説明

質量分析方法及び装置

【課題】多重周回飛行時間型質量分析装置で得られた飛行時間スペクトルに基づいて、質量分解能が高いのみならずピーク強度の精度も高いマススペクトルを再構成する。
【解決手段】同一の被測定試料に対し、イオンの追い越しのない飛行時間スペクトルと高い時間分解能の追い越しのある飛行時間スペクトルとを取得する(S1、S2)。イオン出射時間に基づきtof値とm/z値との一対多の関係が分かるから、追い越し飛行時間スペクトル上のピーク強度とマススペクトル(未知)上のピーク強度との関係を表す係数行列Aを求める(S3)。ピーク強度がほぼ正確である非追い越し飛行時間スペクトルから求まるマススペクトルを制約とした平均自乗誤差最小化法により、係数行列Aに対する正則化一般逆行列を計算し(S4)、この行列を用いて各m/zにおけるピーク強度を計算する(S5)。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、試料由来のイオンを閉じた周回軌道に沿って繰り返し飛行させることでイオンを質量電荷比(m/z値)に応じて分離して検出する多重周回飛行時間型の質量分析装置、及び多重周回飛行時間型質量分析装置を用いた質量分析方法に関する。
【背景技術】
【0002】
一般に、飛行時間型質量分析装置(Time of Flight Mass Spectrometer、以下「TOFMS」と略す)では、一定のエネルギーを与えることで加速したイオンはそれぞれ質量電荷比に応じた飛行速度を持つ、という原理に基づき、そうしたイオンが一定距離を飛行するのに要する飛行時間を計測し、その飛行時間を質量電荷比に換算することにより質量分析を行う。したがって、質量分解能を向上させるためには飛行距離を長くすればよいが、直線的な飛行距離を延ばすには装置を大型化する必要がある。そこで、飛行距離の延伸と装置の小形化とを両立させるため、略円形状、略楕円形状、略8の字形状など様々な態様の閉軌道に沿ってイオンを繰り返し飛行させるようにした多重周回飛行時間型質量分析装置(Multi Turn TOFMS、以下「MT−TOFMS」と略す)が開発されている(例えば特許文献1、2など参照)。
【0003】
また、同様の目的で、上記のような周回軌道ではなく反射電場によりイオンを複数回反射させる往復軌道とすることで飛行距離を延ばすようにした、多重反射飛行時間型質量分析装置も開発されている。多重周回飛行時間型と多重反射飛行時間型とではイオン光学系が相違するものの、質量分解能を向上させるための基本的な原理は同じである。そこで、本明細書では、「多重周回飛行時間型」は「多重反射飛行時間型」を包含するものとする。
【0004】
上述のようにMT−TOFMSは高い質量分解能を達成することができるものの、イオンの飛行経路が閉軌道であることを原因とする欠点が存在する。即ち、周回数が増加するに伴い、低質量電荷比で速度の大きなイオンが高質量電荷比で速度の小さなイオンに追いつき、追い越してしまうという問題である。このように異なる質量電荷比のイオンの追い越しが生じると、取得された飛行時間スペクトル上では、観測されるピーク毎にそのピークに対応するイオンの周回数が異なる、即ち、飛行距離が異なる、という状態が起こる。こうなると、イオンの質量電荷比と飛行距離とを一意的に決定することができないため、飛行時間スペクトルを直接的にマススペクトルに換算することができなくなる。
【0005】
上記欠点のため、従来のMT−TOFMSでは、イオン源で生成された試料由来のイオンの中で上記のような追い越しの起こらない質量範囲に限定したイオンを選別し、選別したイオンを周回軌道に乗せて所定周回数だけ飛行させた後に検出する、という制御を行うのが一般的である。このような手法では、高質量分解能のマススペクトルを得ることはできるものの、そのマススペクトルの質量範囲はかなり限られたものとなる。これは、一度の分析で比較的広い質量範囲のマススペクトルを得られる、というTOFMSの利点に反する。
【0006】
そこで、飛行時間を質量電荷比に換算するために、飛行時間スペクトル上に現れるピークの周回数を推定する様々な手法が従来提案されている。例えば特許文献3には、同一試料に対し条件の相違する複数回の質量分析を実行して得られた結果を比較することで、飛行時間スペクトル上に現れるピークの周回数を推定する方法が提案されている。こうした手法は有効ではあるものの、データ処理が複雑になることは避けられない。また、特に試料に含まれる成分の数が多い場合に周回数の推定が困難である。
【0007】
特許文献4には、周回軌道を周回しているイオンを該軌道から出射させて検出器に向かわせるタイミングを変えた(つまり同一種のイオンの周回数が相違する)複数の飛行時間スペクトルを取得し、それら飛行時間スペクトルの多重相関関数を計算することによって単一周回数の飛行時間スペクトルを再構成する方法が提案されている。この方法では、複数個の飛行時間スペクトルデータに対し、周回軌道上の飛行時間がTであるイオンの信号強度G(T)を求めるために、次の(1)式が用いられる。
【数1】

