説明

糖鎖異性体を分離同定する質量分析法

【課題】糖鎖の異性体混合物中の各異性体の構造情報を、より簡便かつ迅速に得る質量分析法を提供すること。
【解決手段】糖鎖異性体の混合物を用いてそれぞれの糖鎖異性体を分離同定する質量分析法であって、(1)糖鎖異性体の混合物に対し、基質特異性が判明している酵素反応を行う工程、(2)酵素反応を全く行っていない糖鎖異性体の混合物および最後に行った酵素反応後の反応物を質量分析する工程、(3)酵素反応を受けたり受けなかったりした糖鎖のm/zを検出する工程、を含むことを特徴とする質量分析法、並びに、それらのデータを搭載したデータベース。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、糖鎖異性体を分離同定する質量分析法に関し、さらに詳しくは、酵素反応を用い、糖鎖異性体の混合物を用いてそれぞれの糖鎖異性体を分離同定する質量分析法に関するものである。
【背景技術】
【0002】
「質量分析法」とは、分子を含む試料をイオン化し、イオン化した分子を質量/電荷(以下、「m/z」と略記する)に従って分離し検出することによって構造情報を得る方法であり、近年、生体高分子の解析にも応用されつつある。
【0003】
ペプチドやタンパク質の一次構造は質量分析を駆使することによって容易に判明しプロテオミクスがさかんである。しかし、糖、糖鎖、タンパク質(ペプチドを含む)や脂質等に結合した糖鎖は、分子量および組成が同一の単糖が複数存在したり、配列が同じでも結合の異なる異性体が存在したりするので、アミノ酸配列を推定する手法を糖鎖の構造解析にそのまま応用できない。さらに、糖鎖の構造異性体は多数存在するので、生体試料中の微量な個々の異性体を単離することはきわめて難しい。
【0004】
非特許文献1〜2には、生体試料中の糖鎖の構造異性体を分離する方法が記載されてはいるが、様々な分離操作を組み合わせるため時間がかかり、また試料量が多く必要であり、さらにあるものは完全に単離できず混合物のままであるという問題があった。従って、かかる公知技術では不十分であり、さらなる技術が望まれていた。
【0005】
【非特許文献1】Amano J., et.al. J. Biol. Chem., 266, 11461-11477 (1991)
【非特許文献2】Amano J., et al., Glycoconjugate J., 2, 121-135 (1985)
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0006】
本発明は上記背景技術に鑑みてなされたものであり、その課題は、糖鎖の異性体混合物を用い、その混合物中の各糖鎖異性体を分離同定し、その構造情報をより簡便かつ迅速に得ることができる質量分析法を提供することである。
【課題を解決するための手段】
【0007】
本発明者は、上記の課題を解決すべく鋭意検討を重ねた結果、糖鎖の異性体混合物中の個々の異性体に特異的に酵素反応を行うことによって、分子量を変化させ、分離操作を行うことなく混合物のまま質量分析を可能にできることを見いだした。さらに、試料中の異性体または個々の異性体より新しく生じた分子を選択してMS(nは自然数)解析等によって構造を同定することによって、各異性体の構造情報をより簡便かつ迅速に得ることができることを見出し、本発明を完成させた。
【0008】
すなわち、本発明は、糖鎖異性体の混合物を用いてそれぞれの糖鎖異性体を分離同定する質量分析法であって、
(1)糖鎖異性体の混合物に対し、基質特異性が判明している酵素反応を行う工程、
(2)酵素反応を全く行っていない糖鎖異性体の混合物、および、最後に行った酵素反応後の反応物を質量分析する工程、
(3)酵素反応を受けたり受けなかったりした糖鎖のm/zを検出する工程、
を含むことを特徴とする質量分析法を提供するものである。
【0009】
