説明

アミノピリジン標識糖鎖の質量分析法

【課題】従来解析対象とならなかった[M+H+2]や[M+Na+2]などのイオンを有効に解析に役立てることができる、PA化糖鎖の構造解析方法を提供する。
【解決手段】 アミノピリジン標識糖鎖を含む試料を、MALDI質量分析装置を用いてMS測定し、糖鎖においてイオンXが付加又は脱離したイオン(A)と、イオン(A)からみて質量数が2増加したイオン(B)とを得て、イオン(B)を、アミノピリジン標識糖鎖のマーカーとする、質量分析法。アミノピリジン標識糖鎖を含む試料を、MALDI質量分析装置を用いてMS測定し、糖鎖においてイオンXが付加又は脱離したイオン(A)と、イオン(A)からみて質量数が2増加したイオン(B)とを得て、イオン(B)をプリカーサーイオンとして選択し、MALDI質量分析装置を用いてMS/MS測定することによって、前記アミノピリジン標識糖鎖の構造解析を行う、糖鎖構造解析法。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、ライフサイエンス基礎研究分野に関し、より詳しくは、MALDIをイオン源とする質量分析装置を用いた糖鎖の構造解析法に関する。
【背景技術】
【0002】
糖鎖の構造解析は、感度、解析時間の短縮化という点から、タンデム質量分析計を用いたMS/MS解析手法が主流になりつつある。質量分析測定では試料の前処理が非常に重要であり、前処理が質量分析測定の可否を握っている。糖鎖の解析においては、前処理に相当する液体クロマトグラフィーによる分離精製功率を向上させるために、糖鎖を2−アミノピリジン(PA)や2−アミノベンズアミド(AB)などの蛍光物質で標識することが主流となっている。糖鎖のPA化については、「High-performance liquid chromatography of pyridylaminated saccharides」, Sumihiro Hase, Methods in ENZYMOLOGY, vol. 230, p. 225-237, 1994などに記載されている。糖鎖のAB化については、「Nonselective and efficient fluorescent labeling of glycans using 2-amino benzamide and anthranilic acid」, J. C. Bigge, T. P. Patel, J. A. Bruce, P. N. Goulding, S. M. Charles, R. B. Parekh, ANALYTICAL BIOCHEMISTRY, vol. 230, p. 229-238, 1995などに記載されている。
【0003】
【非特許文献1】ハセ・スミヒロ(Sumihiro Hase)、「メソッズ・イン・エンザイモロジ−(Methods in ENZYMOLOGY)」、1994年、第230巻、p.225−237
【非特許文献2】J.C.ビッグ(J. C. Bigge)、T.P.パテル(T. P. Patel)、J.A.ブルース(J. A. Bruce)、P.N.グールディング(P. N. Goulding)、S.M.チャールズ(S. M. Charles)、R.B.パレック(R. B. Parekh)、「アナリティカル・バイオケミストリー(ANALYTICAL BIOCHEMISTRY)1995年、第230巻、p.229−238
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0004】
PA化糖鎖をMALDI−MS測定する場合は、汎用性の高さからDHB(ジヒドロキシ安息香酸)をマトリックスに使用するのが一般的である。そして、分子イオン(例えばポジティブモード測定で得られたプロトン付加イオンの場合、[M+H])に基づいてMS/MSによる構造解析が行われる。しかしながら、DHBを用いると、プロトン付加イオンの場合、[M+H]の近傍に[M+H+2]が検出される。従って、従来、MS/MSによる構造解析を行う場合、目的とするイオン[M+H]のみをプリカーサーイオンとして選択し、解析に用いない[M+H+2]をMS/MS測定対象から外す必要がある。しかしながら、プリカーサーイオン選択能が低い質量分析装置では[M+H]だけでなく、[M+H+2]も選択してしまうことが問題であった。反対に、プリカーサーイオン選択能が高い質量分析装置を用いたとしても、選択能を高くすることによってプリカーサーイオン選択量が低下し、その結果としてMS/MSの感度が低下するという問題点がある。
【0005】
また、糖鎖は複雑な分枝構造を有するため、MS/MSで得られたプロダクトイオンを帰属することが困難な場合が多い。
【0006】