ここで、Fj(j=1、2、…、r)は測定データから探した周回数Njのイオンの信号強度、yは飛行時間のずれ、ylはこのずれ時間の下限値、yuはずれ時間の上限値、Hは変数Fjの値により決まる関数である。関数Hの具体例として算術平均、最小値、相乗平均、調和平均などが挙げられているが、Fjが偶然大きな値を持った偽ピークを排除するためには、様々な大きさのFjの中で大きな値ではなく小さな値のほうがHに大きく反映されるような、関数Hの定義が望ましいとされている。
【0008】
上記特許文献4によれば、周回軌道からのイオンの出射タイミングによっては、周回軌道上を飛行しているイオンの一部が検出されない無効期間が生じることが指摘されている。しかしながら、特にそのための対策については提案されていない。この無効期間は、周回軌道からイオンを出射させるためのゲート電極が有限の長さを有し、周回しているイオンを出射させようとする時点でゲート電極を通過中であるイオンは適切な方向(つまり検出器により検出可能な方向)に出射されないために生じるものである。上述したように、大きな値ではなく小さな値のFjを重視して定義されたHに従った処理を行った場合、具体的には相乗平均や調和平均が採用された場合には、ピーク強度Fjの中に1つでも強度0のものが存在すれば再構成される飛行時間スペクトル中にそのピークは含まれなくなる。即ち、上記のような無効期間のために周回数の異なる複数回の質量分析の中で観測されなかったイオンについては、そのピークは再構成スペクトルには現れなくなってしまう。そのため、イオンの検出見逃しが発生し、試料中に含まれる筈の成分が含まれないとの誤判断が下される原因となり得る。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0009】
【特許文献1】特開2006−228435号公報
【特許文献2】特開2008−27683号公報
【特許文献3】特開2005−116343号公報
【特許文献4】特開2005−79049号公報
【特許文献5】国際公開第2010/052756号パンフレット
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0010】
上述した従来技術の問題に対し本願発明者は、特許文献5にて新規の質量分析方法を提案している。この方法は、多重周回飛行時間スペクトル上で検出されたイオン強度値を、イオン追い越しのない非周回モードで測定された飛行時間スペクトルを利用して、周回数が補正された各質量電荷比に分配することにより、マススペクトルとして再構成するものである。この方法では、周回軌道からのイオン出射タイミングを変えた多重周回飛行時間スペクトルからそれぞれ再構成した複数の再構成マススペクトルが得られるから、これらを同時に表示することができる。したがって、分析者はその複数の再構成マススペクトルを見比べることで、周回軌道からの出射タイミングが原因で正常に検出されなかったイオンについてもその存在を確認することができるという大きな利点がある。
【0011】
飛行するイオンの種類が比較的少ない場合には、上記の新規方法は優れているものの、イオンの種類が多くなると問題が生じる場合がある。詳しくは後述するが、本願発明者の検討によれば、イオンの種類が多く多重周回飛行時間スペクトル上で複数のイオン由来のピークが重なったときに、その重なったピークのイオン強度値の分配が適切に行われず、再構成マススペクトルの精度が落ちる場合があることが判明した。
【0012】
本発明は上記課題を解決するためになされたものであり、その目的とするところは、多重周回により得られる複数の飛行時間スペクトルを再構成する際に、周回軌道からの出射タイミングが原因で正常に検出されなかったイオンについてもその存在の確認を可能とすることで、成分の見逃し・見落としを防止することができ、特に多種のイオンが存在する複雑な飛行時間スペクトルに対しても、ピーク強度を正しく求め高精度のマススペクトルを得ることができる多重周回飛行時間型の質量分析装置及び質量分析方法を提供することである。
【課題を解決するための手段】
【0013】
上記課題を解決するために成された第1発明は、イオン源から出発した各種イオンを周回軌道に沿って複数回繰り返し飛行させた後に検出器に導入し、その検出信号に基づいてマススペクトルを取得する多重周回飛行時間型の質量分析装置を用いた質量分析方法であって、
a)周回軌道に沿ってイオンを多重周回させることなく又は多重周回させる場合でも異種のイオンの追いつき・追い越しが起こらないことが保証される周回数で以てイオンを飛行させる第1測定モードで被測定試料に対する質量分析を実行し、検出器により得られる検出信号に基づいて非追い越し飛行時間スペクトルを取得する第1測定モード実行ステップと、
b)前記周回軌道上でイオンの追い越しが生じるように多重周回させた後の所定の時点以降にイオンを周回軌道から離脱させて検出器に導入する第2測定モードで前記被測定試料に対する質量分析を実行し、検出器により得られる検出信号に基づいて追い越し飛行時間スペクトルを取得する第2測定モード実行ステップと、
c)第2測定モードの実行により取得された追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列と、目的のマススペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列に乗じることで、該追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列と等しくなる係数行列を求め、前記目的のマススペクトルを求めるために前記係数行列の逆行列を演算する演算処理ステップと、
