説明

質量分析方法

【課題】量子化学的計算手法を用いて高精度で予測た未知の特定分子の共鳴励起準位やイオン化準位の波長にレーザの波長を効率的に調整して照射する質量分析方法を提供する。
【解決手段】(i)特定分子の電子基底状態の最安定構造Q0、構造Q0における零点振動エネルギーzp0、電子励起状態の最安定構造Q1、構造Q1における零点振動エネルギーzp1を求め、(ii)電子基底状態の構造Q0におけるポテンシャルエネルギーE0(Q0)、電子基底状態の構造Q1におけるポテンシャルエネルギーE0(Q1)を求め、(iii )ポテンシャルエネルギーE0(Q1)から、電子励起状態の構造Q1におけるポテンシャルエネルギーE1(Q1)へのエネルギー増加量ΔE1を求め、(iv)ΔE1-0=E0(Q1)−E0(Q0)+ΔE1+ zp1 −zp0 により断熱的電子励起エネルギーΔE1-0 を求め、ΔE1-0に基づいて、特定分子を電子基底状態から電子励起状態に励起させる照射レーザの波長を調整する。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、レーザを照射し、特定分子を共鳴多光子吸収過程で選択的に励起、イオン化し、質量分析する質量分析方法、特に、被測定ガス中の特定分子を高感度かつオンサイト・リアルタイムに検出できる超音速分子ジェット多光子吸収イオン化(JET−REMPI)質量分析方法に関する。
【背景技術】
【0002】
ダイオキシンをはじめとする有機塩素系化合物の人体への影響が強く懸念されている現在、焼却炉の設計や操業管理に必要な情報を得るといった例を一つとっても、極微量有機塩素化合物を選択的かつ定量的にオンサイト実時間分析可能な新評価技術の開発が望まれている。
【0003】
従来のダイオキシンの公定の測定・分析法は、厚生労働省のまとめた「ダイオキシン類の発生防止ガイドライン」の中で測定標準法として示されている。この方法は、ダイオキシン類を有機溶媒により抽出し、各種クロマトグラフィー法で濃縮・分離後、ガスクロマトグラフ質量分析法(GC/MS)によって分析するものである。この試験分析工程は、多大な計測時間とコストを必要とする。
【0004】
このような背景において、近年、有機分子をリアルタイムに選択的に検出できる方法として、超音速分子ジェット多光子吸収イオン化(JET−REMPI)法が注目されている。一般に、有機分子は、その分子骨格に起因する電子状態を持ち、その状態に振動準位や回転準位などが複雑に相互作用している。JET−REMPI法は、このような有機分子の分子骨格の違いによるレーザの吸収波長の違いを利用して、その分子種を特定するための質量分析法のひとつである。この方法によれば、上記公定法のような濃縮・分離などの前処理を必要とせず、有機分子のそのままの化学構造の状態で、高感度かつ高選択性をもって検出できる。
【0005】
JET−REMPI法は、共鳴多光子吸収イオン化(REMPI)法と超音速分子ジェット(JET)法を組み合わせた分析手法である。共鳴多光子吸収イオン化(REMPI:Resonance Enhanced Multi−Photon Ionization)法とは、レーザで有機分子を励起する際に、注目する特定分子の励起準位にレーザの波長を同調させることで、特定分子種のみを選択的にイオン化(共鳴多光子吸収イオン化)させた後、このイオンを質量分析計を用いて検出する質量分析方法である。
【0006】
レーザ吸収によって試料ガス中の特定分子をイオン化するためには、予め試料ガスの吸収スペクトルを測定し、吸収断面積(吸収効率)の点から観測される特定分子のピーク付近の波長を質量分析におけるレーザ励起、イオン化の波長として利用する。しかし、予め常温・常圧下で測定される有機化合物の吸収スペクトルのピーク幅は、振動・回転準位からの遷移が重なり幅広くなるため、化学構造が似通った分子の異性体の吸収ピーク同士を分離することはできない。一方、実際のJET−REMPI法による質量分析では、超音速分子ジェット(JET)法により、気化させた試料分子をヘリウムやアルゴンなどの希ガスと共にピンホールから真空中に噴出させて、断熱膨張冷却および希ガスとの衝突により、試料分子を絶対零度付近まで瞬時に冷却される。絶対零度付近(数K)まで冷却した試料中の特定分子は、振動や回転のしていない真の基底状態に電子の準位が位置し、遷移の選択率によって特定の準位にのみ励起されるようになるため、その吸収スペクトルは、数本の鋭いピークのみが観測されるようになる。この特定分子のピーク幅は冷却される温度によって決まるが約0.01nm程度であり、このエネルギー幅の波長可変レーザを用いれば、特定分子の構造異性体は選択的に励起、イオン化して検出することができる。
【0007】
このように、超音速分子ジェット多光子吸収イオン化質量分析(JET−REMPI)法とは、注目分子の振動・回転準位を凍結し、その注目分子の共鳴励起準位に波長可変レーザのエネルギーを同調させることで、特定分子のみ選択的にイオン化し、質量分析する方法である。
【0008】
このようなJET−REMPI法を利用して有害有機化合物のオンライン・リアルタイム分析を行う試みが近年検討され、例えば、JET−REMPI法により約10pptのジクロロダイオキシンを検出する方法が報告されている(例えば非特許文献1参照)。また、JET−REMPI法を用いて焼却炉から発生する高温ガス中に含有するダイオキシン及びその誘導体(これらをダイオキシン類ということがある)を測定する方法も提案されている(例えば特許文献1、2参照)。
【0009】
