質量分析基板及び質量分析方法

【課題】測定対象物質を脱離・イオン化する質量分析において、脱離/イオン化した測定対象物質の検出を高感度に行うことができる質量分析方法を提供する。
【解決手段】基板上に、少なくとも、下記式(1)で表される官能基を1分子中に2個以上有し、かつ沸点が150℃以上であるイオン化剤と、測定対象分子とを載置する工程、前記イオン化剤と測定対象分子に、イオン、中性粒子、電子、並びに、レーザー光の中から選ばれる一つの一次ビームを照射する工程を有する質量分析方法。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、イオン、中性粒子、電子、並びに、レーザー光の中から選ばれる一つの一次ビームを用いて、測定対象物質を脱離・イオン化する工程を含む質量分析に用いる基板及び質量分析方法に関する。
【0002】
また、本発明は、イオン、中性粒子、電子、並びに、レーザー光の中から選ばれる一つの一次ビームを用いて、測定対象物質を脱離・イオン化する工程を含む質量分析装置により、測定対象物を構成する構成物、特にタンパク質等の有機物を種類ごとにイメージング検出する方法に関する。
【背景技術】
【0003】
質量分析装置は、測定対象物質を何らかの方法でイオン化し、これに電界あるいは磁界を作用させ、質量/電荷数(m/z)に従って分離した後、電気的に検出した質量スペクトルから測定対象物の定性分析、定量分析を行うものである。この場合、イオン化法としては、電子スプレイイオン化(ESI)、電子衝撃イオン化(EI)、化学イオン化(CI)、高速原子衝撃(FAB)、フィールドデソープション(FD)、レーザー脱離イオン化(LDI)、マトリックス支援レーザー脱離イオン化(MALDI)、元素イオン、元素のクラスターイオン、或いは分子イオン等を照射する2次イオン質量分析(SIMS)などの各種方法がある。例えば、レーザイオン化質量分析計では、試料にパルスレーザ光を照射してイオン化し、そのイオンを飛行時間型等の分析部に導くことで質量スペクトルなどを測定することができる。
【0004】
ここで、測定対象物質の質量が測定可能になる条件としては、まず検体中に含まれる測定対象物質が分子単位に独立した状態が形成されることと、分子単位に独立したものが正または負の電荷を有することとが必要となる。上述の質量分析方法のうち、特にMALDI方式は、これまで測定が困難であったポリマー材料や蛋白質といった高分子量の分子を測定できるため、近年、様々な分野で盛んに利用されている。これは、MALDI方式ではマトリックスを使用するために、測定分子同士の相互作用が弱められ、結果として測定分を分子単位で孤立して取り出す効率が高まったこと、及び、マトリックス自身がレーザー照射による反応によって測定対象分子のイオン化を行える可能性があるため、先に述べた質量分析を可能とする二つの要件を満たす事ができるためと推測されている。
【0005】
電荷が付与された測定物質としては、測定物質から電子が引き抜かれたラジカルカチオン、測定物質に電子を付与したラジカルアニオン、測定分子にプロトンやアルカリ金属や銀などの陽イオン付加したカチオン、ハロゲンなどの陰イオン付加あるいは脱プロトンによるアニオン等が挙げられる。特に蛋白質などの生体分子では、多くの極性基を有しており、プロトン付加によるカチオン化することで、比較的感度よく質量分析が可能となる。
【0006】
また、近年、レーザー照射型の質量分析においても、マトリックスを使用する代わりに、多孔質シリコン等を用いることで、比較的感度よく、かつ、マトリックス由来の共雑物のピークが少ない状態での質量分析が可能となっており、注目を集めている。多孔質基板による質量分析の作用効果は不明であるが、平坦な基板に比べ、比表面積が広いために、測定対象分子の吸着点が多く、基板上で測定対象分子が凝集する割合が減ったために、結果として、レーザー照射による1分子単位で脱離する割合が増えたものと考えられる。
【0007】
一方、近年、質量分析によるイメージング技術に対する注目が集まっている。これは、例えば腫瘍細胞等の生体組織や、半導体ウエハー等の電子材料において、発現している蛋白質や表面に付着している不純物の場所を特定することが強く求められているためである。
【0008】
質量分析によるイメージング技術においては、測定対象分子の脱離・イオン化を行う工程が、集束したイオンやレーザー光を照射するタイプの装置が適している。特に、SIMSでは、表面に付着しているものを、ガリウムイオンや金イオンを照射することにより、非常に効率よく脱離させることができる。また脱離が困難な比較的分子量が大きいものについては、ガリウムイオンや金イオンの照射時に断片化させることが可能なため、部分的ではあるが、測定対象物質に関する情報を得ることができる。
【0009】
このような、レーザーもしくはガリウムイオンや金イオンを照射する方式の質量分析法においては、測定分子の脱離は必ずしもイオンの状態ではなく、中性分子もしくは中性ラジカルの状態で脱離しているものもある。質量分析装置における検出は、1分子の単位に脱離した測定対象分子の電荷情報をもとにしているため、中性の分子やラジカルでは、脱離した個数が多くても検出することができないという課題があった。
【0010】
この測定分子のイオン化効率に関する問題は特にマトリックスを使わずに、レーザーやガドリニウムイオンを照射する質量分析方法において、顕著の問題となる。
この点を改良すべく、例えば特許文献1の実施例においては、測定分子によう化ナトリウムを加えて、測定分子はナトリウムイオンの付加体として検出する方法が開示されている。また、特許文献2においては、トリフルオロ酢酸、塩酸、硝酸、フッ酸等の酸を添加する方法によりイオン化効率を上げる方法が開示されている。
【0011】
しかしながら、アルカリ金属等の金属塩の含有は、測定対象分子のイオン化が効率よく行われる場合もあれば、例えば特許文献3に開示されているようにイオン化を逆に阻害することも知られており、必ずしもイオン化効率を上げるのに有効ではない。また、トリフルオロ酢酸や塩酸のような酸は、プロトン付与能力はあり、また金属塩などのようなイオン化阻害の作用はないために有効な方法では有るが、これらの酸は揮発性が高い。特に質量分析装置の内部は高真空状態であるため、これらの揮発性の酸は測定中に揮発し、そのプロトン付与能力が変化する可能性があり、イメージングのための複数箇所の測定では、測定場所や測定順序による酸の濃度の違いがイオン化効率を変える可能性があった。逆に硫酸は揮発性がない酸として知られているが、測定サンプル中の水等の溶媒が蒸発し、硫酸の濃度が高まると硫酸の強い酸化作用や脱水作用により測定対象分子が変質してしまう恐れがある。
【特許文献1】特開2006−201042号公報
【特許文献2】特開2006−153493号公報
【特許文献3】特開2006−170857号公報
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0012】
以上述べたように、従来の方法では、イオン、中性粒子、電子、並びに、レーザー光の中から選ばれる一つの一次ビームを用いて、測定対象物質を脱離・イオン化する質量分析においては、測定対象分子を長時間に渡り、あるいは測定場所を一様に、高い効率でイオン化させることが困難であるという問題があった。
【0013】
本発明は、この様な背景技術に鑑みてなされたものであり、測定対象物質を脱離・イオン化する質量分析において、脱離/イオン化した測定対象物質の検出を高感度に行うことができる質量分析用基板及び質量分析方法を提供するものである。
【課題を解決するための手段】
【0014】
上記の課題を解決する質量分析用基板は、イオン、中性粒子、電子、並びに、レーザー光の中から選ばれる一つの一次ビームを用いて、測定対象物質を脱離・イオン化する工程を含む質量分析に用いる基板であって、前記基板が下記式(1)で表される官能基を1分子中に2個以上有し、かつ常圧における沸点が150℃以上であるイオン化剤を有することを特徴とする。
【0015】
【化1】