を有し、前記演算処理ステップは、前記逆行列の正則化一般逆行列を用い、推定される目的のマススペクトルと、前記非追い越し飛行時間スペクトルで近似した真のマススペクトルとの自乗誤差を最小にするように一般逆行列を求めることを特徴としている。
【0014】
第1発明に係る質量分析方法では、具体的には、係数行列をAとしたときに次式で示す正則化一般行列を用い、該式中の正則化パラメータλをλ=σ(ノイズの標準偏差)、ペナルティ行列PをP=(X00T-1(ただし、X0は真のマススペクトル)とすることにより、推定される目的のマススペクトルと真のマススペクトルとの平均自乗誤差を最小にすることができる。
+=AT(AAT+λ2P)-1=AT (ATA+λ2P)-1T
【0015】
また上記課題を解決するために成された第2発明は、イオン源から出発した各種イオンを周回軌道に沿って複数回繰り返し飛行させた後に検出器に導入し、その検出信号に基づいてマススペクトルを取得する多重周回飛行時間型の質量分析装置を用いた質量分析方法であって、
a)前記周回軌道上でイオンの追い越しが生じるように多重周回させた後の所定の時点以降にイオンを周回軌道から離脱させて検出器に導入する測定モードによる質量分析を、周回軌道からのイオンの離脱のタイミングを変えて被測定試料に対して2回以上実行し、検出器により得られる検出信号に基づいて2以上の追い越し飛行時間スペクトルを取得する測定実行ステップと、
b)取得された2以上の追い越し飛行時間スペクトルの中の1つと目的のマススペクトルとの関係を、目的のマススペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列に、飛行時間における拡がりを与える点拡がり関数を導入した係数行列を乗じて該追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列を求める関係に整理し、前記取得された2以上の追い越し飛行時間スペクトルに対する前記関係を連立させた係数行列を求め、前記目的のマススペクトルを求めるために該係数行列の逆行列を正則化一般逆行列を用いて演算する演算処理ステップと、
を有することを特徴としている。
【0016】
多重周回飛行時間型質量分析装置では、周回軌道からのイオンの出射時間が決まると、飛行時間と質量電荷比との一対多の関係が理論的に求まる。即ち、或る飛行時間に対応してどのような質量電荷比のイオンが現れる(ただし、周回数は質量電荷比によって異なる)可能性があるのかが分かるから、飛行時間スペクトル上の或る飛行時間におけるピーク強度は、マススペクトル上の複数の質量電荷比におけるピーク強度の線形結合で表すことができる。このため、追い越し飛行時間スペクトル上の各飛行時間におけるピーク強度を要素とする行列Yと目的のマススペクトル上の各質量電荷比におけるピーク強度を要素とする行列Xとは、係数行列をAとしてY=AXで表すことができ、Aは値が1である幾つかの要素を含むスパースな行列である。マススペクトルを求めることは行列Xの要素を求めることであるから、係数行列Aの逆行列A-1を求めれば観測した飛行時間スペクトルからマススペクトルが得られる。
【0017】
上記のような逆行列を求めるために正則化一般逆行列を用いるのが有効であるが、第1発明においては、特に正則化一般逆行列のペナルティ行列に非追い越し飛行時間スペクトルに基づく制約を付ける。具体的には、逆行列の正則化一般逆行列を用い、推定される目的のマススペクトルと非追い越し飛行時間マススペクトルで近似した真のマススペクトルとの自乗誤差を最小にするように一般逆行列を求める。これにより、目的のマススペクトルを正確に推定することができる。
【0018】
一方、或る1つの質量電荷比のイオンは飛行に伴い時間的に拡がって複数の飛行時間で観測されることから、第2発明では、上記拡がりを与える点拡がり関数を係数行列に導入する。そして、周回数の異なる2以上の多重周回飛行時間スペクトルを連立行列式とし、これを解くことで一般化逆行列を求めてマススペクトルを算出する。これにより、同種の(同一質量電荷の)イオンを異なる条件の下で測定した複数の飛行時間スペクトル上のピークに対し、矛盾のないマススペクトル上のピークを得ることができ、正確なマススペクトルの算出が可能である。ただし、通常、連立行列式の係数行列は巨大な行列になるため、ハードウエアの制約などから一般化逆行列を計算するのが困難である場合が多い。そこで、これに代わる解法としてベイズ的逐次近似解法を利用することができる。
【0019】
即ち、上記課題を解決するために成された第3発明は、イオン源から出発した各種イオンを周回軌道に沿って複数回繰り返し飛行させた後に検出器に導入し、その検出信号に基づいてマススペクトルを取得する多重周回飛行時間型の質量分析装置を用いた質量分析方法であって、
a)前記周回軌道上でイオンの追い越しが生じるように多重周回させた後の所定の時点以降にイオンを周回軌道から離脱させて検出器に導入する測定モードによる質量分析を、周回軌道からのイオンの離脱のタイミングを変えて被測定試料に対して2回以上実行し、検出器により得られる検出信号に基づいて2以上の追い越し飛行時間スペクトルを取得する測定実行ステップと、