しかし、JET−REMPI法を用いて共鳴励起準位が未知である特定分子を分析する場合には、特定分子の励起、イオン化するために同調させるレーザの波長を調整する必要がある。通常の波長調整は5nm程度の幅でレーザの色素を交換することが行なわれており、時間的にも経済的にも非効率であった。また、予め試料溶液の吸収スペクトルを測定し、特定分子のおおよその共鳴励起準位に見当をつけることは可能である。しかし、上述したように、室温・常圧下での溶液の吸収スペクトルは振動・回転準位からの遷移が重なりブロードになるため、この吸収スペクトルから実際の超音速分子ジェットで観測される鋭いピーク位置の波長を特定することは困難である。さらに、溶液の吸収スペクトルは、溶媒の影響によって、ピーク波長が10nm程度シフトすることがあるため、超音速分子ジェット状態でのピーク位置を正確に予測することは一層困難である。
【0010】
また、注目する特定分子を共鳴多光子吸収イオン化させるために、照射するレーザの波長が単一で良いのか、或いは、波長が異なる2種類のレーザが必要となるか、という点も分析前に判明していないと、効率的な分析が行えない。
【0011】
例えば、共鳴二光子吸収イオン化の場合では、注目する分子の共鳴励起エネルギーをES、イオン化エネルギーをEIとすると、EI/2<ESであれば、単一波長のレーザで共鳴二光子吸収イオン化が可能であるが、EI/2≧ESの場合には、共鳴励起させる波長のレーザと、それより短波長のレーザの二種類の波長のレーザが必要となる。従って、注目する特定分子のイオン化準位も重要な情報であり、それが未知の場合は、共鳴励起準位の場合と同様、他の簡便な測定手段で超音速分子ジェット状態のイオン化準位を正確に推定することは極めて困難である。
【0012】
一方、分子のレーザ吸収による共鳴励起準位及びイオン化準位を量子化学計算を用いて予測する方法が従来から知られている。例えば、モノクロロフェノールの一重項電子励起状態への断熱励起エネルギーについて、量子化学的計算方法の一種であるCASSCF法による算出が検討されている(例えば非特許文献2参照)。しかしながら、従来の量子化学的計算方法を用いた有機化合物の共鳴励起準位及びイオン化準位の計算値では平均誤差が9nm程度あり、JET−REMPI分析で要求される3〜5nmの計算精度は得られていないのが現状である。
【0013】
一般に、電子励起エネルギーやイオン化エネルギーの計算負荷(計算時間やメモリー使用量など)は、化合物の分子量が大きくなるとともに指数関数的に増大するため、計算精度を確保することは一層困難となる。例えば、塩素化ダイオキシンの一重項電子励起状態への断熱的励起エネルギーは、上記CASSCF法より簡略化された手法であるCIS法で算出されているが、実験値に対する誤差は、上記モノクロロフェノールの場合よりはるかに大きくなっている(例えば非特許文献3参照)。
【0014】
以上より、JET−REMPI法などの特定分子をレーザにより選択的に励起、イオン化する質量分析において、未知の特定分子の共鳴励起準位及びイオン化準位を高精度で予測できる方法の開発が望まれている。
【0015】
【非特許文献1】H. Oser, R. Thanner, H. H. Grotheer, B. K. Gillett, N. B. French, and D. Natscke, Proc. 16th Int. Conf. on Incineration and Thermal Treatment Technologies(1997)
【非特許文献2】S. Hirokawa, T. Imasaka, T. Imasaka, J. Phys. Chem. A, Vol.105, p.9252 (2001)
【非特許文献3】S. Hirokawa, T. Imasaka, Y. Urakami, J. Mol. Struct., Vol.622, p.229 (2003)
【特許文献1】特開平11−218520号公報
【特許文献2】特開2001−124739号公報
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0016】
上記従来技術の現状に鑑みて、本発明は、超音速分子ジェット多光子吸収イオン化(JET−REMPI)などのレーザを照射し、特定分子を共鳴多光子吸収過程で選択的に励起、イオン化し、質量分析する質量分析方法において、未知の特定分子の共鳴励起準位やイオン化準位を量子化学的計算手法を用いて高精度で予測し、その共鳴励起準位やイオン化準位の波長にレーザの波長を効率的に調整可能な質量分析方法を提供することを目的とする。
【課題を解決するための手段】
【0017】
本発明は、上記課題を解決するものであり、その要旨とするところは、以下の通りである。
レーザを照射し、特定分子を共鳴多光子吸収過程で選択的に励起、イオン化し、質量分析する質量分析方法において、
(i)前記特定分子の電子基底状態の最安定構造Q0、電子励起状態の最安定構造Q1、該電子基底状態の最安定構造Q0における零点振動エネルギーzp0、および、該電子励起状態の最安定構造Q1における零点振動エネルギーzp1をそれぞれ求め、
(ii)該電子基底状態の最安定構造Q0におけるポテンシャルエネルギーE0(Q0)、および、該電子基底状態の前記構造Q1におけるポテンシャルエネルギーE0(Q1)をそれぞれ求め、
(iii )該電子基底状態の構造がQ1におけるポテンシャルエネルギーE0(Q1)から、電子励起状態の最安定構造Q1におけるポテンシャルエネルギーE1(Q1)へのエネルギー増加量である垂直励起エネルギーΔE1を求め、
(iv)前記zp0、zp1、E0(Q0)、E0(Q1)、ΔE1のそれぞれの計算値から、下記(1)式で示される断熱的電子励起エネルギーΔE1-0 を求め、
該ΔE1-0に基づいて前記特定分子を前記電子基底状態から前記電子励起状態に励起させるレーザの波長を調整することを特徴とする質量分析方法。
ΔE1-0=E0(Q1)−E0(Q0)+ΔE1+ zp1 −zp0 ・・・(1)
