説明

質量分析方法およびそれに用いる質量分析装置

【課題】エミッタからの安定したエミッション量を維持する。
【解決手段】本発明の一実施形態は、固体試料あるいは液体試料を加熱して、固体試料又は液体試料に含まれている測定対象物をガス化して中性気相分子とし、酸化表面を持つエミッタから放出された金属イオンを、前記中性気相分子に付着させることにより、前記中性気相分子をイオン化して、質量分析する。上記固体試料又は前記液体試料は加熱により還元性ガスを放出する試料である。上記測定対象物のガス化のための加熱は、固体試料又は液体試料の気化温度よりも低くかつ測定対象物の気化温度以上の温度で行われ、かつ、エミッタに酸化性ガスを付与する。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、試料に含まれる測定対象物をフラグメントフリーで測定するイオン付着質量分析方法および質量分析装置に係わり、特に還元性ガスを放出する試料、あるいは還元性ガスを含む試料に含まれる測定対象物をフラグメントフリーで測定するイオン付着質量分析方法および質量分析装置に関する。
【背景技術】
【0002】
質量分析法は、試料に含まれる測定対象物の分子をイオン化した後、このイオンを電磁的手法によって質量(質量数)に分別してイオンの強度を計測する。前半のイオン化する部分はイオン化部(イオン化装置)、後半の質量分別する部分は質量分析部(質量分析計)と言われている。質量分析法は、その高い感度・精度などから機器分析法の代表的な手法となっており、材料開発・製品検査・環境調査・バイオ研究など幅広い分野で利用されている。これらの多くはガスクロマトグラフ(GC)などの成分分離装置と結合して使用されているが、成分分離のために試料の精製が必要であること、成分分離が終了するまで数十分もの時間がかかることの問題がある。また、成分分離の間に試料に含有される測定対象物が変質・損失する場合があること、成分分離には深い知識と経験が必要なこと、などの問題もある。
【0003】
そこで、迅速・簡便・高精度を目的として、成分分離装置と結合せずに質量分析装置単独で測定する「直接測定法」も使用されている。
【0004】
「直接測定法」に使われるイオン化装置は、原理・構造が大きく異なるものがいくつかあるが、イオン付着質量分析装置(Ion Attachment Mass Spectrometer)は、解離を発生させずに被検出ガスを質量分析することができるという利点を有している。従来、非特許文献1や非特許文献2、非特許文献3、特許文献1によって、イオン付着質量分析装置の報告がなされている。
【0005】
図3に、固体試料または液体試料を加熱させて試料に含まれる測定対象物の質量数を測定する従来のイオン付着質量分析装置を示す。
【0006】
図3では、エミッタ107が内部に設置されたエミッタ・イオン化室100と、試料105が内部に設置された試料気化室101とは第一の容器130に配され、質量分析計160は第二の容器140に配される。第一及び第二の容器130、140は真空ポンプ150により減圧される。したがって、エミッタ107、エミッタ・イオン化室100、試料気化室101、及び質量分析計160はすべて大気圧より低い減圧雰囲気(真空中)に存在している。
【0007】
リチウムなどのアルカリ金属酸化物などを含むアルミナシリケードであるエミッタ107が加熱され、Liなどの正電荷の金属イオン108が発生する。すなわち、エミッタ107はアルミナシリケード(アルミ酸化物とシリコン酸化物の共晶体)にアルカリ金属(Liなど)の酸化物、炭酸化物、塩などを含有した焼結体である。そして、このエミッタは、減圧雰囲気中で600℃〜800℃程度に加熱されると、その表面からLiなどの正電荷のアルカリ金属イオン(金属イオン108)が発生する。
【0008】
試料気化室101は、エミッタ・イオン化室100につながれている。
この試料気化室101には、外部からプローブ(図示せず)にて固体試料あるいは液体試料(以下、固体・液体試料という)が挿入され、プローブの先端に設置された固体・液体試料105がヒータ(図示せず)によって加熱される。固体・液体試料105は気化(ガス化)して試料気化室101の内部に固体・液体試料105の中性気相分子106が被検出ガスとして放出され、エミッタ・イオン化室100に導入される。
【0009】
そこで、中性気相分子106はエミッタ・イオン化室100にてイオン化されてイオンとなる。
【0010】
最終的には、生成されたイオンは電場による力を受けてエミッタ・イオン化室100から質量分析計160まで輸送され、質量分析計160によりイオンは質量ごとに分別され、検出される。
【0011】
