説明

結膜下線維芽細胞増殖抑制剤および結膜下線維芽細胞増殖抑制方法

【課題】 安全かつ効果的に、眼科手術後における結膜癒着や結膜下組織瘢痕形成を抑制することの可能な、結膜下線維芽細胞増殖抑制剤を提供すること。
【解決手段】 トレハロースを用いた結膜下線維芽細胞増殖抑制剤、結膜癒着抑制剤、あるいは結膜下組織瘢痕形成抑制剤として、特に点眼薬の形態にて用いる。5%以上の濃度のトレハロース存在下では、濃度が高くなるほど線維芽細胞の増殖を抑制することができ、一方、上皮細胞の増殖にはまったく影響を与えない。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は結膜下繊維芽細胞増殖抑制剤および結膜下繊維芽細胞増殖抑制方法に係り、特に安全かつ効果的に、眼科手術後における結膜癒着や結膜下組織瘢痕形成を抑制することの可能な、結膜下繊維芽細胞増殖抑制剤および結膜下繊維芽細胞増殖抑制方法に関する。
【背景技術】
【0002】
眼科領域の手術では、手術後に、結膜下の線維芽細胞増殖による瘢痕形成によって、術後成績が左右されることがある。緑内障に対して行う線維柱帯切除は、その代表的なものである。従来、線維柱帯切除手術術後の結膜下組織瘢痕形成を予防する目的で代謝阻害薬マイトマイシンCが術中に使用されている。
【0003】
一方、ドライアイに対する有効性を有するものとしてトレハロース点眼液(100mM,200mM)が既に報告されているなど、トレハロースを眼科領域で応用する技術的提案がなされている(後掲特許文献)。
【0004】
このうち特許文献1は、シェーグレン症候群における眼の臨床症状の治療・予防剤として、トレハロースを有効成分として含有する眼科用医薬組成物を技術開示するものである。また特許文献2は、角膜保護作用を有する安全な眼科用医薬組成物として、トレハロースを用いる医薬組成物を開示するものである。
【0005】
なお、トレハロースは、2つのα−グルコース(ブドウ糖)が1,1−グリコシド結合してできた二糖類であり、以下の化学的特徴を有している。
IUPAC名:2−(ヒドロキシメチル)−6−[3,4,5−トリヒドロキシ−6−(ヒドロキシメチル)テトラヒドロピラン−2−イル]オキシ−テトラヒドロピラン−3,4,5−トリオール
別名:α−D−グルコピラノシル−α−D−グルコピラノシド(α,α‐トレハロース)
分子式:C122211(無水物)、C122211・2HO(二水和物)
分子量:342.29(無水物)、378.33(二水和物) g/mol
【先行技術文献】
【特許文献】
【0006】
【特許文献1】特開2002−161038号公報「眼科用医薬組成物」
【特許文献2】特開平9−235233号公報「トレハロースを含有する眼科用医薬組成物」
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0007】
さて上述のように従来、線維柱帯切除手術術後の結膜下組織瘢痕形成予防の目的で、代謝阻害薬マイトマイシンCが術中に使用されているが、この薬剤は正常細胞に対する増殖抑制も強いため、瘢痕形成抑制のみならず正常結膜上皮細胞にも傷害を及ぼすことがあり、術後晩期合併症が頻発し、臨床上問題となっている。
【0008】
また従来、上述のようにトレハロースが眼科領域において用いられているとはいえ、線維柱帯切除手術術後の結膜下組織瘢痕形成との関連においては、これまで研究を行った者もなく、また何らの報告もなされていない状況である。
【0009】
そこで本発明が解決しようとする課題は、かかる従来技術の問題点を踏まえ、安全かつ効果的に、眼科手術後における結膜癒着や結膜下組織瘢痕形成を抑制することの可能な、結膜下繊維芽細胞増殖抑制剤および結膜下繊維芽細胞増殖抑制方法を提供することである。
【課題を解決するための手段】
【0010】
さて本願発明者らは、食品や化粧品で頻用されているトレハロースの瘢痕抑制作用に注目し、トレハロース点眼薬を緑内障に対する線維柱帯切除手術術後などの結膜下組織瘢痕形成抑制の目的で使用可能か否かの研究を行ってきた。
参考文献
Matsuo T, Tsuchida Y, Morimoto N. Trehalose eye drops in the treatment of dry eye syndrome. Ophthalmology 109 (11), 2024-2029, 2002
