説明

永久磁石鋼記憶媒体

【課題】ベンガラ(酸化鉄)などを使用しないで、オーディオやビデオの磁気テープに用いる永久磁石鋼記録媒体とその記録再生装置を提供する。
【解決手段】磁気記録媒体において、永久磁石鋼(残留磁気と抗磁力を増すためにタニグステン、コバルト、ニッケル、アルミニウム、クロム、チタン、モリブデンなどを入れた合金鋼)そのものを熱間圧延および熱間鍛延して出来るだけ薄くして、オーディオあるいはビデオのテープレコーダーのテープとする。

【発明の詳細な説明】
【0001】
[発明の属する技術分野]
本発明は、オーディオやビデオなどの磁気記憶媒体である。
【0002】
[従来の技術]
従来のオーディオやビデオの磁気テープは、「現代商品大辞典・新商品版(東洋経済新報社・1986年)(319〜325頁)」によると、オープンリールもカセットテープも業務用VTRテープも民生用VTRテープも総て同じように、磁性体には、磁性酸化鉄γヘマタイト(γ・Fe)、コバルト被着酸化鉄(Co・γ・Fe)(放送用から音楽用)、二酸化クロム(CrO)、メタル(純鉄・Fe)が使用されてきた。
【0003】
[発明が解決しようとする課題]
それらは皆、一時磁石に終わる磁性体で、ヘッドから磁界を受けて磁化されても、磁力は、その磁界が去ると途端に消えてしまう。これでは全く録音できる筈がない。
【0004】
[課題を解決するための手段]
「万有大百科事典・科学技術(小学館・1973年)」によると、「磁気録音」(238頁)とは、強磁性体に一度磁場を加え、磁場を取り去った後の残留磁気が、加えた磁場の強さつまり音の変化に応じて異なることを利用した録音とある。即ち、「残留磁気」が出来る磁性体でなくてはならない。
「大辞林・第二版(三省堂・1995年)」によると、「残留磁気」とは、強磁性体を磁場の中に入れて磁化した後、その磁場を取り去っても失われずに残っている磁気であり、永久磁石はこれを利用したものとある。
従って、これらから見ると、磁気録音の媒体には、「永久磁石」となる「永久磁石鋼(強い磁場によって十分に磁化されると、容易に磁性を失わず、永久磁石の材料となる炭素鋼、タングステン鋼、MK鋼などの鋼鉄)を使用しなくてはならないことが判明する。
【0005】
[発明の実施の形態]
本発明は、「特許請求の範囲」に簡潔に述記してある。
【0006】
[発明の効果]
磁気記録媒体方式は、1898年にデンマークのポールセンによって、鋼線式磁気録音機として発明された。そして、「現代新百科事典・5(学研・1966年)」によると、磁気テープは、1928年にプロイマー(独)によって発明されたとあるが、磁性体に何を使っていたかは述べられていない。
1963年にオランダのフィリップ社が所謂カセットテープとそのレコーダーを製品化した。同社が特許の無償公開を行なったので、1966年には国産化され、JISにもなり、大変な普及を見た。
しかし、現在では、その利用状況は微々たるもので、その原因は前述したように、その録音不能性にある。
どうして、このようなことになったかを想像してみると、プロイマーのテープ化に応えうる永久磁石鋼の粉末化が今私が考えても思い付かないように可能なことではなかったからではあるまいか。そして、永久磁石鋼は刃物の硬さを求めるのと全く同じ方法を以て磁力を高める訳で、大変硬いものであるから、これをスチールテープにするには高度な技術と設備がいるが、当時にはそれに応える技術水準が存在していなかったのであろう。
従って、ベンガラとして自然に存在し、亦簡単に粉末に製造できるFeで以て誤魔化し、何らかの方法でレコーダーから音声を出さざるをえなかったのに違いない。
従って、こう言う手品商法では、普及させうる範囲は極く限られる訳で、大衆化しそうになると、亦新しい手品商品が必要になるのは必然であり、短い時代時代でまやかし方を革新しなくてはならなかった。そして、今日まで根本的な改良は見られず、従って、どうしても真から大衆化できるオーディオやビデオの磁気記憶媒体は出現することはなかった。
本スチールテープを柔軟に巻き取れるように薄くすることは、今日の技術水準を以てすれば可能なのではないかと思われる。軟鉄100%のメタルテープと呼ばれたものが厚さ20μm即ち0.02mmであり、それで十分巻き取れていたようであるから、スチールテープは5〜10μm即ち0.005〜0.01mmくらいの厚さに出来れば十分実用できるのではないかと思われる。
本発明を以てしても、従来のカセットテープのような4.76cm/sのテープ速度ではとても良質には録音できそうもない。LPレコードでさえ、最短で209mm/sであるから、スチールテープでも最低190mm/sは必要なのではあるまいか。
私は、従来のフィリップス規格に捕われない新しいタイプのスチールテープ用のカセットテープを検討してみたいと考えている。
そこで、余談となるが、5分物の長さは、190mm/s×5分×60s/分=57000mm=57mとなる。幅を8mm、厚さを0.008mmとすると、そのテープの重さは、57000mm×8mm×0.008mm=3648mm、3.648cm×7.86g/cm=28.67gとなる。因に、30分物は、28.67g×30分/5分=172gであり、重くて困ると言うようなことはない。