【0016】
上記の課題を解決する質量分析方法は、基板上に、少なくとも、下記式(1)で表される官能基を1分子中に2個以上有し、かつ沸点が150℃以上であるイオン化剤と、測定対象分子とを載置する工程、前記イオン化剤と測定対象分子に、イオン、中性粒子、電子、並びに、レーザー光の中から選ばれる一つの一次ビームを照射する工程を有することを特徴とする。
【0017】
【化2】

【0018】
また、上記の課題を解決する質量分析方法は、イオン、中性粒子、電子、並びに、レーザー光の中から選ばれる一つの一次ビームを、照射する場所を変えることにより、取得した質量情報に基づいて測定対象物質の分布状態に関する情報を得る質量分析方法において、上記の質量分析用基板を用いることを特徴とする。
【発明の効果】
【0019】
本発明によれば、測定対象物質を脱離・イオン化する質量分析において、脱離/イオン化した測定対象物質の検出を高感度に行うことができる質量分析用基板及び質量分析方法を提供できる。
【0020】
また、本発明は、レーザー光照射による脱離、イオン化法の質量分析において、脱離/イオン化による高分子量化合物の検出を高感度に行うと共に、実質的に低分子領域の解析に支障がでないようにフラグメンテーションを極力避けることを可能にする質量分析用基板を提供できる。
【0021】
また、本発明は、該質量分析用基板を用いた質量分析方法を提供できる。
【発明を実施するための最良の形態】
【0022】
以下、本発明を詳細に説明する。
本発明に係る質量分析用基板は、イオン、中性粒子、電子、並びに、レーザー光の中から選ばれる一つの一次ビームを用いて、測定対象物質を脱離・イオン化する工程を含む質量分析に用いる基板であって、前記基板が下記式(1)で表される官能基を1分子中に2個以上有し、かつ常圧における沸点が150℃以上であるイオン化剤を有することを特徴とする。
【0023】
【化3】

