説明

新規キラルランタニドNMRシフト試薬

【課題】 NMRシフト試薬を用いる場合,試薬自身のシグナルが基質のシグナルに重なり,測定の妨害をすることがしばしば起こる。発明者らが以前に発表したNa[Sm−(R or S)−pdta]においても,そうしたシグナルの重なりが試料の光学純度を決定する際にしばしば障害となった。また,少量の試料を測定する場合,相対的に試薬のシグナルが強くなるため,よいスペクトルが得られにくかった。本発明では,試薬自身のシグナルが,基質のシグナルの化学シフト領域に観測されないシフト試薬を提供することにある。これにより,光学純度の決定が行えるようになり,また,試料が少量の場合にも絶対配置が決定できるようになる。
【解決手段】 以前発表したNa[Sm−(R or S)−pdta]の配位子の酢酸部分の水素を重水素で置き換えた試薬Na[Sm−(R or S)−(pdta−d)]を合成し,これを用いることにより上記課題を解決した。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は光学活性重水素化サマリウム錯体に関するもので,医薬,農薬,発酵生産,食品等の属する分野および他の分野において要求されている光学純度および絶対配置の決定に供するものである。
【背景技術】
【0002】
薬物などの生理活性物質は不斉中心を有する化合物が多く,これら不斉中心を有する化合物には光学異性体が存在する。そして,サリドマイドの例が示すように薬物の絶対配置は極めて重要な意味を持つ。エナンチオマーの一方に薬効があり,他のエナンチオマーには薬効がないことが多く,むしろ他のエナンチオマーの存在が有害となる場合もある。
【0003】
そのような生理活性物質には水溶性のものも数多く存在する。例えば,天然型,非天然型のアミノ酸,あるいはその重合体であるペプチド等がある。また,水酸基とカルボキシル基を有するヒドロキシ酸は,特異な生理活性を示す化合物の構成要素として用いられている。アミノ基,水酸基,およびカルボキシル基を同一分子内に有するヒドロキシアミノ酸の生理活性も注目されている。そのため,それら光学異性体の一方のエナンチオマーのみを入手する方法が盛んに研究されている。そして,その入手法の研究と同じく,あるいはそれ以上に,得られた水溶性光学活性体の光学純度,絶対配置を決定することが重要な分析課題となっている。
【0004】
光学純度の測定法としては,光学活性固定相を用いるクロマトグラフィー法,光学活性移動相を用いるクロマトグラフィー法,キラルシフト試薬を用いるNMR法などが挙げられる。また,絶対配置の決定法としては,X線結晶構造解析,CDスペクトル法,Mosher’s試薬を始めとする光学活性誘導体化剤を用いるNMR法,キラルシフト試薬を用いてNMRスペクトルを測定する方法などが挙げられる。NMRは有機化学に携わる研究者,技術者が合成した化合物の同定に手軽に利用できる分析機器で広く普及しているため,これを利用する光学純度,絶対配置の決定法は利便性が高いといえる。中でもキラルシフト試薬を用いるNMR法は,試料にキラルシフト試薬を添加するだけで基質の光学異性体を区別でき,容易にその光学純度を決定できる。また,絶対配置に関しても,その報告例は限られてはいるものの,研究がなされている。そうした例の一つとして水溶媒中で直接光学純度,絶対配置を決定することができるキラルシフト試薬を用いる方法がある。例えば,発明者らは,下記構造式(1)で示される(S)−あるいは(R)−1,2−プロピレンジアミン−N,N,N’,N’−テトラアセタトユウロピウム(III)酸ナトリウム1が優れたキラルシフト試薬として,α−アミノ酸などの水溶性化合物の絶対配置の決定に利用できることを報告している(例えば,非特許文献1または2参照)。
【0005】
【化1】

【0006】
この方法はα−アミノ酸,α−ヒドロキシ酸等の重水溶液にユウロピウム錯体1を加え,H NMRを測定し,エナンチオマーシグナルを観察することで,エナンチオマー組成を決定できる。さらに,各エナンチオマーシグナルのシフトと絶対配置の間に規則性があり,これらの試料の絶対配置を決定できる。
【0007】
しかしながら,1をキラルシフト試薬として用いる方法では,400MHz以上の高磁場NMRで測定すると強いブロードニングを起こすという問題点を有している。現在,高磁場NMRが広く普及しつつあり,高磁場NMRで使用可能な水溶性キラルシフト試薬が求められている。こうした中,発明者らは先に,下記構造式2で示されるサマリウム錯体を発明し,その有用性を報告している(例えば,特許文献3参照)。
【0008】
【化2】