私は、電波放送と言うものは、電波を全方向に出す限り、その電波力は距離の二乗に反比例するので、とても成り立つものではないと信じている。今、アンテナの半径をr、受信地点をr+Rとし、放送アンテナの上下発信幅をwとし、受信地点の受信上下幅をWとすると、アンテナの出力は2πr×wとなり、受信地点の電波力は2π(r+R)×Wとなる。両者を比較してみると、2πr×w÷2π(r+R)×W=rw/W(r+R)となり、そこで、電波の上下の拡散は、w/r=W/(r+R)の関係にあり、従って、W=w(r+R)/rとなる。これを上式に代入すると、rw/W(r+R)=rw/(r+R)・w(r+R)=r/(r+R)となる。今、Rが長距離の場合には、rを1とすれば、1/Rとなり、電波は距離の二乗に反比例して減衰すると言うことが証明される。
従って、私は、放送事業は電波では行なええず、有線で中でも電話回線で以て、番組毎に有料で行なうべきであると主張してきた。こうして、いろいろ考えてみると、ますますその思いを深める。
車の運転者には何か適当な刺激が必要に応じて得られなくては、緊張状態から弛緩状態に転じた場合に眠くなる。こう言うときに、音楽やニュースが必要になってくる。ラジオが本質的に駄目なので、それに代わるそれらを得る方法が欲しくなる。それには、振動に対して平気性の高いテープレコーダーで聴くのが最も安く付く。回線からテープレコーダーで以てニュースや音楽を求めて、通勤やビジネスの車中でそれが聴けるようになれば、ラジオはなくてもやって行ける。
この商売をもう15年くらい前に提案したが相手にされなかった。今になって思うに、その当時からそれを可能にするテープが存在していなかったのである。
本発明が本当に実用化出来れば、カーオーディオの分野だけでも、スチールテープに対する需要は莫大なものとなる。然も、今日的なことに、このスチールテープは従来のテープと異なって、幾らでもリサイクルが可能である。恒常的な資源の消費を回避しうる。
行く行くは兎も角、現在、世界には6億5000万台の車が走っている。それらに毎日30分のスチールテープ需要が発生するとすれば、その量は何と年間、
172g/台×6.5億台/日×365日/年=4081万t/年
に上る。我国の平成12年の粗鋼の生産量は約1億tである。大変な量であり、付加価値は鋼材より遙に大きいので、鉄鋼業界の新しい安定的に拡大する大きな夢となろう。
私は、今、テレビの回線放送を可能にする送受信システムと信頼性の確かなビデオテープレコーダーを磁気記憶以外の方法で発案している。その確立によって、世界的な放送用の回線送受信網を敷設することを提案出来そうである。低周波高圧伝送が可能になるからである。
そうなれば、スチールテープへの需要は上記の3倍の1億2243万t/年にも達しよう。
しかし、これを達成するには、多方面に亘る「人は如何に在るべきか」を基礎に置いた健全で奥の深い番組の莫大な開発が我国は勿論世界的になされなくてはならない。それを可能にするには、我国は勿論世界的に、犯罪性の少ない他人に生活を妨害されない安定した生活が保障されるようにならなくてはならない。
(公序良俗違反につき不掲載)
電子産業と放送産業は専らそう言う不満創りのためのものであって、健全な社会生活に寄与し、下層大衆の文明的・文化的生活の健全な向上に決して寄与するように使われて来なかった。
健全に生きたい下層大衆には一般的に言って安定した所得がない。自己が将来立っていけるだけの投資を自分も親もしたくても出来ない。即ち、腕や頭を付けたくても、公立学校においてさえ、だれも親身になってくれない。
しかし、知識や腕は決して自然児そのままでは付くことはない。頭に入れなくては長い経験を積まなくてはそれを組み合わせて取り出して生きるために使うようになれることはない。
そうであれば、一体下層大衆は、何を手本に生きる術と知恵を養えばよいのであろうか。公立学校をどんなに立派な校舎にしてもいろいろな分野で教員資格を取った者を幾ら雇っても、下層大衆は決して将来に身の立つようにはならないことになる。
即ち、他人にくれと言っても決してくれる者はいない。強いて言えば、総てを自己の責任で事業する資本家くらいなものである。資本家は事業に失敗すれば、総てを失うことになる。事業を健全に支えるものは結局他者に少しでも勝っている勝りうる人材である。下級技能者から高級技術者まであらゆる部門に、外部のイデオロギー集団に影響されることなく自由に職務を自立できる、他者に勝る人材がどうしても欲しい。
人間は、可能な限りより正しくより立派に生きることが子々孫々までの生存の保障であることを本能的に知っている。その健全な生存本能を狂わすものは罪を清算できない者たちの生きるがためのイデオロギーである。イデオロギーとは殆どの場合自己の犯罪性を飾る道具である。そのイデオロギーの下に同志を増やし続けたくなるのも結局自己を少しでも飾りたいがためであって、決して集めた同志の生活を立てようとするがためではない。