【0024】
前記イオン化剤が、波長330nm以上370nm以下の紫外線を吸収しないことが好ましい。
前記イオン化剤が下記一般式(2)で表される化合物であることが好ましい。
【0025】
【化4】

【0026】
(式中、nは2以上7以下の整数を表す。)
前記質量分析基板が、金、プラチナ、ステンレス、酸化チタン、酸化亜鉛、酸化スズ、ITOから選ばれる素材で形成されていることが好ましい。
【0027】
本発明に係る質量分析方法は、基板上に、少なくとも、下記式(1)で表される官能基を1分子中に2個以上有し、かつ沸点が150℃以上であるイオン化剤と、測定対象分子とを載置する工程、前記イオン化剤と測定対象分子に、イオン、中性粒子、電子、並びに、レーザー光の中から選ばれる一つの一次ビームを照射する工程を有することを特徴とする。
【0028】
【化5】

【0029】
前記基板上にイオン化剤を塗布し、前記イオン化剤の上に測定対象分子を含有する溶液を塗布することが好ましい。
前記基板上に、イオン化剤および測定対象分子を含有する溶液を塗布することが好ましい。
【0030】
前記イオン、中性粒子、電子、並びに、レーザー光の中から選ばれる一つの一次ビームを、該イオン化剤と測定対象分子への照射位置を変えることにより、取得した質量情報に基づいて測定対象物質の分布状態に関する情報を得ることが好ましい。
【0031】
また、本発明に係る質量分析方法は、イオン、中性粒子、電子、並びに、レーザー光の中から選ばれる一つの一次ビームを、照射する場所を変えることにより、取得した質量情報に基づいて測定対象物質の分布状態に関する情報を得る質量分析方法において、上記の質量分析用基板を用いることを特徴とする。
【0032】
本発明者らは、鋭意検討を行った結果、下記式(1)で表される官能基を1分子中に2個以上有し、かつ沸点が150℃以上であるイオン化剤を有する質量分析用基板を用いると、測定対象分子を効率よく、しかも長時間にわたり一定した効率でプロトン化させることを見出した。
【0033】
【化6】

