周波数変換装置
【課題】FIRフィルタを用いた簡単な処理で音響信号中の任意の周波数成分に任意の周波数変化を与え、また、振幅周波数特性の操作と周波数の操作を同時に実現する。
【解決手段】AD変換部1からのデジタル信号を処理する信号処理部2は、フィルタ部4とフィルタ係数データを蓄えるメモリー部5を有する。フィルタ部4に含まれるFIRフィルタ40とFIRフィルタ41は、1サンプリング周期中にメモリー部5から供給されるデータでフィルタ係数を更新する。それぞれのFIRフィルタの各周波数成分の振幅は時間とともに独立に変動する。振幅変動の周期はFIRフィルタ40とFIRフィルタ41に共通だが、位相が90度異なっている。フィルタ部4は2つのFIRフィルタの出力信号の差または和を出力する。
【解決手段】AD変換部1からのデジタル信号を処理する信号処理部2は、フィルタ部4とフィルタ係数データを蓄えるメモリー部5を有する。フィルタ部4に含まれるFIRフィルタ40とFIRフィルタ41は、1サンプリング周期中にメモリー部5から供給されるデータでフィルタ係数を更新する。それぞれのFIRフィルタの各周波数成分の振幅は時間とともに独立に変動する。振幅変動の周期はFIRフィルタ40とFIRフィルタ41に共通だが、位相が90度異なっている。フィルタ部4は2つのFIRフィルタの出力信号の差または和を出力する。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、録音再生機器、カラオケ装置、電子楽器などにおいて、信号に任意の周波数変換を施す技術であるとともに、拡声装置や補聴器におけるハウリング低減方法として用いられる周波数変換技術としても利用でき、話速変換装置の一部としても利用できる信号処理技術である。
【背景技術】
【0002】
音声信号を扱う分野では、音声のピッチを変換することが広く行われている。ピッチ変換は周波数変換の一形態である。例えばカラオケ装置などでは、生演奏や歌声の音程すなわちピッチを制御する信号処理技術が普及している。音声信号のピッチは、信号の再生速度を変えることで操作できるが、再生速度を変えれば再生に要する時間長も変化してしまう。このため、音声波形を時間軸方向に伸縮した上で、データを間引く(削除する)、あるいは補間(挿入)することにより時間長を変えることなくピッチを変換する方法(特許文献1)や、音声波形の周期的な部分から周期波形を切り出してこれを伸縮し、必要な回数だけ繰り返し再合成する方法(特許文献2)が広く知られている。
【0003】
しかし、もともと備わっているデータを削除したり、存在していないデータを挿入したりすると本来のデータとの誤差が生じる。特に信号の周波数が高い場合、間引きや補間による誤差が大きくなる。周期成分を切り出して再合成する方法では、連結部分に不連続点ができ、再生信号にノイズが加わってしまう。
これらの欠点を補うには優れた信号補間技術を用いるか、連結しようとする2つの波形の位相をそろえてからクロスフェードさせる技術(特許文献3,4)のように複雑な信号処理が求められる。
【0004】
時間波形上の誤差や不連続をともなわない手法としては、FFTなどの周波数分析を行い、周波数軸上でスケーリング操作を行ったのち逆変換にて時間波形に戻すもの(特許文献5,6,7)があるが時間軸から周波数軸への変換と周波数軸から時間軸への変換を要するため、信号処理に伴う遅延が比較的大きくなってしまう。
カラオケ装置のピッチ変換以外にも音声信号の周波数変換は、拡声装置や補聴器のハウリング低減方法にも利用できる(特許文献9,10)。
【0005】
一方、無線通信の分野では、搬送波の周波数変換方法としてヒルベルト変換あるいはSSB(シングルサイドバンド)変調がしばしば用いられている(特許文献10,11)。これは信号を実部I(t)(In−phase成分)と、これと位相が90度異なる虚部Q(t)(Quadrature成分)に分け、I(t)、Q(t)にそれぞれcos(ωt)、sin(ωt)による振幅変調を施し、実部I(t)からQ(t)を減算するもので、入力信号に周波数Δf(Hz)=ω/2πに相当する周波数変化を与えることができる(非特許文献1)。
この手法は振幅変調によって信号周波数の両サイドに生じる側帯波のうち、低域側か高域側のどちらか片方だけを残すことからシングルサイドバンド変調あるいは片側変調と呼ばれるものであり、実部と虚部をそれぞれ処理する2つのFIRフィルタと振幅変調のみで実現できる。無線通信以外に光周波数変換方法としても利用が試みられている(特許文献12,13)。
しかし、一般的なヒルベルト変換による周波数変換は、入力信号のすべての周波数成分を周波数軸上で一律の周波数幅だけ移動させるものであり、周波数成分を一定の比率でシフトさせる音声のピッチ変換とは異なる。
【0006】
ヒルベルト変換は、音声等の瞬時周波数やエンベロープを抽出するためにも用いられている(特許文献14,15,16)。ヒルベルト変換を用いて音声のピッチを変化させる手法としては、特許文献17があるが、これはフィルタバンクで帯域分割し、帯域ごとに搬送波の周波数を変える手法であり、帯域数を増やすのにともない演算量が多くなってしまう。ヒルベルト変換により信号の絶対値(振幅情報)と位相情報を分離して位相だけを操作する手法が提案されている(特許文献18,19)が、サンプルごとに角速度を抽出するなど複雑な処理を要するものである。
【0007】
また、音声や音楽を扱う際には、振幅周波数特性の操作、いわゆるイコライジングが頻繁に行われる。信号の再生速度を操作するピッチ変換器の場合、イコライジングを行うためには、ピッチ変換器とは別に振幅周波数特性を操作するイコライザーが必要になる。
【特許文献1】特開平9-212193号公報
【特許文献2】特開平9-258777号公報
【特許文献3】特開2002-169556号公報
【特許文献4】特開平5-297891号公報
【特許文献5】特開平11-133996号公報
【特許文献6】特開2006-64799号公報
【特許文献7】特開平9-185392号公報
【特許文献8】特開2007-258985号公報
【特許文献9】特開昭60-28399号公報
【特許文献10】特開平8-97751号公報
【特許文献11】特開2007-67851号公報
【特許文献12】特開2007-11125号公報
【特許文献13】特開2004-85602号公報
【特許文献14】特開2006-261787号公報
【特許文献15】特開2000-181472号公報
【特許文献16】特開平5-316597号公報
【特許文献17】特開2003-330500号公報
【特許文献18】特開平9-50293号公報
【特許文献19】特開昭62-159196号公報
【非特許文献1】三上直樹,“はじめて学ぶディジタル・フィルタと高速フーリエ変換,”CQ出版社,2005
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0008】
