説明

MALDI質量分析用液体マトリックス

【課題】比較的均質な試料−マトリックス混合物の調製が可能で、解析すべき対象の適用範囲の広いMALDI質量分析法を提供する。酸性糖鎖を測定対象とした場合に酸性基あるいは酸性糖の脱離が抑制される高感度のMALDI質量分析法を提供する。
【解決手段】アミンのイオンとp-クマル酸のイオンとを含むイオン性液体からなるMALDI質量分析用液体マトリックス。前記アミンが、1,1,3,3−テトラメチルグアニジンである、前記のMALDI質量分析用液体マトリックス。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、MALDI質量分析に用いられる液体マトリックスに関する。
【背景技術】
【0002】
MALDI質量分析装置を用いた分析においては、測定対象試料のイオン化を改良するための主な方法の一つとして、マトリックスとして用いられる物質の改良が挙げられる。これまでも測定対象試料のイオン化を改良する目的でいくつものマトリックスが報告されている。
【0003】
従来または現在、MALDI質量分析法において一般的に使用されているのは固体マトリックスである。固体マトリックスを用いて質量分析を行う場合、試料−マトリックス混合結晶をサンプルプレート(ターゲットプレート)上に作成する。試料−マトリックス混合結晶の大きさは試料量及びマトリックス量で殆ど変化はないが、結晶状態としては、使用するマトリックス及び混合結晶の作成方法に応じて特徴的で、これまで様々な結晶状態が報告されている。これらは一般に不均質であり、レーザー照射される結晶の場所ごとに得られるスペクトルが異なる。すなわち、試料イオンが得られるのは、不均質な混合結晶の限られた一部に特徴的に形成されるごく微量の試料の含まれる場所(sweet spot)のみであるため、結晶の場所によってイオン化の偏りが生じる。
【0004】
固体マトリックスを使用して高感度の計測を行うためには、適切な組み合わせを有する試料とマトリックスとの混合結晶において、sweet spotを探して計測しなければならない。計測を行うためには、計測者にある程度の知識や技術(習熟度)が要求される。なぜなら、マトリックスの組み合わせ方や結晶作成方法でイオンピークの出方が変わるため、それらの不均質な結晶中で試料イオンの出るパターンを見つけなければならないためである。
【0005】
固体マトリックスの中で最も均一な結晶状態を作ることで知られているのがα−シアノ−4−ヒドロキシケイ皮酸 (CHCA)だが、それでも結晶(固体)状態であるが故の不均質性は免れない。
【0006】
このような不均質性は、MALDI分析法における計測の一般化の難しさ、及び、スペクトルの再現性や自動分析及び定量分析を困難にする原因の一つとなっている。
【0007】
また、固体マトリックスを用いたMALDI質量分析による硫酸化糖鎖分析では、イオン生成時に硫酸基の脱離が起こることが知られている。同様に、固体マトリックスを用いたMALDI質量分析によるシアル酸化糖鎖分析では、イオン生成時にシアル酸の脱離が起こることが知られている。
【0008】
さらに、固体マトリックスを用いたMALDI質量分析による糖タンパク質及び糖ペプチドの構造解析法が、例えばJMSSJ. 2004, 52, 323-338(非特許文献1)、及び特開2005−300420号公報(特許文献1)に報告されている。すなわちこれらの文献においては、MS分析で得られたスペクトルから、分子量関連イオンとして、糖タンパク質又は糖ペプチドのプロトン付加体及び金属付加体をプリカーサとして選択し、それぞれについてMSn分析を行い解析することで、プロトン付加体からは糖鎖部位の情報、金属付加体からはペプチド部位の情報を得る方法が報告されている。
【0009】
一方、イオン性液体は、いくつかの化学的用途に用いられているが、J. Am. Chem. Soc. 2002, 124, 14247-14254(非特許文献2)には、殆どのイオン性液体が、類似の極性をもつにも関わらず、有機合成反応の溶媒、MALDI質量分析におけるマトリックス、液−液抽出における液相、及びガスクロマトグラフィーにおける固定相として用いられる際に、まったく異なる挙動を示すことがあると記載されている。非特許文献2においては、MALDI質量分析におけるマトリックスとして、α−シアノ−4−ヒドロキシケイ皮酸のイオンやシナピン酸のイオンを構成イオンとして含むイオン性液体が記載されている。
【0010】
MALDI質量分析におけるマトリックスとして用いられるイオン性液体、すなわち液体マトリックスは、サンプルプレート上で比較的均質な試料−マトリックス混合液滴を作成することができる。すなわち、イオン化の偏りを少なくすることができる。このことから、液体マトリックスを用いることによる、計測のし易さ及び定量分析への適用性が注目されている。液体マトリックスは、従来の固体マトリックスに比べると未だ研究段階であり適用例も少ないが、液体マトリックスを用いたMALDI質量分析について、いくつか報告がされている。
【0011】
例えば、Anal. Chem., 2006, 78, 1774-1779(非特許文献3)及びAnal. Chem., 2007, 79, 1604-1610(非特許文献4)には、特定の液体マトリックスを用いることにより、硫酸基の脱離の抑制とともに硫酸化糖鎖のMALDI質量分析が行われたことが報告されている。たとえば上記非特許文献4では、そのような液体マトリックスとして、α−シアノ−4−ヒドロキシケイ皮酸のグアニジウム塩が報告されている。
【0012】
そのほかにも、液体マトリックスを用いたMALDI質量分析として、以下が報告されている。
例えば、Anal. Chem., 2004, 76, 2938-2950(非特許文献5)には、ターゲットプレート上で、液体マトリックス(具体的には2,5−ジヒドロキシ安息香酸のブチルアミン塩)水溶液中での3’−シアリルラクトースの酵素的脱シアル化をモニタリングし、3’−シアリルラクトースから、シアル酸とラクトースとが生成したことを、MALDI−MS分析で確認したことが報告されている。
そして、特表2005−536759号公報(特許文献2)には、液体マトリックスの使用例として、MALDIサンプルプレート上での糖タンパク質の脱グリコシル化反応の過程及び進行を、液体マトリックス(具体的にはα−シアノ−4−ヒドロキシケイ皮酸のブチルアミン塩、又は2,5−ジヒドロキシ安息香酸のブチルアミン塩)中で調べることが報告されている。
【0013】
Rapid Commun. Mass Spectrom. 2006; 20: 1761-1768(非特許文献6)には、アディティブとしてリン酸を使用して液体マトリックス(2,5−ジヒドロキシ安息香酸のピリジン塩あるいはブチルアミン塩)を用いたリン酸化ペプチドのMALDI質量分析が記載されている。
【0014】