資本家が自己の生存のためには優秀な技能者や技術者が即ち物とサービスを他に勝って生み出す人が必要なのに対して、イデオロギーを以て自己を飾り選挙主義で生きようとする人には、資本家の求めるような経済の安定があっては、決してその飾りのためのイデオロギーに奉仕して、犯罪的に即ち「他人の生命、身体および財産」を政治的に財政からイデオロギー的政策で以て巧く犯そうと言う者に協力する者は出ない筈である。
(公序良俗違反につき不掲載)
即ち、資本家階級でない政治家は、如何に教育制度を弄しても、決してそれに与る子弟の身の立つようには、システムも教員も造ろうとしないものである。然るに、現在、資本家階級は政界に一も議席を占めることは出来なくなっている。私が20年以上に渡って公立学校での技能教育の必要性を説いても、一人の政治家さえそれを理解しようとする者はいなかった。今や、国内に思想的に健全であって、それ故に真に市民の生活向上に役立つ生活機器の開発・製造に参加して生きようとする優秀な労働力は殆ど得られなくなっている。
(公序良俗違反につき不掲載)
犯罪者的人物や集団の支配を出来るだけ受けたくなく、自己の働きうる能力を頭と腕に付けて自立して自主的に生きようと幼少の折から努める者に対して、その手本や模範を是非提供してやりたい。「人は如何に生きなくてはならないか」を道徳的にも勤労手段的にも他に影響されることなく自習できるようにしてやらなくてはならない。
それを総ての人に可能にするものは、真に科学的に立派な教科書である。何も教室で使うものだけを言うのではない。若し、どんなに貧しくとも、そう言う真の教科書が存在していれば、公的対策をきっぱりと否定して、それを子弟に求め与える父兄は殆どであろう。そして、中には自分も一緒になってそれを開くであろう。
そうして、その真理から、犯罪的イデオロギーに頼ることの危険と愚かさを学び、人間生活に真に役立つ真理の発見・発明とその具体化と啓蒙に努めた人々に対して深い敬意をどんなまやかしと妨害を受けても抱くようになり、少しでも人生を真実で生きれる人間になろうとするようになるに違いない。
本発明はその手本を提供しうる手段の一になるものであり、オーディオ・ビデオ産業に参画して生きて行こうする子供から大人までの人たちに自主と独立を少しなりとも与えうると信じている。
世界に工業化は広く蔓延し、我国だけがその主要的地位を独占することは全く出来なくなった。今日の工業における機械化はますます高度になり、しかも世界中のどの国でさえ労働力が安く在りさえすれば、それを武器に工業化を求めることが自由になっている。従って、我国が優秀な労働力を機械操縦向けに育成しえても、それを武器に原料を海外に求め、それを単に高度に加工して輸出して、工賃を稼ぐだけの加工貿易では、我国は生きて行けない。
我国に固有な資源で以て、即ち田畑と山と海を資源として、我国にそれに適した優秀な技能と技術を育成して、我国に特化的に固有な輸出製品を生産出来るようになり、全く自給できない鉱物資源とエネルギー(これからは太陽エネルギー)と交換出来るようになる以外に自立国たる可能性は乏しい。
現在は、加工貿易製品に競争力を付けるため、必要以上の量産化を政策しなくてはならず、そのために、必要以上に世界的に販路市場を獲得しなくてはならなくなり、その代償に、農産・林産・水産物を、国内の生産や開発を強制的に縮小して競争力を排除し、海外から輸入しているが、それを逆転的に政策して、それら本源的国内産業を振興し、是が非でも輸出余力が出るようにしなくてはならない。
中でも、私は海洋資源開発と田畑資源開発に経済転換の道を求めたい。これまで、日本の漁業は海洋資源を再生産することをちっとも考えなかった。資源の繁殖を全く考慮することなく、獲れるだけを獲り尽くしてきた。鮭は人工受精の確立によって一応資源の回復に成功したかに見えるが、そう言う対応の出来ない鰊や鰯や鯖などの大衆魚は資源の回復になす術を知らなかった。
そこで、私は考えたのであるが、近海の繁殖漁場に尿素や硫酸カリなどの化学肥料を適当に撒いて獲魚の餌になる植物性プランクトンを増殖することは出来ないであろうか。リンや窒素などに富む排水が湾潮に流れ込むと、赤潮などが発生することはよく知られている。従って、この近海の巨大プランテーション化は成算があると私は思っている。
そして、田畑の生産向上化であるが、兎に角、今日本全土の田畑を見ても判るように、この冬期には殆どが作付けされることなく遊んでいる。我国の食料自給率は、熱量ベースで僅か39%であり、主食穀物ベースでも58%に過ぎず、全穀物ベースではたったの26%にしか過ぎない。にも拘らず、国内経済のバランスを全く無視した必要以上の輸出産業偏重型経済とそれを維持するための代償輸入政策の犠牲となって、伝統的産業を営んできた我国土は全く無視されてきた。
しかし、海外の代償輸入農産物の品質が、牛肉などの肉類に見られるように、品質が極度に低下しており、然もその依存性から逃れうる国産農産物の生産が迅速に即応できないでいる。
これからは、どうしても、季節的な休耕政策を止めて、農地のフル生産に全開しなくてはならない。
(公序良俗違反につき不掲載)
よく考察してみると、大農業は農地が広大だから興ったのではなく、土地の生産力つまり反当りの生産量が少ないから、一戸当たりの農家の収入を上げるために必然的に発生したのではなかろうか。反当りの収量の遙に多い我国農業は、我国に適した畜産法を開発しなくては存立性がない。