上述のとおり、音質劣化が少ない音声のピッチ変換器を実現するには複雑な信号処理が求められるか周波数分析にともなう遅延が避けられない。また、ヒルベルト変換を音声等のピッチ変換に用いる手法では、帯域分割やピッチ情報の抽出をともなう複雑な処理が要求される。
本発明の目的は、上記の問題点に鑑み、2つのFIRフィルタだけで任意の周波数成分に任意量の周波数変換を施すことのできる周波数変換器及びピッチ変換器を提供することである。さらに、FIRフィルタを用いることにより、周波数の操作と同時に振幅周波数特性の操作(イコライジング)も行える周波数変換器を提供することである。
【課題を解決するための手段】
【0009】
本発明の周波数変換器は、デジタル入力信号を処理する信号処理部を有して、該デジタル入力信号の周波数成分に周波数変化を与える周波数変換を施して出力する。前記信号処理部は、フィルタ部と該フィルタ部に供給するフィルタ係数データ供給部を有し、前記フィルタ部は、互いに位相が90度異なった共通の周波数成分から構成される実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタを有する。前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタは、時変フィルタであり、1サンプリング周期中にフィルタ係数が前記フィルタ係数データ供給部から供給されるデータで更新され、かつ、更新されることにより、それぞれのFIRフィルタを構成する各周波数成分の振幅が時間とともに独立に変動し、この振幅変動の周期は前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタに共通だが、位相が90度異なっている。前記フィルタ部は、前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタの出力信号の差あるいは和を出力する。
【0010】
また、時系列のアナログ音響信号をデジタル信号に変換するAD変換部を有して、該変換されたデジタル信号を前記信号処理部に入力し、かつ、前記フィルタ部から出力されるデジタル信号を時系列のアナログ音響信号に変換するDA変換部を備える。前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタを構成する各周波数成分の振幅変動の周期が任意に制御可能に構成する。
【0011】
また、前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタの特性は、各周波数成分の振幅変動のタイミングが異なる少なくとも2種類のフィルタ特性をスムーズにクロスフェードさせた特性となる。前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタの振幅周波数特性を任意に制御可能にして、その結果、前記フィルタ部がローパスフィルタ、ハイパスフィルタ、バンドパスフィルタ、櫛型フィルタなどとして使用できる。前記フィルタ係数データ供給部は、記憶したフィルタ係数データを供給するメモリー部、或いはフィルタ係数を逐次算出するフィルタ係数演算部によって構成される。
また、本発明の周波数変換器は、入力信号の振幅スペクトルが周波数軸上で伸縮される変換が行われる音声のピッチ変換器、或いはピッチを変えることなく再生速度を変える話速変換器として用いることができる。
【発明の効果】
【0012】
本発明により、入力信号を2つのFIRフィルタにとおし、2つのFIRフィルタの出力信号の差あるいは和を求めるだけの簡単な信号処理により、入力信号の任意の周波数成分に任意量の周波数変化を与える周波数変換器が得られる。また、周波数変化幅を周波数に対して一定の比率にすれば入力信号に任意のピッチ変化を与えるピッチ変換器が得られる。
【発明を実施するための最良の形態】
【0013】
本発明の実施形態について図1乃至図12を用いて説明する。図1は、本発明によるピッチ変換器の構成図である。入力される音響信号は、AD変換部1にてデジタル化され信号処理部2へ送られる。信号処理部2にはフィルタ部4とメモリー部5が含まれる。信号処理部2にて周波数変換された信号がDA変換部3にてアナログ信号に変換される。補聴器や拡声器へ実装するのであれば、マイクロホンなどからの信号がAD変換部1に入力され、DA変換部3からの出力信号がスピーカや受話器などのトランスデューサに送られる。また、もともとデジタル化され、各種メディア等に記録されているデータに周波数変換を施すのであれば、AD変換部1を介さず、デジタル信号をそのまま信号処理部2に入力すればよい。
【0014】
図2は、本発明における信号処理部2の構成を示す図である。信号処理部は、フィルタ部4とメモリー部5から構成される。フィルタ部4には、実部用FIR(Finite Impulse Response)フィルタ40と虚部用FIRフィルタ41が含まれる。FIRフィルタ40及びFIRフィルタ41のフィルタ係数がメモリー部から順次読み込まれることによってフィルタ特性が時間とともに変化する。
【0015】
FIRフィルタ40とFIRフィルタ41は、位相が90度異なった共通の周波数成分から構成される時変フィルタであり、1サンプリング周期中にフィルタ係数がメモリー部5から供給されるデータで更新される。更新されることにより、それぞれのFIRフィルタを構成する各周波数成分の振幅が時間とともに独立に変動する。この振幅変動の周期はFIRフィルタ40とFIRフィルタ41に共通だが、位相が90度異なっている。このフィルタ部4がFIRフィルタ40とFIRフィルタ41の出力信号の差あるいは和を出力する。
【0016】
図3は、ヒルベルト変換を用いた一般的な周波数変換器の構成図である。ヒルベルト変換を用いる周波数変換では、FIRフィルタ42とFIRフィルタ43に共通の信号が入力される。2つのFIRフィルタの振幅周波数特性は共通だが、位相はすべての周波数において90度異なっている。発信器7は位相が90度異なる2つの信号cos(ω(t))とsin(ω(t))を生成しており、FIRフィルタ42、FIRフィルタ43のそれぞれの出力信号にcos(ω(t))とsin(ω(t))による振幅変調が施される。変調された信号の差を求めると入力信号をΔf(Hz)=ω(t)/2πだけ周波数シフトした出力信号が得られる。
【0017】
図3に示す一般的な周波数変換器は、入力信号のすべての周波数成分を一律にΔf(Hz)移動させる働きがある。FIRフィルタ42とFIRフィルタ43が、すべての周波数において1の利得をもつ全域通過フィルタのとき、この作用は図4に示されるとおりとなる。すなわち入力信号のすべての周波数成分は、その振幅を保ったままで周波数軸上をΔf(Hz)移動することになる。
【0018】
これに対し図5は、音声等のピッチ変換器に求められる作用を示す図である。図5に示されるように音声等のピッチ変換では、入力信号の振幅スペクトルが周波数軸上で伸縮されるような変換が行われる。図5は、入力信号のスペクトルが周波数軸上で伸張された場合を描いたものである。このとき個々の周波数成分は一律の周波数幅だけシフトされるのではなく、周波数に応じて一定の比率で等比的に周波数変換されている。