(2)少なくとも前記垂直励起エネルギーΔE1は、SAC−CI法、EOM−CCSD法、および、Polarizaition Propagator法の何れかの計算手法を用いて求めることを特徴とする上記(1)に記載の質量分析方法。
(3)前記質量分析方法において、さらに、
(i)前記特定分子の電子基底状態の最安定構造Q0、イオン化状態の最安定構造Qi、該電子基底状態の最安定構造Q0における零点振動エネルギーzp0、および、該イオン化状態の最安定構造Qiにおける零点振動エネルギーzpiをそれぞれ求め、
(ii)該電子基底状態の最安定構造Q0におけるポテンシャルエネルギーE0(Q0)、および、該電子基底状態の前記構造QiにおけるポテンシャルエネルギーE0(Qi)をそれぞれ求め、
(iii )該電子基底状態の構造がQ1におけるポテンシャルエネルギーE0(Qi)から、イオン化状態の最安定構造QiにおけるポテンシャルエネルギーEi(Qi)へのエネルギー増加量である垂直イオン化エネルギーΔEiを求め、
(iv)前記zp0、zpi、E0(Q0)、E0(Qi)、ΔEiのそれぞれの計算値から、下記(2)式で示される断熱的イオン化エネルギーΔEi-0 を求め、
該ΔEi-0と前記断熱的電子励起エネルギーΔE1-0のエネルギー差に基づいて、前記特定分子を前記電子励起状態から前記イオン化状態に励起させるレーザの波長を調整することを特徴とする上記(1)に記載の質量分析方法。
【0018】
ΔEi-0=E0(Qi)−E0(Q0)+ΔEi+ zpi −zp0 ・・・(2)
(4)少なくとも前記垂直イオン化エネルギーΔEiは、Green関数法、および、SAC−CI法の何れかの計算手法を用いて求めることを特徴とする上記(3)に記載の質量分析方法。
(5)前記質量分析方法が、被測定ガスの超音速分子ジェット流域に対してレーザを照射し、被測定ガス中の特定分子を共鳴多光子吸収過程で選択的に励起、イオン化し、質量分析するJET−REMPI質量分析方法であることを特徴とする上記(1)〜(4)の何れか1項に記載の質量分析方法。
【発明の効果】
【0019】
本発明によれば、超音速分子ジェット多光子吸収イオン化(JET−REMPI)などのレーザを照射し、特定分子を共鳴多光子吸収過程で選択的に励起、イオン化し、質量分析する質量分析方法において、未知の特定分子の共鳴励起準位やイオン化準位を量子化学的計算手法を用いて高精度で予測し、その共鳴励起準位やイオン化準位の波長にレーザの波長を効率的に調整可能な質量分析方法を提供することが可能となる。
【発明を実施するための最良の形態】
【0020】
本発明の最良の実施の形態として、以下に被測定ガスの超音速分子ジェット流域に対してレーザを照射し、被測定ガス中の特定分子を共鳴多光子吸収過程で選択的に励起、イオン化し、質量分析するJET−REMPI質量分析方法における特定分子の共鳴励起波長の計算およびこれを用いたレーザの波長の調整について説明する。なお、本発明は、以下のJET−REMPI質量分析方法のみに限定されるものではなく、一般にレーザを照射し、特定分子を励起することにより選択的にイオン化し、質量分析する質量分析方法に適用した場合でも、本願の目的は十分に達成でき、同様な効果が得られるものである。
【0021】
まず、図1を用いて本発明の量子化学的計算法の特徴とする断熱的電子励起エネルギーΔE1-0の算出方法の概念について説明する。
【0022】
図1は特定分子の電子基底状態S0と電子励起状態S1における原子核が電子から受けるポテンシャルエネルギー(即ち、電子の全エネルギーに原子核間のクーロン反発エネルギーを加えたもの)をそれぞれ示す。
【0023】
図中、E0(Q)およびE1(Q)は、それぞれ分子構造Qの関数で示される電子基底状態S0および電子励起状態S1のポテンシャルエネルギーである。
【0024】
また、Q0およびQ1は、それぞれ電子基底状態S0および電子励起状態S1における最安定構造を示し、それぞれ電子状態のポテンシャルエネルギーが極小点となる分子構造を意味する。
【0025】
また、zp0およびzp1は、それぞれ電子基底状態の最安定構造Q0および電子励起状態の最安定構造Q1における零点振動エネルギーを示す。電子基底状態S0および電子励起状態S1のそれぞれの最安定構造Q0、Q1におけるポテンシャルエネルギーE0(Q0)、E1(Q1)にそれぞれの原子核の零点振動エネルギーzp0、zp1を加えたエネルギーレベルが、図中の一点鎖線で示されている。
【0026】
図1において、特定分子構造の電子基底状態S0の最安定構造Q0におけるポテンシャルエネルギーE0(Q0)に最安定構造Q0における零点振動エネルギーzp0を加えたエネルギーレベル(E0(Q0)+zp0)から、電子励起状態S1の最安定構造Q1におけるポテンシャルエネルギーE1(Q1) に最安定構造Q1における零点振動エネルギーzp1を加えたエネルギーレベル(E1(Q1)+zp1)へのエネルギー増加量を断熱的電子励起エネルギーーΔE1-0と定義する。
【0027】