Matsuo T. Trehalose versus hyaluronan or cellulose in eyedrops for the treatment of dry eye. Jpn J Ophthalmol 48 (4), 321-327, 2004
【0011】
上述の通り、トレハロース点眼液のドライアイその他に対する有効性が報告されてはいるが、結膜下組織における線維芽細胞増殖抑制効果に対してトレハロースが有効であることについては、これまで研究を行った者もなく、何らの報告もなされていない。
【0012】
本願発明者は、かかる課題について検討した結果、トレハロースが結膜下線維芽細胞の抑制作用および創傷治癒遅延作用を備えていることを見出し、本発明の完成に至った。すなわち、上記課題を解決するための手段として本願で特許請求される発明、もしくは少なくとも開示される発明は、以下の通りである。
【0013】
〔1〕 トレハロースを用いた結膜下繊維芽細胞増殖抑制剤。
〔2〕 トレハロースを用いた結膜癒着抑制剤。
〔3〕 トレハロースを用いた結膜下組織瘢痕形成抑制剤。
〔4〕 結膜下繊維芽細胞増殖抑制のためのトレハロース点眼薬。
〔5〕 トレハロース濃度が5%以上であることを特徴とする、〔4〕に記載のトレハロース点眼薬。
【0014】
〔6〕 緑内障またはその他の眼科手術の術後に発生する結膜癒着または結膜下組織瘢痕形成を抑制するための、〔4〕または〔5〕に記載のトレハロース点眼薬。
〔7〕 眼科手術において、術中に手術対象と連続する空間に対してトレハロース点眼薬を供給し、術後においては日単位で1日以上の期間に亘り手術対象と連続する空間に対してトレハロース点眼薬を供給する、結膜下繊維芽細胞増殖抑制方法。
〔8〕 人間以外の動物の眼科手術において、術中に手術対象に対してトレハロース点眼薬を供給し、術後においては日単位で1日以上の期間に亘り手術対象に対してトレハロース点眼薬を供給する、結膜下繊維芽細胞増殖抑制方法。
【発明の効果】
【0015】
本発明の結膜下繊維芽細胞増殖抑制剤および結膜下繊維芽細胞増殖抑制方法は上述のように構成されるため、これによれば、安全かつ効果的に、眼科手術後における結膜癒着や結膜下組織瘢痕形成を抑制することができる。
【0016】
つまり本発明完成の過程において発明者は、トレハロースが、結膜切除および線維柱帯切除手術後に起こる結膜下組織の線維芽細胞増殖を選択的に抑制し、その結果、結膜下組織の瘢痕形成を特異的に抑制する作用を明らかにしたものである。かかる作用は結膜上皮細胞にはみられない。すなわち、正常細胞に対する増殖抑制が発生することはない。
【0017】
つまり本発明によれば、眼最表面の結膜上皮の創傷治癒機転には何ら影響を与えることなく(正常結膜上皮細胞に対しては何ら傷害を及ぼすことなく)、結膜下組織の瘢痕形成や結膜癒着のみを抑制することができる。したがって、術後晩期合併症が頻発するという従来技術の欠点も、問題なく解消される。
【図面の簡単な説明】
【0018】
【図1】各種濃度のトレハロース存在下での培養線維芽細胞の形態を示す顕微鏡写真図である。
【図2】白色家兎における結膜単純切除術後の所見を示す顕微鏡写真図である。
【図3】白色家兎線維柱帯切除術後の眼圧経過を示すグラフである。
【図4】白色家兎線維柱帯切除術後90日間トレハロース点眼後の組織所見を示す顕微鏡写真図である。
【図5】白色家兎線維柱帯切除術後90日間トレハロース点眼後の免疫組織化学所見を示す顕微鏡写真図である。
【発明を実施するための形態】
【0019】
本発明について、さらに詳細に説明する。
本発明は、トレハロースを用いた結膜下繊維芽細胞増殖抑制剤、結膜癒着抑制剤、あるいは結膜下組織瘢痕形成抑制剤である。その限りでは剤形が限定されるものではないが、点眼薬の形態が主であるといえる。したがって、かかる剤形をとる本発明は、結膜下繊維芽細胞増殖抑制のためのトレハロース点眼薬であるといえる。
【0020】
実施例に後述するように、本発明トレハロース点眼薬は、特にトレハロース濃度が5%以上であるように調製されたものを用いることが、その作用効果を充分に発揮する上で望ましい。
【0021】
そして特に、本発明トレハロース点眼薬は、緑内障またはその他の眼科手術の術後に発生する結膜癒着を抑制するため、または結膜下組織瘢痕形成を抑制するために用いて、優れた抑制効果を得ることができる。
【0022】
主な使用方法を述べる。