本発明は、図3に示す周波数変換器と同等の演算量で、図5に示すようなピッチ変換作用を実現するための信号処理方法及び当該方法を用いた周波数変換器を提供するものである。
【0019】
周波数変化幅が等比的なピッチ変換を実現するためのフィルタ部の処理について図6から図12を用いて説明する。本発明において周波数ごとに独立した周波数変化を実現するには、FIRフィルタを構成する各周波数成分にそれぞれ独立した振幅変調を与える必要がある。この結果、フィルタの特性は時々刻々と変動するものとなる。ピッチ変換を行うのであれば、振幅変調の周波数がフィルタを構成する成分の周波数に対して一定の比率になるよう設定する。よって、サンプリング周波数をfs、フィルタを構成する周波数成分fに与える振幅変調の周波数をΔf×f(Hz)、フィルタのタップ長をnとすると、時間tにおけるFIRフィルタのi番目の係数Iiは、式1にて得られる。
【数1】
振幅変調の周波数をΔf×fとすることにより、周波数変化幅がfに対して一定の比率となるピッチ変換が行われる。
【0020】
このIiを実部用のフィルタ係数とするなら、虚部用のフィルタ係数Qiは、
【数2】
である。
【0021】
図6は、時間とともに変化するピッチ変換用FIRフィルタの周波数特性の例である。この例ではタップ長を128としたとき、時間tが0サンプルから255サンプルまで進むのに伴ってフィルタを構成する各周波数成分の振幅がどのように変化するかを示している。それぞれのグラフの横軸はフィルタを構成する周波数成分f(0から64)であり、縦軸は各成分の振幅を示している。
【0022】
例えば、f=64の成分は、時間tが4サンプル進むごとに1回(360度)振幅変調されているが、f=32の成分は、tが4サンプル進んでも1/2回(180度)しか振幅変調されていない。したがって、信号のサンプリング周波数が8kHzなら、f=64の成分は8000/4=2000Hz、f=32の成分はその半分の1000Hzだけ周波数がシフトされることになる。f=1の成分が1回振幅変調されるには256サンプルを要するため、f=1の成分には8000/256=31.25Hzの周波数変化が与えられる。
時間tが256に達してからは、t=0から255までの特性を繰り返し利用できる。フィルタ係数データは実部用と虚部用の2組必要なので、この例では、128個の係数データ×256セット×2のデータを蓄えられるメモリー容量が必要となる。メモリー部に蓄えられるフィルタ係数データにはあらかじめ振幅変調が施されているため、図3にみられる発信器は不要となる。
【0023】
このようにして周波数変化幅がフィルタを構成する成分の周波数に対して等比となるピッチ変換が行われる。なお、図6に示すのは1つのFIRフィルタの特性変化であり、これを実部用とするなら、これとペアで用いる虚部用のFIRフィルタの特性は、実部用で用いるフィルタとすべての周波数において90度位相が異なるものである。
しかし、インパルス応答(タップ長)が有限なFIRフィルタを用いる本手法には限界がある。波長がFIRフィルタのタップ数の整数分の1になる周波数の信号なら問題ないが、そうでない周波数の信号に対してピッチ変換を行うと信号の周波数の上下に側帯波が生じてしまう。この問題を解決するための手法について、図7から図12を用いて説明する。
【0024】
図7−Aは、2kHzの正弦波を入力とし、式1及び式2で求めたフィルタ係数を用いて20%のピッチ変換を施した場合の処理前のスペクトル(左)と処理後のスペクトル(右)、図7−Bは、2.4kHzの正弦波を入力とし、式1及び式2で求めたフィルタ係数を用いて20%のピッチ変換を施した場合の処理前のスペクトル(左)と処理後のスペクトル(右)である。いずれもサンプリング周波数fsを16kHz、FIRフィルタのタップ長nを1024とした場合の例である。20%のピッチ変換なので、Δfは、
【数3】
となり、fs=16000、n=1024なのでΔf=3.125Hzである。
【0025】
図8は、2.4kHzの正弦波に式1及び式2で求めたフィルタ係数を用いて20%のピッチ変換を施した結果得られた波形ある。
【0026】
図7−Aでは、ピッチ変換後の信号にも大きな側帯波は生じていないが、図7−Bでは、ピッチ変換後の信号の周辺に大きな側帯波が生じている。このときの波形が図8である。サンプリング周波数が16kHzのとき、2kHzの正弦波の周期は8サンプルであり、FIRフィルタのタップ長1024の128分の1となる。これに対し、2.4kHzの正弦波の周期は6.666・・・サンプルであり、FIRフィルタのタップ長の整数分の1にはならない。このため、2.4kHzの周波数成分はFIRフィルタにおいては隣接する複数の周波数成分に分解される。隣接する2つの周波数成分には異なる周波数の振幅変調がかけられているため、誤差が生じてしまう。図7−Bの例では、隣接する2つの周波数成分の間で振幅変調の周波数が3.125Hz異なっている。したがって5120サンプルごとに360度の位相差が生じている。振幅変調の位相差が0度付近及び360度付近のときには大きな側帯波は生じないが、振幅変調の位相差が180度付近のときには大きな側帯波が生じてしまう。
【0027】
上記の式1及び式2で求めたフィルタ係数を用いた場合、ピッチ変換後の波形(図8)には、ほぼ5120サンプルの間隔で側帯波の影響がみられる。このとき用いたピッチ変換器を第1のピッチ変換器とすると、FIRフィルタに与える振幅変調のタイミングを2560サンプル分ずらした第2のピッチ変換器を用いて2.4kHzの正弦波に20%のピッチ変換処理を施すと図9の波形が得られる。このとき第2のピッチ変換器のフィルタ係数は以下の式4及び式5にて求められる。
【数4】
【数5】
【0028】
図9は、式4及び式5において、Δt=2560として求めたフィルタ係数を用いて得られた波形である。図8同様に一定の間隔で側帯波の影響が生じているが、図8の波形と図9の波形では側帯波の影響が2560サンプルずれた位置で顕著になっている。この2つの波形から側帯波の影響が少ない部分だけを連結するような処理を行えば側帯波の影響を少なくすることが可能である。つまり、式1及び式2を用いた第1のピッチ変換器と式4及び式5を用いた第2のピッチ変換器の特性を一定周期ごとにスムーズにクロスフェードさせた時変特性をもつFIRフィルタを用意すればよい。これを第3のピッチ変換器とする。
【0029】
図10は、第3のピッチ変換器にて2.4kHzの正弦波に20%のピッチ変換処理を施した場合の処理前のスペクトル(左)と処理後のスペクトル(右)である。図7−Bの右図と図10の右図を比較するとあきらかに側帯波が少なくなっていることがわかる。
【0030】