即ち、我国には、大牧草地帯はなく、全土に田圃が展開している。そして、そこでは、米のほかに、牧草の丈の何倍もある稲藁が密集的に採れる。
資料が古いが、アメリカの農地は、耕地が1億8494万ヘクタール、牧草地・牧場が2億5500万ヘクタールで国土の32.6%を占めている。そこに、約1億頭の牛が放たれている。従って、年間1億頭近い子牛が生産される訳で、その半数は牡のカーフとなる。これが全く日本に入って来ないのは、商売ではない政治的要因によっているのではあるまいか。
勿論、酪牛の老廃牛も牝子牛の生まれる頭数に見合った約5000万頭出る訳であり、これを只同然で割り当てられるので、それを好いことと、国内生産を抑制して、高く店頭に並べているのではあるまいか。
そこで、我国の牧草地はと言うと、64.5万ヘクタールでしかなく、アメリカの僅か10000分の25に過ぎない。しかし、田圃は戦後から半世紀以上に渡る長い期間の宅地化による食い潰しに会ったにも拘らず、264万ヘクタールが残っている。これはアメリカの放牧地の約1%に当たる。しかし、ここでは、牧草の10倍もの稲藁が採れる。アメリカの伝で行くと、約1000万頭も飼える筈である。因に、現在の我国の飼育頭数は、乳牛174.4万頭、肉牛282.3万頭である。これに約1000万頭加わる訳で、相当な増産が可能となる。
私は正確なことは知らないが、石油の輸入価格が近年急騰しているので、飼料価格も上昇しているのか、乳牛の飼育頭数が急減している。
それでも、我国で、牡子牛が年間228万頭生まれる筈であるのに、成牛のビーフではなく、牡子牛の柔らかいカーフが店頭に全く出回らないのは、一体どうしたことであろうか。大きな大きな成牛に仕立てて、それを霜降りにすると称して、濃厚飼料は愚かビールまで与えて、ビーフを甘くすると称しているが、そもそもこれは使役牛を肉にするために採られた策ではなかったのか。今や使役牛は全く必要としない。成牛にまで飼育して肉を堅くし、そこでビールまで飲ます愚をする必要は全くない。牡子牛を7ヵ月くらい飼育してカーフとして市場に出せば、何らの無理をすることなく、美味しくて柔らかい牛肉が提供出来るわけである。
そして、アメリカでは5000万頭にも達し、日本でさえ乳牛176.4万頭の半数に当たる88.2万頭にもなる老廃乳牛は、食用にしようとするのはどだい無理であることが、私にも解かってきた。これを無償で受けて養豚や養鶏や養魚やペットなどの餌化する以外によい方法はなかろう。
牛皮革に対する需要は、万事化学素材化の現在でも全く衰えることはなく旺盛である。従って、落として皮を採ることには不合理はない。そこで採れる肉や骨を上等な飼料に加工することは容易であろう。今日の何もかもいっしょくたに肉骨粉化にするやり方は反省検討してみる必要があろう。
尚、今日、鶏肉も店頭では柔らかい美味しいものは全く手に入らない。これも牛肉と同じで、廃鶏の肉しか店頭に出てこない。生後12週間までの、シャモの若鶏の肉をブロイラーまた一般の若鶏の肉をチキンと呼ぶらしいが、私は、これら肉用の雛をわざわざ採らなくてもよいことに思い付いた。
我国には、採卵鶏が1億9000万羽近くおる。それを3年で廃鶏とするとすれば、毎年6500万羽が廃鶏となり、同数の牝雛が生産されねばならない。当然、同数の牡雛が出る訳で、それを適当に短期間飼育すれば、立派なチキンを採ることが出来る。統計ではブロイラーが1億羽も飼育されていることになっているが、店頭にブロイラーと銘打って出荷されているのを見たことがない。これもビーフ化と同じように、成鶏まで飼われているのかも知れない。牡雛の短期飼育で柔らかい美味しいチキンを是非提供してもらいたい。
尚、採卵廃鶏の肉も食用にすることは不味いのではあるまいか。私の体験では、戦後の物不足の時代に、自家飼育の採卵鶏の年を取ったものを落として食していたが、今日の鶏肉のように堅くて食べられないと言うことは全くなかった。何故、今日の廃鶏肉は歯が受け付けない程堅いのか、詳しいことは推測できない。食用にならないものなら、これも各種の飼育動物や魚類の餌に加工する以外にないが、牛と違って、皮が採れないので、牛のように丁寧な処理が出来るか疑問に思っている。仕方のない場合には、丸ごと肥料に加工して処理する以外になかろう。
若し、廃牛にしても廃鶏にしても、それを丁寧に処理した肉の蛋白質の単位当たり価格が輸入大豆の単位当たり蛋白質の価格より安ければ、それら肉を醤油の原料にしたら宜しかろうと思っている。
それから、私の体験では、市販の牛乳が搾乳のままではなく何か混ぜるのか、昔のようにねっとりせず甘くない。恐らく、輸入乳に頼っている所為であろう。確かに、牛乳は大変安くなった。しかし、各地で配置販売が行き詰まっていることが物語っているように、牛乳は受け入れられなくなっている。牛乳が国産の自然のままのものでなく、兎に角不味くて飲めるものでなくなっているからに違いない。