ここで、金属イオン108は、中性気相分子106の電荷の片寄りがある場所に付着し、金属イオン108が付着した分子(イオン付着分子109)は全体として正電荷を持つイオンとなる。付着エネルギー(付着させるためのエネルギーであり、付着後にはこれが余剰エネルギーとなる)は非常に小さいため、中性気相分子106は分解しないので、イオン付着分子109は本来の分子の形のままイオン化した分子イオンとなる。
【0012】
しかし、中性気相分子106へ金属イオン108が付着した後、イオン付着分子109をそのまま(余剰エネルギーを保持したまま)にしておくと、この余剰エネルギーが金属イオン108と中性気相分子106の間の結合を切ってしまう。そして、金属イオン108が中性気相分子106から離れて元の中性気相分子106に戻ってしまう。そこで、エミッタ・イオン化室100にガスボンベ170からN2(窒素)などのガスを50〜100Pa程度の圧力まで導入し、イオン付着分子109とガス分子が頻繁に衝突するようにする。そうすると、イオン付着分子109が保持している余剰エネルギーがガス分子に移動してイオン付着分子109は安定となる。
【0013】
このガスには別の機能もある。すなわち、エミッタ107から放出された金属イオン108を自らとの衝突によって減速させて、中性気相分子106に付着しやすくするという、イオン付着のプロセスで重要な機能も持たせており、このガスは、第三体ガスと言われている。
【0014】
第三体ガス用のガス種に必要な性質として、付着エネルギーが低くなければならないと言う条件がある。もし、第三体ガスの付着エネルギーが大きく感度が高ければ、発生量が限られている金属イオン108が大量に存在する第三体ガスに付着・消費されてしまい、肝心の測定対象物に付着する割合が低減(感度が低下)してしまう。図3に示されているように、第三体ガスボンベ170がエミッタ・イオン化室100に配管でつながっており、エミッタ・イオン化室100内に第三体ガスとしてN2が導入できるようになっている。
【0015】
ところで、試料として有機系のガス試料を用いた場合には、測定時間が長くなるとエミッタからの金属イオンの発生量(エミッション量)が徐々に(週単位で)減少することがあった。測定の感度や精度を大きく左右するこの現象に関して、特許文献2では、エミッション量の低下は、エミッタ表面が、カーボンや高分子量の有機化合物によって、徐々に覆われるためであるととらえている。該認識の下、特許文献2では、有機系のガス試料を用いる形態において、イオン化領域に第三体ガスとともにエミッタ表面の有機化合物を除去するような活性ガスを供給することにより、金属イオンの放出量を確保する発明が開示されている。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0016】
【特許文献1】特開平6-11485号公報
【特許文献2】特開2002-170518号公報
【非特許文献】
【0017】
【非特許文献1】Hodge(Analytcal Chemistry vol.48 No.6 P825 (1976) )
【非特許文献2】Bombick(Analytcal Chemistry vol.56 No.3 P396 (1984)
【非特許文献3】藤井(Analytcal Chemistry vol.61 No.9 P1026 (1989)
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0018】
一方、試料が固体試料又は液体試料(以下、「固体・液体試料」とも呼ぶ)であっても、エミッタからのエミッション量が減少することがあった。例えば、試料が樹脂(プラスチック)であって樹脂の各種性質(難燃性、可塑性など)を改善するために添加する「樹脂添加物」など樹脂中に含まれる測定対象物を測定しようとする場合、エミッタからの金属イオンのエミッション量が測定中に減少した。ところが、この場合、エミッション量は、試料が加熱されている最中には減少していくが、加熱終了後には、次第に(秒単位で)エミッション量は増加し、数十分で概ね元のエミッション量まで回復する現象が見出された。この現象は、エミッタが有機化合物に覆われることを原因とする、ガス試料に対する特許文献2の理由では説明がつかないものであった。
【0019】
エミッション量の減少は検出下限の劣化などを引き起こすが、特に秒単位でのエミッション量の変動は深刻で、定量精度を大幅に劣化させて質量分析装置としての価値を半減させてしまう。
【0020】
そこで、本発明は、加熱により還元性ガスを放出する固体試料又は液体試料を用いてイオン付着質量分析を行った場合でも、エミッタからの安定したエミッション量を維持することができるイオン付着質量分析方法を提供すること、および、それに適したイオン付着質量分析装置を提供することを目的とする。
【課題を解決するための手段】
【0021】
本発明者は、エミッション量の減少原因について、鋭意検討した結果、以下のような知見を得た。
【0022】