【0034】
一般に、蛋白質やペプチド等の生体物質は、複数のアミノ酸がアミド結合により繋がった構造をしており、そのイオン化においてはプロトンが付加される部位が比較的多く存在している。そのため、プロトン化によるイオン化によって、質量分析装置で検出可能となる。しかしながら、そのプロトン化されやすさは、物質ごとに異なり、一定ではない。蛋白質やペプチドの水溶液には等電点という水素イオン濃度が存在し、水溶液において等電点付近では、溶質である蛋白質やペプチドの電荷は0となり、その等電点以下の状態において、溶質はプロトン化されることが可能となる。従って、目的の蛋白質やペプチドのプロトン化には、ある程度プロトン付与性の高い化合物を用いることが好ましい。
【0035】
質量分析において、プロトン付与性の高い化合物を用いる例としては、例えば上述の特許文献2には、トリフルオロ酢酸、塩酸、硝酸、フッ酸、酢酸及びギ酸などの酸を用いることが開示されおり、ある程度の効果は認められる。しかし、ここに挙げられている酸のうち、トリフルオロ酢酸以外の有機酸は、酸としてそれほど強い酸ではない。酸としての作用する部分は、カルボキシル基であるが、この官能基はアミノ基にも含まれるものであり、特にアスパラギン酸などは、例えペプチド結合により1つのカルボキシル基がアミド結合に使われても、もう一つのカルボキシル基が存在する。従って、等電点としては低くなり、このアスパラギン酸ユニットが多いペプチドや蛋白質のプロトン化には、単なる有機酸添加ではプロトン付与性が十分ではない可能性もある。トリフルオロ酢酸は、カルボキシル基に結合する炭素原子が、電子吸引性の強いフッ素原子を有しているため、酸としての強さは、酢酸や蟻酸より高くなり、プロトン付与性を高めることができる。しかし、MALDI−TOF MSやTOF−SIMSにおけるイオン化室の気圧は、生成したイオン種が周囲の気体分子との衝突で失活するのを防ぐために、一般的には高真空状態である。このようなイオン化室の高真空環境においては、蟻酸、酢酸、硝酸といった低分子量の有機酸は揮発してしまい、プロトン付与体としての効力が低下するものと予想される。また、塩酸やフッ酸といった無機酸は水溶液状態であるが、水が蒸発した後は同様に、揮発してしまい、プロトン付与体としての効力が低下するものと予想される。硝酸については、水溶液としては共沸混合物形成のため、沸点は123℃程度である。しかし、質量分析装置の真空度は高く、気体状態の酸が溶解した酸では、質量分析装置の真空条件下で十分に残留し、測定対象物質をプロトン化させる作用を維持することは困難である。また、硫酸は蒸発しない酸であるが、酸化性が強く、粘性の高い酸である。例え希薄な硫酸溶液を用いても、水分の蒸発と共に、硫酸濃度が上昇することになる。有機物と高濃度の硫酸との接触では、硫酸の脱水作用により、有機分子中の酸素原子と水素原子が奪われ、炭化するといった激しい変性を起こすことも考えられ、高真空条件となる質量分析装置に用いる酸としては、揮発性はないものの、必ずしも適当ではない。また、硝酸についても、有る程度沸点は高いとはいえ、有機物との接触によりニトロ化等の変性反応を起こす懸念があった。
【0036】
本発明者ら、種々のプロトン化作用を持つ化合物について検討した結果、先ず、プロトン付与性を、通常の有機酸であるカルボキシル基よりも強くするために、カルボキシル基に結合する炭素にフッ素原子が結合した構造をとることが必要であることが見出した。更に、質量分析装置の高い真空条件においても、効力を持続するために、蒸発や揮発しない分子である必要がある点を考慮した。特に、沸点が150℃以上の化合物の場合は、質量分析装置の高い真空条件においても直ぐに揮発若しくは蒸発することなく効力を維持することが可能である。
【0037】
また、一般に蛋白質やペプチドなどの生体試料の分析においては、溶媒として水を用いることが多い。従って、測定対象分子である蛋白質やペプチドと、プロトン付与体とを接触させる場としては水溶液系が適しており、プロトン付与体も水溶性が必要であることがわかった。一般に分子量をあげれば、融点や沸点は上昇し、高真空条件下おける残留性は上がる。しかし、例えば、高いプロトン供与性を維持しながら融点、沸点を上げるために、フッ素原子含有の炭素鎖を上げていくと、融点や沸点は上昇するものの、水に対する溶解性が極端に低下し、蛋白質やペプチドなどのプロトン付与体としては利用できないことが分かった。また、融点や、沸点を上げるために芳香環を含むユニットを導入すると、紫外線に対する吸収が増え、レーザー照射型のイオン化方法においては、プロトン付与剤が照射レーザー光を吸収し、測定対象物質の脱離・イオン化を阻害したり、またマトリックス分子を用いる測定方法においてはマトリックスの結晶性を阻害する弊害が生じた。
【0038】
本発明者らが、プロトン付与剤に関し鋭意検討を重ねた結果、分子中に、下記式(1)
【0039】
【化7】

【0040】
で表される官能基を1分子中に2個以上有する化合物は、高い沸点を有しながら、プロトン付与性と水に対する溶解性をも維持することを見出し、質量分析におけるイオン化剤として好適であることを見出した。特に、これらのイオン化剤でも非芳香族系の分子は、実質的に紫外線域に吸収を有さず、レーザー照射型の質量分析においても、イオン化剤が照射エネルギーを吸収することがないため、有効にマトリックスや基板が照射エネルギーに吸収させることが出るため、測定分子の脱離過程を阻害することがない。
【0041】
本発明におけるイオン化剤の1分子中に存在する上記式(1)で表される官能基は2個以上であればよいが、取り扱いの簡便性から特に2個または3個が好ましい。
また、イオン化剤分子において、上記式(1)で表される部分以外の構造としては、分子としての沸点を150℃以上にできるものであれば、特に制限は無いが、波長330nm以上370nm以下の紫外線領域に強い吸収を持たせないために、非芳香族性のユニットであること、分子全体としてプロトン供与能を低下させないユニットが好ましい。特にフッ素原子で置換されたアルキレンユニットは、波長330nm以上370nm以下の紫外線領域における吸収を増加させること無く、またプロトン供与能を維持したまま、沸点を上げることができるため、好適に利用することが可能であり、パーフルオロアルキレン鎖の両末端に上記式(1)で表されるユニットが結合したパーフルオロジカルボン酸は、特に好適に用いることが可能である。この場合、あまりにもパーフルオロアルキレン鎖長が長くなりすぎると沸点やプロトン供与性の効果よりも、水溶性低下が予想されるため、上記式(1)を繋ぐパーフルオロアルキレン鎖の炭素数としては2以上5以下であることが好ましい。
【0042】
そのために、前記イオン化剤としては、下記一般式(2)で表されるジカルボン酸が好ましい。
【0043】
【化8】