Rapid Commun. Mass Spectrom. 2003; 17: 553-560(非特許文献7)には、3−ヒドロキシピコリン酸や2,5−ジヒドロキシ安息香酸のイオンを構成イオンとして含む液体マトリックスを用いたDNAオリゴマーのMALDI質量分析が記載されている。
【0015】
Rapid Commun. Mass Spectrom. 2004; 18: 141-148(非特許文献8)やAnal. Bioanal. Chem., 2006, 386: 24-37(非特許文献9)には、シナピン酸、α−シアノ−4−ヒドロキシケイ皮酸、又は2,5−ジヒドロキシ安息香酸のイオンを構成イオンとして含む液体マトリックスを用いた、アミノ酸、糖、及びビタミンなどの低分子量化合物のMALDI質量分析が記載されている。非特許文献9には、そのような液体マトリックスの、プロテオーム解析、定量のためのMALDI MSの使用、及びMALDIイメージング分野へのアプリケーションが記載されている。
【0016】
Anal. Bioanal. Chem., 2006, 384: 215-224(非特許文献10)には、α−シアノ−4−ヒドロキシケイ皮酸を構成イオンとして含むピリジンベースの液体マトリックスによるペプチドマスフィンガープリンティングが記載されている。
【0017】
【非特許文献1】ジャーナル・オブ・ザ・マス・スペクトロメトリ・ソサイエティ・オブ・ジャパン(Journal of the Mass Spectrometry Society of Japan)、2004年、第52巻、p.323−338
【非特許文献2】ジャーナル・オブ・アメリカン・ケミカル・ソサイエティ(Journal of American Chemical Society)、2002年、第124巻、p.14247−14254
【非特許文献3】アナリティカル・ケミストリ(Analytical Chemistry)、2006年、第78巻、p.1774−1779
【非特許文献4】アナリティカル・ケミストリ(Analytical Chemistry)、2007年、第79巻、p.1604−1610
【非特許文献5】アナリティカル・ケミストリ(Analytical Chemistry)、2004年、第76巻、p.2938−2950
【非特許文献6】ラピッド・コミュニケーションズ・イン・マス・スペクトロメトリ(Rapid Communications in Mass Spectrometry)、2006年、第20巻、p.1761−1768
【非特許文献7】ラピッド・コミュニケーションズ・イン・マス・スペクトロメトリ(Rapid Communications in Mass Spectrometry)、2003年、第17巻、p.553−560
【非特許文献8】ラピッド・コミュニケーションズ・イン・マス・スペクトロメトリ(Rapid Communications in Mass Spectrometry)、2004年、第18巻、p.141−148
【非特許文献9】アナリティカル・アンド・バイオアナリティカル・ケミストリ(Analytical & Bioanalytical Chemistry)、2006年、第386巻、p.24−37
【非特許文献10】アナリティカル・アンド・バイオアナリティカル・ケミストリ(Analytical & Bioanalytical Chemistry)、2006年、第384巻、p.215−224
【特許文献1】特開2005−300420号公報
【特許文献2】特表2005−536759号公報
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0018】
上述のように、測定対象試料のイオン化を改良する目的でいくつものマトリックスが報告されている。しかしながら、イオン化機構自体に不明点が多いため、マトリックスの探索は未だトライアルアンドエラーの方法によるものに留まっている。また分析の際には試料や装置にあわせて最適なマトリックスを選択する必要がある。特に、ユニバーサルに使用可能なマトリックスの開発や、これまで報告されているマトリックスではイオン化が難しい試料或いは問題が残る試料に対して改良されたマトリックスの開発が要求される。
【0019】
まず、上記非特許文献1及び上記特許文献1に記載の方法を含め、固体マトリックスを使用する方法は、不均質な試料−マトリックス混合結晶が得られることとなり、したがって、結晶の場所によってイオン化の偏りが生じる。
【0020】
そして、固体マトリックスを用いたMALDI質量分析においては、硫酸化糖鎖を解析する場合、イオン生成時に硫酸基の脱離が起こるという問題が生じる。同様に、シアル酸化糖鎖分析では、イオン生成時にシアル酸の脱離が起こるという問題が生じる。
【0021】
液体マトリックスとして使用されるイオン性液体は、非特許文献2〜10及び特許文献2に記載のように、基本的に、塩基のイオン(カチオン)と酸性基含有有機物質のイオン(アニオン)とから構成される。通常、イオン性液体を構成する酸性基含有有機物質のイオンは、従来から固体マトリックスとして用いられてきたものが基本となっている。実際に、上記非特許文献2〜10及び特許文献2における液体マトリックスを構成する酸性基含有有機物質イオンは、α−シアノ−4−ヒドロキシケイ皮酸、シナピン酸、2,5−ジヒドロキシ安息香酸、3−ヒドロキシピコリン酸など、従来から固体マトリックスとして用いられてきた酸性物質のイオンである。
このように、従来の液体マトリックスの設計においては、基本的に従来から固体マトリックスとして用いられてきた有機化合物を酸性物質として使用することが基本となっていた。
【0022】
そこで、本発明の目的は、比較的均質な試料−マトリックス混合物の調製が可能で、解析すべき対象の適用範囲の広いMALDI質量分析法を提供することにある。
また本発明の目的は、酸性糖鎖を測定対象とした場合に酸性基あるいは酸性糖の脱離が抑制される高感度のMALDI質量分析法を提供することにあり、特に硫酸化糖鎖を測定対象とした場合に、硫酸基の脱離が抑制される高感度のMALDI質量分析法を提供することにある。
【課題を解決するための手段】
【0023】
本発明者らは、従来における液体マトリックスの創出における場合とはまったく異なるアプローチによって、新規の液体マトリックスを見出した。
本発明者らのアプローチにおいては、従来から用いられてこなかったケイ皮酸の誘導体を用いて、液体マトリックスとして有用なイオン性液体の設計が行われた。
【0024】
本発明者らは、以下の条件を満たすケイ皮酸誘導体を検討した。
第1に、アミンと混合することで液体化が起こるものを条件とした。たいていの物質は液体化が難しく、実際、本発明者らの検討においても、液体化が起こった物質はごく少数であった。
第2に、マトリックスとしての使用価値があることを条件とした。すなわち、解析対象となる試料のイオン化が可能であるものを条件とした。且つ、解析対象となる試料が硫酸化糖鎖であった場合に、硫酸基を脱離させることなくイオンを生成することができるものを条件とした。
第3に、MALDI質量分析の感度が十分であることを条件とした。すなわち、イオン化能力に優れていることを条件とした。