「樹脂添加物」の測定方法として、固体試料としての樹脂自体は軟化させるだけで気化させず、添加物として含有されている揮発性の高い「樹脂添加物」成分のみを気化して放出させることが一般的である。微量の「樹脂添加物」を測定するためには試料気化室への樹脂試料装填量を多くする必要があるから、この状態で大量の樹脂まで気化させると、気化した樹脂により装置の汚染(特に、エミッタの汚染)が進むからである。具体的測定条件の例としては、試料の加熱は、「樹脂添加物」は気化するが、樹脂の気化(分解)温度より若干低い300℃程度として、「樹脂添加物」が気化し、放出しきるまで保持する。
【0023】
樹脂の分解温度(気化温度)より低い温度で保持するため、樹脂の分解で発生した有機カーボンがエミッタ表面を覆うことを防止ないしは低減することができるものの、樹脂に含有されていたガスや、樹脂に含まれる未重合成分が大量に放出されることがある。これら放出ガスはほとんどがH(水素)原子を含む還元性ガスである。
【0024】
エミッタの内部に含有されている中性の原子(アルカリ金属原子)が表面からイオン(アルカリ金属イオン)として放出されるためには、この表面で原子から電子を奪い取られる必要があるが、このためには仕事関数が高くなるように表面が充分に酸化している(酸化表面を有する)ことが必須なため、と考えられている。
【0025】
本発明者は、試料が固体・液体試料であっても、エミッタからのエミッション量が減少するのは、樹脂といった固体試料や液体試料から放出される還元性ガスがエミッタに接触し、エミッタの表面の酸化度を弱めてエミッション量が減少するものと推測し、本発明に至ったものである。
【0026】
本発明は、固体試料あるいは液体試料を加熱して、前記固体試料又は前記液体試料に含まれている測定対象物をガス化して中性気相分子とし、酸化表面を持つエミッタから放出された金属イオンを、前記中性気相分子に付着させることにより、前記中性気相分子をイオン化して、質量分析する方法であって、前記固体試料又は前記液体試料は加熱により還元性ガスを放出する試料であり、前記測定対象物のガス化のための前記加熱は、前記固体試料又は前記液体試料の気化温度よりも低くかつ前記測定対象物の気化温度以上の温度で行われ、かつ、前記エミッタに酸化性ガスを付与することを特徴とする。
【0027】
また、本発明は、質量分析装置であって、酸化表面を持つエミッタと、酸化性ガスを導入するための酸化性ガス導入手段とを有するエミッタ室と、前記エミッタ室に隣接して設けられ、前記エミッタ室と、開口部を有する隔壁で分離されたイオン化室と、固体試料または液体試料を加熱し、該固体試料または液体試料に含まれる測定対象物をガス化して中性気相分子とするための試料気化室であって、該中性気相分子を前記イオン化室へと導入するように構成された試料気化室とを備え、前記中性気相分子を前記イオン化室に輸送させ、該イオン化室にて前記中性気相分子に前記エミッタから放出された金属イオンを付着させることを特徴とする。
【発明の効果】
【0028】
本発明によれば、還元性ガスを放出する試料、あるいは還元性ガスを含む試料であっても安定したエミッション量を維持することができ、フラグメントフリーによる各種メリットとともに定量精度の優れたイオン付着質量分析方法および装置を提供することができる。
【図面の簡単な説明】
【0029】
【図1】本発明の質量分析方法に用いられる質量分析装置の例の模式図である。
【図2】本発明の質量分析方法に用いられる質量分析装置の他の例の模式図である。
【図3】従来の質量分析装置の構成を示す模式図である。
【発明を実施するための形態】
【0030】
以下、本発明の好適な実施の形態を、実施例に基づいて図面を用いて説明する。なお、以下で説明する図面で、同一機能を有するものは同一符号を付け、その繰り返しの説明は省略する。
【0031】
(第1の実施例)
図1に本発明に係わる第1実施例のイオン付着質量分析方法に使用するイオン付着質量分析装置の例を示す。エミッタ107が内部に設置されたエミッタ・イオン化室100、および固体・液体試料105が内部に設置された試料気化室101は第一の容器130に配される。また、質量分析計160は第二の容器140に配される。第一及び第二の容器130,140は真空ポンプ150により減圧される。エミッタ107はアルミナシリケートにアルカリ金属の酸化物、炭酸化物、塩などを含有した焼結体であり、減圧雰囲気中で600℃〜800℃程度にヒータ等のエミッタ加熱手段(不図示)により加熱されると、その表面からアルカリ金属イオン(金属イオン108)が発生する。
【0032】