そこで本発明の目的は、質量分析測定によって、従来から解析に必要であった[M+H]や[M+Na](ポジティブモード測定の場合)とともに、解析に用いられてこなかった[M+H+2]や[M+Na+2]が発生する現象を逆に利用し、このような、従来解析対象とならなかった[M+H+2]や[M+Na+2]などのイオンを有効に解析に役立てることができる、PA化糖鎖の構造解析方法を提供することにある。
【課題を解決するための手段】
【0007】
本発明は、以下の発明を含む。
(1)アミノピリジン標識糖鎖を含む試料を、MALDI質量分析装置を用いてMS測定し、前記アミノピリジン標識糖鎖においてイオンXが付加又は脱離したイオン(A)と、前記イオン(A)からみて質量数が2増加したイオン(B)とを得て、前記イオン(B)を、アミノピリジン標識糖鎖のマーカーとする、質量分析法。
すなわち、(1)においては、質量分析装置によるポジティブモード測定又はネガティブモード測定を行うことができる。
なお、イオン(B)と称するものは、イオン(A)より2大きい質量数を有するが、アミノピリジン標識糖鎖中のピリジルアミノ基において質量数が2増加する化学変化が起こることにより生成するイオンであって、イオン(A)の同位体として生得的に生じるイオンとは異なる。
【0008】
(2)前記イオン(A)は、前記アミノピリジン標識糖鎖にイオンXが付加したX付加イオンであり、前記X付加イオンを[M+X]として、前記イオン(B)を[M+X+2]として得る、(1)に記載の質量分析法。
すなわち、(2)は、質量分析装置によるポジティブモード測定を行う形態であり、Xは、糖鎖に付加することができるプラスチャージイオンである。
【0009】
(3)前記X付加イオンが、プロトン付加イオン及び金属付加イオンから選ばれる、(2)に記載の質量分析法。
(4)前記金属付加イオンが、ナトリウム付加イオンである、(3)に記載の質量分析法。
【0010】
(5)還元性を有するマトリックスを用いる、(1)〜(4)のいずれかに記載の質量分析法。
(6)ジヒドロキシ安息香酸及びジアミノナフタレンから選ばれるマトリックスを用いる、(1)〜(5)のいずれかに記載の質量分析法。
【0011】
(7)アミノピリジン標識糖鎖を含む試料を、MALDI質量分析装置を用いてMS測定し、前記アミノピリジン標識糖鎖においてイオンXが付加又は脱離したイオン(A)と、前記イオン(A)からみて質量数が2増加したイオン(B)とを得て、
前記イオン(B)をプリカーサーイオンとして選択し、MALDI質量分析装置を用いてMS/MS測定することによって、前記アミノピリジン標識糖鎖の構造解析を行う、糖鎖構造解析法。
すなわち、(7)においては、質量分析装置によるポジティブモード測定又はネガティブモード測定を行うことができる。
なお、イオン(B)と称するものは、イオン(A)より2大きい質量数を有するが、アミノピリジン標識糖鎖中のピリジルアミノ基において質量数が2増加する化学変化が起こることにより生成するイオンであって、イオン(A)の同位体として生得的に生じるイオンとは異なる。
【0012】
(8)前記イオン(A)は、前記アミノピリジン標識糖鎖にイオンXが付加したX付加イオンであり、前記X付加イオンを[M+X]として、前記イオン(B)を[M+X+2]として得る、(7)に記載の糖鎖構造解析法。
すなわち、(8)は、質量分析装置によるポジティブモード測定を行う形態であり、Xは、糖鎖に付加することができるプラスチャージイオンである。
【0013】
(9)前記イオン(A)をプリカーサーイオンとして選択し、MALDI質量分析装置を用いてMS/MS測定し、複数のプロダクトイオン(a)を得て、
別途、前記イオン(B)をプリカーサーイオンとして選択し、MALDI質量分析装置を用いてMS/MS測定し、複数のプロダクトイオン(b)を得て、
前記プロダクトイオン(b)のうち、対応する前記プロダクトイオン(a)からみて質量数が2増加した特定のイオン(b*)を、ピリジルアミノ化イオンの指標として解析を行う、(7)又は(8)に記載の糖鎖構造解析法。
【0014】
(10)前記イオン(B)を前記イオン(A)とともにプリカーサーイオンとしてまとめて選択し、MALDI質量分析装置を用いてMS/MS測定し、複数のプロダクトイオン(a)及び複数のプロダクトイオン(b)を得て、
前記プロダクトイオン(b)のうち、対応する前記プロダクトイオン(a)からみて質量数が2増加した特定のイオン(b*)を、ピリジルアミノ化イオンの指標として解析を行う、(7)又は(8)に記載の糖鎖構造解析法。
【0015】
上記(9)及び(10)において、ピリジルアミノ化イオンとは、ピリジルアミノ基を有するイオンをいう。
【0016】
(11)前記X付加イオンが、プロトン付加イオン及び金属付加イオンから選ばれる、(8)〜(10)のいずれかに記載の質量分析法。
(12)前記金属付加イオンが、ナトリウム付加イオンである、(11)に記載の質量分析法。