眼科手術において、術中に、手術対象と連続する空間に対して本発明トレハロース点眼薬を供給する。すなわち、該空間を介して手術対象に対してトレハロース点眼薬は供給されて、結膜癒着抑制作用、あるいは結膜下組織瘢痕形成抑制作用がなされる。このとき、かかるトレハロース点眼薬の増殖抑制作用は、結膜上皮細胞に対しては及ばない。すなわち、眼最表面の結膜上皮の創傷治癒機転には何ら影響を与えることなく、結膜癒着や結膜下組織の瘢痕形成のみを抑制することができる。
【0023】
術後においては、日単位で1日以上の期間に亘り、手術対象と連続する空間に対してトレハロース点眼薬を供給する。すなわち、該空間を介して手術対象に対してトレハロース点眼薬は供給されて、さらに結膜癒着抑制作用、あるいは結膜下組織瘢痕形成抑制作用がなされる。このとき、かかるトレハロース点眼薬の増殖抑制作用は、結膜上皮細胞に対しては及ばない。すなわち、眼最表面の結膜上皮の創傷治癒機転には何ら影響を与えることなく、結膜癒着や結膜下組織の瘢痕形成のみを抑制することができる。
【0024】
なお本発明は、主として人間の眼科手術と術後における利用を想定したものであるが、人間以外の動物、たとえば犬・猫といった愛玩動物の眼科手術においても同様に、術中に手術対象に対してトレハロース点眼薬を供給し、術後においては日単位で1日以上の期間に亘り手術対象に対してトレハロース点眼薬を供給するという方法で、使用することは可能である。
【実施例】
【0025】
以下、本発明を実施例によってさらに詳細に説明するが、本発明がかかる実施例に限定されるものではない。なお実施例は、本願発明者による研究過程の概要を記すものである。
<1 試験方法>
1) 試験管内(in vitro)実験
In vitroにおいて、正常ヒト皮膚由来線維芽細胞およびヒト表皮角化細胞の培養を行い、トレハロース各濃度下にてその増殖能につき対照群と比較した(なお、濃度は重量%。以下も同様である。)。
【0026】
2) 動物 (in vivo) 実験
白色家兎に対し結膜単純切除後、5%トレハロース点眼(147mM)を連日行い、術後結膜癒着の程度を評価した。別の白色家兎群に線維柱帯切除を行い、術中トレハロースにて洗眼し、かつ術後連日点眼を行いながら、経時的に眼圧を測定後に眼球摘出し評価した。組織評価として、Massonn−trichrome染色および免疫染色を行い、対照群と比較検討した。なお免疫染色は、抗vimentin抗体による免疫染色、抗α−SMA抗体(α−smooth muscle actin の特異モノクローナル抗体)による免疫染色、およびこれら二種の免疫染色を重複して行う二重免疫染色を行った。
【0027】
<2 結果と考察>
図1は、各種濃度のトレハロース存在下での培養線維芽細胞の形態を示す顕微鏡写真図である。試験したトレハロース濃度は、0%(Control)、0.625%、1.25%、2.5%、5.0%、10.0%、20.0% である。図示されるように、5%以上の濃度のトレハロース存在下では、濃度依存性に(濃度が高くなるほど)線維芽細胞の増殖を抑制している。ただし濃度を高くしていっても、上皮細胞の増殖にはまったく影響を与えなかった。すなわちin vitroの実験結果では、線維芽細胞はトレハロース5%以上で濃度依存性に増殖が抑制される結果であった。
【0028】
In vivoの実験結果を説明する。
図2は、白色家兎における結膜単純切除術後の組織所見(Masson−trichrome染色)を示す顕微鏡写真図である。図示されるように5%トレハロース点眼群(上段)では、明らかな癒着が認められず、結膜組織の瘢痕形成が抑制されていることが認められた。しかし、結膜上皮細胞による上皮創傷治癒機転には、まったく影響を与えなかった。すなわちin vivoの実験では、結膜単純切除後では、瘢痕状組織が認められた対照群(Control 下段)に比較して明らかな結膜の癒着抑制が認められた。
【0029】
図3は、白色家兎線維柱帯切除術後の眼圧経過を示すグラフである。図示されるように、5%または10%トレハロース使用群では、不使用群(Control)と比較して眼圧の下降効果が維持されている結果であった。またその眼圧下降効果は、従来用いられているマイトマイシンC(MMC)ともさほど差異のないものだった。すなわち線維柱帯切除モデルでは、観察期間内において、手術効果を裏付ける眼圧の下降を確認することができた。
【0030】
