説明

質量分析用試料調整方法

【課題】高効率にイオンを生成するために、生体組織上でマトリックスと生体分子タンパク質等生体分子の微結晶を形成し、高感度測定を可能とするマトリックス支援レーザ脱離イオン化法による質量分析用の試料調整方法を提供する。
【解決手段】タンパク質試料上に予めマトリックス溶液をスプレーし、マトリックスの微結晶層を形成しておく。この微小マトリックス結晶上に、更にマトリックス溶液を分注すると、予め形成させておいた微小マトリックス結晶を核として結晶が成長するため、非常に細かく均質な共結晶が形成され、MALDIによる質量分析を高感度で行なうことができる。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
この発明は、マトリックス支援レーザ脱離イオン化法(以下「MALDI」という。)によりタンパク質を質量分析するための試料を調整する方法に関し、より詳細には、生体組織などの質量分析を高精度で行なうためにMALDIによる質量分析用の試料を調整する方法及びこのように調整された試料を用いて質量分析する方法に関する。
【背景技術】
【0002】
タンパク質の質量分析において、試料のイオン化のためにマトリックス支援レーザ脱離イオン化法(MALDI)やエレクトロスプレーイオン化法(ESI)が一般に用いられる。特にMALDIは、生体組織を直接質量分析する際のイオン化法として用いられている(特許文献1等)。生体組織から直接イオン化を行う場合、これまで生体組織を70〜80%の濃度で調整したエタノールで洗浄し乾燥を施した後、イオン化補助剤であるマトリックス(シナピン酸やα−CHCAなど)を組織表面に直接分注又は噴霧する手法がとられていた(非特許文献1等)。
これらのマトリックスは試料のタンパク質やペプチドと共結晶を形成し、その結晶にレーザー照射することにより、このタンパク質はイオン化される。一般的に、このイオン化効率はマトリックスと試料の共結晶の大きさに依存することが知られている(非特許文献2)。
そのため、MALDIによる質量分析のために試料上にマトリックスの微結晶を調整するための様々な方法が提案されている(特許文献1,2等)。最近では、組織表面に予めすりつぶしたマトリックス結晶を絵筆を用いて分散し、その後液体マトリックスを分注して結晶成長させた後に、MALDIによる質量分析を行なう方法が報告がされている(非特許文献3)。
【0003】
【特許文献1】特開2005-283123
【特許文献2】特開2003-98154
【特許文献3】特許第2569570号
【非特許文献1】Anal Chem 2004, 76, 87A-93A
【非特許文献2】Appl. Surf. Sci. 1998, 129, 226-234
【非特許文献3】Anal Chem 2006, 78, 827-834
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0004】
MALDI用の生体組織試料を調整する場合、脂質やナトリウムなどの生体内成分がマトリックスとタンパク及びペプチド試料の均一かつ微細な共結晶形成を阻害するため(非特許文献1等)、通常エタノール等によりこれら生体内成分を洗い流しているが、これらを完全に洗い流すことは不可能である。そのため、生体組織上でのマトリックス結晶は、精製されたタンパク及びペプチド試料を用いて結晶を形成した場合に比べ、その大きさは非常に大きく均一な分布で結晶が得られないという問題があった。
そのため、従来生体組織切片の質量分析におけるマトリックス付加の方法として、ピペットによる組織表面への直接分注、エアブラシによるスプレーコーティングやケミカルインクジェットプリンターを用いて微小量のマトリックスをプリントする手法などが用いられている。しかし、ピペットでの分注では、マトリックス溶液が組織表面で拡散し、良好な結晶が得られないことがある。またスプレーでは非常に細かい結晶を形成することが可能であるが、組織表面全体を均一な濃度でコーティングすることは難しい。一方、ケミカルプリンターではプリント条件の設定により、非常にコンパクトな結晶を組織表面全体に作ることが可能であるが、原理的には分注法と同じであるため良好な結晶を形成することが困難である。
