説明

減衰全反射分光手法に基づく誘電率測定方法

【課題】減衰全反射分光手法によって得られた分光データから測定対象試料の誘電率をより正確に測定する方法を提供すること。
【解決手段】減衰全反射(Attenuated Total Reflection :ATR)分光手法によって得られた分光データから測定対象試料の誘電率を測定する方法であり、該方法で使用する標準試料として、一般的な「空気」を採用することなく、入射電磁波の所定の周波数領域帯において誘電率が一定である材料を採用するようにした。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、誘電率測定技術に関する。より詳しくは、減衰全反射分光手法によって得られた分光データから測定対象試料の誘電率を測定する技術に関する。
【背景技術】
【0002】
物質の屈折率や誘電率(dielectric permittivity)は、物質の性質(例えば、化学構造、内部構造)などを知る上で、重要な物性値となり得る。物質の屈折率や誘電率は、例えば、所定の電磁波を測定試料に照射してその反射率(又は透過率)を測定し、その測定データの解析を行うことによって取得することができる。
【0003】
一般的に、物質の屈折率や誘電率は定数ではなく、入射電磁波の周波数に依存して異なる値を示すことが知られている。これは「分散」とも称される現象で、可視領域、赤外領域、テラヘルツ(THz)周波数領域では、物質の屈折率又は誘電率は、異なる値を示す。例えば、可視領域での水の屈折率は1.3であるが、マイクロ波領域では8程度になることが知られている。
【0004】
ここで、正確な誘電測定のためには、あらゆる不正確性をもたらす外部要因を最小限にすることが重要である。そのためには、誘電率が既知の標準試料が一般的に使用され、この標準試料への標準化作業(normalization)によって、対象のサンプル試料の誘電率を正確に決定することが可能である。
【0005】
従って、標準試料は、慎重に選択されなければならないのであり、この標準試料の特性は正確に知られている必要がある。標準試料の特性は、温度変化や圧力変化、湿度レベルなどのような外部要因に関して、できる限り一定であるべきであり、強いエネルギー吸収性のある標準試料は、SN比の向上などの観点から避けられるべきである。
【0006】
近年、誘電率測定技術として、減衰全反射分光法(Attenuated Total Reflection :ATR法)が提案されている。この手法では、プリズム上面に臨界角度以上で光を照射し、プリズム上面にしみ出たエバネッセント光と物質とを相互作用させ、その結果、減少した減衰全反射率(ATR)を観測するという原理が採用される。この原理を利用した試料の光学的評価技術は少ないが、その一例が、以下の特許文献1に開示されている。
【0007】
この減衰全反射分光法は、近年の新しい技術で、現在、標準的な測定法を確立する途上にあり、産業利用には物性値データベースの整備・構築が今後必要とされている。また、選定された標準試料を測定することによって、当該方法に基づく測定システムの正常動作確認や信頼性評価ができるようにしなければならない。
【特許文献1】特開2002−286632号公報。
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0008】
従来の減衰全反射分光法を利用する誘電率測定において「標準試料」が用いられる場合、該標準試料として「空気」が一般的に使用されている。しかし、標準試料としての空気には、一つの重大な欠点がある。それは、空気には、常に、ある程度の水蒸気が含まれていることである。この水蒸気の影響は、従来は無視して扱われてきたが、いくつかの周波数領域での誘電率測定においては重大な影響を及ぼすことになることが新規にわかった。この理由により、標準試料の測定対象は、正確には空気それ自体とは言えないのであり、その実体は、「水蒸気を所定割合含んでいる空気」である。
【0009】
したがって、制御することが難しい水蒸気の存在によって、空気は標準試料として実際には不適格なものと言わざるを得ない。従って、空気以外の標準試料を見つけることが必要である。特に、空気中の水蒸気の影響が大きくなる低吸収性流体(low absorption fluids)を測定する場合には、代替の標準試料を見出すことが必要である。
【0010】
そこで、本発明は、減衰全反射分光手法によって得られた分光データから測定対象試料の誘電率を測定する方法に関し、この方法で使用する「標準試料」に関してより研究し、かつ、工夫した誘電率測定法を提供することを主な目的とする。
【課題を解決するための手段】
【0011】