本実施例では、固体・液体試料105には、「樹脂添加物」が含まれており、試料気化室101内には、試料加熱手段となるヒータ(不図示)が設けられており、該ヒータにより固体・液体試料105は加熱される。不図示の制御装置の制御によりヒータは、固体・液体試料105の気化温度よりも低く、かつ固体・液体試料105に含まれる「樹脂添加物」の気化温度以上の温度で固体・液体試料105を加熱する。すると、試料気化室101にて加熱手段となるヒータによって加熱された固体・液体試料105自体はほとんど気化されないが、「樹脂添加物」は気化し、該気化された「樹脂添加物」が中性気相分子(ガス)106となる。このとき、固体・液体試料105の気化温度よりも低い温度で該固体・液体試料105を加熱しているので、固体・液体試料105の気化はほとんど起こらないが、加熱温度によっては固体・液体試料105が多少気化されている場合もある。この場合では、中性気相分子106には、気化された固体・液体試料105が多少含まれるが、中性気相分子106の大分部分は気化された「樹脂添加物」が占めていると言える。
【0033】
上記生成された中性気相分子106はエミッタ・イオン化室方向に移動してエミッタ・イオン化室100に導入され、そこで金属イオン108が付着しイオン化されて分子イオンとなる。最終的には、分子イオンはエミッタ・イオン化室100から質量分析計160まで輸送され、質量分析計160によりイオンは質量ごと分別・計測される。
【0034】
本実施例では固体・液体試料は樹脂(プラスチック)試料であり、樹脂に含まれている「樹脂添加物」を測定する。具体的には、本実施例では樹脂としてはアクリロニトリル・ブタジエン・スチレン(ABS)樹脂を用い、測定対象物である「樹脂添加物」としては、ポリブロモジフェニールエーテル(PBDE)などの難燃剤を分析した。
【0035】
本実施例では、エミッタ・イオン化室100にはガスを導入するための導入口172が設けられている。エミッタ・イオン化室100に、第三体ガスとして、酸化性ガスであるO(酸素)を、導入口172と導入管により接続されたOガスボンベ171から導入する。すなわち、Oガスボンベ171から供給された酸化性ガスとしてのOを、導入口172を介してエミッタ・イオン化室100に付与する。第三体ガスは、イオン・エミッタ室100が50Pa〜100Paの圧力となるように導入することが好ましい。
【0036】
また、本実施例では、上述のように、試料加熱手段となるヒータにより、「樹脂添加物」の気化温度以上に加熱した。加熱温度は、樹脂から還元性ガスが放出される温度以上であった。加温は、樹脂の分解温度(気化温度)より若干低い温度まで行い、そこで温度を一定に保持した。また、加熱している間、酸化性ガスである第三体ガスを供給し続けた。
【0037】
これにより、試料気化室101にて固体・液体試料105が加熱されている最中でもエミッション量の減少が概ね解消され、常に安定なエミッション量を維持することが出来た。これは、固体・液体試料105である樹脂から発生するH(水素)原子を含む還元性ガスによって酸化度を弱められたエミッタ107の表面が、第三体ガスとしての酸化性ガスO2が付与されることによって酸化度を回復できたためである。
【0038】
特許文献2に開示されたイオン化方法では、試料をガス試料としてエミッタ・イオン化室に供給している。このとき、ガス試料が有機系のガス試料である場合は、エミッタ表面にガス試料のカーボンや有機化合物が付着してエミッタの放出能力を低下させることがある。特許文献2では、上記放出能力の回復のために、エミッタ・イオン化室内を、活性ガスが上記付着したカーボンや有機化合物と反応して該付着物を取り除くような温度や圧力に設定して、エミッタ・イオン化室に活性ガスを導入し、エミッタを加熱している。よって、上記供給された活性ガスがエミッタ表面に付着・蓄積されたカーボンや有機化合物と反応して、該付着物が除去される。
【0039】
これに対して、本実施例では、試料としては、固体または液体試料(固体・液体試料)を用い、測定対象物を、固体・液体試料に含まれる「樹脂添加物」としている。従って、中性気相分子の生成源である試料気化室101に配置される試料は、固体または液体の試料である固体・液体試料105であり、なるべく固体・液体試料105に含まれる「樹脂添加物」のみを気化させるように固体・液体試料105を加熱して、中性気相分子106を生成する。すなわち、固体・液体試料105の気化温度よりも低く、かつ該試料に含まれる「樹脂添加物」の気化温度以上の温度で固体・液体試料105を加熱する。
【0040】
固体・液体試料105に含まれる「樹脂添加物」の量は、固体・液体試料105に比べて少ないので、中性気相分子106に含まれる、気化された「樹脂添加物」の量も微量である。従って、たとえ「樹脂添加物」が有機化合物であり、中性気相分子106がエミッタ107の表面に到来しても、気化された「樹脂添加物」の量が少量であるので、エミッタ107表面に付着する樹脂添加物由来のカーボンや有機化合物の量も微量となる。一方、本実施例では、用いる試料の殆どの割合を占める固体・液体試料105については、気化されないように加熱温度を制御している。従って、固体・液体試料105として有機化合物を用いる場合であっても、該固体・液体試料105由来のカーボンや有機化合物がエミッタ107表面に付着・蓄積するのを低減することができる。よって、本実施例では、エミッタ107表面に付着・蓄積するカーボンや有機化合物の量を低減することができ、特許文献2に開示された発明のように活性ガスを用いなくても、エミッタ107の放出能力を維持することができる。