【0025】
なお、ケイ皮酸誘導体の中には、従来から固体マトリックスとして用いられていたものもある。ところが、従来の固体マトリックスとしてのケイ皮酸誘導体は、通常、比較的置換基の多い構造をしている。例えば、α−シアノ−4−ヒドロキシケイ皮酸、シナピン酸(3,5−ジメトキシ−4−ヒドロキシケイ皮酸)、フェルラ酸(4−ヒドロキシ−3−メトキシケイ皮酸)などに代表されるように、2以上の置換基を有しているのが通常であった。従って、従来の液体マトリックスも、このような構造を有するケイ皮酸誘導体のイオンを有するものであることが通常であった。
【0026】
しかしながら、本発明者らによる新しいアプローチによる液体マトリックスの設計においては、上記の条件を満たすケイ皮酸誘導体のイオンを構成イオンとして含むイオン性液体のうち、マトリックスとして優れていたものは、従来用いられてきたような比較的置換基の多い構造ではなく、比較的シンプルな構造を有するケイ皮酸誘導体のイオンを構成イオンとして含むものであるという傾向が見出された。
本発明者らが検討した中でも、マトリックスとして特に優れたものとして、p−クマル酸(trans−4−ヒドロキシケイ皮酸)のイオンを構成イオンとして含むイオン性液体が見出された。
【0027】
本発明は、以下の発明を含む。
(1)
アミンのイオンとp-クマル酸のイオンとを含むイオン性液体からなるMALDI質量分析用液体マトリックス。
【0028】
「アミンのイオンとp-クマル酸のイオンとを含むイオン性液体」は、アミンのイオンとp-クマル酸のイオンとから構成される。
「イオン性液体」は、室温で液体の状態で存在し、その実体は塩である物質をいう。本明細書における「イオン性液体」はMALDI質量分析のためのマトリックスとして用いられるものであるため、「イオン性液体」と「液体マトリックス」とは同じ意味で記載する。
「p-クマル酸」とは、すなわちtrans−4−ヒドロキシケイ皮酸である。
【0029】
本発明の液体マトリックスは、解析すべき対象の適用範囲が広いため、下記(2)のような試料全般、及び下記(2)に挙げた試料以外のものを含め、MALDI質量分析で解析されうるさまざまな種類の試料に対して使用することができる。
【0030】
(2)
糖及び糖を有する分子からなる群から選ばれる分子を解析すべき試料とし、前記解析すべき試料をMALDI質量分析測定に供するために用いられる、(1)に記載のMALDI質量分析用液体マトリックス。
【0031】
「糖及び糖を有する分子からなる群から選ばれる分子」には、糖鎖、糖鎖を有する分子も含まれる。
【0032】
(3)
前記糖を含む分子が酸性糖鎖であり、前記MALDI質量分析測定において、前記酸性糖鎖から酸性基を有するイオンを生ぜしめる、(2)に記載のMALDI質量分析用液体マトリックス。
【0033】
「酸性基を有するイオン」は、MALDI質量分析測定において、「酸性糖鎖」から発生し、且つ当該酸性糖鎖から酸性基あるいは酸性糖が脱離することなく生じたイオンである。
【0034】
(4)
前記糖を含む分子が硫酸化糖鎖であり、前記MALDI質量分析測定において、前記硫酸化糖鎖から硫酸基を有するイオンを生ぜしめる、(2)又は(3)に記載のMALDI質量分析用液体マトリックス。
【0035】
「硫酸基を有するイオン」は、MALDI質量分析測定において、「硫酸化糖鎖」から発生し、且つ当該硫酸化糖鎖から硫酸基が脱離することなく生じたイオンである。
【0036】
(5)
前記糖を含む分子が糖タンパク質又は糖ペプチドであり、前記MALDI質量分析測定において、前記糖タンパク質又は糖ペプチドに由来し且つ糖−アミノ酸結合が維持されたイオンを検出する、(2)に記載のMALDI質量分析用液体マトリックス。
【0037】
「前記構造解析すべき糖タンパク質に由来し且つ糖−アミノ酸結合が維持されたイオン」とは、前記「構造解析すべき糖タンパク質又は糖ペプチド」から、糖鎖とタンパク質又はペプチドとの間の結合の開裂が起こることなく生じるイオンをいい、糖タンパク質イオン及び糖ペプチドイオンを含む。
【0038】
(6)
前記イオン性液体は、前記解析すべき試料と前記イオン性液体とを溶媒中に含む混合液中、20pM〜200mMの濃度で用いられる、(2)〜(5)のいずれかに記載のMALDI質量分析用液体マトリックス。
【0039】
上記の混合液中のマトリックスの濃度は、特に、上記(5)中に記載の試料(糖タンパク質又は糖ペプチド)の一形態である糖タンパク質の消化物をMALDI質量分析する場合に有用な濃度である。
当該混合液はターゲットプレート上に滴下し、前記溶媒を蒸発させることによって、試料−液体マトリックス混合物(すなわちレーザーを照射すべき対象)を調整することができるが、調製された試料−液体マトリックス混合物のスポット1個につき、液体マトリックスは10fmol〜100nmolとすることができる。このような混合物のスポットを得るためには、上記のように混合液中20pM〜200mMの濃度でイオン性マトリックスを用いると良い。
【0040】
一方、上記の糖タンパク質の消化物に限らず、解析すべき試料全般に対しては、混合液中のマトリックスの濃度は、20pM〜40mMの濃度とすると良い。
また、解析すべき試料全般に対しては、試料−液体マトリックス混合物のスポット1個につき、液体マトリックスは10fmol〜20nmolとすることができる。このような混合物のスポットを得るためには、上記のように混合液中20pM〜40mMの濃度でイオン性マトリックスを用いると良い。
【0041】
上記した混合物中のマトリックス濃度は、従来から一般的に使用されてきたマトリックスの濃度に比べ低く設定されたものである。イオン性液体の濃度を低く設定することで、高感度解析を可能にする好ましい形状を有した試料−液体マトリックス混合物の調製を行うことができる。詳しいことは後述するが、液体マトリックスを低濃度で用いることにより、当該混合物調製の過程でフォーカス現象が起こり、それによって当該混合物の好ましい形状が得られる。
【0042】
(7)
ポジティブモード及びネガティブモードの両モードにおいて用いられる、(1)〜(6)のいずれかに記載のMALDI質量分析用液体マトリックス。
【0043】
上記(7)のマトリックスにより、解析すべき対象の適用範囲がさらに広くなる。また、対象計測の範囲も広くなる。
【0044】
(8)
前記アミンが、1,1,3,3−テトラメチルグアニジンである、(1)に記載のMALDI質量分析用液体マトリックス。
【0045】
下記(9)及び(10)は、MALDI質量分析キットに関する。当該MALDI質量分析キットにおいては、上記(1)〜(8)のいずれかに記載の液体マトリックスが用いられる。
【0046】
(9)
液体マトリックスとして、アミンのイオンとp-クマル酸のイオンとから構成されるイオン性液体を含む、MALDI質量分析キット。
【0047】
溶媒として水をさらに含む、(9)に記載のMALDI質量分析キット。
【0048】
(10)