そのため、本発明は、タンパク質試料上にマトリックスとの微結晶(即ち、共結晶)を均質に形成させ、その結果高効率にイオンを生成させてMALDIによる質量分析を高感度で測定可能とするための、測定試料を調整する方法を提供する。
【課題を解決するための手段】
【0005】
本発明の方法においては、測定対象であるタンパク質試料上に、予めマトリックス溶液をスプレーし、マトリックスの微結晶を形成させておく。この微小マトリックス結晶上に、更にケミカルインクジェットプリンターやピペットなどでマトリックス溶液を分注すると、予め形成させておいた微小マトリックス結晶を核として結晶が成長するため、従来得られないような非常に細かく均質な結晶(共結晶)が形成され、MALDIによる質量分析を高感度で行なうことが可能になった。
【0006】
即ち、本発明は、マトリックス支援レーザ脱離イオン化法による質量分析用の試料を調整するための方法であって、タンパク質の試料上にマトリックス溶液をスプレーして、試料上にマトリックスの微結晶を形成させる段階、及び、この試料上に更にマトリックス溶液を分注してこの微結晶を成長させる段階から成る質量分析用試料調整方法である。
【発明の効果】
【0007】
本発明の方法によれば、測定対象であるタンパク質試料上に非常に細かく均質な結晶(共結晶)を形成することができる。そのためこのようにして調整した試料を用いてMALDIによる質量分析をおこなうと、その感度は極めて高い。
予めすりつぶしたマトリックスの微結晶をタンパク質試料上に分散させて、その後マトリックスを分注して結晶を成長させる方法(非特許文献3)は、どうしても前段階で用意する微結晶が不均一にならざるを得ず、本願発明のスプレーを用いる方法のように、細かくかつ均質な結晶を用意することができない。その結果成長させた共結晶も不ぞろいなものにならざるを得ず、従って、質量分析の感度も高くすることはできなかったと推測される。
本発明の方法は、極めて簡単な方法によって従来の問題点を解決したものであり、従来では得られなかった程の、タンパク質の質量分析の測定感度を上げることを可能にした。
【発明を実施するための最良の形態】
【0008】
本発明の質量分析用試料調整方法は、タンパク質の試料上にマトリックス溶液をスプレーして、試料上にマトリックスの微結晶を形成させる第1段階、及びこの試料上に更にマトリックス溶液を分注してこの微結晶を成長させる第2段階から成る。
【0009】
タンパク質の試料は、いかなるタンパク質やペプチドからなる試料であってもよいが、本発明の方法は特に生体組織、例えばヒトなどの哺乳類の組織を調整するために適している。
タンパク質試料は通常支持体に固定されて用いられ、この支持体は通常導電性支持体である。このような支持体としては、MALDIターゲットプレート、導電性フィルム(例えば、インジウムスズ酸化金属コートフィルム(例えば、ITOフィルム))、又は金属蒸着ガラス(金、白金等貴金属を含む金属)が挙げられる。
通常、生体組織は本発明の調整方法を行う前に次のように用意される。
生体組織より10μm以下の厚みで凍結切片を作成し、その切片を上記の支持体上で融解させる。凍結組織切片は、支持体上で融解させることで支持材に固定される。固定された組織を70%エタノールで洗浄し乾燥させる。
この他のタンパク質試料もこれに準じて準備されることが好ましい。
【0010】