本発明では、減衰全反射(Attenuated Total Reflection :ATR)分光手法によって得られた分光データから測定対象試料の誘電率を測定する方法に関して、該方法で使用する標準試料として、入射電磁波の所定の周波数領域帯で誘電率が一定である材料を採用するように工夫した。前記周波数領域帯としては、目的に応じて適宜選定可能であるが、テラヘルツ(THz)帯も一例としてあげることができる。前記標準試料は、入射電磁波の入射電磁波の使用する周波数領域帯において、エネルギー吸収が空気よりも少ない試料を採用でき、例えば、アルカン類のような炭化水素化合物からなる試料が好適である。一方、減衰全反射分光手法に基づく本発明において、測定対象試料は、エネルギー低吸収性の試料がより適している。このような本発明に係る誘電率測定法によって得られた誘電率データを用いて、前記測定対象試料の物性を評価することが可能である。
【発明の効果】
【0012】
本発明に係る方法によれば、選定された標準試料を測定することによって、例えば、当該方法に基づく測定システムの正常動作確認や信頼性評価ができるようになる。
【実施例】
【0013】
(実験例1)
標準試料として「空気」を使用した場合において、当該空気中の水蒸気のエネルギー吸収の問題によって、「空気」が好ましい標準試料ではないことを検証するための実験を行った。
【0014】
実験手法。
本実験では、テラヘルツ時間領域分光法を採用した。具体的には、超短パルスレーザー(フェムト秒レーザー)を光伝導アンテナに照射してテラヘルツ波を発生させ、そして、発生したテラヘルツ波はシリコンレンズを用いて集光し、それを光学系を通してATR測定プリズム(下面が半球状で上面は平坦なシリコンプリズム)に上面への入射角が45度になるようにプリズムの下面側から入射した。なお、この入射角は全反射条件を充たす。プリズム上面にしみ出たエバネッセント光と測定試料は相互作用し、その結果減衰した全反射テラヘルツ波を光学系を通じて検出部に導いた。検出部にも光伝導アンテナを用いた。テラヘルツ波検出の時間タイミングは、テラヘルツ波を発生させるために用いたフェムト秒レーザーをビームスプリッターで分けたものを、時間遅延ステージを通してから検出部に照射することで決定され、この遅延ステージの位置を変化させることで遅延時間をコントロールすることができる。少しずつ遅延ステージの位置を変えてテラヘルツ波を検出することにより、時間領域でテラヘルツ波形を得ることができる。上記の実験装置のうち、ATR測定プリズムの上面以外のものは真空状態にした金属容器内に収納されている。これはテラヘルツ波が光学系の伝播中に空気中の水蒸気によって減衰するのを防ぐためである。一方、ATR測定プリズム上面は簡単に測定試料の変更が出来るように大気に対して露出しており、また、このプリズムは温度をコントロールできるようになっている。本実験は、以上のような装置を用いて、ATR測定プリズム上に何ものせない状態(即ち、空気の測定)と、前記プリズムの上にヘキサンをのせた状態とでそれぞれ行った。
【0015】
実験結果。
図1に示すグラフは、本実験例1の結果を示す図である。具体的には、この図1は、温度50℃条件でのテラヘルツ帯における減衰全反射分光手法(以下、「ATR-THz」)の測定パルスを示すグラフ(実線:ヘキサン(hexane)、点線:空気(Air))である。
【0016】
図1中の実線グラフ(ヘキサン)に示す測定パルスの挙動は、「空気」がTHz放射線(テラヘルツ帯域の電磁波)の一部を吸収するという現象によってのみ説明することが可能である。そして、このエネルギー吸収は、空気中の湿度(水蒸気)に起因するものであると推定することができる。
【0017】
標準試料として「空気」を使用して、ある種のアルカンを測定試料とした場合には、そのピーク波形の振幅は、アルカン試料よりも空気の方がより低くなることがわかる(図1)。これは、空気がアルカン試料(例えば、ヘキサン)よりもテラヘルツ放射線(テラヘルツ帯域の電磁波)を吸収することを意味している。これは、空気に関する「全反射」の仮定が本質的に間違っていたことを意味するのであり、即ち、このテラヘルツ波長帯域では空気の屈折率が1に等しくないことを意味する。
【0018】
(実験例2)
次に、誘電測定に対する空気の湿度の影響を検証する実験を行った。
【0019】
実験方法。
本実験は、上記実験例1で採用したものと同じ装置を用いて行った。まず、測定用のATRプリズムの温度を調整し、50℃にてヘキサンの測定を行った。その後、ヘキサンをプリズム上から取り除きプリズム上面を有機溶媒で洗浄した。そして、50℃の条件にて空気の測定を行った。次に、微量の水をピペットで50℃に調整されたプリズム上に滴下し、その後すぐにプリズムをシャーレ状の蓋で覆った。この作業によって滴下した水は、すぐに蒸発してプリズム上面は乾燥するが、その周りの湿度は外気よりも高くなる。このような条件で測定を行った。さらに滴下する水の量を増やして同様の測定を行った。