鏡面仕上げのターゲットプレートをさらに含む、(9)に記載の質量分析キット。
【0049】
前記イオン性液体は、溶媒中40 pM〜400 mMの濃度で提供される、(9)又は(10)に記載のMALDI質量分析キット。
【0050】
上記に記載の濃度を有する液体マトリックス溶液は、そのままで或いは適宜希釈を行い、解析すべき試料の溶液と混合された際に、それによって得られる解析すべき試料と液体マトリックスとを含む混合液において、液体マトリックスの濃度が上記(6)に記載の濃度となるように用いることが好ましい。
【0051】
上記のイオン性液体が溶媒中40 pM〜400 mMの濃度で提供されるMALDI質量分析キット、上記の溶媒として水をさらに含むMALDI質量分析キット、或いは上記(10)のMALDI質量分析キットを用いることによって、上記の高感度解析を可能にする好ましい形状を有した試料−液体マトリックス混合物の調製を行うことが可能になる。
【発明の効果】
【0052】
本発明によると、比較的均質な試料−マトリックス混合物の調製が可能で、解析すべき対象の適用範囲の広いMALDI質量分析が可能になる。
また本発明によると、酸性糖鎖を測定対象とした場合に酸性基の脱離が抑制される高感度のMALDI質量分析法を提供することにあり、特に硫酸化糖鎖を測定対象とした場合に、硫酸基の脱離が抑制されるMALDI質量分析が可能になる。
【発明を実施するための最良の形態】
【0053】
[1.クマル酸イオンを構成イオンとして含むイオン性液体]
本発明のMALDI質量分析用マトリックスは、イオン性液体の形態を有する。イオン性液体は、室温で液体の状態で存在し、その実態は塩である物質をいう。
本発明の液体マトリックスは、アミンのイオンとp−クマル酸(trans- 4 -ヒドロキシケイ皮酸)のイオンから構成されるイオン性液体である。前記アミンとしては、1,1,3,3−テトラメチルグアニジン、n-ブチルアミン、エチルアミン、N,N-ジエチルアミン、N,N-ジエチルアニリン、N,N-ジエチルメチルアミン、ジエチルベンゼンアミン、N,N-ジメチルアミン、トリエチルアミン、トリ-n-ブチルアミン、トリ-n-プロピルアミン、エタノールアミン、ポリエーテルテールドトリエチルアミン、ポリエステルテールドトリエチルアミン、ニトロフェノール、アニリン、2,4-ジニトロアニリン、2-ニトロフェニルオクチルエーテル、ピリジン、2-アミノ-4-メチル-5-ニトロピリジン、3-アミノキノリン、3-ヒドロキシピリジン、1-メチルイミダゾール、1-ブチル-3-メチルイミダゾール、1-(1-ヒドロキシプロピル)-3-メチルイミダゾール、1,3-ジメチルイミダゾール、1,5-ジアミノナフタレン、6-アザ-2-チオチミン、クマリン、6,7-ジヒドロキシクマリン、1,8-ジヒドロキシ-9[10H]-アントラセノン、カルボリン類(ノルハルマン、ハルマン、ハルミン、ハルモル、ハルマリン、ハルマロールなど)などから選択することができる。
【0054】
このようなp−クマル酸イオンを含む液体マトリックスの調製方法としては特に限定されるものではない。具体的な調製方法としてはイオン性液体の調製法に準じることができ、p−クマル酸イオンを構成イオンとしてイオン性液体が生じるように、当業者が適宜調製法を決定することができる。もっとも簡便な調製法の一つとしては、アミンイオンの由来元となるアミン類と、p−クマル酸イオンの由来元となるp−クマル酸とを混合して反応させる方法が挙げられる。
【0055】
双方の物質を反応させるためには、p−クマル酸をアミン類に加えても良いし、アミン類をp−クマル酸に加えても良い。当該双方の物質の接触は、溶媒中で行うことができる。そのため、p−クマル酸及びアミン類の少なくとも一方を予め溶液として調製して、p−クマル酸をアミン類に加えても良いし、アミン類をp−クマル酸に加えても良い。或いは、溶媒にp−クマル酸及びアミン類を同時に加えても良い。
【0056】
互いに反応させるべきアミン類とp−クマル酸との比は、モル比で表して1:0.1〜1:10、好ましくは1:1〜1:4と設定することができる。溶媒中どのような濃度で双方の物質を反応させるかについては、当業者が適宜決定すればよい。
【0057】
溶媒中で反応させた場合は、反応後、溶媒を除去することができる。溶媒の除去は、留去、好ましくは減圧下における留去によって行うことができる。溶媒の除去を行った後、液状の物質を本発明のイオン性液体として得ることができる。
以下、このようなイオン性液体からなる本発明の液体マトリックスについて、当該液体マトリックスを用いたMALDI質量分析法とともにさらに説明する。
MALDI質量分析によって解析を行うためには、解析すべき試料と液体マトリックスとを含む混合物(試料−液体マトリックス混合物)を、MALDI質量分析測定に供する。
【0058】
[2.解析すべき試料と液体マトリックスとを含む混合物(試料−液体マトリックス混合物)の構成]
[2−1.解析すべき試料]
本発明において、解析すべき試料としては特に制限されない。例えば、糖及び糖を含む分子からなる群から選ばれる分子が挙げられる。糖及び糖を含む分子からなる群から選ばれる分子には、糖鎖、糖鎖を含む分子も含まれる。このような分子としては、硫酸化糖鎖やシアル酸化糖鎖(シアロ糖鎖)などの酸性糖鎖、中性糖鎖、その他の糖類、糖タンパク質、糖ペプチドなどが挙げられる。またその他にも、タンパク質、ペプチド、その他の生体分子、合成分子を解析対象とすることができる。さらに、上記例示の分子の混合物も解析対象とすることができる。このように、本発明の液体マトリックスが適用できる解析すべき対象の範囲は広い。
【0059】
さらに本発明では、解析すべき試料を酸性糖鎖とした場合に、特に有用な解析を行うことが可能である。これは、MALDI質量分析においてイオンを生じる際に、酸性基あるいは酸性糖の脱離を抑制することができるためである。中でも解析すべき試料を硫酸化糖鎖とした場合に、特に有用な解析を行うことが可能である。本発明の液体マトリックスとして用いることで、MALDI質量分析においてイオンを生じる際に、硫酸基の脱離を抑制することができるためである。
【0060】
また、本発明では、解析すべき試料を糖タンパク質及び糖ペプチドとした場合にも、特に有用な解析を行うことが可能である。(この場合、解析すべき試料が糖タンパク質の場合と糖ペプチドの場合とを含む。以下、本明細書の説明においては、より実用的な場合として糖ペプチドを挙げて記載している。)この場合において、糖ペプチドが後述の2−3.のような他の生体分子などと混在する場合、糖ペプチドを優先してイオン化することができるためである。
【0061】
[2−2.液体マトリックス]
液体マトリックスとしては、上記1.の本発明のクマル酸イオンを含むイオン性液体が用いられる。クマル酸イオンと組み合わせるカチオン種としては、上記1.で挙げたアミンのイオンから選択することができるが、特に好ましくは、1,1,3,3−テトラメチルグアニジンのイオンが選択される。
【0062】