また、酵素反応に用いる酵素が、糖分解酵素、糖転移酵素、スルファターゼ、スルフォトランスフェラーゼまたはホスファターゼである上記の質量分析法を提供するものである。
【0010】
また、本発明は、酵素反応の少なくとも1回が同位体構成糖を付加する酵素反応である上記の質量分析法を提供するものである。
【0011】
また、本発明は、上記の質量分析法によって得られた情報を搭載したデータベースを提供するものである。
【発明の効果】
【0012】
本発明によると、糖鎖の異性体混合物を含む試料に酵素反応を行うことによって個々の異性体から異なる分子を生成させ、それぞれの分子のMS解析を行うことで元の異性体構造を決定し、単離精製することなく、含有する個々の異性体の構造情報を容易に得ることができる。また、本発明によると、分離操作をすることなく、生体試料由来の微量な糖鎖異性体混合物の糖鎖構造が判明するので、糖タンパク質等の糖鎖を含有する物質の機能解明や、さらには病態の解明に有用な情報を得ることができる。
【発明を実施するための最良の形態】
【0013】
本発明は、糖鎖異性体の混合物を用いてそれぞれの糖鎖異性体を分離同定する質量分析法である。糖鎖の異性体混合物を含む試料にそのまま酵素反応を行うことで、その酵素の基質となる異性体のみが別の分子量をもつ分子に変化するため、変化しなかった異性体との識別、すなわち分離同定が可能となり、それぞれの分子のMS解析を行うことができるようになることに基づいている。ここで、「MS解析」とは、MS、MS(MS/MS)、MS、MS等の質量分析を意味する。すなわちnは自然数を意味し、n=1の場合も含めて「MS解析」という。
【0014】
糖鎖は、構成糖が直鎖状または分岐して結合したものである。例えば、糖タンパク質糖鎖の構成糖として、グルコース、ガラクトース、マンノース等があるが、これらは全てヘキソースで分子量は180である。また、アミノ糖としてN−アセチルグルコサミンやN−アセチルガラクトサミン等も含まれるが、これらの分子量は221と同一である。このように、構成糖自身が多くの異性体を持つので、糖組成が異なる異性体が存在する。また、一分子中に結合部位が複数存在するので、糖組成が同一でも結合様式が異なった異性体が数多く存在する。
【0015】
質量測定のみではこれらの糖鎖異性体の識別は不可能であるが、近年、MS解析を行うことによって、配列や結合様式が異なる異性体を、マススペクトルのプロダクトイオンの種類および相対量等を標準糖鎖と比較することによって識別することが行われつつある。
【0016】
しかしながら、単離された個々の糖鎖異性体の質量分析を行い、互いのマススペクトルを比較して識別することは当然のことながら行われていたが、分離同定の目的で、異性体の混合物試料をそのまま質量分析することはなかった。
【0017】
また、例えば、1つの糖タンパク質として分離精製できたとしても、分離精製した糖タンパク質に、たった一種類の糖鎖異性体が結合していることはまれであり、また、糖タンパク質から糖鎖を遊離して糖鎖異性体を単離精製することも、微量生体試料等を用いる場合極めて困難である。
【0018】
本発明は、糖鎖異性体の混合物を用いて、それぞれの糖鎖異性体を分離同定する質量分析法であって、(1)糖鎖異性体の混合物に対し、基質特異性が判明している酵素反応を行う工程、(2)酵素反応を全く行っていない糖鎖異性体の混合物、および、最後に行った酵素反応後の反応物を質量分析する工程、(3)酵素反応を受けたり受けなかったりした糖鎖のm/zを検出する工程、を含むことを特徴とする。本発明によれば、糖鎖異性体の混合物を用いて、酵素反応を行うことによって、微量生体試料等を用いる場合であっても、糖鎖異性体の混合物中に含まれるそれぞれの糖鎖異性体を同定できる。
【0019】
<工程(1)について>
「基質特異性が判明している酵素反応」とは、糖鎖の特定の結合のみを切断したり、糖鎖の特定の構成糖のみに反応させたり、構成糖の特定の位置に結合させたりする酵素反応を言う。
【0020】