第1段階で用いるマトリックスは、通常MALDI用に用いられているマトリックスであればいかなるものでもよいが、例えば、3,5-Dimethoxy-4-hydroxy-cinnamic acid(シナピン酸)、α-Cyano-hydroxy-cinnamic acid(α-CHCA)、2,5-Dihydroxy benzoic acid(2,5-DHB)、Isocarbostiril、6-Aza-2-thiothymine、1,8-Dihydroxy-9[10H]-anthracenone(Dithranol)、5-Chlorosalicylic acid(5-CSA)、o-Nitrobenzoic acid、3-Aminoquinoline、2-Amino-3-hydroxypyridine、Esculetin、2-(4-Hydroxy-phenylaza) benzoic acid (HABA)、ピコリン酸、アントラニル酸、ニコチン酸等が挙げられる。
第1段階のスプレー用マトリックス溶液の溶媒としては、有機溶媒単体又は有機溶媒と水の混合液、好ましくは有機溶媒と水の混合液が用いられる。この有機溶媒としては、高い揮発性を有する有機溶媒が適しており、例えば、1気圧での沸点が85℃以下、好ましくは55〜85℃の溶媒を用いることができる。このような有機溶媒として、アセトニトリル、メタノール、エタノール、アセトン、イソプロパノール等を挙げることができる。有機溶媒と水の混合液において、混合液中の有機溶媒の割合は好ましくは50〜90容積%、より好ましくは40〜60容積%である。
スプレー用の好ましい溶媒としては、0.1容積%トリフルオロ酢酸(TFA)を含むアセトニトリル(ACN)を水に50〜90容積%、好ましくは40〜60容積%の濃度で溶解したものが挙げられる。
スプレー用マトリックス溶液は、この溶媒に上記マトリックスを溶解して用いる。マトリックス溶液濃度は、好ましくは0.1〜5.0mg/mL、より好ましくは1.0〜3.0mg/mLである。
【0011】
このマトリックス溶液のスプレー(噴霧)は、噴霧装置により行われる。噴霧装置の例として、工作用エアブラシやガラススプレイヤーなどが挙げられる。噴霧装置の条件としては、例えば、ノズル先端内径は約100μm〜1 mm、好ましくは内径100〜300μmであり、流速は10μL/分〜500μL/分、好ましくは200〜300μL/分程度である。
マトリックス溶液をスプレーすると、溶媒の蒸発により噴霧中又は試料に到達後程なく、マトリックス結晶が形成し、試料上にマトリックスの微結晶が分散された状態となる。
マトリックス溶液のスプレーは、複数回行ってもよい。
【0012】
好ましいマトリックスのスプレー方法の例を以下に挙げる。スプレー装置を、組織表面とスプレーとノズル間の距離を約1〜30cm、好ましくは10〜25cm程度に保ち、試料表面に対して45〜90度のいずれかの角度に固定し、噴霧を行う。マトリックス噴霧時間は20〜60秒程度とし、噴霧後は1〜10分程度放置する。この作業を3〜10回程度繰り返し、組織表面に微結晶を形成する。最も好ましい条件はノズルと組織表面との距離を15cm、角度を45度、噴霧時間を30秒、放置時間を5分とし、4回繰り返した場合である。
【0013】
更に、スプレー噴霧を湿度を保った空間で行うと、得られるデータの感度向上が再現性良く達成されため好ましい。水蒸気圧は20〜140hPa程度が好ましい。好ましい条件例を挙げると、4000cm3程度の容量を持つタッパー内に、水で湿らせた布もしくは実験室用紙タオルを設置し、37℃に保った恒温槽内で加熱し飽和させた状態である。
スプレー噴霧を施した組織表面には均質のマトリックス結晶が均等に形成され、その表面は微結晶形成により白濁したような外観を呈する。
このようにして作成した試料を次段階の分注操作に用いるが、本段階の多種多量の試料を準備し蓄積しておいて、必要に応じて試料を取り出して次段階の分注操作を行なってもよい。
【0014】
第2段階の分注用マトリックスは、上記第1段階で示したマトリックスを用いることができる。第1段階と異なるマトリックスを用いてもよいが、同種類のマトリックスを用いることが好ましい。