すでに述べたように、従来の液体マトリックスの使用形態は、固体マトリックスの使用形態に準じ、液体マトリックスにおける酸性基含有有機物質のイオンとしても、固体マトリックスとして用いられている酸性基含有有機物質のイオンが採用されることが多い。
【0063】
しかしながら、本発明者らによって発明された新規の物質である、p−クマル酸イオンを含むイオン性液体において、p−クマル酸自体は、従来の固体マトリックスとしても用いられてこなかった物質である。このため、p−クマル酸を含むイオン性液体は、全く新しい観点からのアプローチによって見いだされたという点で、非常に重要な意義を有するマトリックスである。
【0064】
しかも、p−クマル酸を含むイオン性液体は、感度の点からみても優れたマトリックスであることが本発明者らによって確認されている。そして、本発明の液体マトリックスは、解析すべき対象の適用範囲が広いという利点を有する。また、解析すべき試料を硫酸化糖鎖とした場合には、p−クマル酸を含むイオン性液体は、MALDI質量分析においてイオンを生じる際に、硫酸基の脱離を抑制することができる点でも優れている。同様に、解析すべき試料をシアロ糖鎖とした場合には、p−クマル酸を含むイオン性液体は、MALDI質量分析においてイオンを生じる際に、シアル酸の脱離を抑制することができる点でも優れている。さらに、p−クマル酸を含むイオン性液体は、ポジティブモード及びネガティブモードの両モードで測定が可能であるため、さらに解析すべき対象の適用範囲が広く、対象計測の範囲も広い。
【0065】
本発明では、本発明のマトリックスは、液体マトリックスであるため、試料−液体マトリックス混合物中で、試料と液体マトリクスとを均質性良く混在させることができる。このため、固体マトリックス使用時のように、質量分析測定に付される試料上の場所によるイオン化の偏りの問題が生じることがなく、したがって測定が容易になる。
【0066】
[2−3.その他の物質]
解析すべき試料と液体マトリックスとを少なくとも含む混合物(試料−液体マトリックス混合物)は、当該試料及び液体マトリックス以外に、混合物調製時に混在しうる物質、及び液体マトリックスの作用を助けるためのアディティブなどのいかなるものをさらに含んで良い。
【0067】
例えば解析すべき試料が糖ペプチドである場合についてさらに説明すると、当該混合物は、糖ペプチド及び液体マトリックス以外の他の分子を含んでいて良い。このような分子としては、糖タンパク質及び糖ペプチド以外の生体分子、及び合成分子からなる群から選ばれるものが許容される。具体的には、混合物調製時に混在しうる物質、及び液体マトリックスの作用を助けるためのアディティブなどのいかなるものも許容される。混合物調製時に混在しうる物質としては、タンパク質、ペプチドなどの生体分子が挙げられる。糖ペプチドがこのような生体分子と混在しうる場合としては、例えば当該混合物が糖タンパク質の消化を含む工程を経て調製される場合が挙げられる。
【0068】
解析すべき試料が糖ペプチドである場合においては、このように他の分子を含む場合に有用に用いることができる。この場合、当該他の分子に由来するイオンに優先して、解析すべき糖タンパク質又は糖ペプチドに由来するイオン(このイオンはさらに糖−アミノ酸結合が維持されている)を検出することができることが多いためである。特に、他の分子がタンパク質又はペプチドの場合には、高い確実性をもって、解析すべき糖タンパク質又は糖ペプチドに由来するイオンの方を優先的に検出することができる。このような場合の例としては、前記混合物がタンパク質の消化物から得られるもの、すなわち前記混合物が糖ペプチドとペプチドとの両方を含む場合が挙げられる。消化には、例えばオンプレート消化やインゲル消化なども含む。
【0069】
[3.試料−液体マトリックス混合物の形状]
当該混合物は、さまざまな形状を取りうる。混合物の形状は、例えば、その調製法などに依存する。混合物の形状の例としては、以下に詳述する塊状や扁平状などが挙げられる。どのような形状にしても、当該混合物は、解析すべき試料と液体マトリクスとが均質性良く混在した状態で提供される。
【0070】
[3−1.塊状混合物]
本発明において、試料−液体マトリックス混合物は、塊状の形状を有してよい。ここで塊状とは、従来から調製されていたような試料−液体マトリックス混合物が有する扁平な形状に比べ、厚さがより大きく(すなわちターゲットプレート面からの高さがより高く)、面がより狭い(すなわちターゲットプレートとの接触面積がより小さい)形状、すなわちより盛り上がった形状をいう。例えばターゲットプレート上に調製される場合は、ターゲットプレートのウェル内の狭い面積領域において、当該混合物が、集積或いは堆積したように盛り上がった微小な塊の状態で調製される。この微小な塊状の混合物を、混合物のフォーカススポット(focused spot)と記載することがある。
【0071】
[3−2.扁平状混合物]
本発明において、試料−液体マトリックス混合物は、扁平状の形状を有してよい。ここで扁平状とは、従来から調製されていたような試料−液体マトリックス混合物が有する形状であり、厚さが少なく(すなわちターゲットプレート面からの高さが低く)、面が広い(すなわちターゲットプレートとの接触面積が大きい)形状、すなわち薄く広がった形状をいう。例えば、透明のフィルム状のものが挙げられる。扁平状の混合物の厚さは均等でなくても良く、例えば扁平状の混合物の縁部において、より厚くなっていても良い。例えばターゲットプレート上に調製される場合は、ターゲットプレートのウェル内の比較的広い面積領域にわたって広がった状態で調製される。
【0072】
[4.試料−液体マトリックス混合物の調製]
本発明において、試料−液体マトリックス混合物は、どのような方法で調製されても良い。解析すべき試料に液体マトリックス溶液を添加することによって調製する方法;解析すべき試料(すなわち解析すべき対象)を含む組織切片などに対し、液体マトリックスを添加することによって調製する方法;及び、解析すべき試料と液体マトリックスとを溶媒中に含む混合液から溶媒を除去することによって調製する方法などが挙げられる。
【0073】
解析すべき試料と液体マトリックスとを溶媒中に含む混合液から溶媒を除去することによって混合物の調製を行う例について、以下に説明する。
試料−液体マトリックス混合物は、解析すべき試料と、液体マトリックスとを溶媒中に少なくとも含む混合液の液滴をターゲットプレート上に形成する工程と、形成された前記混合液の液滴から前記溶媒を除去し、前記混合液中の不揮発分(すなわち少なくとも解析すべき試料と液体マトリックス)を残渣として得る工程とによって得ることができる。このようにして得られる残渣を、当該混合物のスポットと記載する場合がある。当該混合液には、試料及び液体マトリックス以外に、すでに述べたような、混合液調製時に混在しうる物質、及び液体マトリックスの作用を助けるためのアディティブなどをさらに含んでいて良い。
【0074】