「糖鎖異性体の混合物」とは、少なくとも2以上の異性体糖鎖を含有するものを言い、「糖鎖異性体」には、既に酵素反応(工程(1))を行った糖鎖異性体をも含むものとする。すなわち、「糖鎖異性体の混合物」とは、前段階の糖鎖異性体の混合物に対し、基質特異性が判明している酵素反応を行って、酵素反応を受けずに残った糖鎖異性体の混合物だけでなく、酵素反応を受けた結果新たに生じた糖鎖異性体の混合物をも指すものとする。つまり、工程(1)は1回だけでもよいが、複数回繰り返し行われる場合も本発明に含まれる。そのとき、続けて同じ基質特異性を有する酵素反応は行わず、直前の酵素反応とは別の基質特異性であることが判明している酵素反応を行うことが好ましい。
【0021】
酵素反応の操作は特に限定されず、基質特異性が判明している公知の酵素を用いて、常法に従って行われる。
【0022】
「酵素反応を行う」とは上記の操作を行うことを意味し、糖鎖が酵素反応を受ける場合と受けない場合の両方を含む。すなわち、酵素反応を行うことによって、糖鎖異性体の混合物中の、ある糖鎖は酵素反応を受け、また、他の糖鎖は酵素反応を受けない。また、一般には酵素反応後は反応液を煮沸したり、膜でろ過して酵素タンパク質を除いたりして反応を停止させる。その後、工程(1)の別の酵素反応を行ったり、工程(2)に進む。
【0023】
本発明に用いられる、「基質特異性が判明している酵素」については後で詳述するが、糖分解酵素、糖転移酵素、スルファターゼ、スルフォトランスフェラーゼ、ホスファターゼ等が好ましいものとして挙げられる。糖転移酵素の場合、糖供与体としてUDP−[13]−ガラクトース等の同位体元素を有しているものを用いることも好ましい。また、これらの酵素のうちのある酵素反応を行い、引き続き別の酵素反応を行うことによって工程(1)が2回以上繰り返されることも好ましい。例えば糖分解酵素等の酵素反応を行い、引き続き糖供与体としてUDP−[13]等の同位体元素を有しているものを用いる糖転移酵素反応を行うことも好ましい。
【0024】
<工程(2)について>
工程(2)は、酵素反応を全く行っていない糖鎖異性体の混合物、および最後に行った酵素反応後の反応物を質量分析する工程である。
【0025】
ここで、「質量分析法」とは、マトリクス支援レーザー脱離イオン化(MALDI)法、レーザー脱離(LD)法、高速電子衝撃(FAB)法、エレクトロスプレーイオン化(ESI)法、大気圧化学(APCI)法等のイオン化方法によって分子を含む試料をイオン化し、次いで、飛行時間法(タイムオブフライト法、TOF法)、二重収束法、四重極集束法等を用いて、イオン化した分子を質量/電荷比(以下、「m/z」と略記する)に従って分離し検出する方法である。
【0026】
本発明においてイオン化法は特に限定されないが、好ましくはESI法またはMALDI法であり、より好ましくはMALDI法である。
【0027】
また、質量分析は、MS、MS/MS、MS等のMS解析をすることにより行われる。
【0028】
酵素反応を行っていない糖鎖異性体の混合物および酵素反応を行った後の反応物を質量分析する。酵素反応を行っていない糖鎖異性体の混合物の質量分析は、酵素反応を行う前に行ってもよい。ここで、工程(1)が2回以上行われる場合は、その酵素反応物毎に質量分析を行ってもよい。すなわち、「糖鎖異性体の混合物」が、既に工程(1)を行って得た糖鎖異性体の混合物である場合は、酵素反応を全く行っていない糖鎖異性体の混合物、酵素反応を1回行った酵素反応物、酵素反応を2回行った酵素反応物のそれぞれについて質量分析を行う。3回以上酵素反応を行った場合も同様である。すなわち、これは、本発明の工程(1)、(2)及び(3)を、2回以上繰り返すことを意味する。
【0029】
または、酵素反応を2回以上引き続いて行い、最後の酵素反応後に質量分析を行ってもよい。酵素反応を全く行っていない糖鎖異性体の混合物と、最終の酵素反応を行った後の反応物の計2回のみ質量分析することが、生体試料等のように試料が微量の場合に、糖鎖異性体の混合物(試料)の消費をできるだけ防止する上で好ましい。適切な酵素を用いることによって、混合物(試料)の消費を防ぎつつ、糖鎖異性体の分離同定が可能である。
