査型プローブ顕微鏡を用いてプローブと塩基との間に流れるトンネル電流が一定になるようにフィードバック制御してトポグラフィ像を測定し、塩基像の高さに基づいてその塩基がプリン塩基であるかピリミジン塩基であるかを識別する工程、
(E)工程(D)でプリン塩基と識別された塩基に対しては、プローブと塩基間の距離を固定した状態で前記ピーク検出バイアス電圧を間に含む特定の範囲でプローブと基板間に加えるバイアス電圧を変化させて前記プローブと塩基との間に流れるトンネル電流を測定し、前記ピーク検出バイアス電圧におけるトンネル電流のバイアス電圧による微分曲線上にピークが検出されるか否かによりそのプリン塩基がグアニンであるかアデニンであるかを識別する工程、
(F)工程(D)でピリミジン塩基と識別された塩基に対しては、プローブと塩基間の距離を固定した状態で前記変曲バイアス電圧を間に含む特定の電圧範囲で前記プローブと基板間に加えるバイアス電圧を変化させてプローブと塩基との間に流れるトンネル電流の変化を測定する工程、及び
(G)そのトンネル電流の変化の割合に基づいてそのピリミジン塩基がシトシンであるかチミンであるかを識別する工程。
【請求項5】
工程(E)におけるバイアス電圧の変化は前記特定の範囲の最低バイアス電圧、前記変曲バイアス電圧及び最高バイアス電圧の3点で行い、
ピリミジン塩基の識別は前記最低バイアス電圧と変曲バイアス電圧の間でのトンネル電流の変化率と、変曲バイアス電圧と前記最高バイアス電圧の間でのトンネル電流の変化率との比率に基づいて行う請求項4に記載の塩基種識別方法。
【請求項6】
工程(E)における識別は対数変換されたトンネル電流の変化率に基づいて行う請求項4又は5に記載の塩基種識別方法。
【請求項7】
工程(D)から(G)を基板に固定された試料核酸の塩基に沿って順次行うことによりその試料核酸の塩基配列を決定する請求項4から6のいずれか一項に記載の塩基種識別方法。

【図1】
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【図2】
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【図4】
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【図5】
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【図7】
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【図8】
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【図9】
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【図10】
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【図3】
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【図6】
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【公開番号】特開2009−222390(P2009−222390A)
【公開日】平成21年10月1日(2009.10.1)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2008−63881(P2008−63881)
【出願日】平成20年3月13日(2008.3.13)
【出願人】(000001993)株式会社島津製作所 (3,708)
【Fターム(参考)】