説明

質量分析データ処理方法及び装置

【課題】イメージング質量分析により得られたデータに基づき、特に生体試料中の特定の機能や作用をもつ部位の分布等を的確に且つ容易に把握可能な画像情報を提示する。
【解決手段】試料上の微小領域(ピクセル)毎に得られたマススペクトルデータに対し、ピクセル毎に、まず全m/z範囲に亘る強度の和が1になるように各強度を規格化し(S3)、m/z毎の規格化後の強度の対数と該強度との積を全m/z範囲に亘り加算することでエントロピーを計算する(S4)。全てのピクセルで同様にエントロピーを求めたならば、そのエントロピーの値に応じて各ピクセルを色付けして、エントロピーの分布を表す2次元カラー画像を作成して表示する(S7)。生体中の癌部では存在する物質に片寄りがみられ、正常部に比べて物質の成分比が単純化されるためにエントロピーが小さくなる。そのため、エントロピー画像上では癌部と正常部とを識別することが可能となる。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、試料の2次元領域内の複数の微小領域に対しそれぞれ質量分析を実行して収集される質量分析データを解析し、その結果を2次元領域に対する画像として出力する、質量分析イメージングを実行する質量分析データ処理方法及び装置に関する。
【背景技術】
【0002】
生体組織等の試料の形態観察を行うと同時に、その試料上の所定領域に存在する分子の分布を測定する装置として、顕微質量分析装置或いはイメージング質量分析装置などと呼ばれる装置が開発されている(特許文献1〜3、非特許文献1、2など参照)。こうした装置によれば、試料をすり潰したり破砕したりすることなく試料の形態をほぼ維持したまま、顕微観察に基づいて指定された試料上の任意の領域に含まれる特定の質量電荷比m/zをもつイオンの分布画像(マッピング画像)を得ることが可能であり、特に、生化学分野、医療・薬学分野などにおいて、例えば生体内細胞に含まれるタンパク質等の分布情報を得るなどの応用が期待されている。
【0003】
試料に関する所望の情報、例えば試料を特徴付ける物質の種類やその量の分布、などを分析者が容易に把握できるようにするには、収集した質量分析イメージングデータに対して適切な解析処理を実行し、その結果を適切な態様で表示することが重要である。試料上の或る程度の面積の2次元領域に対する質量分析イメージングデータを取得した場合、このデータは多数の測定点(微小領域)のマススペクトルデータを含む。そのため、データの量は極めて膨大になる。そこで、このような膨大な量のデータに対し、有意で且つ分析者が理解し易い情報を得るための様々な手法が従来提案されている。
【0004】
例えば一つの方法として、全測定点のマススペクトルを積算することで作成される積算マススペクトルを表示画面上に表示し、その積算マススペクトルに現れるピークの中から適当なピークを分析者が選択し、既存のMSイメージ表示ソフトウエア(例えばBioMapなど)を用いて選択されたピークの強度空間分布を表示するという方法がある(例えば非特許文献3参照)。このように複数のピークの強度空間分布を重ね合わせて表示することにより、特定の組織構造とその主要な物質の質量電荷比とを知ることができる。
【0005】
別の方法として、主成分分析(PCA=Principal Component Analysis)、独立成分分析(ICA=Independent Component Analysis)、因子分析(FA=Factor Analysis)などの多変量解析を利用する方法が、非特許文献4などに記載されている。多変量解析では、類似した強度空間分布を有する複数の物質が各因子に集約される。この因子毎にスコアとローディングとを表示するのが一般的であり、特許文献4では、スコアを2次元空間分布として、ローディングを散布図として表示するようにしている。
【0006】
しかしながら、上述したような従来方法では次のような問題がある。即ち、MSイメージ表示ソフトウエアを用いた解析手法では、分析者が積算マススペクトル上でピークを選択すると、そのピークに対応した質量電荷比の強度空間分布が表示される。このため、空間的に特異的な分布を示す物質に対応したピークが必ずしも選択されるとは限らない。また、試料上の小領域毎に特異的な強度空間分布を示すピークを探し出したい場合には、分析者が試行錯誤的に複数のピークの強度空間分布を比較したり重ね合わせ表示を行ったりする必要がある。このため、通常、分析者は積算マススペクトル上の多くのピークに対するイメージ表示を行う作業を繰り返す必要があり、多大な労力と時間とを要する。
【0007】