【0020】
実験結果。
添付した図2、図3に示すグラフは、誘電測定に対する湿度の影響を示すものである。これらのグラフに示されているように、測定された波形振幅と位置は、低湿度から高湿度条件へかなり変化することが明らかであった。
【0021】
図2は、温度50℃条件でATR-THzの空気湿度の程度に伴うパルスピーク位置の変化を示している。アルカン類に属するヘキサンは、標準のピーク位置を示し、step1とstep2は、ATR(減衰全反射)プリズムの上面で、蒸発した水の量が増加したことを示している。図3は、温度50℃条件でのATR-THzでの空気湿度の程度に伴うパルスピーク値の変化を示している。
【0022】
本実験例2で示された結果にもかかわらず、従来一般の誘電測定におけるデータ分析においては、標準試料として「空気」を使用するとき、全反射は、湿度が変わっても一定であるという仮定がなされていた。このことは、空気の屈折率がこの周波数領域において実質的に知られていなかったこと、あるいは、空気の屈折率が湿度レベルに依存するという事実を本発明において新規に主張することができる。
【0023】
(実験例3)
以上の実験例1、2において示したように、「空気」は、減衰全反射分光測定での標準試料として不適であることが明らかである。この検証結果を受けて、他の好適な標準試料の探索を試みた。なお、好適な標準試料は、採用された周波数領域において、正確に屈折率が知られた材料でなければならない。
【0024】
減衰全反射分光技術は、近年台頭した新しい研究分野であるので、標準試料に係わる材料に関する正確なデータが基本的に不足している状況である。なお、いままでのところ、可視光周波数領域での屈折率については、相当数の材料で非常に正確に特定されており、同様に、誘電率についても、広範な種々の材料にわたって大変よく知られている。
【0025】
これらのすべての材料の中で、誘電率が屈折率の二乗に等しい材料群が適切な標準試料となり得る。実際に、多くの材料に関して、可視光領域で屈折率が一定で等しい値となることが知られており、中赤外線(mid-IR)領域までの測定では、よい標準試料を決定することが可能である。しかし、より低周波数レベル(例えば、テラヘルツ帯)では、分子内振動や分子間振動が起こるという問題がわかってきた。この問題は、試料の誘電率の挙動に影響を与えてしまう。次の図4に示すグラフは、このことを示している。
【0026】
図4は、周波数に対する誘電率(実部分)の挙動が異なるタイプの模式的説明図である。
【0027】
この図4に示すグラフの一番下の点線グラフは、一般的に仮定される空気の誘電率(1に等しい)を表している。その上に位置する一点鎖線グラフは、誘電率がいかなる周波数域での測定でも屈折率の二乗に等しく、この観点から、典型的に良好な標準試料(例えば、アルカン類)であることを表している。次に、その上の二点鎖線グラフは、誘電率の値が1GHzで屈折率の二乗に達しているという理由から、1GHzよりも高い周波数での測定において、標準試料として使用され得る材料であることを表している。最後に、一番上の実線グラフは、テラヘルツ周波数域での標準試料としては使用困難な材料を表している。
【0028】
この図4のグラフに示されているように、目的の周波数領域の最低周波数(あるいは、それよりもさらに低い周波数)において誘電率が屈折率の二乗の等しいことが確認できれば、それ以上の周波数帯では誘電率が屈折率の二乗に等しくなるため、前記最低周波数以上の高周波帯において好適な標準試料となり得ることがわかる。
【0029】
そこで、本発明において好適な標準試料を上位概念的にまとめると、目的の周波数帯において誘電率が屈折率の二乗に等しい材料から構成されていることである。これに適合する全ての材料は、双極子モーメントを有さないという性質を有する(無極性物質(双極子モーメントが0の物質)の誘電率は屈折率の二乗に等しい)。しかし、分子間の相互作用が双極子モーメントを発生させてしまうようなケースでは、そのような物質は、好適な標準試料ではなくなる。
【0030】
(実験例4)
次に、減衰全反射分光測定のための標準試料として幾つかのアルカン類についての試験を行なった。アルカン類は、非常に類似した性質を有しているので、本発明では、合理的に、全てのアルカン類に対して、本実験例の結果を拡張できる。
【0031】
実験方法。
本実験は、上記実験例1で採用したものと同じ装置を用いて行った。空気、ペンタデカン、ヘプタン、ノナンをそれぞれ30℃で測定した。
【0032】
添付した図5、図6に、本実験例4の結果を示した。図5の例では、空気を標準試料として使用した。一方、図6の例では、アルカン類に属するペンタデカンを標準試料として使用した。なお、両方の例において、使用した測定対象試料(サンプル試料)も、アルカン類(ヘプタンとノナン)であった。