b)取得された2以上の追い越し飛行時間スペクトルの中の1つと目的のマススペクトルとの関係を、目的のマススペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列に、飛行時間における拡がりを与える点拡がり関数を導入した係数行列を乗じて該追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列を求める関係に整理し、前記取得された2以上の追い越し飛行時間スペクトルに対する前記関係を連立させた係数行列を求め、該係数行列の各要素と追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度とに基づき、点拡がり関数に対するベイズ的逐次近似解法を用いて目的のマススペクトル上の各質量電荷比におけるピーク強度を算出する演算処理ステップと、
を有することを特徴としている。
【0020】
点拡がり関数に対するベイズ的逐次近似解法は、一般にイメージプロセッシングなどに用いられている手法であるが、これを利用して目的のマススペクトル上の各質量電荷比におけるピーク強度を算出することができる。具体的には、マススペクトル上でm/z=iに真のピークが生じる確率をf(i)、m/z=iのピークが飛行時間スペクトル上の時間tof=kで観測される点拡がり関数をh(k|i)としたとき、次の漸化式が得られる。
r+1(i)=fr(i)Σk{h(k|i)f(i)・h(k)/{Σjr(j)・h(k|j)}
r→∞のときにfr(i)→f(i)に収束するとすれば、上記式でr→∞として求めたfr(i)が求めるf(i)、つまり目的の質量電荷比におけるピーク強度となる。もちろん、実用的にはr→∞にする必要はなく、rを適宜な値とした段階で近似を打ち切ることができる。
【0021】
また上記課題を解決するために成された第4発明は第1発明に係る質量分析方法を実施するための装置であって、イオン源から出発した各種イオンを周回軌道に沿って複数回繰り返し飛行させた後に検出器に導入し、その検出信号に基づいてマススペクトルを取得する多重周回飛行時間型の質量分析装置において、
a)周回軌道に沿ってイオンを多重周回させることなく又は多重周回させる場合でも異種のイオンの追いつき・追い越しが起こらないことが保証される周回数で以てイオンを飛行させる第1測定モードで被測定試料に対する質量分析を実行し、検出器により得られる検出信号に基づいて非追い越し飛行時間スペクトルを取得する第1測定モード実行手段と、
b)前記周回軌道上でイオンの追い越しが生じるように多重周回させた後の所定の時点以降にイオンを周回軌道から離脱させて検出器に導入する第2測定モードで前記被測定試料に対する質量分析を実行し、検出器により得られる検出信号に基づいて追い越し飛行時間スペクトルを取得する第2測定モード実行手段と、
c)第2測定モードの実行により取得された追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列と、目的のマススペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列に乗じることで、該追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列と等しくなる係数行列を求め、前記目的のマススペクトルを求めるために前記係数行列の逆行列を演算する手段であって、前記逆行列の正則化一般逆行列を用い、推定される目的のマススペクトルと前記非追い越し飛行時間スペクトルで近似した真のマススペクトルとの自乗誤差を最小にするように一般逆行列を求める演算処理手段と、
を備えることを特徴としている。
【0022】
また上記課題を解決するために成された第5発明は第2発明に係る質量分析方法を実施するための装置であって、イオン源から出発した各種イオンを周回軌道に沿って複数回繰り返し飛行させた後に検出器に導入し、その検出信号に基づいてマススペクトルを取得する多重周回飛行時間型の質量分析装置において、
a)前記周回軌道上でイオンの追い越しが生じるように多重周回させた後の所定の時点以降にイオンを周回軌道から離脱させて検出器に導入する測定モードによる質量分析を、周回軌道からのイオンの離脱のタイミングを変えて被測定試料に対して2回以上実行し、検出器により得られる検出信号に基づいて2以上の追い越し飛行時間スペクトルを取得する測定実行手段と、
b)取得された2以上の追い越し飛行時間スペクトルの中の1つと目的のマススペクトルとの関係を、目的のマススペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列に、飛行時間における拡がりを与える点拡がり関数を導入した係数行列を乗じて該追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列を求める関係に整理し、前記取得された2以上の追い越し飛行時間スペクトルに対する前記関係を連立させた係数行列を求め、前記目的のマススペクトルを求めるために該係数行列の逆行列を正則化一般逆行列を用いて演算する演算処理手段と、
を備えることを特徴としている。
【0023】