【0030】
<工程(3)について>
工程(3)は、酵素反応を受けなかった糖鎖のm/z、および/または、酵素反応を受けた糖鎖のm/zを検出する工程である。基質特異性が判明している特定の酵素を用いたときに、所定のm/zにピークが現れたか否かで、結合している構成糖の種類(例えば、ガラクトースなのかグルコースなのか等)、特定の糖鎖の結合の種類(アルファ結合なのかベータ結合なのか)、特定の糖鎖の結合場所(C3位なのかC4位なのか等)等が分かり、糖鎖異性体を個々に同定できる。また、酵素反応を繰り返すことによって個々の段階の情報をくみあわせることによって、個々の異性体糖鎖中の構成糖の配列と結合部位が判明する。
【0031】
工程(1)で酵素反応が引き続いて2回以上行われる場合は、工程(3)は、そのうちのいくつかの酵素反応を受けたり受けなかったりした糖鎖のm/zを検出する工程であり、常法に従い質量分析スペクトルから糖鎖のm/zを検出する。
【0032】
以下に、具体的物質等について説明するが、本発明は以下の具体的物質や具体的態様だけに限定されるわけではない。
【0033】
<本発明の質量分析法の対象となる糖鎖異性体>
本発明の質量分析法の対象となる糖鎖としては、分子量の等しい構成糖を有するものが前記の理由で好ましい。例えば、(糖タンパク質の)糖鎖の構成糖として、グルコース、ガラクトース、マンノース等の分子量180のヘキソースを有するもの;N−アセチルグルコサミン、N−アセチルガラクトサミン等の分子量221のアミノ糖を有するもの;グルクロン酸、ガラクツロン酸等の分子量194のウロン酸等が挙げられる。当然のことながら、これらの構成糖を質量測定だけでは区別ができない。
【0034】
また、基質特異性が判明している酵素で酵素反応させることによって、結合している構成糖の種類(ガラクトースなのかグルコースなのか等)、特定の糖鎖の結合の種類(アルファ結合なのかベータ結合なのか)、特定の糖鎖の結合場所(C3位なのかC4位なのか等)等が分かり、質量測定だけでは判明しない糖鎖異性体の特定の構造、結合を識別できる。
【0035】
質量測定だけでは判明しないが本発明で識別できるものとしては、構成糖の種類が同一であるが、結合が異なる異性体が挙げられる。具体的には、例えば、「Galβ1−3GlcNAc」(以下、「タイプ1結合」と略記する)と「Galβ1−4GlcNAc」(以下、「タイプ2結合」と略記する)の識別;「H抗原構造Fucα1−2Galβ1−3/4GlcNAc」、「ルイスa抗原構造Galβ1−3(Fucα1−4)GlcNAc」および「ルイスx抗原構造Galβ1−4(Fucα1−3)GlcNAc」等の異性体構造の識別;「GalNAcβ1−4GlcNAc」と「GlcNAcβ1−3GalNAc」の識別;「Siaα2−3Gal」と「Siaα2−6Gal」の識別等、生物機能発現に関連する重要な異性体の識別が好ましいものとして挙げられる。このような糖鎖異性体の識別が可能になると、標準糖鎖の確保、生物機能解明や疾患の診断等に有用である。
【0036】
異性体混合物を質量分析(MS解析(1≦n))することによって、特異的なプロダクトイオンが検出され、特定の部分構造が存在することが明らかになっても、分岐構造が複数存在するとその組み合わせが複数できるので、それぞれの異性体の全構造は不明の場合がある。そこで、本発明によれば、通常の質量分析では識別できない異性体のうち、ある異性体のみに反応する特異性をもった酵素を用いることで、その異性体だけを別の分子量に変え、質量分析で識別することができる。
【0037】
<酵素反応に用いられる酵素>