混合液の液滴をターゲットプレート上に形成する具体的方法としては特に限定されない。たとえば、試料溶液と液体マトリックス溶液とを別々に調製し、両溶液を混合させて混合液を得て、得られた混合液をターゲットプレート上に滴下することによって、混合液の液滴を形成することができる。また、試料溶液と液体マトリックス溶液とを別々に調製し、試料溶液をターゲットプレート上に滴下して試料溶液の液滴を形成し、形成された試料溶液の液滴に液体マトリックス溶液を滴下することによってターゲットプレート上で両溶液を混合し、混合液の液滴を形成することができる。またこの場合、試料溶液と液体マトリックス溶液との滴下順序を逆にしても良い。
【0075】
形成されたターゲットプレート上の混合液液滴は、ある程度の広がり面積をもってターゲットプレートと接している。以下、液滴とターゲットプレートとが接する面積を、液滴の広がり面積と記載することがある。
【0076】
[4−1.塊状混合物の調製過程及びフォーカス現象]
塊状の混合物は、以下のような過程を経て形成される。
ターゲットプレート上の混合液の液滴から溶媒が除去されるに伴い、液滴の体積が減少する。溶媒の除去としては、溶媒の自然蒸発を含む。これにより、混合液中の不揮発分(試料及び液体マトリックスが少なくとも含まれる)の濃度が高くなる。すなわち混合液液滴が濃縮される。それに伴い、混合液液滴の広がり面積を縮小させる。混合液液滴の濃縮と混合液液滴の広がり面積の縮小とが相伴って起こるため、濃縮がより進行すれば、当該広がり面積領域のより小さい面積領域へ、混合液中の不揮発分がより濃い濃度で集められる。混合液中の溶媒の大部分ないしは全てが除去されることによって濃縮が完了すれば、試料−液体マトリックス混合物の微小な濃縮スポットが当該広がり面積の一部に残る。この状態は、室温下及び真空下でも維持される。
【0077】
本発明においては、混合液液滴の濃縮とともに混合液液滴の広がり面積の縮小が起きる現象を、混合液中に含まれる不揮発分が、混合液液滴の広がり面積の一部へ集まることから、フォーカス現象と呼ぶ。フォーカス現象を利用することの利点は、解析すべき試料−液体マトリックス混合物を非常に小さい面積領域に集中させることができることにある。混合物が非常に小さい面積領域に集中することは、レーザーを照射するポイントに存在する試料を密にすることであるため、高感度計測を可能にする。しかも、そのようにして得られた塊状混合物の表面は比較的均質な状態で保たれているため、混合物スポットの場所によるイオン化の偏りがほとんどないコンディションで計測を行うことが可能である。
【0078】
フォーカス現象によってターゲットプレート上の液滴がどの程度縮小するかに関する具体的な量としては特に限定されるものではない。例えば、混合物のフォーカススポットとターゲットプレートとが接する面積が、形成された直後の混合液の液滴とターゲットプレートが接する面積の80%以下、好ましくは10%以下に縮小されれば、当該フォーカス効果は特に効果的に得られたといえる。当該縮小率の下限値としては特に限定されるものではないが、例えば0.001%である。
【0079】
すでに述べたように、フォーカス現象によって、解析すべき試料−液体マトリックス混合物が非常に小さい面積領域に集中するため、レーザーを照射するポイントに存在する試料が密になり、従って高感度計測をおこなうことが可能になる。
このため、形成された直後の混合液の液滴の広がり面積がフォーカス現象によってより小さい面積に縮小すると(すなわちより大きいフォーカス効果を得ると)、より蜜に凝集したタンパク質−液体マトリックス混合物が得られる。このことは、高感度計測の点から好ましい。フォーカス効果を効果的に得るためには、例えば後述のように、試料及び液体マトリックスを含む混合液中の液体マトリックス濃度、使用する溶媒の種類、ターゲットプレートの表面の状態などを考慮すると良い。
【0080】
[4−2.扁平状混合物の調製過程]
扁平状混合物が調製される場合、ターゲットプレート上の混合液の液滴から、溶媒が除去されることによって、形成直後の混合液の液滴の広がり面積とほぼ同じ面積領域において、試料−液体マトリックス混合物が残る。形成された混合液の液滴から、溶媒が除去されることに伴う液滴の体積の減少過程において、ターゲットプレート上の液滴の広がり面積がおおよそ保たれるため、残渣として扁平状の混合物が得られる。
【0081】
[4−3.液体マトリックスの量]
[4−3−1.混合液中の液体マトリックスの量]
液体マトリックス濃度としては特に限定されるものではない。従来法において通常に用いられていた濃度の液体マトリックスは、過剰に高い濃度を有しているため、本発明において好ましいフォーカス現象は起こらない。この場合は、通常、薄く広がった形状の混合物が得られる。
【0082】
本発明においては、フォーカス現象を利用して、微小な混合物の濃縮スポット(フォーカススポット)を得ることが好ましい。さらにこの場合、フォーカス効果をより効果的に得るために、混合液中の液体マトリックスの濃度を通常用いられていた濃度より低く設定することができる。
混合液中の液体マトリックスの量は、フォーカス現象を起こすことができる程度に少なく、且つ液体マトリックスがMALDI質量分析のマトリックスとして作用する程度に十分な量である。そのような量は、混合液中の不揮発分として含まれる物質の種類や、当該不揮発分の総量などの要因によって変動しうるものであるが、好ましくは20pM〜40mM、さらに好ましくは20μM〜20mMとすることができる。このような範囲とすることによって、フォーカス効果をより効果的に得ることができる。
【0083】
特に糖タンパク質の消化物を液体マトリックスと混合して解析する場合には、混合液中の液体マトリックスの量は、好ましくは20pmol〜200mM、さらに好ましくは20μM〜200mMとすることができる。この範囲は、本発明において許容されるマトリックス量のうち、例えば上記の他の分子が含まれない場合よりも多く設定されている。これは、糖タンパク質の消化工程による試料のロス、消化工程で生じる糖ペプチド量が場合に応じて変動しうること、消化工程の段階から試料中に混在する不純物の量が増えることなどのために、最終的に得られる糖ペプチドの量が正確に予測できないことを考慮したものである。
【0084】
一方で、糖タンパク質消化物の解析以外の場合のように、上記のようなことを考慮しなくて良い場合、或いは解析すべき試料の量が見出せる場合は、混合液中の液体マトリックスの量は、既に述べたように、20pM〜40mM、好ましくは20μM〜20mMとすればよい。
【0085】
[4−3−2.ターゲットプレート上の液滴1個に含まれる液体マトリックスの量]
ターゲットプレート上に形成された混合液の液滴1個に含まれる液体マトリックスの量、すなわちターゲットプレート上に形成された混合物のスポット(スポットの形状は塊状及び扁平状を含む)1個あたりの液体マトリックスの量としては特に限定されない。
【0086】