また上記課題を解決するために成された第6発明は第3発明に係る質量分析方法を実施するための装置であって、イオン源から出発した各種イオンを周回軌道に沿って複数回繰り返し飛行させた後に検出器に導入し、その検出信号に基づいてマススペクトルを取得する多重周回飛行時間型の質量分析装置において、
a)前記周回軌道上でイオンの追い越しが生じるように多重周回させた後の所定の時点以降にイオンを周回軌道から離脱させて検出器に導入する測定モードによる質量分析を、周回軌道からのイオンの離脱のタイミングを変えて被測定試料に対して2回以上実行し、検出器により得られる検出信号に基づいて2以上の追い越し飛行時間スペクトルを取得する測定実行手段と、
b)取得された2以上の追い越し飛行時間スペクトルの中の1つと目的のマススペクトルとの関係を、目的のマススペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列に、飛行時間における拡がりを与える点拡がり関数を導入した係数行列を乗じて該追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列を求める関係に整理し、前記取得された2以上の追い越し飛行時間スペクトルに対する前記関係を連立させた係数行列を求め、該係数行列の各要素と追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度とに基づき、点拡がり関数に対するベイズ的逐次近似解法を用いて目的のマススペクトル上の各質量電荷比におけるピーク強度を算出する演算処理手段と、
を備えることを特徴としている。
【発明の効果】
【0024】
第1乃至第3発明に係る質量分析方法及び第4乃至第6発明に係る質量分析装置によれば、周回軌道に沿ってイオンを多数回繰り返し飛行させることで長い飛行距離を確保して得られる飛行時間スペクトルに基づいて、高い質量分解能及び質量精度であって、しかもピーク強度も正確なマススペクトルを求めることができる。また、被測定試料に含まれる成分の数が多い場合や取得される多重周回飛行時間スペクトルの数が少ないような場合であっても、正確で高い質量分解能のマススペクトルを得ることができる。
【図面の簡単な説明】
【0025】
【図1】本発明の一実施例によるMT−TOFMSの概略構成図。
【図2】本実施例のMT−TOFMSにおける分析手順を示すフローチャート。
【図3】係数行列の構造の概念図。
【図4】自乗誤差最小法により推定されたマススペクトルを示す図。
【図5】点拡がり関数を導入した場合の係数行列の構造の概念図。
【図6】ベイズ的逐次近似法により推定されたマススペクトルを示す図。
【図7】周回数1の飛行時間スペクトルをシミュレートした結果を示す図。
【図8】図7の飛行時間スペクトルの横軸をm/zに変換して作成したマススペクトルを示す図。
【図9】図7に示した飛行時間スペクトルにおける最大ピーク近辺の拡大図(a)及び図8に示したマススペクトルにおける最大ピーク近辺の拡大図(b)。
【図10】m/z150であるイオンが100周回した後のタイミングで周回軌道からイオンが出射される場合をシミュレートした飛行時間スペクトルを示す図。
【図11】図10に示した条件におけるm/zと周回数との関係を示す図。
【図12】図10に示した条件におけるm/zとtof値との関係を示す図。
【図13】適切に変換が行われた場合のマススペクトルを示す図。
【図14】図13に示したマススペクトルにおける最大ピーク付近の拡大図。
【図15】従来方法の一つを用いて図10に示した飛行時間スペクトルを再構成して得られたマススペクトルを示す図。
【図16】m/z179とm/z138の2種のイオンのピークが重なったtof値のピークの強度分配を示す図。
【発明を実施するための形態】
【0026】
本発明に係る質量分析方法を適用する質量分析装置の一実施例を、添付図面を参照して説明する。図1は本実施例のMT−TOFMSの概略構成図である。
【0027】
イオン源1では試料分子がイオン化され、生成された各種イオンは所定のエネルギーを付与されて飛行を開始する。なお、イオン源1は例えば3次元四重極型イオントラップなどのように、外部で生成された各種イオンを一時的に保持し、それらイオンに所定のタイミングで一斉にエネルギーを付与して飛行を開始させるものでもよい。
【0028】
イオン源1を出発点として飛行を開始したイオンは、ゲート電極2により形成される偏向電場を介し周回軌道5に導入される。この周回軌道5は、複数のトロイダル扇形電極4によりそれぞれ生成される電場の作用で形成されるものである。なお、周回軌道5の形状はこれに限られるものではなく、8の字形状など、様々な形状が実現可能である。また、完全に閉じた周回軌道でなくても、直線状や曲線状の往復軌道や、徐々に位置がずれてゆく螺旋軌道などでもよい。
【0029】
イオンは周回軌道5を1周又は複数周周回した後にゲート電極2により形成される偏向電場を介して周回軌道5から離脱(出射)され、外側に設けられた検出器8に到達して検出される。この例では、周回軌道5への入射用と周回軌道5から出射用のゲート電極2とは共通になっているが、これは別であってもよいし、扇形電極4の一部がゲート電極2の代わりに使用される構成とすることもできる。
【0030】