第2段階の分注用マトリックス溶液の溶媒としては、上記スプレー用の溶媒を用いることができるが、スプレー用の溶媒と比べて、揮発性が低いことが好ましい。揮発性が低い溶媒とは、例えば、スプレー用いた水と有機溶媒の混合比で水の分量を増やした混合液などを用いることができる。
分注用マトリックス溶液濃度は5.0mg/mL〜飽和濃度(50%ACNを用いた場合30mg/mL程度)で調整する。最適な濃度は8.0mg/mLである。分注用マトリックス溶媒は揮発性が低いことが望ましいので、0.1%TFAを含むACNを25〜60容積%、好ましくは40〜50容積%の濃度で調整し溶媒とする。
【0015】
第2段階に於ても、第1段階と同様に湿度を保った空間で行うことが好ましい。湿度を保った空間行うことにより、組織表面に微細なマトリックス溶液の液滴を形成させ、液滴形成、揮発を繰り返し行うことにより、組織からのタンパク抽出量を増大させる特徴がある。また、低湿度条件下では、安定して結晶核が組織上には生成されないのが実験事実である。これに対する説明として、低湿度条件で飛行中に結晶化が起こり、この微細結晶は組織上で安定して結晶核として作用しない。微細結晶が組織表面で、水分と触れることにより、アモルファス状になってしまうのであろう、という推測がなされる。
【0016】
分注は、通常の分注方法で行なえばよく、例えば、ピペットや自動試薬分注装置を用いて行なうことができる。分注操作は複数回行ってもよい。
自動試薬分注装置を用いてマトリックスを分注する場合、0.5〜5nL、好ましくは0.5〜1.5nLの少量分注を繰り返し、目的量まで分注することで、微小で均一なマトリックス結晶を得ることが可能となる。最適な条件は、スプレー噴霧後1nLの分注を50回繰り返し、全量50nLのマトリックス溶液を組織の微小領域に分注することである。このとき、1度の分注操作が終了した後、分注箇所は完全に乾燥している状態もしくは半乾燥状態になっているほうが望ましい。この状態を保つために必要な間隔は、そのプリント箇所の数に依存するがプリント数が10箇所までであればプリント後に30秒放置して次のプリントを行うことが好ましい。10箇所以上であるときは1分程度放置して次のプリントを行うことが好ましい。
【0017】
分注後、乾燥工程を加えてもよい。しかし、特に乾燥操作を行わなくとも、分注後ある程度の時間放置すれば溶媒は自然乾燥するものと考えられる。乾燥操作を加える場合には、単に送風だけでもよいし(例えば、特開2003-98154等)、温風を送風してもよい。
分注操作を複数回行う場合はそれぞれ上記乾燥操作を伴ってもよい。
次段階の質量分析の前には、試料は乾燥していること(即ち、溶媒が揮発していること)が好ましい。
マトリックスを分注した後、試料をMALDI型の質量分析装置に導入し分析を行う。
【0018】
これら一連の流れを図1に示す。(a)は、組織切片を導電性のある素材に貼り付ける工程、(b)は、低濃度のマトリックス溶液を組織表面へスプレーする工程、(c)は、スプレーによる微結晶形成後、ピペットや自動試薬分注装置を用いて組織表面へマトリックスを添加する工程を示す。
【0019】
またこの試料調整方法を具体化した装置例を図2に示す。
この質量分析用試料調整装置は、タンパク質の試料を固定するための導電性支持体、該導電性支持体に固定されたタンパク質試料上にマトリックス溶液を噴霧するためのスプレー装置、及び該導電性支持体に固定されたタンパク質試料上にマトリックス溶液を分注するための分注装置から成る。スプレー装置と分注装置はこの質量分析用試料調整装置として一体の装置に成っていなくともよい。即ち、この質量分析用試料調整装置をスプレー部分と分注部分の2部分から成るように構成し、スプレー部分でタンパク質試料上にマトリックス溶液を噴霧し、その試料及び支持体を、分注部分に搬送して、そこで分注するような構成としてもよい。