一方、多変量解析を用いた方法では、多くの場合、因子数の決定や各因子のローディング値の解釈などに専門的な知識が必要である。また、PCAの場合には主成分に対するマススペクトルを表示すると強度がマイナスとなるピークが含まれることがある等、結果の物理的意味付けを解釈するのが困難であることもある。そのため、分析を担当できる者が限定されてしまい、効率的な解析は難しく、スループットを向上させることも困難である。また、PCAでは1つの主成分を1つの空間分布として表示するが、1つの物質の情報は複数の主成分に反映されるため、PCAの結果だけを見ても物質の空間分布や含有量を特定することはできないという問題もある。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0008】
【特許文献1】特開2007−66533号公報
【特許文献2】特開2007−157353号公報
【特許文献3】特開2007−257851号公報
【非特許文献】
【0009】
【非特許文献1】小河潔、ほか5名、「顕微質量分析装置の開発」、島津評論、株式会社島津製作所、平成18年3月31日発行、第62巻、第3・4号、p.125−135
【非特許文献2】原田高宏、ほか8名、「顕微質量分析装置による生体組織分析」、島津評論、株式会社島津製作所、2008年4月24日発行、第64巻、第3・4号、p.139−146
【非特許文献3】「MSイメージング技術による病理組織切片上におけるバイオマーカーの探索」、[online]、株式会社島津製作所、[2010年11月8日検索]、インターネット<URL: http://www.an.shimadzu.co.jp/bio/biomarker/297-0425_msimaging.pdf>
【非特許文献4】森永、ほか2名、「PCAによるMS Imagingデータ解析ソフトの開発」、第57回質量分析総合討論会(2009年)講演要旨集、日本質量分析学会、2009年5月1日発行
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0010】
本発明は上記課題を解決するためになされたものであり、その目的とするところは、イメージング質量分析により収集された膨大なデータに基づいて、生体試料の組織構造などを把握するために有意であって且つ分析者が直感的にも理解し易い情報を提示することができる質量分析データ処理方法及び装置を提供することにある。
【課題を解決するための手段】
【0011】
上記課題を解決するために成された第1発明に係る質量分析データ処理方法は、試料上の2次元領域内に設定された複数の微小領域に対しそれぞれ質量分析を実行することにより収集されたデータを処理する質量分析データ処理方法であって、
a)複数の微小領域毎に、その微小領域に対応したマススペクトルデータの強度情報を規格化する第1ステップと、
b)各微小領域において、規格化後のマススペクトルデータに基づいてエントロピーを計算する第2ステップと、
c)微小領域毎に求まったエントロピーの値に応じた表示色を与えることで各微小領域を色付けし、前記2次元領域に対応したカラー2次元画像を作成して表示する第3ステップと、
を有することを特徴としている。
【0012】
また第2発明に係る質量分析データ処理装置は、第1発明に係る質量分析データ処理方法を実施するための装置であって、試料上の2次元領域内に設定された複数の微小領域に対しそれぞれ質量分析を実行することにより収集されたデータを処理する質量分析データ処理装置において、
a)複数の微小領域毎に、その微小領域に対応したマススペクトルデータの強度情報を規格化する規格化処理手段と、
b)各微小領域において、規格化後のマススペクトルデータに基づいてエントロピーを計算するエントロピー演算手段と、
c)微小領域毎に求まったエントロピーの値に応じた表示色を与えることで各微小領域を色付けし、前記2次元領域に対応したカラー2次元画像を作成して表示画面上に表示する表示情報形成手段と、
を備えることを特徴としている。
【0013】
本発明に係る質量分析データ処理方法及び装置において、エントロピーとは、典型的には、マススペクトルの中の各質量電荷比の強度値の対数(自然対数又は常用対数)と強度値との積の、質量電荷比範囲全体に亘る総和として定義することができる。
【0014】