本発明の酵素反応に用いられる酵素としては特に限定はないが、糖分解酵素、糖転移酵素、スルファターゼ、スルフォトランスフェラーゼまたはホスファターゼが好ましい。糖分解酵素および糖転移酵素は、糖鎖の合成や分解に関与する酵素で、基質となる糖鎖構造を他の異性体構造と厳密に見分けて反応を行うものである。さらに、糖転移酵素はその反応生成物として特定の異性体を合成することが可能である。
【0038】
本発明に用いられる糖分解酵素は特に限定されないが、α−ガラクトシダーゼ、β−ガラクトシダーゼ、α−シアリダーゼ、α−フコシダーゼ、α−N−アセチルガラクトサミニダーゼ、β−N−アセチルガラクトサミニダーゼ、α−N−アセチルグルコサミニダーゼ、β−N−アセチルグルコサミニダーゼ、α−マンノシダーゼ、β−マンノシダーゼ、β−グルクロニダーゼ、β−キシロシダーゼ、α−グルコシダーゼ、β−グルコシダーゼ、エンドα−ガラクトシダーゼ、エンドβ−ガラクトシダーゼ、エンドα−シアリダーゼ、エンドα−N−アセチルガラクトサミニダーゼ、エンドβ−N−アセチルガラクトサミニダーゼ、エンドα−N−アセチルグルコサミニダーゼ、エンドβ−N−アセチルグルコサミニダーゼ、エンドα−マンノシダーゼ、エンドβ−マンノシダーゼ、エンドβ−グルクロニダーゼ、エンドα−グルコシダーゼ、エンドβ−グルコシダーゼ等が挙げられる。
【0039】
特に好ましくは、β1、4ガラクトシダーゼ、β1、3ガラクトシダーゼ、α1、2フコシダーゼ、α1、3/4フコシダーゼ、α2、3シアリダーゼ、α2、6シアリダーゼまたはβ−N−アセチルガラクトサミ二ダーゼである。
【0040】
また、本発明に用いられる糖転移酵素は特に限定されないが、α−ガラクトシルトランスフェラーゼ、β−ガラクトシルトランスフェラーゼ、α−シアリルトランスフェラーゼ、α−フコシルトランスフェラーゼ、α−N−アセチルガラクトサミニルトランスフェラーゼ、β−N−アセチルガラクトサミニルトランスフェラーゼ、α−N−アセチルグルコサミニルトランスフェラーゼ、β−N−アセチルグルコサミニルトランスフェラーゼ、α−マンノシルトランスフェラーゼ、β−マンノシルトランスフェラーゼ、β−グルクロニルトランスフェラーゼ、β−キシロシルトランスフェラーゼ、α−グルコシルトランスフェラーゼ、β−グルコシルトランスフェラーゼ等が挙げられる。
【0041】
特に好ましくは、β1、4ガラクトシダーゼ反応を行い、さらに糖供与体として安定同位体UDP−[13]ガラクトースを用いたGlcNAc:β1、4ガラクトース転移酵素反応を行うものである。
【0042】
糖分解酵素、糖転移酵素は糖鎖の合成や分解を行い、基質となる糖鎖構造を他の異性体構造と見分けて反応を行う。さらに、糖転移酵素は特定の異性体を合成する。例えば、β1、4ガラクトシダーゼは、Galβ1−4GlcNAc結合(タイプ2結合)を切断するが、Galβ1−3GlcNAc結合(タイプ1結合)には作用しない。したがって、Galβ1−4R1およびGalβ1−3R2という2種の糖鎖異性体混合物に、β1、4ガラクトシダーゼを作用させると、切断されて分子量が162減少したR1、および、切断を受けずにそのままのGalβ1−3R2の混合物になるので、MS測定で容易に識別できるようになる。
【0043】
GlcNAc:β1、4ガラクトース転移酵素は、UDP−Gal存在下でGlcNAc−Rを基質としてGalβ1−4GlcNAc−Rを生成するが、GalNAc−Rを基質とせず、Galβ1−3GlcNAc−Rを合成することもない。そこで、先のR1およびGalβ1−3R2の混合物に、この酵素およびUDP−[13]−ガラクトースを作用させると、6Da増加した[13]Galβ1−4R1、および、そのままのGalβ1−3R2の混合物に変化するので、それぞれを区別することが可能になる。このように、酵素の基質特異性および生成物特異性を利用することによって質量を測定しただけでは識別できない異性体を別の分子に変換できる。
【0044】
この同位体元素の入った分子に変換する利点は、新たに結合した構成糖が糖鎖のどこに結合したのかの目印になることや酵素反応を受けなかった異性体とどの部分が異なるのか等が明確になることである。