【0044】
式中、nは2以上7以下、好ましくは2以上5以下の整数を表す。
以下に、本発明で用いることができるイオン化剤の具体的構造式を例示するが、本発明はこれらの例示化合物に限定されるものではない。
【0045】
【化9】

【0046】
本発明においては、イオン化剤の使用方法としては下記の3通りが考えられる。(1)一旦、質量分析用の試料基板上に、イオン化剤を塗布しておき、後に測定対象物質やマトリックス等の質量分析に用いる試薬を塗布する方法、(2)測定対象物質やマトリックスに対し、本発明におけるイオン化剤を同時に混合した溶液を基板上に塗布する方法、(3)基板上に測定対象物質やマトリクッスを塗布した上に、本発明のイオン化剤を塗布する方法である。
【0047】
本発明は、これらの方法のいずれかに特定されるわけではないが、特に予め基板上にイオン化剤を塗布しておく場合には、蒸発や揮発によるイオン化剤の消失がないのでイオン化剤の効力が最も顕著に現れる。
【0048】
本発明において、質量分析の試料基板としては金、白金等の貴金属やステンレス、アルミニウム等の金属、シリコンや酸化チタン、酸化亜鉛等の公知の材質を選択することが可能である。特に本発明のイオン化剤を予め塗布しておく基板としては、酸化して表面の電気的特性が変わることを避けるために、白金等の貴金属やステンレス、酸化チタン、酸化亜鉛を好適に用いることが可能である。特に、これらの材質の形状として平坦な材質よりも、最低谷底部から最大山頂部までの高さの差が10から200nm程度の凹凸のある基板を用いると、基板上に有るイオン化剤と測定対象分子との接触頻度が高められることにより好ましい。
【0049】
また、本発明においては、必要に応じてマトリックス分子を用いることができる。マトリックス分子としては、ニトロアントラセン(9NA)44、2,5−ジヒドロキシベンゾイックアシッド(DHB)、シナピニックアシッド、α−シアノ−ヒドロキシ−シンナミックアシッド(CHCA)などの従来公知の材料を選択して用いることが可能である。
【0050】
本発明において、質量分析のために使用する試料調整用の溶媒としては、水、エタノール、メタノール、プロピルアルコール、テトラヒドロフラン、アセトニトリル、ジメチルホルムアミド、DMSO、ベンゼン、トルエン、ジクロロメタン、トリクロロメタン、アセトン、メチルエチルケトン等の従来公知の溶媒を用いることができるが、本発明のイオン化剤のプロトン付与性を考慮すると、水等の極性溶媒が含まれているほうが好ましい。更に、質量分析試料の取り扱い上の問題として、難揮発性の溶媒よりは、沸点が150℃以下、より好ましくは120℃以下の溶媒を用いることが好ましい。
【0051】
また、本発明においては、イオン、中性粒子、電子、並びにレーザー光の中から選ばれる一つの一次ビームには、金イオンや金のクラスターイオン、ビスマスイオンやビスマスクラスターイオン、フラーレンイオン、電子、希ガス、紫外線レーザーや赤外線レーザー、可視光レーザーが用いられる。
【0052】
また、本発明において用いられる測定対象物質は、蛋白質、修飾を受けた蛋白質、ペプチド、修飾を受けたププチド、糖類、脂質類、糖蛋白、糖脂質、DNAやRNA、合成高分子、染料、顔料、添加剤等が挙げられる。
【実施例】
【0053】
以下、実施例を示して本発明を具体的に説明する。
<質量分析用試料基板例1>
鏡面加工したステンレス(SUS430、30mm×30mm×t0.6mm)上に反応性スパッタ法により樹枝状構造の白金酸化物層を1000nmの厚さに形成した。このときのPt担持量は0.27mg/cmであった。反応性スパッタは、全圧4Pa、酸素流量比(QO/(QAr+QO2))70%、基板温度80℃、投入パワー4.9W/cmなる条件にて行った。ここで、QOは酸素の流量、QArはアルゴンの流量を示す。
【0054】
次に、この樹枝状構造の白金酸化物を2%H/He雰囲気(1atm)にて120℃、30分間の還元処理を行い、樹枝状構造の白金ナノ構造体を有する基板を得た。次いで、この基板を、0.6mmだけ切削したMALDI−TOF MS(ブルカー社製)測定用のステンレス製ターゲット基板へ導電性両面テープで接着して固定した。
【0055】
<測定対象物質の調整例1>
質量分析の測定においては、RASG−1(分子量:Mw=1000.49)、アンジオテンシンフラグメント(Angiotensin frag.)1−7(Mw=898.47)、ブラジキニン(bradykinin)(Mw=1059.56)、アンジオテンシン(Angiotensin)I(Mw=1295.68)、アンジオテンシン(Angiotensin)II(Mw=1045.53)、レニニンサブストレート(Renin substrate)(Mw=1757.93)、エノラーゼ(Enolase)T35(Mw=1871.96)、エノラーゼ(Enolase)T37(Mw=2827.28)、メリチン(Melittin)(Mw=2845.74)の組成からなる9種類のペプチドが混合しているサンプル(MassPREP Peptides Mixture、Waters社)を用いた。各ペプチドの含有量はおよそ1.0nmolである。
【0056】
このペプチド混合試料に水を加え各ペプチド濃度が約10μmol/Lとなるように調整した。このペプチド溶解液を1μL滴下、乾燥させた場合には、測定試料の1スポット当たりに各ペプチドが約10pmol含有された状態である。
【0057】
実施例1
上記基板例1で作成した基板上に、下記構造式を有するパーフルオロジカルボン酸(沸点150℃/5mmHg)の1wt%水溶液:2μLを滴下、乾燥させた。
【0058】
【化10】