第3のピッチ変換器によるピッチ変換処理を施した音声信号の例を図11に示す。元の音声のスペクトル(上)とピッチを20%高くした後のスペクトル(下)である。矢印で示すように2.5kHz付近にあったピークが20%のピッチ変換により3kHz付近まで移動していること、また、音質を著しく劣化させるような側帯波は生じていないことがわかる。
【0031】
図6から図11では、周波数変化幅を周波数に対して一定の比率とするピッチ変換手法について説明したが、本発明は、周波数ごとに独立の周波数変化量を与えることを可能にするものである。したがって、ピッチ変換以外にも、例えば特定の帯域の成分だけを周波数変化させたり、ピアノの調律のように、低域はより低く、高域はより高く周波数変化させたりするような特殊な用途にも有効である。
【0032】
本発明を用いれば、既存技術(特許文献14、15)のように入力信号の位相情報を抽出しなくても、実部用、虚部用の2つのFIRフィルタを用いるだけでピッチ変換が可能になる。前述の時変フィルタの特性を得るには、あらかじめ作成しておいたフィルタ係数をメモリー部に蓄えておき、これを逐次読み出してフィルタ係数を更新するのが望ましいが、演算器を用いてサンプル周期ごとにあらたなフィルタ係数を求めて更新する方法でもよい。この場合の構成は図12のようなものとなる。これは図1におけるメモリー部5をフィルタ係数演算部6に置き換えたものである。
【0033】
また、FIRフィルタを用いているので、周波数変換と同時に振幅周波数特性も自由に設定することができる。式1、式2及び式4、式5で求められるフィルタ係数で、周波数ごとに任意の係数をかけておけば、ローパスフィルタ、ハイパスフィルタ、バンドパスフィルタ、櫛形フィルタなどとしても使用できる。
【0034】
本発明の主な用途は、再生速度を変えずにピッチを変えることであり、歌声や生演奏のデータにピッチ調節を施す場合や、補聴器や拡声器のハウリング低減方法の一部として用いられるものである。しかし、これはピッチを変えることなく再生速度を変えるいわゆる話速変換手段としても有効である。この場合は、再生速度を変えたことによって変化したピッチをもとの高さに戻す手段として利用すればよい。例えば、ボイスレコーダなどで録音したデータを録音時よりも短い時間で聞く場合など、高速再生してもピッチは元のままにすることが可能となる。
【0035】
以上、本発明の基本的な実施形態について説明したが、本発明はこれらの実施形態に限定されるものではない。本発明の要旨を逸脱しない範囲内において、適宜の変更が可能なものである。
【図面の簡単な説明】
【0036】
【図1】本発明による周波数変換器の構成例
【図2】本発明における信号処理部の構成例
【図3】ヒルベルト変換による一般的な周波数変換器の構成を示す図
【図4】周波数変化幅が一定の等幅周波数変換処理の模式図
【図5】周波数変化幅が周波数に対して一定比率になったピッチ変換処理の模式図
【図6】本発明のフィルタ部で用いる時変FIRフィルタの特性変動を示す図
【図7】7−Aは、2kHzの正弦波信号のスペクトル(左)と2kHzの正弦波に20%ピッチ変換を施した結果得られた信号のスペクトル(右)、及び7−Bは、2.4kHzの正弦波信号のスペクトル(左)と2.4kHzの正弦波に式1及び式2によるフィルタ係数を用いて20%ピッチ変換を施した結果得られた信号のスペクトル(右)
【図8】2.4kHzの正弦波に式1及び式2によるフィルタ係数を用いて20%ピッチ変換を施した結果得られた信号の波形
【図9】2.4kHzの正弦波に式4及び式5によるフィルタ係数を用いて20%ピッチ変換を施した結果得られた信号の波形
【図10】2.4kHzの正弦波に式1及び式2によるフィルタ係数と式4及び式5によるフィルタ係数をクロスフェードさせたフィルタ係数を用いて20%ピッチ変換を施した結果得られた信号のスペクトル
【図11】ピッチ変換処理前の音声のスペクトルと処理後の音声のスペクトルの比較図
【図12】メモリー部の代わりにフィルタ係数演算部を用いた周波数変換器の構成例
【符号の説明】
【0037】
1 AD変換部
2 信号処理器
3 DA変換部
4 フィルタ部
40 FIRフィルタ
41 FIRフィルタ
42 FIRフィルタ
43 FIRフィルタ
5 メモリー部
6 フィルタ係数演算部
7 発信器
【技術分野】
【0001】
本発明は、録音再生機器、カラオケ装置、電子楽器などにおいて、信号に任意の周波数変換を施す技術であるとともに、拡声装置や補聴器におけるハウリング低減方法として用いられる周波数変換技術としても利用でき、話速変換装置の一部としても利用できる信号処理技術である。
【背景技術】
【0002】
音声信号を扱う分野では、音声のピッチを変換することが広く行われている。ピッチ変換は周波数変換の一形態である。例えばカラオケ装置などでは、生演奏や歌声の音程すなわちピッチを制御する信号処理技術が普及している。音声信号のピッチは、信号の再生速度を変えることで操作できるが、再生速度を変えれば再生に要する時間長も変化してしまう。このため、音声波形を時間軸方向に伸縮した上で、データを間引く(削除する)、あるいは補間(挿入)することにより時間長を変えることなくピッチを変換する方法(特許文献1)や、音声波形の周期的な部分から周期波形を切り出してこれを伸縮し、必要な回数だけ繰り返し再合成する方法(特許文献2)が広く知られている。
【0003】
しかし、もともと備わっているデータを削除したり、存在していないデータを挿入したりすると本来のデータとの誤差が生じる。特に信号の周波数が高い場合、間引きや補間による誤差が大きくなる。周期成分を切り出して再合成する方法では、連結部分に不連続点ができ、再生信号にノイズが加わってしまう。
これらの欠点を補うには優れた信号補間技術を用いるか、連結しようとする2つの波形の位相をそろえてからクロスフェードさせる技術(特許文献3,4)のように複雑な信号処理が求められる。
【0004】
時間波形上の誤差や不連続をともなわない手法としては、FFTなどの周波数分析を行い、周波数軸上でスケーリング操作を行ったのち逆変換にて時間波形に戻すもの(特許文献5,6,7)があるが時間軸から周波数軸への変換と周波数軸から時間軸への変換を要するため、信号処理に伴う遅延が比較的大きくなってしまう。
カラオケ装置のピッチ変換以外にも音声信号の周波数変換は、拡声装置や補聴器のハウリング低減方法にも利用できる(特許文献9,10)。
【0005】
一方、無線通信の分野では、搬送波の周波数変換方法としてヒルベルト変換あるいはSSB(シングルサイドバンド)変調がしばしば用いられている(特許文献10,11)。これは信号を実部I(t)(In−phase成分)と、これと位相が90度異なる虚部Q(t)(Quadrature成分)に分け、I(t)、Q(t)にそれぞれcos(ωt)、sin(ωt)による振幅変調を施し、実部I(t)からQ(t)を減算するもので、入力信号に周波数Δf(Hz)=ω/2πに相当する周波数変化を与えることができる(非特許文献1)。