こう見てくると、アメリカの購入者に対してはベンダーファイナンスまで行なわなくてはならない程適正規模を逸脱している自動車の輸出の犠牲に乳業と消費者はなっていると言えるのではあるまいか。それは明らかに、自動車産業が、世界的な市場の頭打ちに会い、低価格競争による生き残り戦争に填っているからであり、人員削減と中国の低賃金獲得に走らざるを得なくなっており、国内経済への貢献度がどんどん低下している。従って、もうこれ以上、日本経済は自動車産業に輸出を依存することは出来なくなっているのである。
現在の大不況は、結局健全な就職状態を破壊することとなって収斂している。経済の看板を立て替えてみる必要性に迫られている。
必要以上に肥大化している自動車のアメリカへの輸出を適正規模に落とし、その分、食料の輸入を切り詰め、国内の水産業・農業・林業の自給率を拡大し、あいまってそれら産物の加工業を拡大して行くべきではなかろうか。その方が今や、絶対に国内の就職状況を遙に向上できると確信している。
自動車産業は、石炭の水性ガス化によるメタノール化延いてはそれからのエタノール化を世界的に行ない、石油への偏重を是正し、車用燃料価格の上昇傾向を世界的に抑え、世界的な需要の拡大を企図し、自動車生産国が揃ってアメリカ市場に頼り切った在り方を是正しなくてはならなかろう。
そうこうしている内に、エネルギー産業は確実に「太陽熱風力発電」による「太陽エネルギー」の時代に突入し、産業革命が必然し、世界経済特に先進国経済は精気を取り返すことになると信じている。
その「太陽の基地」は、アメリカでは南部諸州やメキシコが、ヨーロッパではアルジェリアが、アジアではオーストラリアが主要地域となるだろうと思っている。オーストラリアの基地は、日本が主力を占めたいものである。出来ることなら、莫大に広大な荒れ地を何百年と言う長期に渡って租借がしたいものである。そこから、我国は固よりアジアの全ての国に、電力を水素に変えて、それを液体アンモニアに加工して、水素の液体化を行って、太陽エネルギーを輸出したいものである。勿論、液体アンモニアの輸入国では、それに水を反応させて水素を採り出し、各分野の燃料とするのである。
この日本の担う基地建設は、それは100年以上に渡る何千兆円にも上る物凄く莫大なもので、それに参加する道路建設・運営企業、鉄道建設・運営企業、太陽熱風力発電所建設・運営企業は、鉄鋼産業、セメント産業、ガラス産業、ゴム産業、非鉄産業などの素材産業は固より、建設産業、鉄工産業、重機産業、重電機産業、重化学産業、船舶産業、航空産業などを中心に全産業に莫大な需要をそれは長期に渡って創り出すであろう。
勿論、国内は租借地建設の大好景気を迎え、農林水産業から小売産業まで大いに賑わい、物と人の往来は活況を呈し、国の隅々まで活気に沸き返ることになるであろう。
こう言う壮大な「太陽の時代」の可能性を、その源たる現地を訪ねて見て、自己の感覚で以て探って見たい人は、それは多かろう。
今日、海外旅行案内業者は、新しい観光地の発掘に窮しており、ダンピング以外に手の打ちようがなくなっている。
これまでは、世界遺産の指定運動に見られる如く、どうかして過去の遺産を保存し、その観光資源の永久化を施策していることに見られるように、観光とは人類の過去の歴史を振り返るものであった。
(公序良俗違反につき不掲載)
発想を大きく転換して、観光対象を過去の人類の偉業にだけでなく、未来の人類の壮大な可能性に向けて見ては如何であろうか。
可能性ある未来は、間違いなく、未開性を避けてはありえない。私の発明に世界の人々が人類の夢を探るようになっているようであるが、自然そのもので、人間に尽きることのない壮大な夢を与えるものは、何時の時代でも、広大無辺な未開の原野である。
日本の自然は殆ど開発し尽くされており、登山にさえ未踏の山頂は存在しない。この国内自然の消耗性が、戦前においては、満州開発に多くの国民を引き付けた。それは酷い荒野であったようであるが、そこに無限の食糧と燃料を求め、高度な科学文明の下の王道(仁徳に基づく政治)楽土(平和な理想的な土地)の建設を夢見させた。
未開の荒野は、斯くも人間に広大無尽の夢を与え、魅惑的に誘惑する。
先に述べた、アメリカやメキシコの、アルジェリアの、そしてオーストラリアの太陽の燦々と輝く大荒野は、間違いなく、人類にとっては、全領域的な高度な科学文明の源たって、世界の人々に永遠の王道楽土の夢を与える偉大な大地に違いない。
その壮大な王道楽土の建設には、先に述べたことから判るように、何千万と言う建設要員を必要とする。男は力一杯に腕を振るうことが出来、女は潤いに充ちた愛嬌を振りまくことが出来る。
今や、大多数の男女が、その壮大な夢の荒野を観光してみたくなっていることであろう。
その三大王道楽土建設荒野を、私はこれからの最大の観光名所としうるのではないかと思う。
アメリカを除いては、それら大荒野にはさしたる観光施設はない。簡易的ホテルから始めて観光バスセンターなどを建設して行かなくてはならない。
そして、大規模である必要はないが、未来画パネルや模型などを展示した未来博覧会的施設も必要であろう。
そして、この観光のベース市街はやがて太陽の時代の中心的大都市に発展して行くことになろう。
夢は人を集める。人はなお一層の夢を語る。その夢は更に一層の人を集める。新都市はこのようにして拡大成長して行くに違いない。