【0017】
(13)還元性を有するマトリックスを用いる、(7)〜(12)のいずれかに記載の質量分析法。
(14)ジヒドロキシ安息香酸及びジアミノナフタレンから選ばれるマトリックスを用いる、(7)〜(13)のいずれかに記載の質量分析法。
【発明の効果】
【0018】
本発明によると、質量分析測定によって、従来から解析に必要であったイオン(ポジティブモード測定の場合、[M+H]や[M+Na])とともに生じる、解析に用いられてこなかったイオン([M+H+2]や[M+Na+2])における質量数2の増加が、PA化糖鎖のピリジルアミノ基で生じている変化に起因していることを見出すことによって、従来から解析に用いられてこなかった[M+H+2]や[M+Na+2]が発生する現象を有効利用した、PA化糖鎖の構造解析方法を提供することができる。
【0019】
また、本発明によると、質量分析測定によって生じたイオンの中からPA化イオンを絞り込むことが可能になるため、従来から質量分析で得られたイオンを帰属することが困難であった糖鎖構造の解析を容易にかつ迅速に行うことができる方法を提供することができる。
【0020】
さらに、本発明によると、プリカーサーイオン選択量の不足に起因するMS/MSの感度の低下を防ぐことができるため、PA化イオンの構造解析を感度良く行うことができる方法を提供することができる。
【発明を実施するための最良の形態】
【0021】
本発明では、MALDI質量分析測定による従来の糖鎖構造解析において解析の対象とされなかったイオンを利用する。具体的には、アミノピリジン標識糖鎖(以下、PA化(ピリジルアミノ化)糖鎖と表記する)を含む試料のMALDI質量分析において、従来の糖鎖構造解析において解析の対象とされてきたイオンから質量数が2増加したイオンを利用する。そして、このようなイオンをPA化糖鎖のマーカーとし、PA化糖鎖の識別や構造解析を行う。
【0022】
本発明では、質量分析装置を用いたPA化糖鎖を含む試料のMS測定によって、PA化糖鎖に由来する分子イオンとして、アミノピリジン標識糖鎖においてイオンXが付加又は脱離したイオン(A)と、前記イオン(A)からみて質量数が2増加したイオン(B)とを得る。
【0023】
ここで、ポジティブモード測定を行う場合は、前記イオン(A)は、アミノピリジン標識糖鎖にイオンXが付加したイオン(X付加イオンと表記する。)である。このとき、Xは、糖鎖に付加することができるプラスチャージイオンである。例えば、プロトンや金属イオンなどが、糖鎖に付加しやすいイオンとして挙げられる。金属イオンとしては、ナトリウムイオンなどが挙げられる。そして、前記イオン(A)は[M+X]として、前記イオン(B)は[M+X+2]として得る。
【0024】
ネガティブモード測定を行う場合は、前記イオン(A)は、アミノピリジン標識糖鎖にイオンXが付加したイオン(すなわちX付加イオン)、又は、アミノピリジン標識糖鎖からイオンXが脱離したイオン(X脱離イオンと表記する。)である。このとき、X付加イオンを生成する場合は、Xは、糖鎖に付加することができるマイナスチャージイオンである。例えば、塩化物イオンなどが挙げられる。そして、前記イオン(A)は[M+X]-として、前記イオン(B)は[M+X+2]-として得る。X脱離イオンを生成する場合は、X脱離イオンは、通常、糖鎖におけるプロトン脱離反応により得られるものである。すなわち、前記イオン(A)は[M−H]-として、前記イオン(B)は[M−H+2]-として得る。
【0025】
以下、ポジティブモードによる質量分析を行う場合を挙げて、本発明を説明する。ネガティブモードによる質量分析を行う場合も、以下と同様に説明することができる。
【0026】
本発明では、イオン[M+X+2](B)に基づいてPA化糖鎖の識別や構造解析を行う。イオン[M+X+2](B)は、イオン[M+X](A)より質量数が2大きい。しかしながら、イオン(A)の同位体として生得的に生じるイオンとは異なるものである。イオン(A)とイオン(B)とは、それらを構成する糖残基において同じである。イオン(B)における質量数2の増加は、PA化糖鎖におけるピリジルアミノ基において起こった化学変化に起因する。具体的には、PA化糖鎖のピリジルアミノ基が、マトリックスによって還元を受けた結果、質量数が2大きいイオン(B)が生成する。
【0027】