この手法は振幅変調によって信号周波数の両サイドに生じる側帯波のうち、低域側か高域側のどちらか片方だけを残すことからシングルサイドバンド変調あるいは片側変調と呼ばれるものであり、実部と虚部をそれぞれ処理する2つのFIRフィルタと振幅変調のみで実現できる。無線通信以外に光周波数変換方法としても利用が試みられている(特許文献12,13)。
しかし、一般的なヒルベルト変換による周波数変換は、入力信号のすべての周波数成分を周波数軸上で一律の周波数幅だけ移動させるものであり、周波数成分を一定の比率でシフトさせる音声のピッチ変換とは異なる。
【0006】
ヒルベルト変換は、音声等の瞬時周波数やエンベロープを抽出するためにも用いられている(特許文献14,15,16)。ヒルベルト変換を用いて音声のピッチを変化させる手法としては、特許文献17があるが、これはフィルタバンクで帯域分割し、帯域ごとに搬送波の周波数を変える手法であり、帯域数を増やすのにともない演算量が多くなってしまう。ヒルベルト変換により信号の絶対値(振幅情報)と位相情報を分離して位相だけを操作する手法が提案されている(特許文献18,19)が、サンプルごとに角速度を抽出するなど複雑な処理を要するものである。
【0007】
また、音声や音楽を扱う際には、振幅周波数特性の操作、いわゆるイコライジングが頻繁に行われる。信号の再生速度を操作するピッチ変換器の場合、イコライジングを行うためには、ピッチ変換器とは別に振幅周波数特性を操作するイコライザーが必要になる。
【特許文献1】特開平9-212193号公報
【特許文献2】特開平9-258777号公報
【特許文献3】特開2002-169556号公報
【特許文献4】特開平5-297891号公報
【特許文献5】特開平11-133996号公報
【特許文献6】特開2006-64799号公報
【特許文献7】特開平9-185392号公報
【特許文献8】特開2007-258985号公報
【特許文献9】特開昭60-28399号公報
【特許文献10】特開平8-97751号公報
【特許文献11】特開2007-67851号公報
【特許文献12】特開2007-11125号公報
【特許文献13】特開2004-85602号公報
【特許文献14】特開2006-261787号公報
【特許文献15】特開2000-181472号公報
【特許文献16】特開平5-316597号公報
【特許文献17】特開2003-330500号公報
【特許文献18】特開平9-50293号公報
【特許文献19】特開昭62-159196号公報
【非特許文献1】三上直樹,“はじめて学ぶディジタル・フィルタと高速フーリエ変換,”CQ出版社,2005
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0008】
上述のとおり、音質劣化が少ない音声のピッチ変換器を実現するには複雑な信号処理が求められるか周波数分析にともなう遅延が避けられない。また、ヒルベルト変換を音声等のピッチ変換に用いる手法では、帯域分割やピッチ情報の抽出をともなう複雑な処理が要求される。
本発明の目的は、上記の問題点に鑑み、2つのFIRフィルタだけで任意の周波数成分に任意量の周波数変換を施すことのできる周波数変換器及びピッチ変換器を提供することである。さらに、FIRフィルタを用いることにより、周波数の操作と同時に振幅周波数特性の操作(イコライジング)も行える周波数変換器を提供することである。
【課題を解決するための手段】
【0009】
本発明の周波数変換器は、デジタル入力信号を処理する信号処理部を有して、該デジタル入力信号の周波数成分に周波数変化を与える周波数変換を施して出力する。前記信号処理部は、フィルタ部と該フィルタ部に供給するフィルタ係数データ供給部を有し、前記フィルタ部は、互いに位相が90度異なった共通の周波数成分から構成される実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタを有する。前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタは、時変フィルタであり、1サンプリング周期中にフィルタ係数が前記フィルタ係数データ供給部から供給されるデータで更新され、かつ、更新されることにより、それぞれのFIRフィルタを構成する各周波数成分の振幅が時間とともに独立に変動し、この振幅変動の周期は前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタに共通だが、位相が90度異なっている。前記フィルタ部は、前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタの出力信号の差あるいは和を出力する。
【0010】
また、時系列のアナログ音響信号をデジタル信号に変換するAD変換部を有して、該変換されたデジタル信号を前記信号処理部に入力し、かつ、前記フィルタ部から出力されるデジタル信号を時系列のアナログ音響信号に変換するDA変換部を備える。前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタを構成する各周波数成分の振幅変動の周期が任意に制御可能に構成する。
【0011】
また、前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタの特性は、各周波数成分の振幅変動のタイミングが異なる少なくとも2種類のフィルタ特性をスムーズにクロスフェードさせた特性となる。前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタの振幅周波数特性を任意に制御可能にして、その結果、前記フィルタ部がローパスフィルタ、ハイパスフィルタ、バンドパスフィルタ、櫛型フィルタなどとして使用できる。前記フィルタ係数データ供給部は、記憶したフィルタ係数データを供給するメモリー部、或いはフィルタ係数を逐次算出するフィルタ係数演算部によって構成される。
また、本発明の周波数変換器は、入力信号の振幅スペクトルが周波数軸上で伸縮される変換が行われる音声のピッチ変換器、或いはピッチを変えることなく再生速度を変える話速変換器として用いることができる。
【発明の効果】
【0012】
本発明により、入力信号を2つのFIRフィルタにとおし、2つのFIRフィルタの出力信号の差あるいは和を求めるだけの簡単な信号処理により、入力信号の任意の周波数成分に任意量の周波数変化を与える周波数変換器が得られる。また、周波数変化幅を周波数に対して一定の比率にすれば入力信号に任意のピッチ変化を与えるピッチ変換器が得られる。
【発明を実施するための最良の形態】
【0013】
本発明の実施形態について図1乃至図12を用いて説明する。図1は、本発明によるピッチ変換器の構成図である。入力される音響信号は、AD変換部1にてデジタル化され信号処理部2へ送られる。信号処理部2にはフィルタ部4とメモリー部5が含まれる。信号処理部2にて周波数変換された信号がDA変換部3にてアナログ信号に変換される。補聴器や拡声器へ実装するのであれば、マイクロホンなどからの信号がAD変換部1に入力され、DA変換部3からの出力信号がスピーカや受話器などのトランスデューサに送られる。また、もともとデジタル化され、各種メディア等に記録されているデータに周波数変換を施すのであれば、AD変換部1を介さず、デジタル信号をそのまま信号処理部2に入力すればよい。