情報理論においては、エントロピーは情報量を表す指標として用いられる。そこで、微小領域(画像で考えればピクセル)毎にマススペクトルデータにエントロピーを導入すれば、有意のピークが数が多いほどエントロピーは大きくなる。ここで「有意」とは、その微小領域を特徴付けることができるという意味であり、例えば或るピークが存在しても質量電荷比範囲全体に亘り同程度のピークが存在するのであれば、それは「有意」ではない。本願発明者の検討によれば、マススペクトルにおいては、エントロピーは単に含まれる物質の種類の数ではなく、物質の組成比の複雑さを表しているとの知見が得られた。したがって、微小領域に存在する物質の組成比が比較的単純であれば、言い換えれば、その組成に片寄りがあればエントロピーは相対的に小さくなる。こうしたことから、試料が生体由来の試料である場合には、微小領域毎にマススペクトルデータから求めたエントロピーの値の分布は、細胞やその集合体等の機能や作用に関連する物質の空間分布を反映していると考えられる。
【0015】
そこで本発明に係る質量分析データ処理方法及び装置において、規格化処理手段により実行される第1ステップでは、エントロピー演算の前処理として、微小領域毎に、その微小領域に対応したマススペクトル中の各質量電荷比の強度の和が1になるように規格化を行う。この規格化によって微小領域毎の物質含有量の相違の影響がなくなり、エントロピーの比較が可能となる。エントロピー演算手段により実行される第2ステップでは、規格化後のマススペクトルデータを用いてそれぞれエントロピーを計算し、表示情報形成手段により実行される第3ステップでは、微小領域毎に例えば予め定めたカラースケールに照らしてエントロピー値に対応した表示色を求め、各ピクセルを色付けして2次元カラー画像として表示する。これにより、微小領域毎のエントロピーの2次元分布を可視化した画像が表示される。
【0016】
生体組織を試料とする場合、試料の前処理の際の酵素消化により物質が分解したり、質量分析の際のイオン源に利用されるレーザの作用で試料成分が解離したりすることがよくあり、質量電荷比の大きな物質は減少する(より質量電荷比が小さな物質に分解する)傾向にある。こうしたことから、本発明に係る質量分析データ処理装置において、規格化処理手段は、マススペクトルデータの強度情報に対し質量電荷比に応じて重み付けした規格化を行う構成とするとよい。
【0017】
具体的には、質量電荷比が大きなイオンにより大きな重みを与えるようにするとよい。具体的な重みは、分析対象の試料の種類、前処理方法、質量分析装置の構成などに応じて、例えば実験的に適当な値を決めておくようにすればよい。これにより、上記要因による大きな質量電荷比をもつ物質の分解の影響が軽減されるため、前述の機能や作用に関連する物質の空間分布が一層明瞭に現れ易くなる。
【0018】
また、例えば試料に対する光学顕微画像などを利用して識別可能な試料上の特定部位と同一の又は類似した機能や作用をもつ部位の分布を調べたいような場合には、その特定部位におけるエントロピーを基準とした相対値で他の部位のエントロピーを示したほうが、視覚的に理解が容易である。
【0019】
そこで、本発明に係る質量分析データ処理装置の一態様として、
比較基準とする微小領域を設定する基準設定手段をさらに備え、
前記エントロピー演算手段は、前記基準設定手段により設定された比較基準の微小領域のエントロピーに対して微小領域毎の相対エントロピーを計算する構成とすることができる。
【0020】
基準設定手段としては、例えば表示画面上に試料の光学顕微画像や特定の質量電荷比の強度分布を示す質量分析イメージング画像などを表示した状態で、ユーザがポインティングデバイスなどの操作部により任意の位置を指定できるようにすればよい。また、試料の光学顕微画像や質量分析イメージング画像などに対して画像認識技術を適用して所定の条件に適合する部位を自動的に抽出し、抽出された部位に対応する微小領域を比較基準として設定する構成とすることも可能である。
【0021】
さらにまた、試料の種類、着目する部位の広さなどによっては、質量分析の単位である微小領域毎に処理を行うよりも、隣接する又は近接する複数の微小領域におけるマススペクトルデータをまとめて処理したほうが、可視化したときに着目部位が顕在化する場合もある。そこで、本発明に係る質量分析データ処理装置では、規格化処理手段による規格化の前に、2次元領域内で隣接する又は近接する複数の微小領域のマススペクトルデータを加算又は平均化するビニング処理を実行するビニング処理手段をさらに備える構成としてもよい。
【発明の効果】
【0022】
本発明に係る質量分析データ処理方法及び装置によれば、イメージング質量分析により収集された膨大なデータに基づいて、試料に含まれる物質の空間分布が容易に且つ直感的に理解できるような情報を形成し、これを分析者に提示することができる。特に、本発明に係る質量分析データ処理方法及び装置によれば、ヒトや動物の生体組織を試料として、該試料中で特定の物質の偏在がみられる癌などの病変部とそれ以外の正常部との識別を的確に行うことが可能となる。
【0023】