本発明では、レーザを照射し、特定分子を共鳴多光子吸収過程で励起、イオン化し、質量分析する質量分析方法において、上記のように定義される断熱的電子励起エネルギーΔE1-0を後述する計算方法により求めることにより、特定分子を前記電子基底状態から前記電子励起状態に励起させるレーザの波長を高い精度で予測し、決定することができる。レーザを照射し、特定分子を共鳴多光子吸収過程で励起、イオン化させるためには、特定分子を電子基底状態から電子励起状態まで励起した後、さらに、電子励起状態からイオン化状態まで励起する必要がある。例えば、共鳴二光子吸収イオン化の場合では、特定分子の共鳴励起エネルギーESとイオン化エネルギーEIの関係がEI/2<ESを満足する条件には、電子基底状態から電子励起状態までの励起と、電子励起状態からイオン化状態までの励起を、1種類の波長λ1のレーザにより行うことができる。一方、前記関係がEI/2≧ESの条件の場合は、電子基底状態から電子励起状態まで共鳴励起させる波長λ1のレーザと、電子励起状態からイオン化状態まで励起させる、前記波長λ1より短波長λ2のレーザの2種類の波長λ1、λ2のレーザが必要となる。1種類の波長のレーザにより特定分子を共鳴多光子吸収過程で励起、イオン化する場合、および、2種類以上の波長のレーザにより特定分子を共鳴吸収過程で励起、イオン化する場合の何れの場合も、質量分析の検出感度および測定分解能は、特定分子を電子基底状態から電子励起状態まで励起する第1段目の励起に大きく影響される。本発明は、後述の計算方法により、断熱的電子励起エネルギーΔE1-0を求め、特定分子を電子基底状態から電子励起状態まで励起する第1段目の励起におけるレーザ波長を従来に比べて高い精度で予測することが可能となる。
【0028】
また、本発明では、質量分析方法の中でも、特に計算誤差が5nm以下の高精度のレーザー波長の予測が要求される被測定ガスの超音速分子ジェット流域に対してレーザを照射し、被測定ガス中の特定分子を共鳴多光子吸収過程で選択的に励起、イオン化し、質量分析するJET−REMPI質量分析方法に適用することが望ましい。
【0029】
先ず、本発明方法と従来方法の違いを説明するために、従来法による上記断熱的電子励起エネルギーΔE1-0の計算方法について説明する。
【0030】
従来の方法では、図1に示す断熱的電子励起エネルギーΔE1-0を以下の手順で求めていた。
(1)先ず、構造最適化計算により、特定分子の電子基底状態S0および電子励起状態S1のそれぞれのポテンシャルエネルギーが極小となる分子構造を求め、電子基底状態S0における最安定構造Q0、および、電子励起状態S1における最安定構造Q1とするとともに、電子基底状態S0の最安定構造Q0におけるポテンシャルエネルギーE0(Q0)、および、電子励起状態S1の最安定構造Q1におけるポテンシャルエネルギーE1(Q1)を算出する。
(2)次に、基準振動解析により、上記電子基底状態S0の最安定構造Q0における零点振動エネルギーzp0、および、電子励起状態S1の最安定構造Q1における零点振動エネルギーzp1を算出する。
(3)上記のE0(Q0)、E1(Q1)、zp0、zp1の計算値から、断熱的電子励起エネルギーΔE1-0 は、ΔE1-0=(E1(Q1) −E0(Q0)) +(zp1―zp0)として求められる。
【0031】
なお、上記E1(Q1) −E0(Q0)、つまり、電子基底状態S0の最安定構造Q0におけるポテンシャルエネルギーE0(Q0)から、電子励起状態S1の最安定構造Q1におけるポテンシャルエネルギーE1(Q1)へのエネルギー増加量(E1(Q1) − E0(Q0))を電子励起エネルギーという。
【0032】
従来の方法では、以上の一連の計算は1種類の量子化学的計算法を用いて行われ、比較的小さい分子構造の場合はCASSCF法が用いられ、中規模の分子構造の場合はCIS法が使用される。
【0033】
このような従来の構造最適化計算や基準振動解析を用いた特定分子の断熱的電子励起エネルギーΔE1-0 は比較的容易に行える。しかし、特定分子構造の電子相関と呼ばれる多体効果が十分に考慮されないため、電子励起エネルギー(E1(Q1) − E0(Q0))を過大評価してしまうため、平均誤差が9nm程度あり、JET−REMPI分析で要求される3〜5nmの高精度なレーザー波長の予測は困難である。
【0034】
これに対して、本発明法は、断熱的電子励起エネルギーΔE1-0 を上記のように単一計算法を用いて算出するのではなく、以下に示すように特定分子構造の電子相関を考慮した計算ステップに分け、それぞれに適応した量子化学的計算法を選択することを特徴とする。
【0035】
つまり、本発明では、特定分子の断熱的電子励起エネルギーΔE1-0 を以下の手順で計算する。
(i)構造最適化計算により、特定分子の電子基底状態S0および電子励起状態S1のそれぞれのポテンシャルエネルギーが極小となる分子構造を求め、電子基底状態S0における最安定構造Q0、および、電子励起状態S1における最安定構造Q1とするとともに、基準振動解析により、上記電子基底状態S0の最安定構造Q0における零点振動エネルギーzp0、および、電子励起状態S1の最安定構造Q1における零点振動エネルギーzp1をそれぞれ算出する。
(ii)前記電子基底状態S0の最安定構造Q0におけるポテンシャルエネルギーE0(Q0)、および、この電子基底状態S0の前記構造Q1におけるポテンシャルエネルギーE0(Q1)をそれぞれ算出する。
(iii )前記電子基底状態S0の構造がQ1におけるポテンシャルエネルギーE0(Q1)から、電子励起状態S1の最安定構造Q1におけるポテンシャルエネルギーE1(Q1)へのエネルギー増加量である垂直励起エネルギーΔE1を算出する。
(iv)前記zp0、zp1、E0(Q0)、E0(Q1)、ΔE1のそれぞれの計算値から、下記(1)式で示される断熱的電子励起エネルギーΔE1-0 を求める。
【0036】
ΔE1-0=E0(Q1)−E0(Q0)+ΔE1+ zp1 −zp0 ・・・(1)
上記前記断熱的電子励起エネルギーΔE1-0に基づいて、特定分子を前記電子基底状態から前記電子励起状態に励起させるレーザの波長を高い精度で予測、決定することができる。
【0037】