イオン[M+X+2](B)は、還元性を有するマトリックスを用いることによって生成させることができる。このとき、イオン(B)は、用いるマトリックスの還元性が強いほど、強いイオン強度で検出され、用いるマトリックスの還元性が弱いほど、弱いイオン強度で検出される。一方で、PA化糖鎖が還元を受けることによって生じるイオン[M+X+2](B)と同じ質量数を有するイオンが、イオン[M+X](A)の同位体として生得的に検出される。イオン(A)より質量数が2大きいイオンに、還元を受けたPA化糖鎖に由来するイオン(B)が含まれていることを確認するには、実測スペクトルと、対応するイオン(A)の理論同位体分布と比較すれば簡単である。このとき、還元を受けたPA化糖鎖に由来するイオン[M+X+2](B)の存在は、実測スペクトルの、イオン[M+X](A)より2大きい質量数で検出されているイオンが、対応するイオン[M+X](A)の理論同位体分布の、質量数が2大きい同位体の分布比より強いイオン強度で検出されることで確認することができる。
【0028】
一方、PA化糖鎖において認められるようなマトリックスによる還元を受けない物質、例えばAB化糖鎖などを質量分析装置で測定すると、このような糖鎖からは、PA化糖鎖においてみとめられたような、還元を受けた糖鎖に由来するイオン[M+X+2](B)は生じない。このため、マススペクトルにおける分子イオンのピークは、対応する理論同位体分布とほとんど同じ形状となる。すなわち、還元を受けない物質の分子イオンにおいて、イオン[M+X](A)より2大きい質量数で検出されているイオンは、イオン(A)とともに生得的に生じる同位体イオンであるため、イオン(A)の理論同位体分布における同位体分布比とほとんど同じイオン強度で検出される。
【0029】
MS測定によって生じるイオン[M+X+2](B)をPA化糖鎖のマーカーとして用いる例としては、以下が挙げられる。例えば、PA化糖鎖とその他の物質との混合物を質量分析装置でMS測定した場合、通常はPA化糖鎖及びその他の物質に相当する複数の分子イオンが得られる。そして、それら分子イオンのスペクトルと、相当するイオンの理論同位体分布とをそれぞれ比較する。比較した結果、理論同位体分布と異なる形状で検出されているイオンが、PA化イオンすなわちPA化糖鎖に由来するイオンであることが確認できる。具体的には、実測スペクトルの、イオン[M+X](A)より2大きい質量数を有するイオンが、イオン[M+X](A)の理論同位体分布の、質量数が2大きい同位体の分布比よりも大きいイオン強度で検出されていれば、還元を受けたPA化イオンが生じているということであり、したがって、その分子イオンがPA化糖鎖に由来するものであることが確認できる。
【0030】
このように、本発明の方法によると、複数の分子イオンからPA化糖鎖に由来するイオンを容易に判別することができる。
【0031】
本発明の方法によってPA化糖鎖のMS測定を行う場合は、測定試料に関する予備的情報量などに関する状況や、後述のMS/MS測定による構造解析の必要性などに応じて、イオン(A)及びイオン(B)の両方をある程度のイオン強度で得ても良いし、イオン(B)を優位に得ても良い。また、理論同位体分布を参照するまでもなく、一目瞭然にイオン(B)の生成を確認することができる場合もある。そのため、必ずしも理論同位体分布と実測スペクトルとを比較する必要はない。
【0032】
本発明では、上記のようにMS測定で得られた分子イオンのうち少なくともイオン[M+X+2](B)をプリカーサーイオンとしてMS/MS測定をし、複数のプロダクトイオン(b)を得て、プロダクトイオン(b)に基づいてPA化糖鎖の構造解析を行う。
ここで、プロダクトイオン(b)には、マトリックスによる還元を受けたピリジルアミノ基を有する還元末端糖残基を含むイオン(このイオンを特に(b*)と記載する)と、マトリックスによる還元を受けたピリジルアミノ基を有する還元末端糖残基を含まないイオンとが含まれる。
【0033】
本発明では、イオン(A)をプリカーサーイオンとしたMS/MS測定も行い、複数のプロダクトイオン(a)を得て、プロダクトイオン(a)と上記のプロダクトイオン(b)とに基づいて、PA化糖鎖の構造解析を行うことが好ましい。
【0034】
プロダクトイオン(a)とプロダクトイオン(b)との両方に基づいてPA化糖鎖の構造解析を行う場合、イオン(A)とイオン(B)とを別々にプリカーサーイオンとして選択し、各々のプリカーサーイオンについてMS/MS測定を行っても良いし、イオン(A)とイオン(B)とを一緒にまとめてプリカーサーイオンとして選択し、MS/MS測定を行っても良い。
【0035】
プリカーサーイオン(A)とプリカーサーイオン(B)とは、ピリジルアミノ基部分が還元されているか否かということを除いては、糖残基の構成は同じである。従って、これらに基づいてMS/MS測定を行うと、プロダクトイオン(a)とプロダクトイオン(b)とは、互いに対応するものとして検出されるため、プロダクトイオン(a)を含むマススペクトルとプロダクトイオン(b)を含むマススペクトルとは、互いに似た形となる。
【0036】