【0009】
(ただし,nは乾燥状態にもよるが,一般に0から3の値をとる。)発明者らはユウロピウムの代わりに,常磁性希土類イオンの中で最も磁気モーメントが小さく,シフトの小さなサマリウムを用いた。これにより,400MHz以上の高磁場NMRにおけるシグナルブロードニングが大幅に改善され,高磁場NMRを用いた光学純度,絶対配置の測定が可能となった。
【0010】
【非特許文献1】K.Kabuto,Y.Sasaki,J.Chem.Soc.,Chem.Commun.,1987,670.
【非特許文献2】K.Kabuto,Y.Sasaki,Tetrahedron Lett.,31,1031(1990).
【特許文献3】東京化成工業株式会社,特開2002−80437.
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0011】
しかしながら,上記キラルシフト試薬2を用いたNMR測定において,シフト試薬2自体のプロトンシグナルがしばしば試料のシグナルに重なって観測されることがある。従って,微量しか得られない天然物の場合や,合成できた量が少ない場合など,十分なシグナル強度が得られる濃度の測定試料を用意できない場合においては上記の理由により,シフト試薬2を用いる方法は満足できるものではない。
【0012】
シフト試薬自身のプロトンシグナルが観測されず,少量の試料でも光学純度,絶対配置の決定が可能なキラルシフト試薬が強く求められている。
【課題を解決するための手段】
【0013】
そこで,発明者らは鋭意研究を重ね,本発明を完成するに至った。すなわち,本発明はシフト試薬2のα−水素を重水素に置換した下記構造式3
【0014】
【化3】

(ただし,Mはアルカリ金属,nは0から4までの整数または小数であり,Rはアルキル基,脂環,芳香環,ヘテロ環であって,置換されていても良い)で示される光学活性重水素化サマリウム錯体に関するものである。
【発明を実施するための最良の形態】
【0015】
本発明の代表的な例として,重水素化(R)−1,2−プロピレンジアミン−N,N,N’,N’−テトラアセタトサマリウム(III)酸ナトリウム[Na[Sm−(R)−(pdta−d)]]4の合成法を例示する。
【0016】
【化4】

【0017】
Na[Sm−(R)−(pdta−d)]4の合成法として,まず,配位子(R)−(pdta−d)−H5の合成法を示す。
【0018】
【化5】

【0019】
(R)−プロピレンジアミンとヨード酢酸−d,あるいはブロモ酢酸−dを水酸化ナトリウム存在下,水中で反応させることにより,配位子(R)−(pdta−d)−H5を得る。反応温度は0℃から室温の間で選択されるが,好ましくは室温である。反応時間は反応基質,反応温度によって異なるが,4時間から24時間で適宜選択される。
【0020】
【化6】

【0021】
次に,配位子(R)−(pdta−d)−H5と酸化サマリウムを反応させ,水酸化ナトリウムで中和することにより,Na[Sm−(R)−(pdta−d)]4が得られる。ここで使用しうる溶媒は水,あるいは水−アルコールの混合溶媒が挙げられる。反応温度は室温から溶媒の還流温度の間で選択されるが,好ましくは60℃から溶媒の還流温度である。反応時間は溶媒,反応温度により異なるが,1分から3時間で適宜選択される。同様の方法で(S)−プロピレンジアミンを原料として用いることにより,Na[Sm−(S)−(pdta−d)]を得ることができる。
【0022】
上記の合成法で得られたNa[Sm−(S)−(pdta−d)]と(S)−1,2−プロピレンジアミン−N,N,N’,N’−テトラアセタトサマリウム(III)酸ナトリウム[Na[Sm−(S)−pdta]]の400MHzH NMRスペクトル(DO,室温)を以下に示す。
【0023】
【表1】

【0024】
表1のようにNa[Sm−(S)−(pdta−d)]のH NMRスペクトルではNa[Sm−(S)−pdta]のそれと比較して2〜4ppm付近のシグナルがほぼ消滅している。これにより,シフト試薬に起因するシグナルが測定の妨げとなるという問題点が解消された。
【0025】
以下にNa[Sm−(R)−(pdta−d)]およびNa[Sm−(S)−(pdta−d)]を用いるα−アミノ酸の光学純度の測定と絶対配置の測定法を例示し,本発明の有用性を示す。これは例示の目的であり,本発明を制限するものではない。
【0026】
参考例1 α−アミノ酸の光学純度の決定
各種α−アミノ酸のD−体およびL−体を正秤,混合した後,重水に溶解し,α−アミノ酸として0.60Mとなるよう調整した。次いで,NaOD重水溶液にてpH9〜11に調整した。この溶液0.6mlをNMR試料管に取り,0.36M Na[Sm−(S)−(pdta−d)]重水溶液をマイクロシリンジで5μlづつ加えるごとに400MHzでH NMRの測定を行い,最良のエナンチオマーシグナルの分離が見られたところで終点とした。各終点における各種α−アミノ酸のHαの積分値を測定し,D−体,L−体の積分比を求めた。以下にその積分比と混合溶液に含まれるD−体,L−体の重量比を示す。
【0027】
【表2】

【0028】
表2に示すように各種α−アミノ酸の重量比とシグナルの積分値の比は,ほぼ一致した。従って,基質の積分比を計算することで基質の光学純度を概算することができる。
【0029】
参考例2 低濃度の基質のエナンチオマーシグナル分離
参考例1と同様の方法で,濃度が0.003Mのフェニルアラニン(D/L=1/2)重水溶液をNMR試験管2本にそれぞれ0.6ml入れ,それぞれにNa[Sm−(S)−pdta]とNa[Sm−(S)−(pdta−d)]を加えて測定したスペクトルを表3に示す。
【0030】
【表3】