本発明における特定分子の断熱的電子励起エネルギーΔE1-0の計算方法は、従来法に比べて、上記(ii)および(iii )において、電子基底状態S0の構造が異なるポテンシャルエネルギーE0(Q0)およびE0(Q1)と、垂直励起エネルギーΔE1との計算ステップに分離し、それぞれ求めることに特徴がある。これにより、上記(iii )における垂直励起エネルギーΔE1の計算を電子相関の取り込みに優れた、量子化学的計算法を用いることができ、従来の単一の量子化学的計算法による計算に比べて計算精度が格段に向上し、JET−REMPI分析法で要求されるレーザー波長を5nm程度以下の高い精度で予測することが可能となる。
【0038】
また、上記(iii )における垂直励起エネルギーΔE1の計算は、特定分子の断熱的電子励起エネルギーΔE1-0の計算精度に最も強く影響する。このため、本発明では、垂直励起エネルギーΔE1の計算は、基底状態波動関数のクラスター展開に基づき、前記CIS法やCASSCF法よりも電子相関の取り込みに優れた、SAC−CI法(例えばH. Nakatsuji, Chem. Phys. Lett. vol.59, p.362 (1978)参照)、これと理論的に等価なEOM−CCSD法、および、これらと類似の理論に基づくPolarization Propagator法(例えばP. Jorgensen, F. Simons, “Second Quantization-Based Methods in Quantum Chemistry”Academic Press (1981)参照)の何れかの計算手法を適用することが好ましい。
【0039】
また、これらの計算に用いる基底関数としては、cc-pVDZ基底関数、または、それよりも多くの原子軌道関数を含むcc-pVTZ基底関数等が好ましい。なお、特定分子の構造によって、diffuseな基底関数をさらに追加することが必要な場合は、aug-cc-pVDZ基底関数等を用いることが好ましい。
【0040】
本発明において、上記(i)および(ii)の計算に用いる量子化学的計算法は特に限定する必要はないが、好ましくは以下の計算方法および関数を用いることが好ましい。
(上記(i)における計算)
上記(i)における、特定分子の電子基底状態S0における最安定構造Q0、電子励起状態S1における最安定構造Q1、電子基底状態S0の最安定構造Q0における零点振動エネルギーzp0、電子励起状態S1の最安定構造Q1における零点振動エネルギーzp1のそれぞれの算出は、特定分子の分子量が小さい場合は、CASSCF法を用いることが好ましい。
【0041】
一方、特定分子の分子量が大きい場合は、CASSCF法の計算負荷が大きくなるため、特定分子の電子基底状態S0における最安定構造Q0、および、この最安定構造Q0における零点振動エネルギーzp0は、RHF法を用いて計算し、電子励起状態S1における最安定構造Q1、および、この電子励起状態S1の最安定構造Q1における零点振動エネルギーzp1は、CIS法を用いて計算することが好ましい。
【0042】
また、以上の計算に使用する基底関数は、標準的な6−31G*基底関数が好ましく、6−31G*基底関数が用意されていない元素については、6−31G*基底関数と同レベルのsplit valence+polarizationクラスの基底関数を用いることが好ましい。
【0043】
また、特定分子の構造によっては、電子励起状態S1の順序やその最安定構造Q1を正確に求めるために、diffuseな基底関数をさらに追加することが必要となる場合があり、そのような場合には、diffuse関数がセットになったChipman+diffuse基底関数等を用いることが可能である。
(上記(ii)における計算)
上記(ii)における、電子基底状態S0の最安定構造Q0におけるポテンシャルエネルギーE0(Q0)、および、この電子基底状態S0の構造が前記Q0から前記Q1に変化した場合におけるポテンシャルエネルギーE0(Q1)の算出は、電子基底状態S0の電子相関を十分に取り込むことができるCCSD法を用いることが好ましい。但し、特定分子の分子量が大きく、CCSD法の適用が困難な場合は、ハイブリッド型密度汎関数法であるB3LYP法、MPW1PW91法、BHandHLYP法等を用いることも可能である。
【0044】
これらの計算に用いる基底関数としては、6−31G*または、電子相関を考慮して最適化されたcc−pVDZが最低でも必要であり、それら以上に多くの原子軌道で構成される基底関数であれば、なお好ましい。
【0045】
以上、JET−REMPI質量分析方法などの質量分析方法において、特定分子を電子基底状態から電子励起状態に励起させるためのレーザの波長を高い精度で予測するための断熱的電子励起エネルギーΔE1-0の計算方法について説明した。
【0046】
上述したように、例えば、共鳴二光子吸収イオン化の場合では、特定分子の共鳴励起エネルギーESとイオン化エネルギーEIの関係がEI/2<ESを満足する条件には、電子基底状態から電子励起状態までの励起と、電子励起状態からイオン化状態までの励起を、1種類の波長λ1のレーザにより行うことができる。しかし、前記関係がEI/2≧ESの条件の場合には、電子励起状態からイオン化状態まで共鳴励起させる波長λ1のレーザと、電子励起状態からイオン化状態まで共鳴励起させる別の波長λ2のレーザの2種類のレーザが必要となる。
【0047】
本発明の実施形態として、特に2種類以上の波長のレーザにより特定分子を共鳴吸収過程で励起、イオン化する場合に、特定分子を電子励起状態からイオン化状態まで励起するためのレーザの波長を高い精度で予測するために、前記断熱的電子励起エネルギーーΔE1-0の計算に加えて、さらに、以下の計算方法により断熱的イオン化エネルギーーΔEi-0を求め、ΔEi-0とΔE1-0のエネルギー差に基づいて、特定分子を電子励起状態からイオン化状態に励起させるレーザの波長を調整することが好ましい。
【0048】
以下に、断熱的イオン化エネルギーΔEi-0の計算方法について図2を用いて説明する。
【0049】