プロダクトイオン(a)及びプロダクトイオン(b)において互いに対応するイオンは、糖残基の構成において同じである。そして、プロダクトイオン(b)のうち、(b*)以外のイオン(すなわち還元されたピリジルアミノ基を持たないイオン)と、それに対応するプロダクトイオン(a)とは、質量数も同じである。すなわち、プロダクトイオンイオン(b)のうち(b*)以外のものとプロダクトイオン(a)とは、全く同じ構造のイオンである。一方、プロダクトイオン(b)のうち、(b*)のイオン(すなわち還元されたピリジルアミノ基を持つイオン)と、それに対応するプロダクトイオン(a)とは、イオン(b*)の方が質量数が2大きい。
【0037】
従って、プロダクトイオン(b)のうち、プロダクトイオン(a)より質量数が2大きいイオン(b*)を、ピリジルアミノ基を有するイオン(ピリジルアミノ化イオン)の指標とすることができる。
【0038】
例えば、イオン(A)とイオン(B)とを別々にプリカーサーイオンとして選択し、MS/MS測定を行った場合は、それぞれのMS/MSスペクトルを比較する。なお、この場合、イオン(A)とイオン(B)とについては、それら両方を1回のMS測定によって一度にある程度のイオン強度で得て、それぞれを個別に選択しても良いし、別々のMS測定によって個別に得て(例えば、一方のMS測定でイオン(A)をより優位に得て、他方のMS測定でイオン(B)をより優位に得るなど)、それぞれを個別に選択しても良い。そして、MS/MS測定の結果、互いに対応するプロダクトイオン(a)とプロダクトイオン(b)とにおいて、プロダクトイオン(b)の方が質量数が2大きい場合(すなわちプロダクトイオン(b)がイオン(b*)である場合)、それらイオンは、ピリジルアミノ基が関係するプロダクトイオンである。一方、対応するプロダクトイオン(a)とプロダクトイオン(b)とにおいて、両者の質量数が同じものは、ピリジルアミノ基が関係しないプロダクトイオンであると判断できる。
【0039】
また、イオン(A)とイオン(B)とを一緒にプリカーサーイオンとして選択し、MS/MS測定を行った場合は、得られたMS/MSスペクトルにおいて、互いに質量数が2異なる、対をなすピークを探す。この場合、イオン(A)とイオン(B)との両方が、1回のMS測定によって一度にある程度のイオン強度で得られているものであることが好ましい。そして、MS/MS測定の結果、質量数が互いに2異なるイオンの特徴的なピークである場合(すなわち、プロダクトイオン(a)とプロダクトイオン(b*)との対である場合)、それらイオンは、ピリジルアミノ基が関係するプロダクトイオンであると判断することができる。
【0040】
このように、本発明の方法によると、MS/MSで得られる多数のプロダクトイオンから、ピリジルアミノ基が関係するプロダクトイオン及びピリジルアミノ基が関係しないプロダクトイオンを絞り込むことができるため、従来に比べてMS/MS解析が大変迅速且つ容易になる。
【0041】
本発明で用いるマトリックスは、MS測定でイオン[M+X+2](B)を生成することができるものであれば特に限定されない。すなわち、本発明で用いるマトリックスは、PA化糖鎖のピリジルアミノ基に対する還元性を有しているものであれば特に限定されない。例えば、ジヒドロキシ安息香酸(DHB)やジアミノナフタレン(DAN)などが挙げられる。この中でも、DHBは比較的還元性が弱いマトリックスであり、DANは、比較的還元性が強いマトリックスである。
【0042】
すでに述べたように、本発明では、MALDI質量分析測定による従来の糖鎖構造解析において解析の対象とされなかったイオン[M+X+2](B)を利用する。すなわち本発明では、イオン[M+X+2](B)を積極的に発生させるため、従来では用いられてこなかったマトリックスを用いることができる。DANなどの還元性の強いマトリックスがそれに当る。なお、DANには、ジアミノナフタレンの存在しうる全ての位置異性体が含まれる。本発明では、1,5−ジアミノナフタレンが好ましく用いられる。
【0043】
これらマトリックスは、各々単独で用いても良いし、2種以上を組み合わせて用いても良い。マトリックスの使用形態(使用溶媒、マトリックス濃度、溶液の量など)は、通常の質量分析におけるマトリックスの使用という観点で、当業者が適宜決定することができる。マトリックスを組み合わせて用いる場合、その混合比は、各マトリックスが有する還元力やイオン化能力などを考慮し、測定形態に基づいて当業者が適宜決定することができる。ここでいう測定形態とは、すでに述べたように、MS測定でイオン(A)及びイオン(B)のいずれか一方を優位に得る形態や、イオン(A)及びイオン(B)の両方をある程度のイオン強度で得る形態などが挙げられる。
【0044】
例えば、イオン(A)とイオン(B)とをプリカーサーイオンとして選択し、MS/MSスペクトルに基づいて構造解析を行う場合などは、イオン(A)とイオン(B)との両方が、MS/MS解析が可能なイオン強度で検出される程度のプロダクトイオン(a)及び(b)が生じ得る程度の、十分なイオン強度で検出されるように、マトリックスの還元力やイオン化能力などを考慮し、必要に応じてマトリックスを組み合わせれば良い。