この装置は、更に、該スプレー装置により該導電性支持体に固定されたタンパク質試料上にマトリックス溶液を噴霧した後、好ましくは一定時間後に、タンパク質の試料の噴霧された領域にマトリックス溶液を分注するように(1)支持体、又は(2)スプレー装置及び分注装置若しくは分注装置のみを移動させる移動制御装置を備える必要がある。この装置は更に、スプレー装置や分注装置にマトリックス溶液を供給するマトリックス用タンクと供給ポンプ、タンパク質試料の雰囲気を一定湿度に保つ湿度制御装置、分注後にタンパク質試料の溶媒の揮発を促進させるための乾燥装置(例えば、送風装置など)を備えてもよい。また、上記移送制御装置は、スプレー後タンパク質試料上に形成されたマトリックスの微結晶の位置を確認して、その微結晶の上にマトリックス溶液を分注させるよう移動を制御するものであってもよい。また、この移動制御装置は、試料上に多点で分注できるよう分注を制御してもよく、更に分注を複数回行なう場合には、正確に同一場所に分注できるように制御してもよい。
更にこの質量分析用試料調整装置をMALDI装置と共に質量分析装置と組み合わせて一つの質量分析装置としてもよい。
【実施例】
【0020】
以下、実施例にて本発明を例証するが本発明を限定することを意図するものではない。
実施例1
本実施例では、マトリックススポット内の結晶状態を走査型電子顕微鏡(SEM)により観察を行った。
まず、5μmの厚さで作成したマウス脳凍結脳切片をITO蒸着スライドガラス(ブルカーダルトニクス製)上で融解して接着させた。これを70%エタノール中で30秒間2回洗浄し、10分間真空デシケータ内で乾燥させて、試料とした。
次に、0.1容積%TFA(関東化学製、シーケンスグレード)と50容積%ACN(関東化学製、シーケンスグレード)を水に溶解させて溶媒とし(以下、この溶媒を「50%ACN/0.1%TFA」と記載する。)、スプレー噴霧用マトリックス溶液として、シナピン酸(ブルカーダルトニクス、Matrix substance for MALDI-MS)を2.0mg/mL(溶媒:50%ACN/0.1%TFA)で調整した。
上記試料に、エアブラシ(GSIクレオネス、プロコンBOY FWAプラチナ0.2ダブルアクション)を用いて、マトリックス溶液を噴霧した。この噴霧は、試料表面とエアブラシのスプレーノズル間の距離を約15cmに保ち、試料表面とスプレーノズルとの角度を45度に固定して行った。噴霧時間は30秒とし、噴霧後は5分放置した。この作業を4回繰り返し、トータルの塗布量を約500μLとした。
このスプレー噴霧の作業はすべて、4000cm3程度の容量を持つタッパー内に、水で湿らせた布もしくは実験室用紙タオルを設置し、37℃に保った恒温槽内で加熱し飽和させた状態で行った。
スプレー噴霧終了後、乾燥させた。その結果、組織表面に微結晶が形成した。結晶サイズは約2μmであった。
【0021】
次に、分注用マトリックス溶液として、シナピン酸を8.0mg/mL (溶媒:50%ACN/0.1%TFA)で調整した。
上記試料に、この分注用マトリックス溶液0.1μLをピペットを用いて手動で分注を行い、10分間真空デシケータ内で乾燥させた。
図3に本実施例と後述の比較例1による結晶形状の実体顕微鏡写真を示す。得られた1結晶当たりのサイズは約10μmであった(図3(a))。後述の比較例1で得た結晶の1結晶当たりのサイズは約50μmであった(図3(b))。本実施例の結晶は比較例1の結晶と比べて、結晶が微小かつ密になっていることがわかる。
【0022】
比較例1
実施例1と同様に、5μmの厚さで作成したマウス脳凍結脳切片をITO蒸着スライドガラス上で融解して接着させた。この試料を70%エタノール中で30秒間2回洗浄し、10分間真空デシケータ内で乾燥させて、試料とした。
この試料に直接0.1μLのシナピン酸(濃度:8 mg/mL、溶媒:50%ACN/0.1%TFA)をピペットを用いて手動で分注を行い10分間真空デシケータ内で乾燥させた。
【0023】
走査電子顕微鏡(SEM)による結晶観察