また本発明に係る質量分析データ処理方法及び装置では、従来方法のような積算マススペクトル上での試行錯誤的なピーク選択作業の繰り返しを行う必要がなく、また多変量解析を行う際に一般に必要とされるピーク抽出処理も要しないので、処理時間を短縮してスループットを向上させることができる。さらにまた、多変量解析を利用した方法のように解析作業やその結果の解釈などに専門的な知識を有することもないので、分析者の負担が軽減されるという利点もある。
【図面の簡単な説明】
【0024】
【図1】本発明に係る質量分析データ処理装置を利用したイメージング質量分析装置の一実施例の概略構成図。
【図2】本実施例のイメージング質量分析装置におけるデータ処理手順のフローチャート。
【図3】変形例のイメージング質量分析装置におけるデータ処理手順のフローチャート。
【図4】本実施例のイメージング質量分析装置による実測例を示す図。
【図5】本実施例のイメージング質量分析装置による実測例を示す図。
【図6】本実施例のイメージング質量分析装置による実測例を示す図。
【図7】本実施例のイメージング質量分析装置による実測例を示す図。
【図8】本実施例のイメージング質量分析装置による実測例を示す図。
【発明を実施するための形態】
【0025】
以下、本発明に係る質量分析データ処理方法を実施するためのイメージング質量分析装置の一実施例について、添付図面を参照して説明する。図1は本実施例によるイメージング質量分析装置の概略構成図である。
【0026】
このイメージング質量分析装置は、試料8上の2次元測定対象領域8aの顕微観察を行うとともに該領域8a内のイメージング質量分析を実行するイメージング質量分析部1と、イメージング質量分析部1で収集されたマススペクトルデータを解析処理するデータ処理部2と、マススペクトルデータを記憶しておくデータ記憶部3と、イメージング質量分析部1で撮影された画像信号を処理して顕微画像を構成する顕微画像処理部4と、それら各部を制御する制御部5と、制御部5に接続された操作部6及び表示部7と、を備える。
【0027】
図示しないが、イメージング質量分析部1は例えば非特許文献1、2などに記載のように、MALDIイオン源、イオン輸送光学系、イオントラップ、飛行時間型質量分析器、イオン検出器などを含み、x方向、y方向にそれぞれ所定サイズの微小領域8bに対する所定質量電荷比範囲に亘る質量分析を実行する。イメージング質量分析部1は試料8が載置されたステージ(図示しない)をx、yの2軸方向に高精度で移動させる駆動部を含み、試料8を所定ステップ幅で移動させる毎に質量分析を実行することにより、任意のサイズの領域に対するマススペクトルデータの収集が可能である。なお、制御部5、データ処理部2、データ記憶部3、顕微画像処理部4などの機能の少なくとも一部は、パーソナルコンピュータに搭載された専用の処理・制御ソフトウエアを実行することにより達成される。
【0028】
本実施例のイメージング質量分析装置は、イメージング質量分析部1により収集された膨大な質量分析イメージングデータ(ここでは1個の微小領域から得られるマススペクトルデータをN個の微小領域分集めたものを質量分析イメージングデータと呼ぶ)を解析処理して表示部7の画面上に表示するデータ処理部2におけるデータ処理にその特徴を有する。この特徴的なデータ処理の一例について、図2により説明する。図2はデータ処理手順を示すフローチャートである。
【0029】
イメージング質量分析部1では、図1中に示すように、試料8上に設定された所定の2次元測定対象領域8a内をx方向、y方向にそれぞれ細かく区分した微小領域8b毎にマススペクトルデータが得られる。ここでは、2次元測定対象領域8a内の微小領域8bの総数がNであるとする。このマススペクトルデータは所定の質量電荷比範囲に亘る強度信号を示すマススペクトルを構成するデータである。
【0030】
通常、微小領域8bの1辺の長さは試料8が載置されたステージの移動ステップ幅により決まる。後述するデータ処理により、1個の微小領域8bで得られるマススペクトルデータに基づいてその微小領域8b毎にカラー2次元画像上での表示色が定められる。したがって、色付けなどの画像処理上ではこの微小領域が最小単位となるので、画像処理上のピクセルと微小領域とは同義であり、以下の説明では微小領域をピクセルと呼ぶ。
【0031】
データ処理の開始が指示されると、まずデータ処理部2はデータ記憶部3から処理対象である質量分析イメージングデータ、即ち、ピクセル毎に得られたマススペクトルデータを全て、つまりN個の微小領域のマススペクトルデータを読み込む(ステップS1)。
【0032】