【0059】
更に、この基板上に、測定対象物質の調整例1で調整したペプチド溶液を1μL滴下、乾燥させた。
次いでこの基板をMALDI−TOF MS装置(商品名:REFLEX− III、ブルカー・ダルトニクス社製)へ装着した。MALDI−TOF MSの測定における照射レーザーは窒素レーザー(波長=337nm)であり、ポジイオンの反射モード(レフレクターモード)とした。照射レーザー強度は親イオンのピークが出始めた強度よりも2%だけ強い強度で測定し、一箇所において20パルスぶんのスペクトルを積算し、それを10箇所に渡り積算し、合計200パルスぶんのレーザー照射から得られる信号強度を合計したスペクトルを得た。
また、加速電圧26.5kVに設定し、質量数800から3000までのピークを取り込んだ。
【0060】
実施例2
実施例1においてイオン化剤を下記構造式で表される化合物(沸点150℃以上)に変えた以外は同様にして、試料調整及び質量分析測定を行った。
【0061】
【化11】

【0062】
比較例1
実施例1においてイオン化剤をトリフルオロ酢酸(沸点:74℃)に変えた以外は同様にして、試料調整及び質量分析測定を行った。
【0063】
実施例1、2及び比較例1の質量分析スペクトルを図1に示した。
実施例1、2と比較例1とのスペクトルの比較より、本発明のイオン化剤を基板に塗布した質量分析基板を用いることで、測定対象分子をより高感度に検出することが可能となることが分かる。
【0064】
実施例3
測定対象物質の調整例1と同様の9種類のペプチドが混合しているサンプル(MassPREP Peptides Mixture、Waters社)を、下記構造式
【0065】
【化12】

【0066】
で表されるパーフルオロジカルボン酸(沸点150℃/5mmHg)を1wt%溶解した水溶液にて溶解し、各ペプチド濃度が約10μmol/Lとなるように調整した。このペプチド溶解液を、上記基板例1で作成した基板上に、1μL滴下、乾燥させた。
【0067】
次いで、この基板をMALDI−TOF MS装置(商品名:REFLEX− III、ブルカー・ダルトニクス社製)へ装着した。MALDI−TOF MSの測定における照射レーザーは窒素レーザー(波長=337nm)であり、ポジイオンの反射モード(レフレクターモード)とした。照射レーザー強度は親イオンのピークが出始めた強度よりも2%だけ強い強度で測定し、一箇所において20パルスぶんのスペクトルを積算し、それを10箇所に渡り積算し、合計200パルスぶんのレーザー照射から得られる信号強度を合計したスペクトルを得た。
また、加速電圧26.5kVに設定し、質量数700から3000までのピークを取り込んだ。
【0068】
実施例4
実施例3において、イオン化剤を下記構造式
【0069】
【化13】