【0045】
本発明において用いる質量分析装置としては、MALDIをイオン源とするものであれば特に限定されない。本発明は、上に述べたように、従来から解析に用いられてこなかった[M+X+2]が、[M+X]とともに発生する現象を有効利用することができる。このため、厳密に片方のイオンを選択することを要求されるような、プリカーサーイオン選択能の高い質量分析装置を必ずしも必要としない。したがって、質量分析装置のもつ選択能に関わらず、さまざまな機種のMALDI質量分析装置を広く用いることができる。
【0046】
このように、本発明では厳密に片方のイオンを選択することを要求しないため、選択能の高い質量分析装置を選定する必要性がないだけでなく、十分な量のプリカーサーイオンを選択することができ、したがって、プリカーサーイオン選択量の不足に起因するMS/MSの感度の低下を防ぐことができる。
【実施例】
【0047】
<実施例1:PA化糖鎖の測定>
ガラクトース(Galactose)、N−アセチルグルコサミン(N-acetylglucosamine)、マンノース(Mannose)及びフコース(Fucose)を構成糖とし、2−アミノピリジン(2-aminopyridine)に由来する(C5H4N)NH−基を有するPA化糖鎖(図1)は、タカラバイオ株式会社より購入した。マトリックスは、50%アセトニトリル/0.05%トリフルオロ酢酸水溶液(v/v/v)に溶解した2,5−ジヒドロキシ安息香酸(DHB;10mg/ml)と、50%アセトニトリル/0.05%トリフルオロ酢酸水溶液(v/v/v)に溶解した1,5−ジアミノナフタレン(1,5−DAN(以下、単にDANと記載する);1mg/ml)とをそれぞれ用いた。1pmol/μlの試料水溶液1μlとマトリックス溶液0.5μlとを、MALDIサンプルプレート上で混合し、風乾した。その後、MALDI−TOF MS(AXIMA−CFR plus;島津製作所製)を用い、正イオン・リフレクトロンモードでMS測定した(図2)。そして、MALDI−QIT−TOF MS(AXIMA−QIT;島津製作所製)を用い、[M+H]と[M+H+2]とをそれぞれプリカーサーイオンとして選択し(図3)、アルゴンガスとの衝突によってMS/MS測定を行った(図4)。
【0048】
MALDI−TOF MSによって得られたスペクトルを図2の(2A)及び(2B)に示す(横軸は質量/電荷(mass(m)/charge(z) )、縦軸はイオンの相対強度(%Int.)を表す。以下、全てのマススペクトルにおいて同じ)。(2A)は、マトリックスにDHBを使用した場合のMSスペクトルであり、(2B)は、マトリックスにDANを使用した場合のMSスペクトルである。(2C)は、[M+H]及び[M+Na]の理論同位体分布である。
【0049】
図2の(2A)及び(2B)が示すように、マトリックスとしてDHBやDANを用いると、[M+H]以外に、このイオンから質量数が2増加したイオン[M+H+2]も検出された。そして、この[M+H+2]が、DHBより還元性の強いDANをマトリックスに用いることによって優位に生成していることから、マトリックスの還元作用によって[M+H]から生じていることが分かった。
【0050】
また、図2の(2A)及び(2B)が示すように、上記のプロトン付加イオンだけでなく、ナトリウム付加イオンも検出された。そして、マトリックスとしてDANを用いると、プロトン付加イオンの場合と同様に、[M+Na]以外に、このイオンから質量数が2増加したイオン[M+Na+2]も検出された。そして、この[M+Na+2]が、DHBより還元性の強いDANをマトリックスに用いることによって優位に生成していることから、マトリックスの還元作用によって[M+Na]から生じていることが分かった。
【0051】
MALDI−QIT−TOF MSによって単一ピークのプリカーサーイオンとして選択された[M+H]のスペクトルを図3の(3A)に、[M+H+2]のスペクトルを図3の(3B)に示す。そして、プリカーサーイオン[M+H]に基づくMS/MSスペクトル及び構造解析結果を図4の(4A)に、プリカーサーイオン[M+H+2]に基づくMS/MSスペクトル及び構造解析結果を図4の(4B)に示す。(4B)の*印でマークしたイオンは、対応する(4A)のイオンからみて質量数が2増加したイオンであることを示す。なお、図4中に示す各プロダクトイオンの構造において、(4A)においてはピリジルアミノ基(PA)が還元されておらず、(4B)においてはピリジルアミノ基が還元されているが、両方のピリジルアミノ基を便宜上同じ記号を用いて表している。
【0052】