次に、変数nを1に初期設定し(ステップS2)、n番目のピクセルにおいて、マススペクトルの強度を規格化する(ステップS3)。具体的には、マススペクトル中の質量電荷比軸方向にi番目のサンプル点(質量電荷比)における強度信号をp(i)とし、TIC(Total Ion Current)を次の(1)式により計算する。
TIC=Σp(i) …(1)
ここで、Σはiが1からM(サンプル点の最大値)までの総和である。即ち、(1)式はマススペクトルの全質量電荷比範囲において各質量電荷比のイオン強度の総和である。そして、以下の(2)式により、上記のように求めたTICで規格化した強度信号p’(i)を計算する。
p’(i)=p(i)/TIC …(2)
上式で求まるp’(i)のi=1〜Mの総和は1になる。
【0033】
次に、データ処理部2はn番目のピクセルにおいてエントロピーSn(n)を計算する(ステップS4)。具体的には、(2)式で求めた規格化後の強度信号p’(i)を用いて、以下の(3)式によりエントロピーを計算する。
n(n)=−Σp’(i)・log(p’(i)) …(3)
なお、(3)式で常用対数logの代わりに自然対数lnを用いてもよい。
【0034】
エントロピーの計算が終わったら、変数nがピクセル総数Nに達したか否かを判定することで、全てのピクセルに対する処理が終了したか否かを判定する(ステップS5)。nがNに達していなければnをインクリメントして(ステップS6)ステップS3へと戻る。ステップS3〜S6の処理をN回繰り返すことにより、全てのピクセルに対するエントロピーが求まる。
【0035】
その後に、制御部5はエントロピーの値(範囲)と表示色との対応付けが定められているカラースケールを参照し、2次元画像上で各ピクセルに対応する位置にエントロピーSn(n)の値に対応した表示色を選定して色付け表示した2次元カラー画像を作成し、これを表示部7の画面上に表示する(ステップS7)。もちろん、表示する以外に、プリンター等から出力してもよい。以上の処理により、ピクセル毎にマススペクトルデータから求められたエントロピーの分布を示すエントロピー画像が得られる。
【0036】
上記説明では、各ピクセルのマススペクトルデータに対し単純な規格化及びエントロピー演算を行うようにしていたが、さらに次のような変形を加えることができる。
【0037】
[重み付きエントロピー]
即ち、各ピクセルにおいてマススペクトルの強度信号に質量電荷比に応じた重み付けを行った上でエントロピー(又は後述する相対エントロピー)を計算してもよい。一般に、生体試料中に存在する比較的分子量が大きな物質は酵素消化による分解や質量分析装置のイオン化の際に用いられるレーザの作用による解離などによって、より小さな質量の物質になり易い。そこで、こうした物質の分解があることを考慮して、質量電荷比が大きなイオンに大きな重みを与えるような重み付けを行うとよい。この場合、図2中のステップS3では、i番目のサンプル点におけるm/z値をm(i)として、まず次の(4)式で重みを与える。
w(i)=m(i)・p(i) …(4)
【0038】
したがって、(1)式、(2)式はそれぞれ次の式となる。
TICw=Σpw(i)
w’(i)=pw(i)/TICw
さらにステップS4では、(3)式は次の(5)式となる。
w(n)=−Σpw’(i)・log(pw’(i)) …(5)
これにより、n番目のピクセルにおける重み付きエントロピーSw(n)が求まる。それ以外の処理は上記説明の通りである。
【0039】
[相対エントロピー]
試料8の2次元測定対象領域8aの中で特定部位と類似性を有する部位の分布や拡がりなどを調べることを目的とする場合、特定のピクセルのエントロピーを基準とした相対エントロピーを利用するとよい。図3は相対エントロピーを利用する場合のデータ処理手順のフローチャートである。図2に示したフローチャート中の処理と全く同一の処理を行うステップについては同じステップ番号を付している。
【0040】
この場合には、ユーザ(オペレータ)は例えば試料に対する光学顕微画像を表示部7の画面上で確認し、特定部位として比較基準となるピクセルを操作部6により指定する(ステップS8)。特定部位はユーザが任意に決めればよいが、例えば後述のように生体組織中の癌部を観察したい場合、目視上判別可能な癌部のピクセルを特定部位として指定するとよい。図2中のステップS4に代わるステップS9では、エントロピーの代わりに、指定されたピクセルのエントロピー値を基準とした相対エントロピーを計算する。
【0041】
例えばn番目のピクセルにおいて、相対エントロピーSr(n)、厳密には相対エントロピーの平均を以下の(6)式で計算する。
r(n)={−Σp’(i)・log(p’(i)/q’(i))−Σq’(i)・log(q’(i
)/p’(i))}/2 …(6)