この新エネルギーの壮大な開発の夢は、化石エネルギーや原子力エネルギーのように、一時の徒花に終わることはない。尽きるとも止まない太陽エネルギーだからこそその永遠性を保障しうる。過去に全く例を見ない壮大で偉大な人類の夢である。
尚、余談的に記しておくと、(公序良俗違反につき不掲載)客を狙ったものではなく、偶に乗る人を集めて、ラッシュを外して走っていた。
私は、貨物列車は、道路を走るトラックの運行の仕方に倣わなくてはならないと思う。従って、列車編成は特別な場合以外は止めて、ガソリンカーのような、「レールトラック」を非定時に走らせたら如何かと思う。ロードトラックは兎に角荷が纏まったときに、その時必要な目的地に向けて走る。レイルトラックも所定の貨物駅から、時間も目的地も任意に出発出来るようにしたい。
それには、それを可能にする自動運行調整指示装置が各レールトラックにディスプレーされなくてはならない。前に述べたように、電波は減衰がひどく、なかなか使い物にならないが、PHS的方法でもって、それを指向性を強くすれば、目的を達成できよう。またこの方法は、駅と運転士との通信にも使えよう。
例えば、広島・大阪便がトラックに負けないくらいに運行出来れば、その採算性には全く問題はなく、これからの運輸方式として発展的に定着して行けるに違いない。
このレールトラックは、アメリカやヨーロッパの地方鉄道は愚か横断鉄道においてさえ採用される見込みがあるように思われる。ここにおいても、我国の鉄道技術開発陣は世界的な鉄道新世紀を開く偉大な先導者となってもらいたい。
以上のように、日本経済は、偏重化した加工貿易構造から脱出して、国内資源利用輸出製品化を推し進めて、明治の革命以来、日本産業界とそれを助ける日本政界の常套手段であった、イミテーション的文明・文化製品の生産・普及・輸出化ではなく、日本民族の主体的自立的な文明・文化生産品を内外に普及しうるように興業振興しなくてはならない。
それには、現在のグローバル経済化が何を為すために推進されて来たか、そして、それが一体何を日本経済や世界各国の経済にもたらしているかを正しく認識しなくてはならない。一定範囲の世界的に有力な企業が超有名ブランドとして、世界各国に覇道(武力・策略などで国を治めること)を敷こうとしたのではあるまいか。
(公序良俗違反につき不掲載)
昔は、デパートも財閥的に経営も扱い商品も特化していた。一般客は、それぞれを贔屓的にある時はボランタリーにそれぞれの特化を楽しむことが出来た。
確かに、グローバル(世界的規模である状態)化経済は行き詰まった。それは、端的に言えば、民族を生産と生活の単位として考えることを放棄したからである。
国粋主義(自国民および自国の文化・伝統を他国より優れたものとして、排外的にそれを守り広げようとする考え方)に凝り固まって他国の状態や行き方を全く無視するようになることは、明らかに、「人は如何にあるべきか」を忘却した偏向である。
(公序良俗違反につき不掲載)
中国には12億の民がある。然るに、我国には1億2700万しかいない。若し、経済の総売上のみで国威が振るわれるのであれば、日本は、何がなんでも、一人の国民が一人の中国の国民の10倍の所得を揚げなくてはならないことになる。
それは、我国の国民が中国の国民の10倍の産出を揚げねばならないことを意味する。とても、グローバル化製品に画一化し、国際的水平同和主義に乗っていては、それは全体無理な話である。これは、アメリカにさえ言えることであり、ヨーロッパの各国に対しても言えることである。
日本始め全ての国が少し歴史を戻して、自国の民族にルーツを求めた経済・政治の在り方を必要としているように思える。
今日の日本の科学文明の殆どが、そして、その上に成り立っている生活文化のの殆どが西欧の歴史的所産の模倣で以て成り立っている。それから、抜け出して、一歩先を走るようになりうるには、日本民族を中心的に考えた文明と文化が是非とも必要である。
それは、これまでとは逆に、日本の文明と文化の所産が世界各国の文明と文化の活動の模範となるようになることである。
これまでの導入文明・文化の基本的思想を基にして、世界に一歩先んじる科学技術思想をそして生産物を、またその所謂上部構造たる政治制度やその基となる政治思想を、日本民族的に創造しうるようにならなくてはならない。
その日本民族的とは、もう何度も繰り返すようであるが、「人は如何にあるべきか」から出たものである。
それを政治の面について、簡潔に述べれば、アメリカの政治史では全く見られない、日本独特な政治の歴史的在り方であり、文治と武断を継続的に施政して、経済の振興策による放漫財政と治安の紊乱の結末を、武力を用いないで教化または法によって治めるのを文治主義と言うが、新井白石の「正徳の治」のように、幕府や各藩の内部は機構的にも財政的にも粛正できるが、政治機構外の今で言う経済界や庶民生活の犯罪化は、徳川吉宗の「亨保の改革」のような武断(武力を背景にして事を処理したり、政治を行なったりすること)で以て対応処置しないと、予防・鎮圧できないと言う歴史的事実に基づいたものである。こう言う綱紀の粛正がかなりな円満さ以て成功するには、学問(一定の原理によって説明し体系化した知識とそして理論的に構成された研究方法などの全体)を大いに活用した殖産興業の奨励策が伴われて、それが相当な成果を上げなくてはならない。