【0014】
図2は、本発明における信号処理部2の構成を示す図である。信号処理部は、フィルタ部4とメモリー部5から構成される。フィルタ部4には、実部用FIR(Finite Impulse Response)フィルタ40と虚部用FIRフィルタ41が含まれる。FIRフィルタ40及びFIRフィルタ41のフィルタ係数がメモリー部から順次読み込まれることによってフィルタ特性が時間とともに変化する。
【0015】
FIRフィルタ40とFIRフィルタ41は、位相が90度異なった共通の周波数成分から構成される時変フィルタであり、1サンプリング周期中にフィルタ係数がメモリー部5から供給されるデータで更新される。更新されることにより、それぞれのFIRフィルタを構成する各周波数成分の振幅が時間とともに独立に変動する。この振幅変動の周期はFIRフィルタ40とFIRフィルタ41に共通だが、位相が90度異なっている。このフィルタ部4がFIRフィルタ40とFIRフィルタ41の出力信号の差あるいは和を出力する。
【0016】
図3は、ヒルベルト変換を用いた一般的な周波数変換器の構成図である。ヒルベルト変換を用いる周波数変換では、FIRフィルタ42とFIRフィルタ43に共通の信号が入力される。2つのFIRフィルタの振幅周波数特性は共通だが、位相はすべての周波数において90度異なっている。発信器7は位相が90度異なる2つの信号cos(ω(t))とsin(ω(t))を生成しており、FIRフィルタ42、FIRフィルタ43のそれぞれの出力信号にcos(ω(t))とsin(ω(t))による振幅変調が施される。変調された信号の差を求めると入力信号をΔf(Hz)=ω(t)/2πだけ周波数シフトした出力信号が得られる。
【0017】
図3に示す一般的な周波数変換器は、入力信号のすべての周波数成分を一律にΔf(Hz)移動させる働きがある。FIRフィルタ42とFIRフィルタ43が、すべての周波数において1の利得をもつ全域通過フィルタのとき、この作用は図4に示されるとおりとなる。すなわち入力信号のすべての周波数成分は、その振幅を保ったままで周波数軸上をΔf(Hz)移動することになる。
【0018】
これに対し図5は、音声等のピッチ変換器に求められる作用を示す図である。図5に示されるように音声等のピッチ変換では、入力信号の振幅スペクトルが周波数軸上で伸縮されるような変換が行われる。図5は、入力信号のスペクトルが周波数軸上で伸張された場合を描いたものである。このとき個々の周波数成分は一律の周波数幅だけシフトされるのではなく、周波数に応じて一定の比率で等比的に周波数変換されている。
本発明は、図3に示す周波数変換器と同等の演算量で、図5に示すようなピッチ変換作用を実現するための信号処理方法及び当該方法を用いた周波数変換器を提供するものである。
【0019】
周波数変化幅が等比的なピッチ変換を実現するためのフィルタ部の処理について図6から図12を用いて説明する。本発明において周波数ごとに独立した周波数変化を実現するには、FIRフィルタを構成する各周波数成分にそれぞれ独立した振幅変調を与える必要がある。この結果、フィルタの特性は時々刻々と変動するものとなる。ピッチ変換を行うのであれば、振幅変調の周波数がフィルタを構成する成分の周波数に対して一定の比率になるよう設定する。よって、サンプリング周波数をfs、フィルタを構成する周波数成分fに与える振幅変調の周波数をΔf×f(Hz)、フィルタのタップ長をnとすると、時間tにおけるFIRフィルタのi番目の係数Iiは、式1にて得られる。
【数1】
振幅変調の周波数をΔf×fとすることにより、周波数変化幅がfに対して一定の比率となるピッチ変換が行われる。
【0020】
このIiを実部用のフィルタ係数とするなら、虚部用のフィルタ係数Qiは、
【数2】
である。
【0021】
図6は、時間とともに変化するピッチ変換用FIRフィルタの周波数特性の例である。この例ではタップ長を128としたとき、時間tが0サンプルから255サンプルまで進むのに伴ってフィルタを構成する各周波数成分の振幅がどのように変化するかを示している。それぞれのグラフの横軸はフィルタを構成する周波数成分f(0から64)であり、縦軸は各成分の振幅を示している。
【0022】
例えば、f=64の成分は、時間tが4サンプル進むごとに1回(360度)振幅変調されているが、f=32の成分は、tが4サンプル進んでも1/2回(180度)しか振幅変調されていない。したがって、信号のサンプリング周波数が8kHzなら、f=64の成分は8000/4=2000Hz、f=32の成分はその半分の1000Hzだけ周波数がシフトされることになる。f=1の成分が1回振幅変調されるには256サンプルを要するため、f=1の成分には8000/256=31.25Hzの周波数変化が与えられる。
時間tが256に達してからは、t=0から255までの特性を繰り返し利用できる。フィルタ係数データは実部用と虚部用の2組必要なので、この例では、128個の係数データ×256セット×2のデータを蓄えられるメモリー容量が必要となる。メモリー部に蓄えられるフィルタ係数データにはあらかじめ振幅変調が施されているため、図3にみられる発信器は不要となる。
【0023】
このようにして周波数変化幅がフィルタを構成する成分の周波数に対して等比となるピッチ変換が行われる。なお、図6に示すのは1つのFIRフィルタの特性変化であり、これを実部用とするなら、これとペアで用いる虚部用のFIRフィルタの特性は、実部用で用いるフィルタとすべての周波数において90度位相が異なるものである。
しかし、インパルス応答(タップ長)が有限なFIRフィルタを用いる本手法には限界がある。波長がFIRフィルタのタップ数の整数分の1になる周波数の信号なら問題ないが、そうでない周波数の信号に対してピッチ変換を行うと信号の周波数の上下に側帯波が生じてしまう。この問題を解決するための手法について、図7から図12を用いて説明する。
【0024】
図7−Aは、2kHzの正弦波を入力とし、式1及び式2で求めたフィルタ係数を用いて20%のピッチ変換を施した場合の処理前のスペクトル(左)と処理後のスペクトル(右)、図7−Bは、2.4kHzの正弦波を入力とし、式1及び式2で求めたフィルタ係数を用いて20%のピッチ変換を施した場合の処理前のスペクトル(左)と処理後のスペクトル(右)である。いずれもサンプリング周波数fsを16kHz、FIRフィルタのタップ長nを1024とした場合の例である。20%のピッチ変換なので、Δfは、
【数3】
となり、fs=16000、n=1024なのでΔf=3.125Hzである。
【0025】
図8は、2.4kHzの正弦波に式1及び式2で求めたフィルタ係数を用いて20%のピッチ変換を施した結果得られた波形ある。
【0026】