検出器8による検出信号はデータ処理部9に入力され、ここで、イオンがイオン源1を出射した時点から最終的に検出器8に到達するまでの飛行時間が計測され、飛行時間スペクトルが作成される。さらに後述するようなデータ解析処理が実行されることで、飛行時間スペクトルからマススペクトルが作成される。入出射電圧発生部11はゲート電極2に所定のタイミングで、周回軌道5へイオンを入射するための偏向電圧、及び周回軌道5からイオンを出射するための偏向電圧を印加するものである。周回飛行電圧発生部12は、複数の扇形電極4にそれぞれ所定の電圧を印加することで扇形電場を形成させるものである。これら電圧発生部11、12やイオン源1はいずれも制御部10の制御の下に動作する。また制御部10には、ユーザが分析のための各種パラメータを入力する入力部13、及び、マススペクトル等の分析結果を表示する表示部14が接続されている。
【0031】
図1において、入射軌道6はイオン源1から周回軌道5への入射点までのイオンの飛行経路であり、その距離がLinである。出射軌道7は周回軌道5からのイオン出射点から検出器8までのイオンの飛行経路であり、その距離はLoutである。また、周回軌道5の1周の飛行距離、つまり周回長はLturnである。
【0032】
本実施例のMT−TOFMSにおいて、イオン源1から出射された各種イオンは、入射軌道6を通り、入出射電圧発生部11により制御されるゲート電極2を介して周回軌道5に導入され、周回飛行電圧発生部12により制御される扇形電極4により形成される扇形電場に従って周回軌道5を1乃至複数回周回飛行する。イオン源1からの各種イオンの出射はほぼ同時であるが、質量電荷比が小さなイオンほど飛行速度が速いため、周回軌道5に沿ってイオンが周回を重ねるに従い、異なる質量電荷比のイオンの間隔は開いてゆく。周回軌道5上をイオンが周回している状態で、入出射電圧発生部11からゲート電極2への印加電圧がイオン出射用電圧に切り替えられると、ゲート電極2へ到達する順にイオンは周回軌道5から離れ、出射軌道7を通って検出器8に到達する。
【0033】
周回軌道5は閉じているから、周回軌道5に沿ってイオンが周回を重ねてゆくと、或る時点で、導入されたイオンの中で飛行速度の最も速い低質量電荷比のイオンが飛行速度の最も遅い高質量電荷比のイオンに追いつき、追い越す。その時点までは、速度最小のイオンがゲート電極2を通過してから速度最大のイオンがゲート電極2に達するまでの間にゲート電極2への印加電圧を出射用電圧に切り替えることで、質量電荷比の小さなイオンから順に周回軌道5を離脱させて検出器8に到達させることができる。このようなことが保証される測定モードが第1測定モードであり、第1測定モードの下で得られた飛行時間スペクトルを非追い越し飛行時間スペクトルという。この場合、飛行時間スペクトル上に現れる全てのピークに対応したイオンの周回数は同一である。
【0034】
これに対し、周回軌道5上で1種類のイオンでも追い越しが発生すると、その時点以降、検出器8に到達するイオンの順序は質量電荷比の小さい順とはならない。この測定モードを第2測定モードといい、第2測定モードの下で得られた飛行時間スペクトルを追い越し飛行時間スペクトルという。この場合、飛行時間スペクトル上に現れるピークに対応したイオンの周回数は同一とはならず、周回遅れになったイオンの周回数は相対的に少ない。但し、質量分解能は飛行距離、つまりは周回数に依存するから、周回数が多いほど質量分解能は高まる。したがって、正確な質量電荷比を算出するには、非追い越し飛行時間スペクトルではなく追い越し飛行時間スペクトルからマススペクトルを求めることが必要である。そこで、本実施例のMT−TOFMSではそのために特徴的な測定及びデータ処理を実行する。それについて、図2〜図6を参照し具体例を挙げつつ説明する。
【0035】
本発明に係る質量分析方法を説明する前に、上述した特許文献5で提案した質量分析方法において、導出されるマススペクトルの精度が低下されるケースについて説明する。
MT−TOFMSにおける飛行時間tofと質量電荷比m/zとの関係は、次の(2)式又は(3)式で表すことができる。また、このとき周回数nturnは(4)式で計算することができる。
【数2】

ここで、uは原子質量[kg]、eは電気素量[C]、V0はイオン加速電圧[V]、Lin、Lout、Lturnは図1中の各距離[m]、Tgは周回軌道5上にあるイオンを離脱させるためにゲート電極2を開放する時間[sec]、を表す。
【0036】
上記(2)式でnturn=1として、周回数1における飛行時間スペクトルをシミュレートした結果を図7に示す。また図8は図7の飛行時間スペクトルの横軸をm/zに変換して作成したマススペクトルである。図7に示した飛行時間スペクトルではイオンの追い越しはない。したがって、図8に示したマススペクトルのピーク強度は正確であるものの質量分解能は低い。図9(a)は図7に示した飛行時間スペクトルにおいて最大ピークであるtof=30.6989[μsec]近辺の拡大図、図9(b)は図8に示したマススペクトルにおける最大ピークであるm/z200近辺の拡大図である。図9(b)から、ピークの半値幅が拡がっていて質量分解能が低いことが分かる。
【0037】