【0041】
このように、本実施例では、特許文献2に開示された発明のようにガス試料を用いず、固体・液体試料を用い、さらに該固体・液体試料に含まれる「樹脂添加物」を測定することを前提としているので、測定対象物(樹脂添加物)の発生源となる固体・液体試料の加熱温度を、測定対象物の気化温度以上であり、固体・液体試料の気化温度よりも低く設定する。これにより、エミッタ表面のカーボンや有機化合物による汚染を低減することができる。
【0042】
しかしながら、固体・液体試料を用いる場合には、上述のように還元性ガスの問題がある。この還元性ガスの問題は、特許文献2に開示された発明のようにガス試料を用いる場合には無い、固体・液体試料を用いる形態に特有の問題である。すなわち、本実施例では、固体・液体試料105を加熱する際に、固体・液体試料105としての樹脂から水素といった還元性ガスが放出されることがあり、該還元性ガスが、エミッタ107の酸化表面の酸化度を低下させてエミッション量の低下を招くことがある。よって、エミッタ107表面への汚染物(カーボンや有機化合物)の付着を低減できても、エミッタ107表面の酸化度の低減により、エミッタ107の放出能力が低下してしまうのである。
【0043】
本実施例では、上記還元性ガスによるエミッション量の低下を抑えるために、第三体ガスとして酸素といった酸化性ガスをエミッタ107に付与している。該付与された酸化性ガスは、低下したエミッタ107表面の酸化度を回復させるので、エミッタ107の酸化表面を良好な状態に保つことができ、エミッタ107の放出能力の低下を抑制することができる。
【0044】
以上から分かるように本実施例では、該固体・液体試料105の加熱温度を、固体・液体試料105の気化温度よりも低く、かつ上記「樹脂添加物」の気化温度以上にし、さらに第三体ガスとして酸化性ガスを用いているので、還元性ガスが発生したとしても、試料が原因となるエミッタ107表面への汚染を低減しつつ、エミッタ107の酸化表面の酸化度を適切に保つことができる。
【0045】
このように、本実施例では、試料となる固体・液体試料105に含まれる「樹脂添加物」を測定することを前提として、試料として固体・液体試料105を用い、該固体・液体試料105の加熱温度を、固体・液体試料105の気化温度よりも低く、かつ上記「樹脂添加物」の気化温度以上にすることと、第三体ガスとして酸化性ガスを用いることとは、上記本実施例の格別な効果を得るために密接に関わっている。すなわち、試料として用いる固体・液体試料の加熱温度を、固体・液体試料の気化温度よりも低く、かつ「樹脂添加物」の気化温度以上にすることによって、エミッタ表面への汚染物の付着を低減できても、固体・液体試料から還元性ガスが放出される場合は、該還元性ガスがエミッタ表面の酸化度を低減させてしまう。しかしながら、第三体ガスとして酸化性ガスをエミッタに付与することによって、上記低下した酸化度を回復させ、エミッタの放出能力の低下を抑えることができる。
【0046】
なお、本実施例では、測定対象物である「樹脂添加物」の加熱を、該固体・液体試料105から還元性ガスが放出される放出温度以上に設定しているが、該放出温度よりも低くても良い。本実施例では、還元性ガスを固体・液体試料105から放出させることが重要なのではなく、固体・液体試料105から還元性ガスが放出された場合であっても、エミッタ107のイオン放出能力の低下を抑えることが重要なのである。すなわち、本実施例では、状況に応じて還元性ガスを放出する可能性がある液体・固体試料を用いる場合に、第三体ガスとして酸化性ガスをエミッタに付与することによって、上記還元性ガスが放出されても、該還元性ガスにより低下したエミッタ107表面の酸化度を回復させることが重要なのである。よって、本実施例では、固体・液体試料105から還元性ガスを放出させることは必須条件ではないのである。
【0047】
第三体ガスとしては、従来、不活性な窒素ガス、アルゴンガスが用いられることが一般的であったが、本実施例では、第三体ガスとして酸化性ガスである酸素ガスを用いた。第三体ガスとして酸素ガスを用いても分析に関しては基本的には問題がなかった。これは、酸素ガスが金属イオンとの付着エネルギーが0.8eV以下であることによる。すなわち、付着エネルギーが0.8eV以下であれば、金属イオン108が、大量に存在する第三体ガスに付着・消費されることがなく、測定すべき中性気相分子に付着する割合が低減(感度が低下)することがないからである。