【0033】
図5は、「標準試料」として空気を使用した場合における、温度30℃条件でのヘプタン(測定試料)のATR-THz測定結果を示している。この図5中の点線グラフは、ヘプタンの光学的な屈折率値に対応している。1.5THzを超える周波数域での振動性の挙動と同様に、0.5〜1THzの間の屈折率値が大きく点線グラフから逸脱していることが観察される。
【0034】
このように、図5では、「標準試料」として空気を使用して得た屈折率は、期待値と等しくなく、明らかに一定でもないことが示されている。なお、約0.6THzでのピークの存在は、分光分析における誤差である。また、その屈折率の仮想部分(示さず)は、期待値から大きく逸脱していることが示されている。
【0035】
図6は、「標準試料」としてペンタデカンを使用した場合において、温度30℃条件でのノナン(測定試料)のATR-THz測定結果を示している。この図6におけるペンタデカンの測定値が、一点鎖線グラフ(ノナンの屈折率)によって示された期待値に非常に近似していることが示されており、ノナン(アルカン類)について期待された通りに、その結果は、グラフの線形が非常にフラットで、ノイズがなく大変良好であった。
【0036】
なお、同種のアルカン類に関する測定データをとくに開示してはいないが、スペクトルはアルカン類において非常に類似した性質を有しているので、アルカン類の広範な種類において同様の結果が得られることを推定することが可能である。
【0037】
「標準試料」としてペンタデカンを採用した場合では、得られた値がより重要な結果をもたらした。その絶対的な数値において期待値に非常に近似し、かつ非常に一定であったことが図6に明らかに示されている。
【産業上の利用可能性】
【0038】
本発明は、特に、減衰全反射分光手法によって得られた分光データから測定対象試料の誘電率を測定する技術などに利用できる。
【図面の簡単な説明】
【0039】
【図1】実験例1;温度50℃条件でのテラヘルツ領域における減衰全反射分光手法(以下、「ATR-THz」)の測定パルスを示すグラフ(実線:ヘキサン、点線:空気)である。
【図2】実験例2;温度50℃条件で、ATR-THzの空気湿度の程度に伴うパルスピーク位置の変化を示す図(グラフ)である。
【図3】実験例2;温度50℃条件で、ATR-THzでの空気湿度の程度に伴うパルスピーク値の変化を示す図(グラフ)である。
【図4】実験例3;周波数に対する誘電率(実部分)の挙動が異なるタイプの模式的説明図である。
【図5】実験例4;標準試料として空気を使用し、温度30℃条件でのヘプタンのATR-THz測定結果を示す図(グラフ)である。
【図6】実験例4;標準試料としてペンタデカンを使用し、温度30℃条件でのノナンのATR-THz測定結果を示す図(グラフ)である。

【特許請求の範囲】
【請求項1】
減衰全反射(Attenuated Total Reflection :ATR)分光手法によって得られた分光データから測定対象試料の誘電率を測定する方法であって、
前記方法で使用する標準試料は、入射電磁波の所定の周波数領域帯で誘電率が一定であることを特徴とする誘電率測定法。
【請求項2】
前記周波数領域帯は、テラヘルツ(THz)帯であることを特徴とする請求項1記載の誘電率測定法。
【請求項3】
前記標準試料は、入射電磁波の入射電磁波の使用する周波数領域帯において、エネルギー吸収が空気よりも少ない試料であることを特徴とする請求項1記載の誘電率測定法。
【請求項4】
前記標準試料は、炭化水素化合物からなる試料であることを特徴とする請求項3記載の誘電率測定法。
【請求項5】
前記炭化水素化合物は、アルカン類であることを特徴とする請求項4記載の誘電率測定法。
【請求項6】
前記測定対象試料は、エネルギー低吸収性の試料であることを特徴とする請求項1記載の誘電率測定法。
【請求項7】
請求項1記載の誘電率測定法によって得られた誘電率データを用いて、前記測定対象試料の物性を評価する方法。

【図1】
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【図2】
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【図3】
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【図4】
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【図5】
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【図6】
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