ここで、q’(i)は比較基準のピクセルにおけるi番目のサンプル点の強度信号(TICによる規格化済み)である。それ以外の処理は上記説明の通りである。
【0042】
なお、比較基準となるピクセルを上述したようにユーザが指定するのではなく、光学顕微画像に対する画像認識処理などにより自動的に注目部位を抽出し、これを比較基準となるピクセルとして指定するようにしてもよい。
【0043】
[ビニング処理の付加]
さらに別の変形例として、事前に、複数のピクセルのマススペクトルデータをビニングして、つまり2次元測定対象領域8a内で隣接する又は近接する複数のピクセルにおける強度信号を質量電荷比毎に積算する又は平均化することで見かけ上、1個のピクセルのサイズを例えば4倍又は8倍等に拡大した上で、前述したようにマススペクトルデータの規格化を行い、エントロピー又は相対エントロピーを計算するようにしてもよい。もちろん、重み付きエントロピーを用いてもよい。このようにビニング処理を加えることで、測定ノイズや隣接ピクセルにおけるばらつきを軽減することができる。
【実施例】
【0044】
本実施例のイメージング質量分析装置を用いた実測例を図4〜図8を参照して説明する。
[実測例1]
ヒト大腸癌肝転移試料に対する実測例を図4、図5により説明する。図4(a)は試料をHE(Hematoxilin-Eosin)染色した状態の光学顕微鏡画像、図4(b)は癌部分に検出されるm/z874.3の質量分析イメージング画像である。なお、当然のことながら、未知試料の測定ではこの質量電荷比は既知ではない。図4(c)は図4(a)中に示した癌部に含まれるピクセルにおけるマススペクトル、図4(d)は図4(a)中に示した正常部のピクセルにおけるマススペクトルである。
【0045】
図5(a)は単にピクセル毎のTICの値をカラースケールで表したTIC画像であり、図5(b)は図2に示した処理手順に従って作成されたエントロピー画像であり、図5(c)はマススペクトルの強度の規格化の前に質量電荷比m/zが大きいほど大きな重みを与えるように重み付けを施した重み付きエントロピー画像である。
【0046】
この例では、癌部においてTIC、エントロピーともに小さくなっている。一般的にはTICが小さい場合にはマススペクトル中のピークの数が多く、エントロピーは大きくなる傾向にあるが、この例ではTICが小さいもののエントロピーも小さく、それ故にエントロピー画像又は重み付きエントロピー画像により癌部の空間分布が明瞭に現れていることが分かる。この例から、試料の種類や着目部位(この例では癌部)の物質の種類などによってTIC画像では着目部位を識別できる場合も識別できない場合もあるが、エントロピー画像ではいずれの場合でも着目部位を識別可能であるということができる。
【0047】
[実測例2]
次に、ヒト甲状腺癌試料に対する実測例を図6〜図8により説明する。図6(a)はこの試料の光学顕微鏡画像であり、図6(b)は試料をHE染色した状態の光学顕微鏡画像であり、図6(c)は癌部分に検出されるm/z798.67の質量分析イメージング画像であり、図6(d)はTIC画像である。ここでは図6(c)は各ピクセルにおいてTICを1とする規格化を行っている。図6(d)に示したTIC画像からは癌部を識別することは困難である。なお、図6(a)及び(b)と図6(c)及び(d)とでは試料の位置や向きが相違しているが、これは単に試料載置時の位置ずれによるものである。
【0048】
図7(a)はエントロピー(ビニングなし)画像であり、図7(b)は、2×2ピクセルの平均マススペクトルを1ピクセルのマススペクトルと置き換えて質量分析イメージングデータを作成し、これに対してエントロピーを計算した結果を示す、2×2ピクセルのビニングありのエントロピー画像である。また、図7(c)は同様に4×4ピクセルの平均マススペクトルを1ピクセルのマススペクトルと置き換えて求めた、4×4ピクセルのビニングありのエントロピー画像である。これら画像では、左下の癌部がエントロピーの小さな領域として明瞭に現れており、特にビニングによってその明瞭さが増していることが分かる。
【0049】
図8(a)は癌部に含まれるピクセルを比較基準として指定したときの相対エントロピー画像(ビニングなし)、図8(b)は2×2ピクセルのビニングありの相対エントロピー画像、図8(c)は4×4ピクセルのビニングありの相対エントロピー画像である。これら画像においても癌部が相対エントロピーの小さな領域(基準部位と組成の複雑さが類似した領域)として明瞭に現れている。ただし、この場合には、ビニングによって試料周辺部とその外側との境界が強調されすぎており、ビニングが着目部位の健在化に常に有効というわけではなく、ビニングを行わない場合のほうがよい場合もあることを示している。