【0031】
表3に示すようにNa[Sm−(S)−pdta]を用いた場合,有効なエナンチオマーシグナルの分離が見られず,低濃度基質の絶対配置の決定に利用できない。しかしながらNa[Sm−(S)−(pdta−d)]を用いた場合,明確なエナンチオマーシグナルの分離が見られた。その結果を表4に示す。
【0032】
【表4】

【0033】
ここでΔΔdはd(D)−d(L)で,d(D)はNa[Sm−(S)−(pdta−d)]存在下において観測されるD−フェニルアラニンの化学シフトを示し,d(L)はNa[Sm−(S)−(pdta−d)]存在下でのL−フェニルアラニンの錯体の化学シフトを示す。表4に示すように,Na[Sm−(S)−(pdta−d)]存在下,フェニルアラニンのエナンチオマー間では,HのNMRシグナルはD−体のシグナルがL−体よりも低磁場に現れ,側鎖の水素のシグナルは逆に高磁場に現れる。この,Na[Sm−(S)−(pdta−d)]存在下におけるエナンチオマーシグナルの相対位置とα−アミノ酸の相関関係は,発明者らが先に,重水素化されていない錯体2を用いて得たものと同一であり,これによりHシグナルと側鎖の水素のシグナルを観察することで,フェニルアラニンの絶対配置を確実に帰属することができる。この絶対配置決定法は他のα−アミノ酸にも適用が可能である。また,試料中に含まれるエナンチオマーが片方のみの場合にも,Na[Sm−(S)−(pdta−d)]の存在下およびNa[Sm−(R)−(pdta−d)]の存在下で,それぞれNMRを測定し,Hなどの化学シフトを比較することで絶対配置を決定することができる。上記のようにNa[Sm−(pdta−d)]は,Na[Sm−(pdta)]では不可能であった基質の濃度が低い場合の測定に使用できる。
【発明の効果】
【0034】
以上のように本発明化合物Na[Sm−(pdta−d)]をシフト試薬として用いることにより,シフト試薬に起因するシグナルのない,質の高いNMRスペクトルを得ることができる。そのため,光学純度決定や基質の濃度が低い場合の測定も可能である。また,Na[Sm−(pdta−d)]は,複数のα−アミノ酸が混在した状態での絶対配置同時決定にも有用であるため,これをペプチド加水分解物に応用することで,そのペプチドを構成する全てのアミノ酸残基の絶対配置を一度に決定することが可能となる。
【実施例】
【0035】
以下に本発明の好ましい実施例を記載するが,これは例示の目的であり,本発明を制限するものではない。本発明の範囲内では変形が可能なことは当業者には明らかであろう。
【実施例1】
【0036】
(S)−(pdta−d)−Hの合成
ブロモ酢酸−d 2.00gを重水に溶かし,7M水酸化ナトリウム水溶液2.2mlを加えて中和する。ここに,(S)−プロピレンジアミン0.24mlを加える。室温で溶液のpHが10を超えないように注意しながら,7Mの水酸化ナトリウム溶液2.0mlを徐々に加え,12時間攪拌した。塩酸を加えて弱酸性にした後,減圧下で水を除き,イオン交換樹脂を用いて精製することで(S)−(pdta−d)−Hを698mg得た。収率は79%,重水素化率は99%であった。
元素分析の結果は以下のとおりである。
Anal.calcd for C1110・HO:C 39.75,H 6.33,N 8.43;
found C 39.71,H 6.11,N 8.41
【実施例2】
【0037】
Na[Sm−(S)−(pdta−d)]の合成
(S)−pdta−d 473mgと酸化サマリウム262mgを水溶媒中,80℃で1時間反応させ,微量の不純物をメンブランフィルタでろ過後,ろ液を0.97N水酸化ナトリウム1.45mlで中和した。水を減圧下で除き,さらに真空下で乾燥しNa[Sm−(S)−(pdta−d)]の1水和物766mgを得た。収率は定量的であった。
元素分析の結果は以下のとおりである。
Anal.calcd for C11NaOSm・HO: C26.34, H 3.39,N 5.58;
found C 26.16,H 3.35,N 5.38

【特許請求の範囲】
【請求項1】
下記構造式
【化1】

(ただし,Mはアルカリ金属,nは0から4までの整数または小数であり,Rはアルキル基,脂環,芳香環,ヘテロ環であって,置換されていても良い)で示される光学活性重水素化サマリウム錯体。
【請求項2】
Mがナトリウム,Rがメチル基,nが1である請求項1記載の光学活性重水素化サマリウム錯体。

【公開番号】特開2006−70007(P2006−70007A)
【公開日】平成18年3月16日(2006.3.16)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2004−288594(P2004−288594)
【出願日】平成16年9月2日(2004.9.2)
【出願人】(591105993)東京化成工業株式会社 (24)
【Fターム(参考)】