【0070】
で表されるパーフルオロジカルボン酸(沸点150℃以上)を用いた以外は、同様にして質量分析の測定を行った。
【0071】
比較例2
実施例3において、イオン化剤としてトリフルオロ酢酸を用いた以外は、同様にして質量分析を行った。
【0072】
実施例3,4及び比較例2の質量分析スペクトルを図2に示した。
実施例3,4と比較例2とのスペクトルの比較より、本発明のイオン化剤を測定対象試料に混合させた状態で測定することで、本発明のイオン化剤が特に測定対象分子をより高感度に検出させることが可能であることがわかる。
【0073】
実施例5
実施例1において、鏡面加工したステンレス(SUS430、30mm×30mm×t0.6mm)を濃塩酸(37wt%)に20分浸漬した後に、純水で2分間すすいで粗面化した基板を用た以外、同様にして質量分析の測定を行った。
【0074】
比較例3
実施例5において、イオン化剤を用いなかった以外は、同様にして質量分析の測定を行った。
【0075】
実施例5及び比較例3の質量分析スペクトルを図3に示した。
実施例5と比較例3のスペクトル比較より、本発明のイオン化剤により、測定対象分子を極めて高感度に検出可能にすることが分かる。
【0076】
実施例6
実施例5において、質量分析をMALDI−TOF MSから、TOF‐SIMSに変更した以外は同様にして検討を行った。TOF−SIMSは、下記条件件で行った。
【0077】
TOF−SIMS分析では、ION TOF社製、TOF−SIMS IV型装置を用い下記測定条件で測定した。
【0078】
一次イオン:25kV Ga+、2.4pA(パルス電流値)、sawtoothスキャンモード
一次イオンのパルス周波数:3.3kHz(300μs/shot)
一次イオンパルス幅:約0.8ns
一次イオンビーム直径:約3μm
測定領域:300μm×300μm
二次イオン像のpixel数:128×128
積算時間:約400秒
【0079】
比較例4
比較例3において、質量分析の測定をTOF−SIMS(測定条件は、実施例6と同じ)で行った以外、同様にして行った。
【0080】
比較例5
イオン化剤を下記構造式で示されるパーフルオロアルキル鎖のついたモノカルボン酸(沸点:218℃)の水溶液の調整を試みたが、溶解させることが困難であった。従って、質量分析を行うことができなかった。
【0081】
【化14】

【0082】
実施例6と比較例4とのスペクトルの比較により、本発明のイオン化剤により、測定対象分子の検出感度が上がっていることが分かる。
【0083】
実施例7
Insulin(組成式:C2543776575、分子量:5773.49)及び、Insulin Chain B Oxidized(組成式:C1572324047、分子量:3495.89)がそれぞれ2μg/Lである混合水溶液を調整し、更にイオン化剤として、下記構造式
【化15】

【0084】
で表されるパーフルオロジカルボン酸(沸点150℃以上)を2wt%となるように添加して、測定試料溶液を調整した。この溶液を金蒸着したシリコンウエハー上に、0.1μlを滴下し、大気圧下で乾燥後、下記測定装置にて質量分析を行った。
TOF−SIMS分析では、ION TOF社製、TOF−SIMS 5型装置を用い下記測定条件で測定した。
【0085】
一次イオン:25kV Bi+、0.3pA(パルス電流値)、sawtoothスキャンモード
一次イオンのパルス周波数:2.5kHz(300μs/shot)
一次イオンパルス幅:約0.8ns
一次イオンビーム直径:約3μm
測定領域:300μm×300μm
二次イオン像のpixel数:128×128
積算時間:約400秒
【0086】
比較例6
実施例7において、イオン化剤をトリフルオロ酢酸とした以外、同様にして測定を行った。
実施例7及び比較例5のスペクトルを図4に示した。実施例7では、Insulinのモノプロトン付加体、ジプロトン付加体、及びInsulin Chain B Oxidizedのモノカチオンが検出されているが、比較例6では、これらのピークは何れも非常に微弱で、実施例のイオン化剤の効果が確認できた。
【0087】
以下にイオン化剤の揮発性を確認した参考例を示す。
参考例1
実施例1、2及び比較例1及び5で使用したイオン化剤の水溶液(比較例5のイオン化剤は分散液):各3μLを、鏡面加工してあるMALDI−TOF MSの試料基板(ブルカー・ダルトニクス社製)に滴下、乾燥し、更に質量分析装置((商品名:REFLEX−III、ブルカー・ダルトニクス社製)に装着し、30分間、上記質量分析装置内の高真空状態(2×10−7torr)で放置した後、取り出し、基板表面に残留しているイオン化剤を顕微鏡にて確認した。その結果、実施例1,2及び比較例5のイオン化剤においては、装置層装着後も、イオン化剤が基板上に残留していることが確認できたが、比較例1で用いたイオン化剤は残留している痕跡を確認することはできなかった。
【0088】
参考例2
実施例1、2及び比較例1及び5で使用したイオン化剤を内径3mmの石英チューブに入れ、150℃のオイルバスに30分浸漬した後に、各イオン化剤の残留量を確認したところ、比較例1のイオン化剤は残留が確認できなかった。
【産業上の利用可能性】
【0089】
本発明は、測定対象物質を脱離・イオン化する質量分析において、脱離/イオン化した測定対象物質の検出を高感度に行うことができるので、質量分析におけるイオン化促進剤として利用することができる。
【図面の簡単な説明】
【0090】
【図1】本発明の実施例1、2及び比較例1の質量分析スペクトルを示す図である。
【図2】本発明の実施例3,4及び比較例2の質量分析スペクトルを示す図である。
【図3】本発明の実施例5及び比較例3の質量分析スペクトルを示す図である。
【図4】本発明の実施例7及び比較例5の質量分析スペクトルを示す図である。