【0050】
以上の実測例から、本発明に係るデータ処理方法及び装置により、TIC画像では識別が実質的に不可能であった生体試料中の癌部の領域の識別が可能であることが確認できる。単純なエントロピー画像でも癌部の識別は可能であるが、試料に種類によっては、重み付きエントロピー、特定の部位(ピクセル)を基準とする相対エントロピー、或いは、近接する複数のピクセルの情報をまとめたビニングとエントロピー若しくは相対エントロピーとの組み合わせが、さらに有効であるといえる。
【0051】
なお、上記実施例は本発明の一例であり、本発明の趣旨の範囲で適宜変形、修正、追加を行っても本願特許請求の範囲に包含されることは当然である。
【符号の説明】
【0052】
1…イメージング質量分析本体部
2…データ処理部
3…データ記憶部
4…顕微画像処理部
5…制御部
6…操作部
7…表示部
8…試料
8a…2次元測定対象領域
8b…微小領域(ピクセル)

【特許請求の範囲】
【請求項1】
試料上の2次元領域内に設定された複数の微小領域に対しそれぞれ質量分析を実行することにより収集されたデータを処理する質量分析データ処理方法であって、
a)複数の微小領域毎に、その微小領域に対応したマススペクトルデータの強度情報を規格化する第1ステップと、
b)各微小領域において、規格化後のマススペクトルデータに基づいてエントロピーを計算する第2ステップと、
c)微小領域毎に求まったエントロピーの値に応じた表示色を与えることで各微小領域を色付けし、前記2次元領域に対応したカラー2次元画像を作成して表示する第3ステップと、
を有することを特徴とする質量分析データ処理方法
【請求項2】
試料上の2次元領域内に設定された複数の微小領域に対しそれぞれ質量分析を実行することにより収集されたデータを処理する質量分析データ処理装置において、
a)複数の微小領域毎に、その微小領域に対応したマススペクトルデータの強度情報を規格化する規格化処理手段と、
b)各微小領域において、規格化後のマススペクトルデータに基づいてエントロピーを計算するエントロピー演算手段と、
c)微小領域毎に求まったエントロピーの値に応じた表示色を与えることで各微小領域を色付けし、前記2次元領域に対応したカラー2次元画像を作成して表示画面上に表示する表示情報形成手段と、
を備えることを特徴とする質量分析データ処理装置。
【請求項3】
請求項2に記載の質量分析データ処理装置であって、
前記エントロピー演算手段は、マススペクトルの中の各質量電荷比の強度値の対数と強度値との積を質量電荷比範囲全体に亘って加算することによりエントロピーを算出することを特徴とする質量分析データ処理装置。
【請求項4】
請求項2又は3に記載の質量分析データ処理装置であって、
前記規格化処理手段は、マススペクトルデータの強度情報に対し質量電荷比に応じて重み付けした規格化を行うことを特徴とする質量分析データ処理装置。
【請求項5】
請求項2〜4のいずれかに記載の質量分析データ処理装置であって、
比較基準とする微小領域を設定する基準設定手段をさらに備え、
前記エントロピー演算手段は、前記基準設定手段により設定された比較基準の微小領域のエントロピーに対して微小領域毎の相対エントロピーを計算することを特徴とする質量分析データ処理装置。
【請求項6】
請求項2〜5のいずれかに記載の質量分析データ処理装置であって、
前記規格化処理手段による規格化の前に、2次元領域内で隣接する又は近接する複数の微小領域のマススペクトルデータを加算又は平均化するビニング処理を実行するビニング処理手段をさらに備えることを特徴とする質量分析データ処理装置。

【図1】
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【図2】
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【図3】
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【図4】
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【図5】
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【図6】
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【図7】
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【図8】
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