【0048】
酸化性ガスとは、エミッタ-表面など固体表面の酸化を促進するガスであって、例えば、酸素(0)、オゾン(O)、二酸化炭素(CO)である。これらは、いずれも、金属イオンとの付着エネルギーが0.8eV以下であるため、好ましく使用できる。付着エネルギーは、二酸化炭素0.8eV、オゾン0.7eV、酸素0.5eVである。ただし、付着エネルギーが0.8eVより大きくても後述するように、含有量を調整することで酸化性ガスとして用いることができる。
【0049】
付着エネルギーは主に中性気相分子の極性の大きさに依存するが、各分子の付着エネルギー値は実験と理論から求められている。実験では付着効率の温度依存性から、計算では量子論に基づくコンピュータシミュレーションから付着エネルギー値が算出される。
【0050】
なお、長期的な使用に関しては、構成部品の材料によっては、構成部品が酸化されてしまうことにより劣化が生じる可能性があるので、酸化性ガスが接触しかつ加熱される構成部品については出来るだけ耐酸化材料を使用する、あるいは耐酸化材料をコーテイングすることが装置上は好ましい。
【0051】
本実施例では、第三体ガスにO2100%のガスを使用したが、次のようにガス種を変更することも可能である。
【0052】
第一の例としては、H2O含有量1%以下のドライエアー(乾燥空気)100%のガスを使用できる。ドライエアーはボンベを使用せず簡単な機械で空気から生成させることが出来るし、ボンベを使用する場合でも安価であるとのメリットがある。ドライエアーではO2の存在比率は1/5と低くなるが、エミッション量の低減に関しては、上記と同様の効果が得られた。ただし、H2Oは付着エネルギーが1.5eVとかなり高いので、試料測定対象物の感度を低下させないために含有量を1%以下とする必要がある。
【0053】
第二の例として、O3(オゾン)、あるいはCO2(二酸化炭素)100%のガスを使用できる。これらの付着エネルギーは0.8eV以下なので測定対象物の感度を低下させない。
【0054】
第三の例として、その他の単成分のガスであって、付着エネルギーが0.8eV以下である酸化性ガス100%の単成分ガスを使用できる。
【0055】
第四の例として、酸素(0)、オゾン(O)、二酸化炭素(CO)の少なくとも二種類の混合ガス、酸素(0)、オゾン(O)、二酸化炭素(CO)の少なくとも一種類と他のガスとの混合ガスであって、付着エネルギー(平均値)が0.8eV以下である混合ガスを使用できる。
【0056】
なお上記の例としては樹脂の測定例で説明したが、試料としては樹脂だけでなく、加熱により、エミッタ107の表面の酸化度を弱める還元性ガスを放出する固体・液体試料に対して有効である。このような、加熱により還元性ガスを放出する固体・液体試料としては例えば、木材、布(天然・人工)、ゴム(天然・人工)、建材、石油類などが挙げられる。また、加熱により還元性ガスを放出する樹脂としては、ABSやPVCの他に、ポリプロピレン(PP)、ポリスチレン(PS)、ポリエチレンテレフタレート(PET)、低密度ポリエチレン(LDPE)、高密度ポリエチレン(HDPE)、ポリカーボネート、ポリアミド、ポリブチレンテレフタレート、ポリオキシメチレン、変性ポリフェニレンエーテルを用いても良い。
【0057】
還元性ガスは、エミッタ表面など固体表面の還元を促進する、すなわち酸化の程度を低減するガスであって、少なくともガス成分の分子中に多量Hを含むものを言う。
【0058】
(第2の実施例)
本実施例も固体・液体試料は樹脂(プラスチック)試料であり、樹脂に含まれている「樹脂添加物」を測定することを目的とするが、試料は第1の実施例に比較して酸化しやすい固体試料であった。
【0059】
具体的には、樹脂としてはポリ塩化ビニル(PVC)樹脂を用い、「樹脂添加物」としては、フタル酸エステルなどの可塑剤を分析した。
【0060】
本実施例で用いたイオン付着質量分析装置の概略図を図2に示す。図2において、図1と同一構成部材については同一符号を付している。
【0061】
図2のイオン付着質量分析装置では、開口部付き隔壁120によって、エミッタ室122から導入される金属イオンを中性気相分子に付着させて該中性気相分子をイオン化するためのイオン化室122と、エミッタ室121とは隔離されている。エミッタ室121の内部にエミッタ107が設置され、イオン化室122は、試料気化室101内で発生した中性気相分子106をイオン化室122へと導入するように構成されており、試料気化室101とつながっている。試料気化室101にて試料加熱手段としてのヒータにより、固体・液体試料105は、固体・液体試料105の気化温度よりも低く、かつ固体・液体試料105に含まれる「樹脂添加物」の気化温度以上の温度の温度で加熱される。このようにして加熱された固体・液体試料105においては、「樹脂添加物」が気化され中性気相分子(ガス)106となる。エミッタ室121には、酸化性ガスを導入するための導入口172が設けられており、エミッタ室121内に、第三体ガスの一部として、Oガスボンベ171からのO(酸素)を導入している。