好ましくは、ターゲットプレート上に形成された混合物のスポット1個あたりの液体マトリックスの量を、10 fmol〜100 nmol、さらに好ましくは10 pmol〜100 nmolとすることができる。例えば、混合液の濃度を上記のように20pmol〜200mM、さらに好ましくは20μM〜200mMとした場合に、スポット1個あたりの液体マトリックスの量が上記範囲内に収まるように、混合液の液滴を形成することができる。
【0087】
或いは、ターゲットプレート上に形成された混合物のスポット1個あたりの液体マトリックスの量を、10 fmol〜20 nmol、さらに好ましくは10 pmol〜10 nmolとすることができる。例えば、混合液の濃度を上記のように20pM〜40mM、好ましくは20μM〜20mMとした場合に、スポット1個あたりの液体マトリックスの量が上記範囲内に収まるように、混合液の液滴を形成することができる。
【0088】
試料溶液と液体マトリックス溶液とを別々に調製し、両溶液を混合させて混合液を得る場合、予め調製しておく液体マトリックスの濃度は当該液体マトリックス溶液中40pM〜80mM、好ましくは40μM〜40mMとすることができる。本発明の液体マトリックスがMALDI質量分析キットの内容物として提供される場合は、当該キット内の液体マトリックスは、例えば40pM〜400mMの濃度を有する溶液として提供されて良い。このようなキット内のマトリックス溶液は、使用の際、必要に応じ、上記の濃度(すなわち40pM〜80mM、好ましくは40μM〜40mM)となるように適宜希釈することができる。
【0089】
このような濃度で調製された液体マトリックスは、試料溶液と特に限定されない混合比で混合することができる。例えば、体積比1:1で混合することができる。或いは、混合によって得られる解析すべき試料と液体マトリックスとを含む混合液において、液体マトリックスの濃度が上記に挙げた20pM〜40mM、好ましくは20μM〜20mMとなるように調整された混合比とすることができる。
【0090】
[4−4.解析すべき試料の量]
なお、混合液中の解析すべき試料の量としては、特に限定されるものではない。例えば、液体マトリックス5 nmolに対し、試料の量は、10pmol〜数fmolの広い範囲で許容される。
【0091】
[4−5.液滴の体積]
1個のスポットを形成する混合液の液滴の体積としては、特に限定されず、当業者が適宜決定することができる。
ターゲットプレート上にウェルが設けられている場合、混合液の液滴は、ウェル内に形成することができる。この場合、液滴は、当該ウェル内に収まる程度の体積をもって形成される。具体的には、10nL〜10μl程度、例えば0.5μl程度の液滴を形成することができる。
【0092】
[4−6.溶媒]
混合液中に用いられる溶媒としては、特に限定されるものではなく、当業者が適宜決定することができる。例えば、メタノール、エタノール、プロパノール、アセトン、酢酸エチル、アセトニトリル、テトラヒドロフラン、ジエチルエーテル、トルエン、ジクロロメタン、クロロホルムなどの有機溶媒、及び水から適宜選択して用いることができる。例えば、メタノール−水系が好ましい。
【0093】
溶媒中には水が含まれていることが好ましい。例えば、溶媒全体の10〜100体積%、好ましくは30〜100体積%を占めるように、水を含ませることができる。溶媒中に水が含まれることは、上記のフォーカス効果を特に効果的に得ることができる点、より再現性良く混合物を調製することができるという点などから好ましい。
【0094】
[4−7.ターゲットプレート]
ターゲットプレートとしては、特に限定されない。通常MALDI質量分析に使用されるステンレス鋼ターゲットプレートなどや、化学的或いは物理的に表面処理がなされたターゲットプレートなど、さまざまなものを使用することができる。
【0095】
特にターゲットプレート表面の表面粗さがより小さいものは、上記のフォーカス現象をより効果的に起こすという観点から好ましい。すなわち、ターゲットプレート表面が研磨などによってよりなめらかな状態としたものを用いたほうが、より大きいフォーカス効果が得られる。例えば、鏡面仕上げされたターゲットプレートを用いることは、フォーカス効果を特に効果的に得ることができる点で好ましい。
【実施例】
【0096】
以下に実施例を示し、本発明を具体的に説明するが、本発明は下記の実施例に制限されるものではない。
【0097】
[実施例1:液体マトリックスGCAを用いた硫酸化糖鎖のMALDI質量分析測定]
以下のようにして、1,1,3,3−テトラメチルグアニジンイオンとp−クマル酸イオンとから構成されるイオン性液体(GCA)を調製した。
0.05 mmol(8.2 mg)のp−クマル酸をメタノール500μLに溶かし、0.15 mmol(18.75 μL)の1,1,3,3−テトラメチルグアニジンを加えて、手動及び自動振動器でしっかり混合した。得られた混合溶液に対し、スピードバックを用いて約2時間減圧乾燥を行った。これをデシケータに入れ、一晩真空引きを行った。
このようにして得られたイオン性液体を液体マトリックスとして用いた。
【0098】
GCAは9 mg/0.1 mLでメタノールに溶かし、さらにメタノールによって、1/20 (v/v)に希釈し、液体マトリックス溶液を得た。一方、硫酸化糖鎖Neocarratetraose-41, 3-di-O-sulfate sodium salt (FW 834.6) を水に溶かし、硫酸化糖鎖溶液を得た。液体マトリックス溶液と硫酸化糖鎖溶液とを1:1(v/v)で混合した。得られた混合溶液を0.5 μLずつサンプルターゲット(表面に鏡面処理を行ったもの)上に滴下し、自然に溶媒を蒸発させ、小さく凝集された硫酸化糖鎖−液体マトリックス混合物を得た。
【0099】
質量分析装置としてMALDI-QIT-TOF型質量分析装置(島津製作所製AXIMA-QIT)を用い、サンプルターゲット上に調製した混合物について計測を行った。計測は、ポジティブモード及びネガティブモードの両方によって行った。ポジティブモード測定によって得られたマススペクトルを図1、ネガティブモード測定によって得られたマススペクトルを図2に示す。その結果、ポジティブモードでは、硫酸化糖鎖は、硫酸基の脱離を抑制しながら、10 fmol/ウェルまで[M+Na]+として検出された。一方ネガティブモードでは、硫酸化糖鎖は、硫酸基の脱離を抑制しながら、5fmol/ウェルまで[M-Na]-として検出された。さらに、検出限界濃度(すなわちS/Nは低いがイオン化は確認できた濃度)としては、ポジティブモードで5 fmol/ウェル、ネガティブモードで1 fmol/ウェルであった。
【0100】
またこれらのイオンは、試料−マトリックスの混合物の表面上で比較的均一に得ることができたことを確認した。
【0101】
[実施例2:液体マトリックスGCAを用いた糖タンパク質消化物のMALDI質量分析測定]