1929年の世界大恐慌以来のアメリカ政治は、国内の金の多寡と流通を変動させることに主政策を置くものであって、犯罪化する経済界と市民行動を武断しようとしたことは全く無かった、と言うより為し得なかった。
戦後の日本の政治も、政治の時代を謳った人はあったが、結局「えいちゃんと呼んでくれ」に終わり、伝統的日本型政治を以て綱紀の粛正を行なった人は全くいない。
何故、民主主義政治は、大借金を重ねて企業と個人に金を撒かないと成り立たないのか。そう言う政治システムは理想の政治制度なのか、そしてそれを少しで理想に近づけることは出来ないものなのか、それは一体誰を以てすれば可能なのか、真剣に、アメリカ政治史に学ぶことは不可能なのだから、日本政治史に温故知新する以外に無かろう。詰まるところは、そう言う行き方を、日本民族をもう少し中心に据えることの出来た経済・政治の在り方であると言いたいのである。
私も、よく研究した訳では無いので、確信を以ては言えないが、日本の伝統的な政治の在り方は、一言で表わせば、「王道楽土」を標榜したものであったように思われる。それは、前にも述べたが、簡単に言えば、仁徳に基づいた王道によって政治の行なわれている平和な理想的な国を目指すものであった。仁とは、己に克ち、他に対するいたわりのある心を言い、徳とは、修養によって得た、自らを高め、他を感化する精神的能力を言う。そして、この仁徳は勿論民に対して執拗に説かれたのであろうが、政治を行なう者にこそ最高の守るべき教えとして説かれた。
明治の革命後、我国は、次第に民主化して、国民は参政権を獲得し、基本的人権が確立し、自由と平等をより水平に追求する運動の歴史であったと言えるのではあるまいか。
それと同時に、資本主義的商品経済が高度化してきた歴史でもあった。
しかし、その歴史は常に政治運動の歴史であり、政治はどう言う理想を以て行なわれるべきか、又国民はどう言う理想を目指して生きるべく活動をするべきかを掲げえた政治指導者も政党も現れた例はなかった。
商品経済の排出する労働者的あるいは企業者的な失業的あるいは倒産的問題の処理を政治は押しつけられぱなしで、では、その問題に抜本的に対処するには如何にあるべきかは訪われることは全く無かったと言ってよい。
その根本問題に対しうる能力を得たり与えられたりすることが無かったため、政治は、結局、各種に社会運動化し、どの運動も、互いに自らの働きで向上し、社会で自律的に独立した存在たろうとするのではなく、結局、甘いイデオロギーで以て殆ど労働に従事しないで、財政から巧みに生活費を盗み取りさえすればよく、その劣等感を被い隠すべく、そのイデオロギーの源を遠い過去の封建主義に置いているようである。
(公序良俗違反につき不掲載)
それは、何時の間にか、終に、日本全国化し、グローバルな超大企業は海外に労働力を求めるところとなった。
しかし、それは、結局、下級労働力に過ぎず、画一的なチープな大量製品を余儀なくされ、終には、次から次により低賃金を求めて新興後進国を渡り歩かねばならなくなり、日本は固より、各国の賃金水準を次々に低下させ、世界的に購買力を低下させてしまった。
この大経済破壊の現状を建て直すには、前に述べたような、国を挙げての万事におけるチープ化への傾斜を、日本民族をもう少し中心に据えた万般的な行き方が政府にも企業にも個人にも必要なのではなかろうか。
世界の国々がそうなれば、世界的に相手の特徴を認め合った、新しい生活文明・文化がその国々に勃興し、それらを交易し合えて、世界は画一的なチープ経済・政治から脱出できるに違いない。
いろいろと述べたように、余り遠くない将来には、人類には、建設的で平和な生存が、国民の真面目な努力次第では、永遠的に約束されることが少しづつ判り出した。
しかし、ここ当面の問題としては、今や、絶対に輸出産業の見直しが必要である。従来の西欧のイミテーション的文明製品に代って、日本民族を中心に据えた、創造的文化製品を輸出産業として興業振興して行かなくてはならない。
即ち、人材的労働力を出来るだけ機械化による大量画一製品としてではなく、「人は如何に生きるべきか」と言う普遍的テーマを共通のベースに据えて、単に映画的・音楽的ではなく、それぞれの独自性を発揮して、生活的可能性を啓蒙しつつ正当な生きる努力をすれば、そこには必ず安定した生活が可能であるとの夢と努力を与えうるものが結局は広い支持を受けることになると思われる。
今日の特に映像文化とは或いは正反対なものかも知れないが、私の経験だけに基づけば、勧善懲悪をベースとした西部劇に叶う娯楽映画は戦後では存在性がなかったように思う。
現在、国民と人類は一体何に飢えているのであろうか。私は、最も短く言えば、「悪を懲らしめる勇気」ではないかとおもう。そして、正しい行ないを奨励し保障してくれる人であろう。こう言う飢えは、物質的な工業製品即ち文明製品だけでは癒せない。矢張り、映画や音楽や演劇や小説や詩や論説などの高度に高級な文化製品が加わらないと心に染み入らない。