断熱的イオン化エネルギーΔEi-0の計算方法は、上述した図1および断熱的電子励起エネルギーΔE1-0における電子励起状態S1をイオン化状態Siに置き換えることにより、同様に計算することができる。
【0050】
図2は特定分子の電子基底状態S0とイオン化状態Siにおける原子核が電子から受けるポテンシャルエネルギーをそれぞれ示す。
【0051】
図中、E0(Q)およびEi(Q)は、それぞれ分子構造Qの関数で示される電子基底状態S0およびイオン化状態Siのポテンシャルエネルギーである。
【0052】
また、Q0およびQiは、それぞれ電子基底状態S0およびイオン化状態Siにおける最安定構造を示し、それぞれ電子状態のポテンシャルエネルギーが極小点となる分子構造を意味する。
【0053】
また、zp0およびzpiは、それぞれ電子基底状態の最安定構造Q0およびイオン化状態の最安定構造Qiにおける零点振動エネルギーを示す。電子基底状態S0およびイオン化状態Siのそれぞれの最安定構造Q0、QiにおけるポテンシャルエネルギーE0(Q0)、Ei (Qi)にそれぞれの原子核の零点振動エネルギーzp0、zpiを加えたエネルギーレベルが、図中の一点鎖線で示されている。
【0054】
図2において、特定分子構造の電子基底状態S0の最安定構造Q0におけるポテンシャルエネルギーE0(Q0)に最安定構造Q0における零点振動エネルギーzp0を加えたエネルギーレベル(E0(Q0)+zp0)から、イオン化状態Siの最安定構造QiにおけるポテンシャルエネルギーEi (Qi)に最安定構造Qiにおける零点振動エネルギーzpiを加えたエネルギーレベル(Ei (Qi)+zpi)へのエネルギー増加量を断熱的イオン化エネルギーーΔEi-0と定義する。
【0055】
断熱的イオン化エネルギーΔEi-0の計算も、上記断熱的電子励起エネルギーΔE1-0 の計算と同様に、従来の単一計算法を用いて測定するのではなく、以下に示すように特定分子構造の電子相関を考慮した計算ステップに分け、それぞれに適応した量子化学的計算法を選択することを特徴とする。
【0056】
つまり、本発明では、特定分子の断熱的イオン化エネルギーΔEi-0を以下の手順で計算する。
(i)構造最適化計算により、特定分子の電子基底状態S0およびイオン化状態Siのそれぞれのポテンシャルエネルギーが極小となる分子構造を求め、電子基底状態S0における最安定構造Q0、および、イオン化状態Siにおける最安定構造Qiとするとともに、基準振動解析により、上記電子基底状態S0の最安定構造Q0における零点振動エネルギーzp0、および、電子励起状態Siの最安定構造Qiにおける零点振動エネルギーzpiをそれぞれ算出する。
(ii)前記電子基底状態S0の最安定構造Q0におけるポテンシャルエネルギーE0(Q0)、および、この電子基底状態S0の前記構造QiにおけるポテンシャルエネルギーE0(Qi)をそれぞれ算出する。
(iii )前記電子基底状態S0の構造がQiにおけるポテンシャルエネルギーE0(Qi)から、イオン化状態Siの最安定構造QiにおけるポテンシャルエネルギーEi(Qi)へのエネルギー増加量である垂直イオン化エネルギーΔEiを算出する。
(iv)前記zp0、zpi、E0(Q0)、E0(Qi)、ΔEiのそれぞれの計算値から、下記(1)式で示される断熱的イオン化エネルギーΔEi-0 を求める。
【0057】
ΔEi-0=E0(Qi)−E0(Q0)+ΔEi+ zpi −zp0 ・・・(2)
前述した前記断熱的電子励起エネルギーΔEi-0と上記断熱的電子励起エネルギーΔE1-0のエネルギー差に基づいて、特定分子を電子励起状態からイオン化状態に励起させるレーザの波長を高い精度で予測、決定することができる。
【0058】
本発明における特定分子の断熱的イオン化エネルギーΔEi-0の計算方法は、従来法に比べて、上記(ii)および(iii )において、電子基底状態S0の構造が異なるポテンシャルエネルギーE0(Q0)およびE0(Qi)と、垂直イオン化エネルギーΔEiとの計算ステップに分離し、それぞれ求めることに特徴がある。これにより、上記(iii )における垂直イオン化エネルギーΔEiの計算を電子相関の取り込みに優れた、量子化学的計算法を用いることができ、従来の単一の量子化学的計算法による計算に比べて計算精度が格段に向上し、JET−REMPI分析法で要求されるレーザー波長を5nm程度以下の高い精度で予測することが可能となる。
【0059】
また、上記(iii )における垂直イオン化エネルギーΔEiの計算は、特定分子の断熱的電子励起エネルギーΔEi-0の計算精度に最も強く影響する。このため、本発明では、垂直イオン化エネルギーΔEiの計算は、電子相関の取り込みに優れる前述のSAC−CI法、摂動論に基づき、電子相関を十分かつ系統的に取り込むことが可能なGreen関数法(例えばP. Jorgensen, F. Simons, “Second Quantization-Based Methods in Quantum Chemistry”Academic Press (1981)参照)の何れかの計算手法を適用することが好ましい。
【0060】
また、これらの計算に用いる基底関数としては、6-311++G**やaug-cc-pVDZクラス以上でdiffuseな関数を含むものが好ましい。
【0061】
本発明において、上記(i)および(ii)の計算に用いる量子化学的計算法は特に限定する必要はないが、好ましくは以下の計算方法および関数を用いることが好ましい。
(上記(i)における計算)
上記(i)における、特定分子の電子基底状態S0における最安定構造Q0、イオン化状態Siにおける最安定構造Qi、電子基底状態S0の最安定構造Q0における零点振動エネルギーzp0、電子励起状態Siの最安定構造Qiにおける零点振動エネルギーzpiのそれぞれの算出は、B3LYP法、MPW1PW91法、BHandHLYP法等のハイブリッド型密度汎関数法を用いることが好ましい。