【特許請求の範囲】
【請求項1】
イオン、中性粒子、電子、並びにレーザー光の中から選ばれる一つの一次ビームを用いて、測定対象物質を脱離・イオン化する工程を含む質量分析に用いる基板であって、前記基板が下記式(1)で表される官能基を1分子中に2個以上有し、かつ常圧における沸点が150℃以上であるイオン化剤を有することを特徴とする質量分析用基板。
【化1】

【請求項2】
前記イオン化剤が、波長330nm以上370nm以下の紫外線を吸収しないことを特徴とする請求項1記載の質量分析基板。
【請求項3】
前記イオン化剤が下記一般式(2)で表される化合物であることを特徴とする請求項1または2に記載の質量分析基板。
【化2】

(式中、nは2以上7以下の整数を表す。)
【請求項4】
前記質量分析基板が、金、プラチナ、ステンレス、酸化チタン、酸化亜鉛、酸化スズ、ITOから選ばれる素材で形成されていることを特徴とする請求項1乃至3のいずれかの項に記載の質量分析基板。
【請求項5】
基板上に、少なくとも、下記式(1)で表される官能基を1分子中に2個以上有し、かつ沸点が150℃以上であるイオン化剤と、測定対象分子とを載置する工程、前記イオン化剤と測定対象分子に、イオン、中性粒子、電子、並びにレーザー光の中から選ばれる一つの一次ビームを照射する工程を有することを特徴とする質量分析方法。
【化3】

【請求項6】
前記基板上にイオン化剤を塗布し、前記イオン化剤の上に測定対象分子を含有する溶液を塗布することを特徴とする請求項5記載の質量分析方法。
【請求項7】
前記基板上に、イオン化剤および測定対象分子を含有する溶液を塗布することを特徴とする請求項5記載の質量分析方法。
【請求項8】
前記イオン化剤が、波長330nm以上370nm以下の紫外線を吸収しないことを特徴とする請求項5乃至7のいずれかの項に記載の質量分析方法。
【請求項9】
前記イオン化剤が下記一般式(2)で表される化合物であることを特徴とする請求項5乃至8のいずれかの項に記載の質量分析方法。
【化4】

(式中、nは2以上7以下の整数を表す。)
【請求項10】
前記イオン、中性粒子、電子、並びに、レーザー光の中から選ばれる一つの一次ビームを、該イオン化剤と測定対象分子への照射位置を変えることにより、取得した質量情報に基づいて測定対象物質の分布状態に関する情報を得ることを特徴とする請求項5乃至9のいずれかの項に記載の質量分析方法。
【請求項11】
イオン、中性粒子、電子、並びにレーザー光の中から選ばれる一つの一次ビームを、照射する場所を変えることにより、取得した質量情報に基づいて測定対象物質の分布状態に関する情報を得る質量分析方法において、請求項1乃至4いずれかに記載の質量分析用基板を用いることを特徴とする質量分析方法。

【図1】
image rotate

【図2】
image rotate

【図3】
image rotate

【図4】
image rotate


【公開番号】特開2009−264911(P2009−264911A)
【公開日】平成21年11月12日(2009.11.12)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2008−114483(P2008−114483)
【出願日】平成20年4月24日(2008.4.24)
【出願人】(000001007)キヤノン株式会社 (59,756)
【Fターム(参考)】