図7−Aでは、ピッチ変換後の信号にも大きな側帯波は生じていないが、図7−Bでは、ピッチ変換後の信号の周辺に大きな側帯波が生じている。このときの波形が図8である。サンプリング周波数が16kHzのとき、2kHzの正弦波の周期は8サンプルであり、FIRフィルタのタップ長1024の128分の1となる。これに対し、2.4kHzの正弦波の周期は6.666・・・サンプルであり、FIRフィルタのタップ長の整数分の1にはならない。このため、2.4kHzの周波数成分はFIRフィルタにおいては隣接する複数の周波数成分に分解される。隣接する2つの周波数成分には異なる周波数の振幅変調がかけられているため、誤差が生じてしまう。図7−Bの例では、隣接する2つの周波数成分の間で振幅変調の周波数が3.125Hz異なっている。したがって5120サンプルごとに360度の位相差が生じている。振幅変調の位相差が0度付近及び360度付近のときには大きな側帯波は生じないが、振幅変調の位相差が180度付近のときには大きな側帯波が生じてしまう。
【0027】
上記の式1及び式2で求めたフィルタ係数を用いた場合、ピッチ変換後の波形(図8)には、ほぼ5120サンプルの間隔で側帯波の影響がみられる。このとき用いたピッチ変換器を第1のピッチ変換器とすると、FIRフィルタに与える振幅変調のタイミングを2560サンプル分ずらした第2のピッチ変換器を用いて2.4kHzの正弦波に20%のピッチ変換処理を施すと図9の波形が得られる。このとき第2のピッチ変換器のフィルタ係数は以下の式4及び式5にて求められる。
【数4】
【数5】
【0028】
図9は、式4及び式5において、Δt=2560として求めたフィルタ係数を用いて得られた波形である。図8同様に一定の間隔で側帯波の影響が生じているが、図8の波形と図9の波形では側帯波の影響が2560サンプルずれた位置で顕著になっている。この2つの波形から側帯波の影響が少ない部分だけを連結するような処理を行えば側帯波の影響を少なくすることが可能である。つまり、式1及び式2を用いた第1のピッチ変換器と式4及び式5を用いた第2のピッチ変換器の特性を一定周期ごとにスムーズにクロスフェードさせた時変特性をもつFIRフィルタを用意すればよい。これを第3のピッチ変換器とする。
【0029】
図10は、第3のピッチ変換器にて2.4kHzの正弦波に20%のピッチ変換処理を施した場合の処理前のスペクトル(左)と処理後のスペクトル(右)である。図7−Bの右図と図10の右図を比較するとあきらかに側帯波が少なくなっていることがわかる。
【0030】
第3のピッチ変換器によるピッチ変換処理を施した音声信号の例を図11に示す。元の音声のスペクトル(上)とピッチを20%高くした後のスペクトル(下)である。矢印で示すように2.5kHz付近にあったピークが20%のピッチ変換により3kHz付近まで移動していること、また、音質を著しく劣化させるような側帯波は生じていないことがわかる。
【0031】
図6から図11では、周波数変化幅を周波数に対して一定の比率とするピッチ変換手法について説明したが、本発明は、周波数ごとに独立の周波数変化量を与えることを可能にするものである。したがって、ピッチ変換以外にも、例えば特定の帯域の成分だけを周波数変化させたり、ピアノの調律のように、低域はより低く、高域はより高く周波数変化させたりするような特殊な用途にも有効である。
【0032】
本発明を用いれば、既存技術(特許文献14、15)のように入力信号の位相情報を抽出しなくても、実部用、虚部用の2つのFIRフィルタを用いるだけでピッチ変換が可能になる。前述の時変フィルタの特性を得るには、あらかじめ作成しておいたフィルタ係数をメモリー部に蓄えておき、これを逐次読み出してフィルタ係数を更新するのが望ましいが、演算器を用いてサンプル周期ごとにあらたなフィルタ係数を求めて更新する方法でもよい。この場合の構成は図12のようなものとなる。これは図1におけるメモリー部5をフィルタ係数演算部6に置き換えたものである。
【0033】
また、FIRフィルタを用いているので、周波数変換と同時に振幅周波数特性も自由に設定することができる。式1、式2及び式4、式5で求められるフィルタ係数で、周波数ごとに任意の係数をかけておけば、ローパスフィルタ、ハイパスフィルタ、バンドパスフィルタ、櫛形フィルタなどとしても使用できる。
【0034】
本発明の主な用途は、再生速度を変えずにピッチを変えることであり、歌声や生演奏のデータにピッチ調節を施す場合や、補聴器や拡声器のハウリング低減方法の一部として用いられるものである。しかし、これはピッチを変えることなく再生速度を変えるいわゆる話速変換手段としても有効である。この場合は、再生速度を変えたことによって変化したピッチをもとの高さに戻す手段として利用すればよい。例えば、ボイスレコーダなどで録音したデータを録音時よりも短い時間で聞く場合など、高速再生してもピッチは元のままにすることが可能となる。
【0035】
以上、本発明の基本的な実施形態について説明したが、本発明はこれらの実施形態に限定されるものではない。本発明の要旨を逸脱しない範囲内において、適宜の変更が可能なものである。
【図面の簡単な説明】
【0036】
【図1】本発明による周波数変換器の構成例
【図2】本発明における信号処理部の構成例
【図3】ヒルベルト変換による一般的な周波数変換器の構成を示す図
【図4】周波数変化幅が一定の等幅周波数変換処理の模式図
【図5】周波数変化幅が周波数に対して一定比率になったピッチ変換処理の模式図
【図6】本発明のフィルタ部で用いる時変FIRフィルタの特性変動を示す図
【図7】7−Aは、2kHzの正弦波信号のスペクトル(左)と2kHzの正弦波に20%ピッチ変換を施した結果得られた信号のスペクトル(右)、及び7−Bは、2.4kHzの正弦波信号のスペクトル(左)と2.4kHzの正弦波に式1及び式2によるフィルタ係数を用いて20%ピッチ変換を施した結果得られた信号のスペクトル(右)
【図8】2.4kHzの正弦波に式1及び式2によるフィルタ係数を用いて20%ピッチ変換を施した結果得られた信号の波形
【図9】2.4kHzの正弦波に式4及び式5によるフィルタ係数を用いて20%ピッチ変換を施した結果得られた信号の波形
【図10】2.4kHzの正弦波に式1及び式2によるフィルタ係数と式4及び式5によるフィルタ係数をクロスフェードさせたフィルタ係数を用いて20%ピッチ変換を施した結果得られた信号のスペクトル
【図11】ピッチ変換処理前の音声のスペクトルと処理後の音声のスペクトルの比較図
【図12】メモリー部の代わりにフィルタ係数演算部を用いた周波数変換器の構成例
【符号の説明】
【0037】
1 AD変換部
2 信号処理器
3 DA変換部
4 フィルタ部
40 FIRフィルタ
41 FIRフィルタ
42 FIRフィルタ
43 FIRフィルタ
5 メモリー部
6 フィルタ係数演算部
7 発信器
【特許請求の範囲】
【請求項1】