そして、もう一つ、国民の最も飢えているものは、全身全霊で以て取り組める労働である。働いては学び、学んでは働く、そう言う人生作品は必ずヒットすることを「おしん」は教えている。これからは、働いては学び学んで働きそして社会を遊学すると言う社会になりたいものであるが、その可能性と努力の仕方を啓蒙出来るのは上述の健全で優秀な文化製品である。
「ウエスタン」や「おしん」が、今日の「ハリーポッター」や「千と千尋の神かくし」などが如何に各種賞など与えて大宣伝しても一向に受け入れられないのに比べ、如何に悠々と広大に世界各国で支持されたかを思い出せば、人々は何を文化製品に求めているかがよく解かろう。
何故それに、今日の文化製品制作者は気付かないのか、それは自己のイデオロギーからくる恣意的なものか、或いは下層階級出身のため、そう言う人間性を知りえなかったのかの、どちらかであろう。(公序良俗違反につき不掲載)
そう言う犯罪的社会を予防・鎮圧しうる社会の仕組みを是非描き出したいものだと思っている。しかし、私は、勉強不足で、戦前の「治安維持法」をよく研究していないが、そこには行き過ぎや逸脱があったかも知れないが、その時代の要求した真実の姿を読み取れるものがあるのではないかと思っている。
思想を禁止することは思考を止めよと言うことに等しく、とても出来ることではない。前に述べたように、イデオロギーは端的に言えば自己の過去と現在を修飾するものに過ぎない。飾りたい人には勝手に飾らせば宜しい。しかし、その余り、犯罪を下層大衆に広範に長期間扇動する事態となってはならない。個人的な犯罪の教唆は刑法で取り締まりうるが、大衆的な犯罪扇動は、政治の領域に現在は入れられており、思想の自由と同一視的に思われているようである。政治の在り方の行過ぎ即ちその本質を尋ねず、「弱き者」「持たざる者」に擦り寄りさえすれば、票田が都合よく造れると思う者ばかりが立候補しうる仕組みの社会になっているところが犯罪性を温床化している。
(公序良俗違反につき不掲載)
一言で言えば、今日の有力者は余りにも下層的人間であり、うろうろするのであるが、本当に商売とは何であるかを知ることなく成長しているため、本当に他人は何に困り何を求めているかを知る能力がなく、本当に当たる商売が出来ない。商売とは、一時の傾向を上手に騙し売りするのではなく、本当に人間として恥ずかしくない生き方をするために必要な物を真摯に商う行為であり、その生き方を啓蒙しうる愛情と知性と信義を対等互恵的に商う行為である。
人と言うものは、「私は茨のない道は求めない」との決意の下に「人生の至る所を気を付けてみれば、手の届く所に豊かな稔りをもたらすものが幾らでもある」ことを信じて活動出来ねばならない。そこにこそ、豊かな稔りをくれる人の生活に有用で有益な真の発明がある。それは端的に言えば、他人の生命と財産は簡単に盗めるものではなく、盗もうとすれば莫大な費用が掛かり、終には破滅に至るものだと言うことを知るか教わらざるをえないのが商売だと言うことになる。
経営者も政治家もこの真実を心から肝に銘ずるべきである。

【特許請求の範囲】
【請求項1】
磁気記憶媒体において、永久磁石鋼(残留磁気と抗磁力を増すためにタングステン、コバルト、ニッケル、アルミニウム、クロム、チタン、モリブデンなどを入れた合金鋼)そのものを熱間圧延および熱間鍛延して出来るだけ薄くして、オーディオあるいはビデオのテープレコーダーのテープとしうるようにした、スチールテープと呼ぶことにする、永久磁石鋼記憶媒体とその記録再生装置。
【請求項2】
「請求項1」の永久磁石鋼そのものを熱間圧延および熱間鍛延して出来るだけ薄くしてシートとし、磁気ドラム記憶装置のドラムに着脱できるように巻き付けて使用しうるように、シートもドラムも工作した、シートをスチールシートと呼ぶことにする、永久磁石鋼記憶媒体とその記録再生装置。
【請求項3】
「請求項1」の永久磁石鋼そのものを熱間圧延して適当な薄さの円盤にして、所謂レコードのような渦溝を底を平らに熱間プレスで以て設け、その渦溝に填るように先端を尖らせた磁気ヘッドを設けたピックアップを用いて、記録再生出来るようにした、スチールディスクと呼ぶことにする、オーディオおよびビデオの永久磁石鋼記憶媒体とその記録再生装置。
【請求項4】
「請求項1」におけるスチールテープによる一曲入りのミュージックテープ(商品としての録音済のカセットテープ)は、トラックを上下に往路と復路に分けて記憶させ、その再生には往路用ヘッドと復路用ヘツドを自動的に分けて用いるようにし、オートリバース(自動逆転装置)を往路と復路に設けてリピート(繰り返し)再生が出来るようにした、一曲入りミュージックスチールテープとそのテープレコーダー。

【公開番号】特開2004−227744(P2004−227744A)
【公開日】平成16年8月12日(2004.8.12)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2003−54942(P2003−54942)
【出願日】平成15年1月25日(2003.1.25)
【公序良俗違反の表示】
特許法第64条第2項第4号の規定により明細書の一部または全部を不掲載とする。
【出願人】(594052526)
【出願人】(502234662)
【出願人】(502378678)
【出願人】(502395365)
【Fターム(参考)】