【0062】
また、以上の計算に使用する基底関数としては、基底状態とイオン化状態をバランス良く計算するために、6-311++G**やaug-cc-pVDZクラス以上のdiffuseな関数を含むものが好ましい。
(上記(ii)における計算)
上記(ii)における、電子基底状態S0の最安定構造Q0におけるポテンシャルエネルギーE0(Q0)、および、この電子基底状態S0の構造が前記Q0から前記Qiに変化した場合におけるポテンシャルエネルギーE0(Qi)の算出は、同様のハイブリッド型密度汎関数法と基底関数を用いることが可能である。
【0063】
以上の本発明における各種量子化学的計算に用いることができる具体的計算プログラムとしては、例えば、Gaussian03、GAMESS、MOLCAS、ADF、TURBOMOLE等が挙げられる。
【実施例】
【0064】
以下に、本発明の実施例について説明する。
(実施例1)
o−ジクロロベンゼンについて、電子基底状態S0の最安定構造Q0及び零点振動エネルギーzp0、最低一重項電子励起状態S1の最安定構造Q1及び零点振動エネルギーzp1を、CASSCF法と6-31G*基底関数を用いて計算した。CASSCF法の活性空間は、10電子と8軌道で規定される空間を採用した。次に、電子基底状態の最安定構造Q0におけるポテンシャルエネルギーE0(Q0)、および、電子基底状態の構造が上記Q0から上記Q1に変化した場合におけるポテンシャルエネルギーE0(Q1)をCCSD法と6-31G*基底関数を用いて計算した。次に、分子構造が前記Q1である時のS0状態からS1状態へのエネルギー増加量である垂直励起エネルギーΔE1をSAC-CI法とcc-pVDZ基底関数を用いて計算した。SAC-CI法における励起配置選択の閾値は、Gaussian03の入力キーワードでLEvElTwoを指定した。以上の計算値をもとに、該化合物のS0状態からS1状態への断熱的電子励起エネルギーΔE1-0を、ΔE1-0 =E0(Q1)−E0(Q0)+ ΔE1 + zp1 − zp0により算出し、ΔE1-0 = 4.49308 eVという値を得た。即ち、o−ジクロロベンゼンの最低一重項電子励起状態への共鳴励起波長は、275.95 nmと予測された。
【0065】
さらに、o−ジクロロベンゼンについて、電子基底状態S0の最安定構造Q0及び零点振動エネルギーzp0、第一イオン化状態Siの最安定構造Qi及び零点振動エネルギーzpi、電子基底状態の最安定構造Q0におけるポテンシャルエネルギーE0(Q0)、電子基底状態の構造が前記Q0から前記Qiに変化した場合におけるポテンシャルエネルギーE0(Qi)を、B3LYP法と6-311++G**基底関数を用いて計算した。
【0066】
次に、分子構造がQiである時のS0状態からSi状態へののエネルギー増加量である垂直イオン化エネルギーΔEiを、Green関数法(Gaussian03の入力ではOVGFで指定)とaug-ccpVDZ基底関数を用いて計算した。以上の計算値をもとに、該化合物のS0状態からSi状態への断熱的イオン化エネルギーΔEi-0をΔEi-0 =E0(Qi)−E0(Q0)+ ΔEi + zpi − zp0により算出し、ΔEi-0 = 9.06594 EVという値を得た。従って、o−ジクロロベンゼンを、最低一重項電子励起状態S1からイオン化するためには、ΔEi-0−ΔE1-0 = 4.57286 eV以上のエネルギーが必要であり、波長に換算すると、271.13 nmより短波長のレーザー光を用いる必要があると予測された。つまり、o−ジクロロベンゼンを共鳴2光子イオン化するためには、2色のレーザー光が必要と予測された。
【0067】
以上の計算予測をもとに、JET-REMPI装置の励起レーザー波長を275.95 nmに、イオン化レーザー波長を265.00 nmに調整して、o−ジクロロベンゼンを測定した結果、図3に示す通り、o−ジクロロベンゼンの質量ピークが検出された。
(比較例1)
o−ジクロロベンゼンについて、n-hexane溶液の吸収スペクトルより、最低一重項電子励起状態への共鳴励起波長は、278 nmと観測されている(Journal of Molecular Spectroscopy. Vol.123, p.382 (1987))。実施例1と同じJET-REMPI装置を用い、励起レーザー波長を278.00 nmに、イオン化レーザー波長を265.00 nmに調整して、o−ジクロロベンゼンを測定した。図3に示す通り、o−ジクロロベンゼンの質量ピークは極めて微弱であり、十分な検出感度を得られなかった。
(比較例2)
o−ジクロロベンゼンについて、CASSCF法(活性空間は実施例1と同じものを採用)と6-31G*基底関数を用いて、電子基底状態S0と最低一重項電子励起状態S1のそれぞれの最安定構造Q0、Q1、および、それぞれの最安定構造Q0、Q1におけるポテンシャルエネルギー(図1中のE0(Q0)およびE1(Q1))を算出し、それらの最安定構造Q0、Q1における基準振動解析を行い、それぞれの零点振動エネルギーzp0、zp1を求めた。これらの計算値を基に、ΔE1-0= E1(Q1) − E0(Q0) + zp1 − zp0により、該化合物のS0状態からS1状態への断熱的電子励起エネルギーΔE1-0を算出し、ΔE1-0 = 4.55176 eVという値を得た。即ち、o−ジクロロベンゼンの最低一重項電子励起状態への共鳴励起波長は、272.39 nmと予測された。
【0068】