m/z150であるイオンが100周回した後のタイミングでゲート電極2が開放されて周回軌道5からイオンが出射される場合をシミュレートした飛行時間スペクトルを図10に示す。この飛行時間スペクトルの縦軸は図7と同じ相対強度であり、本来は100が最大であるにも拘わらず、強度が100を超えているピークが存在する。このことから、この飛行時間スペクトルでは、m/zが異なる複数のイオン由来のピークが重なって(同時に)観測されていることが推測できる。
【0038】
このとき、上記(4)式を用いてイオンの周回数を計算すると、図11に示すように、m/z100〜200の質量範囲のイオンは86周回〜126周回していることが分かる。また、上記(2)式、(3)式により質量電荷比m/zと飛行時間tofとの関係を求めると、図12に示すようになる。即ち、m/z値に応じてtof値が決まる一方、一つのtof値に対して離散的な複数のm/z値が対応していることが分かる。図11に示したようにm/zが異なるイオン由来のピークが重なった状態である飛行時間スペクトルから、ピークが重なったイオンを分離してそれぞれ周回数を適切に求めることができれば、図13に示すようなマススペクトルが得られる。図12及び図13における最大ピーク付近の拡大図を図14(a)及び(b)に示す。図14(b)に示すように、この場合にはマススペクトルにおけるピークの半値幅が非常に狭くなっており、質量分解能が高いことが分かる。
【0039】
特許文献5に提案の方法を用いて、図10に示した多重周回飛行時間スペクトルを再構成して得られたマススペクトルを図15に示す。このマススペクトルを図13に示したマススペクトルと比較すれば分かるように、消滅してしまうピークはないもののピーク強度は正しく推定されていない。この原因は、飛行時間スペクトル上で異なるm/zのイオンが重なっているピークの強度が、マススペクトル上ではその重なっているイオンだけでなく誤って別のイオンに分配されてしまう場合があるためである。一例として、m/z179とm/z138の2種のイオンのピークが重なったtof値=1049.0[μsec]のピークの強度分配を図16に示す。図16中のint.が処理の結果、分配される強度である。この図で分かるように、このピークの強度は本来m/z179とm/z138のみに割り振られるべきであるが、実際にはそれ以外に、m/z148.9712、m/z191.0519など別の質量電荷比のイオンにも割り振られてしまっている。被測定試料に含まれるイオンの種類が多くなるほど、こうした不適切な強度分配が生じる可能性が高くなり、その結果、マススペクトルの強度の精度が下がってしまう。
【0040】
これに対し、本発明に係る質量分析方法で採用したデータ処理では、被測定試料に含まれるイオンの種類が多い場合であっても、ピークの相対強度を高い精度で推定することができる。図2は本実施例のMT−TOFMSにおける特徴的な分析手順を示すフローチャートである。
【0041】
未知の被測定試料に対する測定を実行する際には、制御部10による制御の下で、第1測定モード、つまり異種のイオンの追い越しが発生しないことが保証されている条件の下で被測定試料に対する質量分析を実行し、非追い越し飛行時間スペクトルを取得する(ステップS1)。非追い越し飛行時間スペクトルでは、異種のイオンの追いつきや追い越しは生じていないため、飛行速度の大きい順、即ち質量電荷比の小さい順にイオンのピークが並ぶ。
【0042】
被測定試料に含まれる成分が全く未知の場合には、イオン源1から出発した各種イオンを周回軌道5に沿って全く周回させずに検出器8に導入すればよい。図1の構成では、ゲート電極2に偏向電圧を印加しないことで、各種イオンをそのまま直進通過させ、入射軌道6→出射軌道7に直接導くことにより、周回軌道5をパスすればよい。また、被測定試料に含まれる成分が推測可能である場合で、各種イオンを周回軌道に乗せて1乃至少数回周回させてもイオンの追いつき、追い越しが発生しないことが確実である場合には、そうした周回を許可してもよい。
【0043】
次に、同じ被測定試料に対し、第2の測定モード、つまり、各種イオンが周回軌道5を多数回周回した後にゲート電極2を経て検出器8に向かうようにゲート電極2へ印加する電圧を制御して質量分析を実行し、追い越し飛行時間スペクトルを取得する(ステップS2)。この追い越し飛行時間スペクトルでは、異種のイオンの追い越しが生じているために、質量電荷比の小さい順にピークは並ばず、各ピークの周回数も同一ではない。
【0044】
いま、上記シミュレーションと同様に、追い越し飛行時間スペクトルが図10に示すように得られた場合を考える。前述のように、この飛行時間スペクトル上でm/z100〜200であるイオンの周回数は86回〜122回であり、このとき、質量電荷比m/zと周回数nturnとの関係は図11に示すようになる。したがって、図10に示したように観測される飛行時間スペクトル上の各ピークは、異なる周回数のイオンに由来するピークが加算されたものと考えることができる。図12に示したtof値とm/z値との関係に基づいて一例を挙げると、tof=1049.0[μsec]のイオン強度y(1049.0)は、m/zのイオン強度をx(m/z)として、次の(5)式で表される。
y(1049.0)=x(179.0000)+x(138.0001)+x(148.9712)+x(191.0519)+… …(5)