【0045】
<データベース>
このようにして質量分析法によって得られた情報はデータベース化することによって、それを使用して、未知の糖鎖異性体の混合物から、特定の糖鎖異性体の存在を同定することができる。データベース化されるデータとしては、酵素の種類、組み合わせおよび反応をかける順序、酵素の糖鎖特異性データ、工程(3)のm/z、反応前後で変化するm/zの差等が挙げられる。かかるデータベースを使用して質量分析する方法も有用であり、かかるデータベースが記録された記録媒体も同様の理由で有用である。
【実施例】
【0046】
以下に、実施例を挙げて本発明をさらに具体的に説明するが、本発明は、その要旨を超えない限りこれらの実施例に限定されるものではない。
【0047】
実施例1
<タイプ2結合の同定>
互いに分子量および組成式が同一で構造異性体の関係にあるピレン標識ラクト−N−ヘキサオース(下記式(1)に示す)、および、ピレン標識ラクト−N−ネオヘキサオース(下記式(2)に示す)の混合物に、肺炎双球菌由来β1,4ガラクトシダーゼ(1.2mU)を加え、酢酸ナトリウム緩衝液(pH5)10μL中で、37℃20時間反応させた。
【0048】
【化1】

[式(1)および式(2)中、PBHは、1−ピレンブタン酸ヒドラジドを反応させた残基を示す。]
【0049】
なお、上記「ピレン標識」は以下のように行った。すなわち、試料をねじふた付きガラス反応管に加え乾固させ、500nmolの1−ピレンブタン酸ヒドラジド(以下、「PBH」と略記する)をメタノール20μLに溶解して反応管に加え、更に、メタノールで希釈した酢酸(酢酸とメタノールの比は体積比で1:8)2μLを加えてふたを完全に閉めた。よく撹拌後、80℃で20分間加熱し、1MのNaOH水溶液加えて中和した。1.7MのNaBH溶液30μLを加えて40℃で30分間反応させ、更に1.7MのNaBH溶液10μLを加えて40℃で30分間反応させた。
【0050】
次いで、過剰の試薬を除去するために以下の操作を行った。純水400μL及びクロロホルム400μLを加えてよく振った後静置した。下層のクロロホルムを捨て、新しいクロロホルム400μLを加えてもう一度抽出した。上層を取り乾固させた。Sep−pak C18カートリッジをメタノール続いて純水で洗浄し、乾固した反応物を純水に溶解してカートリッジに通した。純水でカートリッジを洗浄し、次に、アセトニトリル−純水(体積比6:4)で溶出することによって、PBHで標識、還元された、上記のピレン標識ラクト−N−ヘキサオース混合物を得た。
【0051】
前記の肺炎双球菌由来β1,4ガラクトシダーゼ反応溶液を100℃で5分処理し、UDP−[13]−ガラクトースを1nmolおよびβ1,4ガラクトース転移酵素0.8mUを、20mM MnCl含有100mM HEPES緩衝液(pH7)の5μL中で、37℃20時間反応させた。
【0052】
2,5−ジヒドロキシ安息香酸(DHBA)をマトリクスとして、MALDI−TOF MS装置(AXIMA−QIT(Shimadzu/Kratos社製))によって、MS分析を行った。
【0053】
その結果、ガラクトースが1個分の6Da増加した分子より生じた[M−H]イオンm/z1363.8およびガラクトース2個分の12Da増加した分子より生じた[M−H]イオンm/z1369.8が検出された(図1上)。
【0054】
タイプ2結合1個を有するラクト−N−ヘキサオースおよびタイプ2結合2個を有するラクト−N−ネオヘキサオースを分離操作を行わずにMS測定で識別することができた。
【0055】
比較例1
ピレン標識ラクト−N−ヘキサオースおよびラクト−N−ネオヘキサオースの混合物をMS測定した結果、1種類の[M−H]イオンm/z1357.6のみが検出され、区別は不可能であった(図1下)。
【0056】
実施例2