さらに、o−ジクロロベンゼンについて、B3LYP法と6-311++G**基底関数を用いて、電子基底状態S0と第一イオン化状態Siのそれぞれの最安定構造Q0、Qi、および、それぞれの最安定構造Q0、Qiにおけるポテンシャルエネルギー(図2中のE0(Q0)およびEi(Qi))を算出し、それらの最安定構造Q0、Qiにおける基準振動解析を行い、それぞれの零点振動エネルギーzp0、zpiを求めた。これらの計算値を基に、ΔEi-0= Ei(Qi) − E0(Q0) + zpi − zp0により、該化合物のS0状態からSi状態への断熱的イオン化エネルギーΔEi-0を算出し、ΔEi-0 = 8.86147 eVという値を得た。従って、o−ジクロロベンゼンを、最低一重項電子励起状態S1からイオン化するためには、ΔEi-0−ΔE1-0 = 4.30971 eV以上のエネルギーが必要であり、波長に換算すると、287.69 nmより短波長のレーザー光を用いる必要があると予測された。つまり、o−ジクロロベンゼンの共鳴2光子イオン化は、共鳴励起波長に調整された1色のレーザー光で可能と予測された。
【0069】
以上の計算予測をもとに、JET-REMPI装置のレーザー波長を272.39 nmに調整して、o−ジクロロベンゼンを測定した結果、図3に示す通り、o−ジクロロベンゼンの質量ピークは極めて微弱であり、十分な検出感度を得られなかった。
【図面の簡単な説明】
【0070】
【図1】断熱的励起エネルギーΔE1-0の算出方法を説明する模式図。
【図2】断熱的イオン化エネルギーΔEi-0の算出方法を説明する模式図。
【図3】o−ジクロロベンゼンの飛行時間質量スペクトル。

【特許請求の範囲】
【請求項1】
レーザを照射し、特定分子を共鳴多光子吸収過程で選択的に励起、イオン化し、質量分析する質量分析方法において、
(i)前記特定分子の電子基底状態の最安定構造Q0、電子励起状態の最安定構造Q1、該電子基底状態の最安定構造Q0における零点振動エネルギーzp0、および、該電子励起状態の最安定構造Q1における零点振動エネルギーzp1をそれぞれ求め、
(ii)該電子基底状態の最安定構造Q0におけるポテンシャルエネルギーE0(Q0)、および、該電子基底状態の前記構造Q1におけるポテンシャルエネルギーE0(Q1)をそれぞれ求め、
(iii )該電子基底状態の構造がQ1におけるポテンシャルエネルギーE0(Q1)から、電子励起状態の最安定構造Q1におけるポテンシャルエネルギーE1(Q1)へのエネルギー増加量である垂直励起エネルギーΔE1を求め、
(iv)前記zp0、zp1、E0(Q0)、E0(Q1)、ΔE1のそれぞれの計算値から、下記(1)式で示される断熱的電子励起エネルギーΔE1-0 を求め、
該ΔE1-0に基づいて前記特定分子を前記電子基底状態から前記電子励起状態に励起させるレーザの波長を調整することを特徴とする質量分析方法。
ΔE1-0=E0(Q1)−E0(Q0)+ΔE1+ zp1 −zp0 ・・・(1)
【請求項2】
少なくとも前記垂直励起エネルギーΔE1は、SAC−CI法、EOM−CCSD法、および、Polarizaition Propagator法の何れかの計算手法を用いて求めることを特徴とする請求項1に記載の質量分析方法。
【請求項3】
前記質量分析方法において、さらに、
(i)前記特定分子の電子基底状態の最安定構造Q0、イオン化状態の最安定構造Qi、該電子基底状態の最安定構造Q0における零点振動エネルギーzp0、および、該イオン化状態の最安定構造Qiにおける零点振動エネルギーzpiをそれぞれ求め、
(ii)該電子基底状態の最安定構造Q0におけるポテンシャルエネルギーE0(Q0)、および、該電子基底状態の前記構造QiにおけるポテンシャルエネルギーE0(Qi)をそれぞれ求め、
(iii )該電子基底状態の構造がQiにおけるポテンシャルエネルギーE0(Qi)から、イオン化状態の最安定構造QiにおけるポテンシャルエネルギーEi(Qi)へのエネルギー増加量である垂直イオン化エネルギーΔEiを求め、
(iv)前記zp0、zpi、E0(Q0)、E0(Qi)、ΔEiのそれぞれの計算値から、下記(2)式で示される断熱的イオン化エネルギーΔEi-0 を求め、
該ΔEi-0と前記断熱的電子励起エネルギーΔE1-0のエネルギー差に基づいて、前記特定分子を前記電子励起状態から前記イオン化状態に励起させるレーザの波長を調整することを特徴とする請求項1に記載の質量分析方法。
ΔEi-0=E0(Qi)−E0(Q0)+ΔEi+ zpi −zp0 ・・・(2)
【請求項4】
少なくとも前記垂直イオン化エネルギーΔEiは、Green関数法、および、SAC−CI法の何れかの計算手法を用いて求めることを特徴とする請求項3に記載の質量分析方法。
【請求項5】
前記質量分析方法が、被測定ガスの超音速分子ジェット流域に対してレーザを照射し、被測定ガス中の特定分子を共鳴多光子吸収過程で選択的に励起、イオン化し、質量分析するJET−REMPI質量分析方法であることを特徴とする請求項1〜4の何れか1項に記載の質量分析方法。

【図1】
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【図2】
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【図3】
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【公開番号】特開2007−292599(P2007−292599A)
【公開日】平成19年11月8日(2007.11.8)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2006−120694(P2006−120694)
【出願日】平成18年4月25日(2006.4.25)
【出願人】(000006655)新日本製鐵株式会社 (6,474)
【Fターム(参考)】