図4は、白色家兎線維柱帯切除術後90日間トレハロース点眼後の組織所見(Masson−trichrome染色)を示す顕微鏡写真図である。図では、左上が5%トレハロース点眼、右上が10%トレハロース点眼、中央左が対照、下が0.04%MMC による各組織所見を示す。図示されるように、各トレハロース点眼群ではいずれも、結膜−flap−bleb間にスペースが認められた(図中の矢印の示す位置)。すなわち、トレハロース使用群で明らかに線維形成が抑制されており、5%または10%トレハロース点眼を90日間継続した後では、線維芽細胞が充分に抑制されていることが認められた。
【0031】
図5は、白色家兎線維柱帯切除術後90日間トレハロース点眼後の免疫組織化学所見を示す顕微鏡写真図である。図では上段が対照群、中段が5%トレハロース点眼群、下段が10%トレハロース点眼群である。また、左列が抗vimentin抗体による、中央列が抗α−SMA抗体による、そして右列が両者を用いた二重免疫染色による、各免疫組織化学所見である。
【0032】
図示されるように、5%、10%の各トレハロース点眼群では明らかに、vimentin/α−SMAの発現の低下を認めた。つまり、抗vimentin抗体による免疫組織化学所見、抗α−SMA抗体による免疫組織化学所見、および二重免疫染色による免疫組織化学所見のいずれにおいても、線維芽細胞の増殖が抑制されていることが認められた。
【産業上の利用可能性】
【0033】
本発明の結膜下繊維芽細胞増殖抑制剤および結膜下繊維芽細胞増殖抑制方法によれば、安全かつ効果的に、眼科手術後における結膜癒着や結膜下組織瘢痕形成を抑制することができる。つまり本発明によれば、手術後に起こる結膜下組織の線維芽細胞増殖を選択的に抑制し、しかも結膜上皮の創傷治癒機転には何ら影響を及ぼさない。
【0034】
この点をさらに応用すれば、翼状片に行う翼状片切除手術の術後に再発予防薬としてトレハロースを使用できる可能性や、斜視手術術後にも瘢痕形成抑制の目的として使用できる可能性も認められ、産業上利用性も高い発明である。



【特許請求の範囲】
【請求項1】
トレハロースを用いた結膜下繊維芽細胞増殖抑制剤。
【請求項2】
トレハロースを用いた結膜癒着抑制剤。
【請求項3】
トレハロースを用いた結膜下組織瘢痕形成抑制剤。
【請求項4】
結膜下繊維芽細胞増殖抑制のためのトレハロース点眼薬。
【請求項5】
トレハロース濃度が5%以上であることを特徴とする、請求項4に記載のトレハロース点眼薬。
【請求項6】
緑内障またはその他の眼科手術の術後に発生する結膜癒着または結膜下組織瘢痕形成を抑制するための、請求項4または5に記載のトレハロース点眼薬。
【請求項7】
眼科手術において、術中に手術対象と連続する空間に対してトレハロース点眼薬を供給し、術後においては日単位で1日以上の期間に亘り手術対象と連続する空間に対してトレハロース点眼薬を供給する、結膜下繊維芽細胞増殖抑制方法。
【請求項8】
人間以外の動物の眼科手術において、術中に手術対象に対してトレハロース点眼薬を供給し、術後においては日単位で1日以上の期間に亘り手術対象に対してトレハロース点眼薬を供給する、結膜下繊維芽細胞増殖抑制方法。


【図1】
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【図2】
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【図3】
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【図4】
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【図5】
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【公開番号】特開2011−32242(P2011−32242A)
【公開日】平成23年2月17日(2011.2.17)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2009−181976(P2009−181976)
【出願日】平成21年8月4日(2009.8.4)
【新規性喪失の例外の表示】特許法第30条第1項適用申請有り 平成21年3月15日 財団法人日本眼科学会発行の「日本眼科學會雑誌(Volume 113)第113回日本眼科学会総会 講演抄録」に発表
【出願人】(504229284)国立大学法人弘前大学 (162)
【Fターム(参考)】