実施例1と比較例1で得たマウス脳組織表面に、白金−パラジウム複合体(ニラコ製、Pt:Pd=80:20)をマグネトロンイオンスパッターコーター(日立E1030)を用いてコーティングし、フィールドエミッション型走査型電子顕微鏡(日立S-4500)を用いて観察を行った。観察条件はlower detection modeと呼ばれる白金−パラジウム膜の直下より生成される2次電子を検出するモードによって行った。SEM撮影は分注後1日後に行った。
実施例1で得られた結晶のSEM写真を、図4(a),(b),(c)及び図5(a),(b)に示し、比較例1で得られた結晶のSEM写真を、図4(d),(e),(f)及び図5(c),(d)に示す。
【0024】
図4(a)と(d)を比較すると、比較例1の結晶は、実施例1の結晶より結晶密度が大きくなっているが、その拡大図である図4(b)と(e)を比較すると、密度のみではなく1つ1つの結晶状態も大きく異なっていることが分かる。更にその拡大図である図4(c)と(f)とを比較すると、比較例1の結晶はクラスター状に成長が進んでおり、その大きさは30μm以上で、結晶内部が空洞化している。一方、実施例1の結晶は約10〜20μm程度の結晶が独立に形成され、それらの結晶は約500nmの太さを持つ糸状の結晶で結び付けられていることがわかる。
【0025】
図5はマトリックス溶液滴下領域の境界領域像を示す。図5(b)は(a)の拡大像、図5(d)は(c)の拡大像である。
実施例1の境界領域においては図5(b)中の白矢印に示すように、組織切片内部から表面に突き出るような成長過程にあるマトリックス結晶が確認できる。このことから噴霧マトリックス溶液の浸潤により組織切片内部で形成した結晶核から(大きさは約2μm)、滴下溶液によって結晶が成長していることが明らかである。また図5(a)に示すように、境界領域外部に比較的大きな噴霧された結晶は存在するが、境界領域内部に形成された微細結晶から考えられるサイズの微小結晶核は確認できなかった。このことからも、表面観察では確認できない組織切片内部の浸潤結晶核形成と、そこからの結晶形成が示唆される。
これに対して比較例1では、図5(c)(d)に示すように、そのような像はまったく得られなかった。
以上のことから、実施例1で得られた結晶は、微小化したマトリックス結晶のみではなく組織内部結晶核から成長したマトリックス結晶や糸状結晶がMS測定における感度、S/N比上昇に貢献していると考えられる。
【0026】
実施例2
実施例1と比較例1で用意した試料について、MALDI-TOF型UltraflexII TOF/TOF (Bruker Daltonics社)を用いて質量分析を行なった。図6にその質量スペクトルを示す。
図3から実施例1の結晶(a)は比較例1の結晶(b)と比べ結晶が微小かつ密になっているが、質量スペクトルにおいては、実施例1の試料の質量スペクトルのピーク強度(図6(a))は比較例1の試料の質量スペクトルのピーク強度(図6(b))と比較して、平均32.3倍増大し、シグナルノイズ比は9.9倍向上した。検出可能なシグナルピーク数は実施例1のものでは290シグナルであるのに対し(図6(a))、比較例1のものでは200シグナルであった(図6(b))。
【0027】
実施例3
本実施例では、消化した生体組織を本発明の方法で用意した試料を用いて、質量分析を行なった。
5μmの厚さで作成した金コートガラス上のマウス脳組織を、30秒2回の70%エタノール洗浄を行った後、乾燥させた。この試料上に、10%SDS、25mM DTT、70%エタノール、0.5M Tris/HCl (pH 6.8)からなる変性剤をエアブラシにより、噴霧し80℃の変性剤飽和蒸気中に12時間保存した。変性後、70%エタノールで30秒間洗浄した後、真空デシケータ内で10分間乾燥させた。乾燥後、消化酵素であるトリプシンを200mg/mLの濃度で25mM炭酸水素アンモニウム、10%イソプロパノールを含む溶媒で溶解した試薬をスプレーした。このとき消化酵素溶液が組織全体にスプレーされるようにスプレーノズルと組織表面の距離を15cmに保ち30秒間の噴霧を1回行った。スプレー後、37℃のインキュベータ内に12時間保存した。