デジタル入力信号を処理する信号処理部を有して、該デジタル入力信号の周波数成分に周波数変化を与える周波数変換を施して出力する周波数変換器において、前記信号処理部は、フィルタ部と該フィルタ部に供給するフィルタ係数データ供給部を有し、前記フィルタ部は、互いに位相が90度異なった共通の周波数成分から構成される実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタを有し、前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタは、時変フィルタであり、1サンプリング周期中にフィルタ係数が前記フィルタ係数データ供給部から供給されるデータで更新され、かつ、更新されることにより、それぞれのFIRフィルタを構成する各周波数成分の振幅が時間とともに独立に変動し、この振幅変動の周期は前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタに共通だが、位相が90度異なっており、前記フィルタ部は、前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタの出力信号の差あるいは和を出力することを特徴とする周波数変換器。
【請求項2】
時系列のアナログ音響信号をデジタル信号に変換するAD変換部を有して、該変換されたデジタル信号を前記信号処理部に入力し、かつ、前記フィルタ部から出力されるデジタル信号を時系列のアナログ音響信号に変換するDA変換部を備える請求項1に記載の周波数変換器。
【請求項3】
前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタを構成する各周波数成分の振幅変動の周期が任意に制御可能に構成した請求項1又は2に記載の周波数変換器。
【請求項4】
前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタの特性が、各周波数成分の振幅変動のタイミングが異なる少なくとも2種類のフィルタ特性をスムーズにクロスフェードさせた特性となる請求項1〜3のいずれかに記載の周波数変換器。
【請求項5】
前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタの振幅周波数特性を任意に制御可能にして、その結果、前記フィルタ部がローパスフィルタ、ハイパスフィルタ、バンドパスフィルタ、櫛型フィルタなどとして使用できる請求項1〜4のいずれかに記載の周波数変換器。
【請求項6】
前記フィルタ係数データ供給部は、記憶したフィルタ係数データを供給するメモリー部、或いはフィルタ係数を逐次算出するフィルタ係数演算部によって構成される請求項1〜5のいずれかに記載の周波数変換器。
【請求項7】
入力信号の振幅スペクトルが周波数軸上で伸縮される変換が行われる音声のピッチ変換器、或いはピッチを変えることなく再生速度を変える話速変換器として用いられる請求項1〜6のいずれかに記載の周波数変換器。
【請求項1】
デジタル入力信号を処理する信号処理部を有して、該デジタル入力信号の周波数成分に周波数変化を与える周波数変換を施して出力する周波数変換器において、前記信号処理部は、フィルタ部と該フィルタ部に供給するフィルタ係数データ供給部を有し、前記フィルタ部は、互いに位相が90度異なった共通の周波数成分から構成される実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタを有し、前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタは、時変フィルタであり、1サンプリング周期中にフィルタ係数が前記フィルタ係数データ供給部から供給されるデータで更新され、かつ、更新されることにより、それぞれのFIRフィルタを構成する各周波数成分の振幅が時間とともに独立に変動し、この振幅変動の周期は前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタに共通だが、位相が90度異なっており、前記フィルタ部は、前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタの出力信号の差あるいは和を出力することを特徴とする周波数変換器。
【請求項2】
時系列のアナログ音響信号をデジタル信号に変換するAD変換部を有して、該変換されたデジタル信号を前記信号処理部に入力し、かつ、前記フィルタ部から出力されるデジタル信号を時系列のアナログ音響信号に変換するDA変換部を備える請求項1に記載の周波数変換器。
【請求項3】
前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタを構成する各周波数成分の振幅変動の周期が任意に制御可能に構成した請求項1又は2に記載の周波数変換器。
【請求項4】
前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタの特性が、各周波数成分の振幅変動のタイミングが異なる少なくとも2種類のフィルタ特性をスムーズにクロスフェードさせた特性となる請求項1〜3のいずれかに記載の周波数変換器。
【請求項5】
前記実部用FIRフィルタ及び虚部用FIRフィルタの振幅周波数特性を任意に制御可能にして、その結果、前記フィルタ部がローパスフィルタ、ハイパスフィルタ、バンドパスフィルタ、櫛型フィルタなどとして使用できる請求項1〜4のいずれかに記載の周波数変換器。
【請求項6】
前記フィルタ係数データ供給部は、記憶したフィルタ係数データを供給するメモリー部、或いはフィルタ係数を逐次算出するフィルタ係数演算部によって構成される請求項1〜5のいずれかに記載の周波数変換器。
【請求項7】
入力信号の振幅スペクトルが周波数軸上で伸縮される変換が行われる音声のピッチ変換器、或いはピッチを変えることなく再生速度を変える話速変換器として用いられる請求項1〜6のいずれかに記載の周波数変換器。
【図1】
【図2】
【図3】
【図6】
【図7】
【図8】
【図9】
【図10】
【図11】
【図12】
【図4】
【図5】
【図2】
【図3】
【図6】
【図7】
【図8】
【図9】
【図10】
【図11】
【図12】
【図4】
【図5】
【公開番号】特開2009−124460(P2009−124460A)
【公開日】平成21年6月4日(2009.6.4)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2007−296469(P2007−296469)
【出願日】平成19年11月15日(2007.11.15)
【出願人】(301021533)独立行政法人産業技術総合研究所 (6,529)
【公開日】平成21年6月4日(2009.6.4)
【国際特許分類】
【出願日】平成19年11月15日(2007.11.15)
【出願人】(301021533)独立行政法人産業技術総合研究所 (6,529)
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