【0062】
試料気化室101には、「樹脂添加物」を気化することによって得られた中性気相分子(ガス)を、イオン化室122へ積極的に輸送するガス導入手段となるNガスボンベ170が接続されている。本実施例では、試料気化室101にはガスを導入するための導入口173が設けられており、Nガスボンベ170と導入口173とは導入管によって接続されている。このような構成において、本実施例に係るイオン付着質量分析装置は、Nガスボンベ170から供給された輸送ガスとしてのNを、導入口173を介して試料気化室101に導入する。
【0063】
すなわち、試料気化室101からイオン化室122への輸送ガスの流れを実現しており、この輸送ガスとして、不活性ガスとなる窒素(N)ガスを用いている。そのため、エミッタ室121からイオン化室122へ流れ込むO2(酸素)は、輸送ガスによって遮断され試料気化室101には侵入しにくい。従って、加熱時に酸化性ガスである酸素ガスの影響を受け易い試料を固体・液体試料105として用いた場合であっても、本実施例の装置を用いれば、固体・液体試料105は酸化性ガスの影響を受けにくい。Nガスボンベ170からを導入される、不活性ガスたる窒素ガスは、第三体ガスとしても機能している。
【0064】
なお、上記例では、輸送ガスとしての不活性ガスが窒素ガスである場合について説明したが、不活性ガスとしては、アルゴン、ヘリウム等の希ガスを用いることもできる。本実施例では、輸送ガスが導入される試料気化室101に配置される個体・液体試料105や中性気相分子106と、輸送ガスとの反応が極力起こらない方が好ましい。従って、上記不活性ガスは、化学的に安定であり、固体・液体試料と反応を起こしにくく、中性気相分子106の輸送を助ける輸送ガスとして好ましい。また、不活性ガスに限らず、設置される固体・液体試料105と反応しにくいガスを輸送ガスとして用いることも好ましい。
【0065】
このように、本実施例では、エミッタ室121とイオン化室122とを隣接して設けると共に、エミッタ室121とイオン化室122とを開口部を有する隔壁120によって分離し、Oガスボンベ171に接続された導入口172をエミッタ室121に設けている。従って、導入口172を介してエミッタ室121に供給された酸化性ガスとしてのOは、隔壁120の存在によってイオン化室122側に供給されるのが抑制されるので、酸化性ガスを供給したいエミッタ170へと効率良く付与できる。
【0066】
このように、酸化性ガスをイオン化室122に導入されることを抑制することを目的として隔壁120を設けているが、エミッタ107から発生した金属イオン108についてはイオン化室122に導入しなければならない。従って、隔壁120に開口部を設けており、該開口部を介してエミッタ室121からイオン化室122へと金属イオン108を導入すると共に、隔壁120によってエミッタ室121からイオン化室122への酸化性ガスの導入を抑制している。
【0067】
さて、隔壁120には開口部が設けられているので、イオン化室122へと導入される酸化性ガスも存在することになる。そこで、本実施例では、イオン化室122に接続された試料気化室101に、導入口173を介してNガスボンベ170を接続し、輸送ガスとしてのNガスを試料気化室101に導入して、試料気化室101からイオン化室122に向う輸送ガスの流れを形成している。従って、イオン化室122に酸化性ガスが導入されても、試料気化室101からイオン化室122へと輸送ガスが流れ込んでいるので、酸化性ガスが試料気化室101に導入されることは無い。そして、輸送ガスを導入することによって、試料気化室101にて生じた中性気相分子106を、上記輸送ガスの流れに沿って効率良くイオン化室122へと導入することができる。
【0068】
このように、本実施例では、輸送ガスとしてのNを試料気化室101に導入しているので、試料気化室101から流出させるガスについては効率良く流出させ、試料気化室101へと流入させたくないガスについては遮断することができる。
【0069】
本実施例のイオン質量分析装置を用いることにより、酸化性ガスであるOをエミッタ室に供給することによりエミッタの酸化を回復できるとともに、固体試料から気化された試料ガスがエミッタ室へ侵入することを低減できるので、相乗効果によりエミッション量に関する効果がより大きくなる。
【0070】