【0028】
消化後、乾燥を施し、スプレー噴霧用マトリックス溶液としてα-CHCA(ブルカーダルトニクス製、Matrix substance for MALDI-MS)を2.0mg/mL(50%ACN/0.1%TFA)で調整し、実施例1と同様の方法で試料上にマトリックス溶液を噴霧した。
一方、α-CHCAを8.0mg/mL (50%ACN/0.1%TFA)で調整して、分注用マトリックス溶液とした。
マトリックス溶液の分注は、ケミカルインクジェットプリンター(島津製作所製、CHIP-1000)を用いて行なった。この分注は、1度の分注を1 nLに設定し30回の分注を繰り返すことにより、1スポットあたり30nLのα-CHCAを分注した。1回のプリントが終了した後、30秒間隔を置いてから次のプリントを行うようにした。図7(a)に、得られた結晶の写真を示す。
得られた1結晶当たりのサイズは約5μmであった(図7(a))。後述の比較例2で得た結晶の1結晶当たりのサイズは約25μmであった(図7(b))。本実施例で得た結晶は、後述の比較例2で得た結晶に比べて、結晶が微小かつ密である。具体的にはマトリックス噴霧を行わずにマトリックス分注を行った場合の図7(b)は、分注箇所にヒビのような亀裂が観察された上、分注溶液が組織表面上で拡がる傾向にあるので、有機溶媒が蒸発し結晶形成が達成された後の、分注箇所のマトリックスの色が薄くなっている。マトリックスの色が薄いと言うことは、結晶が密に形成していないことを意味している。一方、図7(a)では結晶形成後、分注箇所にヒビは観察されず、分注箇所の色も分注溶液の拡散が通常法に比べ小さいため、濃くなっている。
このように用意した試料について、MALDI-TOF型UltraflexII TOF/TOF (Bruker Daltonics社)を用いて質量分析を行なった。図8(a)に、得られた質量スペクトルを示す。後述の比較例2で得た結晶(図8(b))に比べて、本実施例のピーク強度は平均10倍以上増大している。
【0029】
比較例2
実施例3で消化したマウス脳組織試料を乾燥した後、この脳組織に直接ケミカルインクジェットプリンター(CHIP-1000)を用いて分注を行った。用いたマトリックス溶液や分注の条件は実施例3と同様である。図7(b)に、得られた結晶の写真を示す。
このように用意した試料について、MALDI-TOF型UltraflexII TOF/TOF (Bruker Daltonics社)を用いて質量分析を行なった。図8(b)に、得られた質量スペクトルを示す。
【図面の簡単な説明】
【0030】
【図1】本発明の試料調整の手順の概略を示す図である。
【図2】本発明の試料調整方法を具体化した装置例を示す図である。
【図3】試料上に形成されたマトリックス結晶の顕微鏡写真を示す。(a)は実施例1の結晶、(b)は比較例1の結晶を示す。写真は1回の分注後のものである。(a)と(b)における円は1回分の分注の跡を示すものであり、その円の直径は約1mmである。
【図4】試料上に形成されたマトリックス結晶の走査電子顕微鏡(SEM)写真を示す。
【図5】マトリックス溶液滴下領域の境界領域におけるマトリックス結晶の走査電子顕微鏡(SEM)写真を示す。
【図6】実施例2で測定した質量スペクトルを示す図である。(a)は実施例1で用意した試料を用いて測定した質量スペクトル、(b)は比較例1で用意した試料を用いて測定した質量スペクトルを示す。
【図7】試料上に形成されたマトリックス結晶の顕微鏡写真を示す。(a)は実施例3、(b)は比較例2のものを示す。写真は30回の分注後のものである。図中の円はそれぞれ30回分の分注の跡を示すものであり、その円の直径はそれぞれ約300μm(a)と約400μm(b)である。
【図8】実施例3と比較例2で用意した試料を用いて測定した質量スペクトルを示す図である。(a)は実施例3、(b)は比較例3のものを示す。

【特許請求の範囲】
【請求項1】