図4の(4A)及び(4B)が示すように、両者間で互いに対応するイオンが検出されており、極めて類似したMS/MSスペクトルが得られた。このことからも、[M+H+2]が[M+H]に由来していることが分かる。そして、両者間で互いに対応するピークの中に、質量数が2異なるものが認められた。より詳しくは、このようなイオンにおいては、[M+H+2]から得られたプロダクトイオンの質量数が、[M+H]から得られたプロダクトイオンの質量数より2大きいことが認められた。糖鎖の構造解析を行った結果、互いに対応するイオンのうち、上述の様に[M+H+2]から得られたプロダクトイオンの質量数の方が2大きいものは、全て、ピリジルアミノ基に関するイオン(すなわち還元されたピリジルアミノ基を有するイオン)であることが確認された。一方、互いに対応するイオンのうち、[M+H+2]から得られたプロダクトイオンと[M+H]から得られたプロダクトイオンとで質量数が変わらないもの(m/z528)は、ピリジルアミノ基を有しないイオンであることが確認された。
【0053】
<比較例1:AB化糖鎖の測定>
ガラクトース(Galactose)、N−アセチルグルコサミン(N-acetylglucosamine)、及びマンノース(Mannose)を構成糖とし、2−アミノベンズアミド(2-aminobenzamide)に由来するCONH2(C6H4)NH−基を有するAB化糖鎖(図5)は、AB標識キット(コスモ・バイオ株式会社より購入)を用いて、相当する非標識糖鎖500pmolから調製した。脱塩・精製し、乾固して得たAB化糖鎖は、4μlの水に溶解し、試料水溶液とした。マトリックスは、50%アセトニトリル/0.05%トリフルオロ酢酸水溶液(v/v/v)に溶解した2,5−ジヒドロキシ安息香酸(DHB;10mg/ml)を用いた。試料溶液1μlとマトリックス溶液0.5μlとを、MALDIサンプルプレート上で混合し、風乾した。その後、MALDI−TOF MS(AXIMA−CFR plus;島津製作所製)を用い、正イオン・リフレクトロンモードでMS測定した(図6)。
【0054】
MALDI−TOF MSにより得られた[M+H]の拡大スペクトルを図6の(6A)に、[M+H]の理論同位体分布を図6の(6B)に示す。(6A)のスペクトルは、(6B)の理論同位体分布とほぼ同じ形状であることから、[M+H+2]が検出されていないことがわかった。
【0055】
<実施例2:PA化糖鎖とペプチドとの混合物の測定>
5pmolのPA化糖鎖、1pmolのACTH(Adrenocorticotrophic hormone)、及び500fmolのAngiotensin IIの混合試料1μlを、50%アセトニトリル/0.05%トリフルオロ酢酸水溶液(v/v/v)に溶解した2,5−ジヒドロキシ安息香酸(DHB;10mg/ml)0.5μlとMALDIサンプルプレート上で混合し、風乾した。その後、MALDI−TOF MS(AXIMA−CFR plus;島津製作所製)を用い、正イオン・リフレクトロンモードでMS測定した(図7)。
【0056】
MALDI−TOF MSによって得られたMSスペクトルを図7の(7A)に示す。図7の(7B)は、Angiotensin IIの[M+H]の拡大スペクトルであり、図7の(7C)は、PA化糖鎖の[M+H]の拡大スペクトルであり、図7の(7D)は、ACTHの[M+H]の拡大スペクトルである。また、図7の(7E)は、Angiotensin IIの[M+H]の理論同位体分布であり、図7の(7F)は、PA化糖鎖の[M+H]の理論同位体分布であり、図7の(7G)は、ACTHの[M+H]の理論同位体分布である。
【0057】
図7の(7A)で検出された3つの[M+H]それぞれの拡大スペクトルである図7の(7B)、(7C)及び(7D)を、対応する理論同位体分布(それぞれ図7の(7E)、(7F)及び(7G))と比較すると、m/z1865の拡大スペクトルのみ、理論同位体分布と異なる形状であり、[M+H+2]が理論分布比よりも強いイオン強度で検出された。このことから、図7の(7A)で検出された3つの[M+H]のうち、m/z1865のイオンがPA化糖鎖由来のものであることの判別を行うことができた。
【図面の簡単な説明】
【0058】
【図1】実施例1で用いたPA化糖鎖の構造式である。
【図2】実施例1において、マトリックスにDHBを使用した場合のMSスペクトル(2A)と、マトリックスにDANを使用した場合のMSスペクトル(2B)と、[M+H]及び[M+Na]の理論同位体分布(2C)である。
【図3】実施例1においてプリカーサーイオンとして選択された[M+H]のスペクトル(3A)、及び[M+H+2]のスペクトル(3B)である。
【図4】実施例1における、プリカーサーイオン[M+H]に基づくMS/MSスペクトル及び構造解析結果(4A)、及びプリカーサーイオン[M+H+2]に基づくMS/MSスペクトル及び構造解析結果(4B)である。