実施例1で得られた液体マトリックスGCAを9 mg/0.1 mLでメタノールに溶かし、さらにメタノールによって30倍希釈し、液体マトリックス溶液を得た。一方、糖タンパク質Ribonuclease B (RNase B)を、リジルエンドペプチダーゼで消化した。その後、脱塩を行うことなく水に溶解し、糖タンパク質消化物水溶液を得た。この糖タンパク質の酵素消化物水溶液と液体マトリックス溶液とを1:1(v/v)で混合した。得られた混合溶液を0.5 μLずつサンプルターゲット(表面に鏡面処理を行ったもの)上に滴下し、自然に溶媒を蒸発させ、小さく凝集された糖タンパク質消化物−液体マトリックス混合物を得た。
【0102】
質量分析装置としてMALDI-QIT-TOF型質量分析装置(島津製作所製AXIMA-QIT)を用い、サンプルターゲット上に調製した混合物について計測を行った。計測は、ポジティブモード及びネガティブモードの両方によって行った。ポジティブモード測定によって得られたマススペクトルを図3(a)、ネガティブモード測定によって得られたマススペクトルを図3(b)に示す。
【0103】
[比較例1:固体マトリックスDHBを用いた糖タンパク質消化物のMALDI質量分析測定]
マトリックス溶液として、市販の精製された固体マトリックス2,5-dihydroxybenzoic acid (DHB)を、5 mg/0.5 mLの濃度で50(v/v) %アセトニトリル水溶液に溶かして得たものを用いた。糖タンパク質Ribonuclease B (RNase B)を、上記実施例2と同様に準備した。この糖タンパク質の酵素消化物水溶液と液体マトリックス溶液を鏡面仕上げされたターゲット上で0.5 μLずつ滴下して混合し、自然に溶媒を蒸発させ、糖タンパク質消化物−DHBの混合結晶を得た。尚、最終的にターゲットのウェル上に搭載される糖タンパク質消化物の濃度が、実施例2における液体マトリックス使用時と同じになるように調整した。質量分析装置による計測は上記実施例2と同様の操作で行った。ポジティブモード測定によって得られたマススペクトルを図4(a)、ネガティブモード測定によって得られたマススペクトルを図4(b)に示す。
【0104】
[実施例2及び比較例1で得られたマススペクトルの検証]
図3及び4が示すように、液体マトリックスを使用した場合(図3)は、固体マトリックスを使用した場合(図4)に比べ、ポジティブモード(a)及びネガティブモード(b)のいずれによっても、糖ペプチドピークが優先的にイオン化されたことが確認できた。また、その傾向は、ネガティブモード(b)によるものにおいて顕著であった。
【0105】
そして、液体マトリックスを用いた実施例2においては、サンプルプレート上に調製した糖タンパク質消化物−液体マトリックス混合物の表面上のどの場所においても、このようなスペクトルを同様に得ることができた。すなわち、当該混合物の表面上のどの場所においても比較的均質であり、イオン化の偏りがほとんどないことが確認できた。
【0106】
また、実施例2の測定により十分な量で生成した糖ペプチドイオンをプリカーサとしてMSn測定を行えば、構造解析を行うことが可能であることが明らかである。
【図面の簡単な説明】
【0107】
【図1】実施例1において、液体マトリックスGCAを用いて、10 fmol/ウェルの硫酸化糖鎖Neocarratetraose-41, 3-di-O-sulfate sodium salt (FW 834.6)に対して、、ポジティブモード測定により得られたマススペクトルである。横軸は質量/電荷、縦軸はイオンの相対強度を表す。
【図2】実施例1において、液体マトリックスGCAを用いて、5 fmol/ウェルの硫酸化糖鎖Neocarratetraose-41, 3-di-O-sulfate sodium salt (FW 834.6)に対して、ネガティブモード測定により得られたマススペクトルである。横軸は質量/電荷、縦軸はイオンの相対強度を表す。
【図3】実施例2における、液体マトリックスGCAを用いた糖タンパク質RNase Bの酵素消化物のMALDI質量分析測定において、ポジティブモード測定により得られたマススペクトル(a)及びネガティブモード測定により得られたマススペクトル(b)である。糖ペプチド由来のイオンピークを矢印で示している。横軸は質量/電荷、縦軸はイオンの相対強度を表す。
【図4】比較例1において、固体マトリックスDHBを用いた糖タンパク質RNase Bの酵素消化物のMALDI質量分析測定において、ポジティブモード測定により得られたマススペクトル(a)及びネガティブモード測定により得られたマススペクトル(b)である。糖ペプチド由来のイオンピークを矢印で示している。横軸は質量/電荷、縦軸はイオンの相対強度を表す。

【特許請求の範囲】
【請求項1】
アミンのイオンとp-クマル酸のイオンとを含むイオン性液体からなるMALDI質量分析用液体マトリックス。
【請求項2】
糖及び糖を含む分子からなる群から選ばれる分子を解析すべき試料とし、前記解析すべき試料をMALDI質量分析測定に供するために用いられる、請求項1に記載のMALDI質量分析用液体マトリックス。
【請求項3】
前記糖を含む分子が酸性糖鎖であり、前記MALDI質量分析測定において、前記酸性糖鎖から酸性基を有するイオンを生ぜしめる、請求項2に記載のMALDI質量分析用液体マトリックス。
【請求項4】
前記糖を含む分子が硫酸化糖鎖であり、前記MALDI質量分析測定において、前記硫酸化糖鎖から硫酸基を有するイオンを生ぜしめる、請求項2又は3に記載のMALDI質量分析用液体マトリックス。
【請求項5】
前記糖を含む分子が糖タンパク質又は糖ペプチドであり、前記MALDI質量分析測定において、前記糖タンパク質又は糖ペプチドに由来し且つ糖−アミノ酸結合が維持されたイオンを検出する、請求項2に記載のMALDI質量分析用液体マトリックス。
【請求項6】
前記イオン性液体は、前記解析すべき試料と前記イオン性液体とを溶媒中に含む混合液中、20pM〜200mMの濃度で用いられる、請求項2〜5のいずれか1項に記載のMALDI質量分析用液体マトリックス。
【請求項7】
ポジティブモード及びネガティブモードの両モードにおいて用いられる、請求項1〜6のいずれか1項に記載のMALDI質量分析用液体マトリックス。
【請求項8】
前記アミンが、1,1,3,3−テトラメチルグアニジンである、請求項1〜7のいずれか1項に記載のMALDI質量分析用液体マトリックス。
【請求項9】
液体マトリックスとして、アミンのイオンとp-クマル酸のイオンとを含むイオン性液体を含む、MALDI質量分析キット。
【請求項10】
鏡面仕上げのターゲットプレートをさらに含む、請求項9に記載の質量分析キット。

【図1】
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【図2】
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【図3】
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【図4】
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