互いに分子量および組成式が同一で構造異性体の関係にあるdifucosylated decaose AおよびBの2種の混合物が分離同定された例を示す。試料を実施例1と同様にピレン標識し、MS分析を行うと[M−H]イオンm/z2379.9が検出された。次に、実施例1と同様にβ1,4ガラクトシダーゼ処理を行った後MS測定を行った。その結果、[M−H]イオンとしてm/z2379.9の他にガラクトース1分子減少したm/z2217.9が検出された。
【0057】
また、この試料をβ1,4およびβ1,3結合の両方を切断するガラクトシダーゼ処理を行った後、[M−H]イオンとしてm/z2217.9のみを検出した。したがって、この試料にはタイプ2結合を一個有する異性体およびタイプ1結合を一個有する異性体が含まれることが判った。
【0058】
実施例3
実施例2で得られたピレン標識糖鎖試料のβ1,4ガラクトシダーゼ処理混合物に、ひきつづき実施例1と同様にUDP−[13]−ガラクトースを用いてβ1,4ガラクトース転移酵素反応を行い、MS測定を行った。その結果、[M−H]イオンとしてm/z2379.9の他にm/z2385.9が検出された。
【0059】
実施例2と実施例3の結果、タイプ1結合を有する異性体はβ1,4ガラクトシダーゼで切断されないので[M−H]イオンとしてm/z2379.9を示し、タイプ2結合を有する異性体はこれとは異なる[M−H]イオンm/z2385.9に変化するので、MS上で分離することができた。
【0060】
実施例4
実施例2で得られたタイプ1結合を有する異性体である[M−H]イオンm/z2379.9を選択したMS/MS(図2の上のスペクトル)および実施例3で得られた[M−H]イオンm/z2379.9を選択したMS/MSを行った(図2の中のスペクトル)。両者からほぼ同様のスペクトルが得られ、m/z2015、1869、1139、1097、672、654等のプロダクトイオンが得られた。
【0061】
さらに、m/z1097イオンを選択してMS解析を行うとm/z364が生じたこと、m/z2015イオンを選択してMS解析を行うとm/z325が生じたことより、下記異性体Bで示す構造であることが判明した。
【0062】
実施例3で得られたタイプ2結合を有する異性体から生じた2385.9を選択してMS/MS解析を行った(図2の下のスペクトル)。その結果、m/z2060(2054+6)、1876(1869+6)、1145(1139+6)、1103(1097+6)、729、592(586+6)等のプロダクトイオンが得られた。
【0063】
以上の結果およびm/z1103イオンを選択してMS解析を行うとm/z325が生じたことより、下記異性体Aで示す構造であることが判明した。
【0064】
異性体A
【化2】

【0065】
異性体B
【化3】

【0066】
比較例2
実施例2のピレン標識混合物に対し、酵素処理をせずに得られた[M−H]イオンm/z=2379.9を選択してMS/MS解析を行った(図3)。両異性体からのプロダクトイオンが混在し、それぞれの構造を同定することは困難であった。
【産業上の利用可能性】
【0067】
本発明の質量分析法は、微量の試料で糖鎖異性体の構造が判明するため、各種解析法の標準糖鎖の確保、生物機能解明や疾患の診断等の分野に広く利用されるものである。そして、これらの情報を搭載したデータベースは、かかる分野に好適に利用できるものである。
【図面の簡単な説明】
【0068】
【図1】実施例1および比較例1において得られたMALDI−TOF MSスペクトルである。 上のスペクトル:実施例1、下のスペクトル:比較例1。
【図2】実施例2および実施例3において得られたMS/MSスペクトルである。上は実施例2の[M−H]イオンm/z=2379.9から得られたスペクトルを示し、中は実施例3の[M−H]イオンm/z=2379.9から得られたスペクトルを示し、下は実施例3の[M−H]イオンm/z=2385.9から得られたスペクトルを示す。