【図5】比較例1で用いたAB化糖鎖の構造式である。
【図6】比較例1における、[M+H]の拡大スペクトル(6A)、及び[M+H]の理論同位体分布(6B)である。
【図7】実施例1におけるMSスペクトル(7A)と、(7A)で得られた3つの[M+H]それぞれの拡大スペクトル(7B)、(7C)及び(7D)と、前記3つの[M+H]の理論同位体分布(E)、(F)及び(G)である。

【特許請求の範囲】
【請求項1】
アミノピリジン標識糖鎖を含む試料を、MALDI質量分析装置を用いてMS測定し、前記アミノピリジン標識糖鎖においてイオンXが付加又は脱離したイオン(A)と、前記イオン(A)からみて質量数が2増加したイオン(B)とを得て、前記イオン(B)を、アミノピリジン標識糖鎖のマーカーとする、質量分析法。
【請求項2】
前記イオン(A)は、前記アミノピリジン標識糖鎖にイオンXが付加したX付加イオンであり、前記X付加イオンを[M+X]として、前記イオン(B)を[M+X+2]として得る、請求項1に記載の質量分析法。
【請求項3】
前記X付加イオンが、プロトン付加イオン及び金属付加イオンから選ばれる、請求項2に記載の質量分析法。
【請求項4】
前記金属付加イオンが、ナトリウム付加イオンである、請求項3に記載の質量分析法。
【請求項5】
還元性を有するマトリックスを用いる、請求項1〜4のいずれか1項に記載の質量分析法。
【請求項6】
ジヒドロキシ安息香酸及びジアミノナフタレンから選ばれるマトリックスを用いる、請求項1〜5のいずれか1項に記載の質量分析法。
【請求項7】
アミノピリジン標識糖鎖を含む試料を、MALDI質量分析装置を用いてMS測定し、前記アミノピリジン標識糖鎖においてイオンXが付加又は脱離したイオン(A)と、前記イオン(A)からみて質量数が2増加したイオン(B)とを得て、
前記イオン(B)をプリカーサーイオンとして選択し、MALDI質量分析装置を用いてMS/MS測定することによって、前記アミノピリジン標識糖鎖の構造解析を行う、糖鎖構造解析法。
【請求項8】
前記イオン(A)は、前記アミノピリジン標識糖鎖にイオンXが付加したX付加イオンであり、前記X付加イオンを[M+X]として、前記イオン(B)を[M+X+2]として得る、請求項7に記載の糖鎖構造解析法。
【請求項9】
前記イオン(A)をプリカーサーイオンとして選択し、MALDI質量分析装置を用いてMS/MS測定し、複数のプロダクトイオン(a)を得て、
別途、前記イオン(B)をプリカーサーイオンとして選択し、MALDI質量分析装置を用いてMS/MS測定し、複数のプロダクトイオン(b)を得て、
前記プロダクトイオン(b)のうち、対応する前記プロダクトイオン(a)からみて質量数が2増加した特定のイオン(b*)を、ピリジルアミノ化イオンの指標として解析を行う、請求項7又は8に記載の糖鎖構造解析法。
【請求項10】
前記イオン(B)を前記イオン(A)とともにプリカーサーイオンとしてまとめて選択し、MALDI質量分析装置を用いてMS/MS測定し、複数のプロダクトイオン(a)及び複数のプロダクトイオン(b)を得て、
前記プロダクトイオン(b)のうち、対応する前記プロダクトイオン(a)からみて質量数が2増加した特定のイオン(b*)を、ピリジルアミノ化イオンの指標として解析を行う、請求項7又は8に記載の糖鎖構造解析法。
【請求項11】
前記X付加イオンが、プロトン付加イオン及び金属付加イオンから選ばれる、請求項8〜10のいずれか1項に記載の質量分析法。
【請求項12】
前記金属付加イオンが、ナトリウム付加イオンである、請求項11に記載の質量分析法。
【請求項13】
還元性を有するマトリックスを用いる、請求項7〜12のいずれか1項に記載の質量分析法。
【請求項14】
ジヒドロキシ安息香酸及びジアミノナフタレンから選ばれるマトリックスを用いる、請求項7〜13のいずれか1項に記載の質量分析法。


【図1】
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【図2】
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【図3】
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【図4】
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【図5】
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【図6】
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【図7】
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