以上の各実施例では、金属イオン108としてイオン種を特定しなかったが、具体的にはアルカリ金属イオンであるLiやNa、あるいはK、Rb、Cs、さらに、Al、Ga、Inなども使用できる。また、質量分析計としてはQポール型質量分析計(QMS)、イオントラップ型質量分析計(IT)、磁場セクター型質量分析計(MS)、飛行時間型質量分析計(TOF)、イオンサイクロトロンレゾナンス型質量分析計(ICR)などあらゆる種類の質量分析計を使用することが出来る。
【0071】
さらに全体構造としては、イオン化室が設けられた第一の容器と質量分析計が設けられた第二の容器による二室構造を示したが、これに限らない。イオン化室の外側の空間の圧力は0.01〜0.1Paとなるが、この圧力で動作できる質量分析計では一室構造が可能であり、一方、桁違いに低い圧力を必要とする質量分析計では三室あるいは四室構造となる。一般的に、超小型QMSやITでは一室構造、通常のQMSやMSでは二室構造、TOFは三室構造、ICRは四室構造が適当と考えられる。
【0072】
本発明は、還元性ガスを放出する試料、あるいは還元性ガスを含む試料に含まれる測定対象物をフラグメントフリーで測定するイオン付着質量分析方法および質量分析装置に適応することができる。
【符号の説明】
【0073】
100 エミッタ・イオン化室
101 試料気化室
105 固体・液体試料
106 中性気相分子(ガス)
107 エミッタ
108 金属イオン
109 イオン付着分子
120 開口部付き隔壁
121 エミッタ室
122 イオン化室
130 第一の容器
140 第二の容器
150 真空ポンプ
160 質量分析計
170 ガスボンベ
171 ガスボンベ
172 導入口
173 導入口

【特許請求の範囲】
【請求項1】
固体試料あるいは液体試料を加熱して、前記固体試料又は前記液体試料に含まれている測定対象物をガス化して中性気相分子とし、酸化表面を持つエミッタから放出された金属イオンを、前記中性気相分子に付着させることにより、前記中性気相分子をイオン化して、質量分析する方法であって、
前記固体試料又は前記液体試料は加熱により還元性ガスを放出する試料であり、
前記測定対象物のガス化のための前記加熱は、前記固体試料又は前記液体試料の気化温度よりも低くかつ前記測定対象物の気化温度以上の温度で行われ、かつ、前記エミッタに酸化性ガスを付与することを特徴とする質量分析方法。
【請求項2】
前記酸化性ガスは酸素、オゾン、二酸化炭素から選ばれる少なくとも一種であることを特徴とする請求項1に記載の質量分析方法。
【請求項3】
前記還元性ガスがH(水素)原子を含むことを特徴とする請求項1または2に記載の質量分析方法。
【請求項4】
前記固体試料が樹脂(プラスチック)であることを特徴とする請求項1ないし3のいずれか1項に記載の質量分析方法。
【請求項5】
前記測定対象物が前記樹脂に含有される樹脂添加物であることを特徴とする請求項4に記載の質量分析方法。
【請求項6】
前記固体試料または前記液体試料が設けられる試料気化室に輸送ガスを供給して、該試料気化室から前記中性気相分子のイオン化が行われる領域への前記輸送ガスの流れを形成することを特徴とする請求項1ないし5のいずれか1項に記載の質量分析方法。
【請求項7】
酸化表面を持つエミッタと、酸化性ガスを導入するための酸化性ガス導入手段とを有するエミッタ室と、
前記エミッタ室に隣接して設けられ、前記エミッタ室と、開口部を有する隔壁で分離されたイオン化室と、
固体試料または液体試料を加熱し、該固体試料または液体試料に含まれる測定対象物をガス化して中性気相分子とするための試料気化室であって、該中性気相分子を前記イオン化室へと導入するように構成された試料気化室とを備え、
前記中性気相分子を前記イオン化室に輸送させ、該イオン化室にて前記中性気相分子に前記エミッタから放出された金属イオンを付着させることを特徴とする質量分析装置。
【請求項8】
前記試料気化室に、前記中性気相分子を前記イオン化室へと輸送するための輸送ガスを導入するための輸送ガス導入手段をさらに備えることを特徴とする請求項7に記載の質量分析装置。
【請求項9】
前記輸送ガスは、前記試料気化室に設置される固体試料または液体試料と反応しにくいガスであることを特徴とする請求項8に記載の質量分析装置。
【請求項10】
前記輸送ガスは、不活性ガスであることを特徴とする請求項8または9に記載の質量分析装置。

【図1】
image rotate

【図2】
image rotate

【図3】
image rotate


【公開番号】特開2010−170987(P2010−170987A)
【公開日】平成22年8月5日(2010.8.5)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2009−253865(P2009−253865)
【出願日】平成21年11月5日(2009.11.5)
【出願人】(000227294)キヤノンアネルバ株式会社 (564)
【Fターム(参考)】