マトリックス支援レーザ脱離イオン化法による質量分析用の試料を調整するための方法であって、タンパク質の試料上にマトリックス溶液をスプレーして、試料上にマトリックスの微結晶を形成させる段階、及び、この試料上に更にマトリックス溶液を分注してこの微結晶を成長させる段階から成る質量分析用試料調整方法。
【請求項2】
更に、試料を乾燥させる段階を含む請求項1に記載の方法。
【請求項3】
前記試料上にマトリックス溶液を分注する段階及び任意に前記試料を乾燥させる段階を複数回行う請求項1又は2に記載の方法。
【請求項4】
前記タンパク質の試料が導電性支持体上に固定されている請求項1〜3のいずれか一項に記載の方法。
【請求項5】
前記タンパク質の試料が生体組織である請求項1〜4のいずれか一項に記載の方法。
【請求項6】
前記タンパク質の試料が予め消化されている請求項1〜5のいずれか一項に記載の方法。
【請求項7】
請求項1〜6のいずれか一項に記載の方法により調整された質量分析用試料。
【請求項8】
請求項1〜6のいずれか一項に記載の方法により調整された質量分析用試料を、マトリックス支援レーザ脱離イオン化法によりイオン化し、質量分析することからなる、生体組織の分析方法。
【請求項9】
マトリックス支援レーザ脱離イオン化法による質量分析用の試料であって、タンパク質の試料上にマトリックス溶液をスプレーして、試料上にマトリックスの微結晶を形成させてなる質量分析用試料。
【請求項10】
前記タンパク質の試料が導電性支持体上に固定されている請求項9に記載の方法。
【請求項11】
前記タンパク質の試料が生体組織である請求項9又は10に記載の試料。
【請求項12】
マトリックス支援レーザ脱離イオン化法による質量分析用の試料を調整するための装置であって、タンパク質の試料を固定するための導電性支持体、該導電性支持体に固定されたタンパク質試料上にマトリックス溶液を噴霧するためのスプレー装置、及び該導電性支持体に固定されたタンパク質試料上にマトリックス溶液を分注するための分注装置を備え、更に、該スプレー装置により該導電性支持体に固定されたタンパク質試料上にマトリックス溶液を噴霧した後に、該タンパク質の試料の噴霧された領域にマトリックス溶液を分注するように該支持体、又は該スプレー装置及び該分注装置を移動させる移動制御装置を備えた質量分析用試料調整装置。

【図1】
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【図2】
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【図6】
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【図8】
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【図3】
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【図4】
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【図5】
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【図7】
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【公開番号】特開2009−168448(P2009−168448A)
【公開日】平成21年7月30日(2009.7.30)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2006−158597(P2006−158597)
【出願日】平成18年6月7日(2006.6.7)
【出願人】(504261077)大学共同利用機関法人自然科学研究機構 (156)
【出願人】(000001993)株式会社島津製作所 (3,708)
【Fターム(参考)】