【図3】比較例2において[M−H]イオンm/z=2379.9から得られたMS/MSスペクトルを示す。

【特許請求の範囲】
【請求項1】
糖鎖異性体の混合物を用いてそれぞれの糖鎖異性体を分離同定する質量分析法であって、
(1)糖鎖異性体の混合物に対し、基質特異性が判明している酵素反応を行う工程、
(2)酵素反応を全く行っていない糖鎖異性体の混合物、および、最後に行った酵素反応後の反応物を質量分析する工程、
(3)酵素反応を受けたり受けなかったりした糖鎖のm/zを検出する工程、
を含むことを特徴とする質量分析法。
【請求項2】
酵素反応に用いる酵素が、糖分解酵素、糖転移酵素、スルファターゼ、スルフォトランスフェラーゼまたはホスファターゼである請求項1に記載の質量分析法。
【請求項3】
酵素反応の少なくとも1回が同位体構成糖を付加する酵素反応である請求項1または請求項2に記載の質量分析法。
【請求項4】
糖分解酵素が、α−ガラクトシダーゼ、β−ガラクトシダーゼ、α−シアリダーゼ、α−フコシダーゼ、α−N−アセチルガラクトサミニダーゼ、β−N−アセチルガラクトサミニダーゼ、α−N−アセチルグルコサミニダーゼ、β−N−アセチルグルコサミニダーゼ、α−マンノシダーゼ、β−マンノシダーゼ、β−グルクロニダーゼ、β−キシロシダーゼ、α−グルコシダーゼ、β−グルコシダーゼ、エンドα−ガラクトシダーゼ、エンドβ−ガラクトシダーゼ、エンドα−シアリダーゼ、エンドα−N−アセチルガラクトサミニダーゼ、エンドβ−N−アセチルガラクトサミニダーゼ、エンドα−N−アセチルグルコサミニダーゼ、エンドβ−N−アセチルグルコサミニダーゼ、エンドα−マンノシダーゼ、エンドβ−マンノシダーゼ、エンドβ−グルクロニダーゼ、エンドα−グルコシダーゼまたはエンドβ−グルコシダーゼである請求項2に記載の質量分析法。
【請求項5】
糖転移酵素が、α−ガラクトシルトランスフェラーゼ、β−ガラクトシルトランスフェラーゼ、α−シアリルトランスフェラーゼ、α−フコシルトランスフェラーゼ、α−N−アセチルガラクトサミニルトランスフェラーゼ、β−N−アセチルガラクトサミニルトランスフェラーゼ、α−N−アセチルグルコサミニルトランスフェラーゼ、β−N−アセチルグルコサミニルトランスフェラーゼ、α−マンノシルトランスフェラーゼ、β−マンノシルトランスフェラーゼ、β−グルクロニルトランスフェラーゼ、β−キシロシルトランスフェラーゼ、α−グルコシルトランスフェラーゼまたはβ−グルコシルトランスフェラーゼである請求項2に記載の質量分析法。
【請求項6】
上記質量分析が、MS、MS/MSまたはMSである請求項1ないし請求項5の何れかに記載の質量分析法。
【請求項7】
請求項1ないし請求項6の何れかの請求項に記載の質量分析法によって得られた情報を搭載したデータベース。

【図1】
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【図2】
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【図3】
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【公開番号】特開2007−292690(P2007−292690A)
【公開日】平成19年11月8日(2007.11.8)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2006−123427(P2006−123427)
【出願日】平成18年4月27日(2006.4.27)
【国等の委託研究の成果に係る記載事項】(出願人による申告)平成17年度、独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構、糖鎖エンジニアリングプロジェクト/糖鎖構造解析技術開発委託研究、産業活力再生特別措置法第30条の適用を受ける特許出願
【出願人】(000173924)財団法人野口研究所 (108)
【Fターム(参考)】