同様に、全てのtof値におけるピーク強度y(長さmのベクトル:mはtof値におけるサンプル点数)は、m/zでのピーク強度x(長さnのベクトル:nはm/zにおけるサンプル点数)のいくつかの加算により表される。したがって、次の(6)式による行列式が成り立つ。ここで、Xはx(m/z)を要素とする行列、Yはy(tof)を要素とする行列である。
Y=AX …(6)
Aは係数行列であり、値が1である要素をいくつか含むスパース(疎)な行列である。この係数行列Aの構造を概念的に示したのが図3である。係数行列Aの行の数は測定したtofのサンプル数、列の数は換算後のマススペクトル上のm/zのサンプル数で、図3中の塗り潰し部分が値が1である要素を表している。データ処理部9では、追い越し飛行時間スペクトルを構成するスペクトルデータに基づいて、係数行列Aを算出する(ステップS3)。
【0045】
(6)式を変形すれば次の(7)式となる。即ち、飛行時間スペクトル上で観測されるピーク強度y(tof)に係数行列Aの逆行列A-1を乗じれば、目的とする質量電荷比m/zにおけるピーク強度x(m/z)を求めることができる。
X=A-1Y …(7)
したがって、飛行時間スペクトルからマススペクトルを求める作業は、係数行列Aから逆行列A-1を計算する作業に帰着される。一般に、或る逆行列を求める解法にはいくつかの方法がある。
具体的には、上記(7)式における逆行列A-1を求めるために、次の(8)式に示すムーア・ペンローズ(Moore-Penrose)の一般逆行列(擬似逆行列)A+を利用して、Xのノルムを最小とする制約をつけた最小ノルム解を計算する方法がある。
+=AT (AAT) -1 …(8)
より一般的には、次の(9)式に示す正則化一般逆行列を用い、最小ノルム制約と同時に最小自乗制約を付けることができる。ここで、λは正則化パラメータ、Pはペナルティ行列である。
+=AT(AAT+λ2P)-1=AT (ATA+λ2P)-1T …(9)
このときの評価関数は次の(10)式となる。
S(x)=|y−Ax|2+λ2TPx …(10)
上記(8)式は(9)式においてλ=0とした特異なケースである。
【0046】
この実施例では平均自乗誤差最小化法のアルゴリズムにより正則化一般逆行列を算出する。即ち、(9)及び(10)式において、λ=σ(ノイズの標準偏差)、P=<x00T>−1(=Rxx−1とおく)とすると、推定マススペクトルxと真のマススペクトルx0との平均自乗誤差を最小にすることができる。このときの逆行列と評価関数は次式の通りである。
+=AT(AAT+σ2xx-1-1=(RxxTA+σ2I)-1xxT …(11)
S(x)= <(x0−x)T(x0−x)> …(12)
xxつまり真のマススペクトルx0は本来未知であるが、図8に示したような非追い越し飛行時間スペクトルから求まるマススペクトルは質量分解能は低いものの、各ピークの相対強度はほぼ真のマススペクトルを反映していると考えることができる。そこで、ここでは、ステップS1で得られた非追い越し飛行時間スペクトルから求まるマススペクトルで真のマススペクトルx0を近似する。これにより、(11),(12)式に基づいて、ステップS3で求めた係数行列Aの逆行列を得ることができる(ステップS4)。
【0047】
データ処理部9では、逆行列が求まったならば、(7)式に基づいて各質量電荷比におけるピーク強度を計算し(ステップS5)、マススペクトルを作成して表示部14に表示する(ステップS6)。
【0048】
図10に示した追い越し飛行時間スペクトルに対し、(11)式に基づいてマススペクトルを推定した結果を図4に示す。ただし、本例では、演算処理のためのコンピュータのメモリの制約によりRxxを計算することができなかったため、図10に示した飛行時間スペクトルからピークをピッキングし、それらのピークのみに対するマススペクトル上のピークを推定した。図4に示したマススペクトル上のピークは、図13に示した正しい推定マススペクトルと比べて、全て一様に強度が小さくなっているものの、その相対強度は正しく求められていることが分かる。実際にマススペクトルを表示する際には、縦軸を相対強度で表示することが一般的であるため、上記の点は実用上問題とはならない。
以上のように、平均自乗誤差最小化法を用いたデータ処理によれば、非追い越し飛行時間スペクトルから求めたマススペクトルと同様のピーク強度を有し、追い越し飛行時間スペクトルで達成される高い時間分解能を活かして高い質量分解能のマススペクトルを作成することができる。
【0049】
次に、本発明に係る別の実施例に基づく質量分析方法を説明する。この方法では、第1測定モードによる非追い越し飛行時間スペクトルを取得する代わりに、同種のイオンの周回数が異なるように周回軌道5からのイオンの出射タイミング(ゲート電極2を開放する時間)を変えた、2以上の追い越し飛行時間スペクトルを取得する。この場合、2以上の追い越し飛行時間スペクトルを構成するデータから係数行列を算出するが、その際に、点拡がり関数(Point Spread Function)を導入する。
即ち、或る一つのm/zのイオンは飛行中に拡がって、幾つかのtof値で観測されることになる。このイオンの拡がりは点拡がり関数に従い、ここでは、点拡がり関数は標準偏差を質量分解能で表現するガウス関数であると捉える。この場合、飛行時間スペクトル上の或るtof値におけるピークの強度y(tof)は、近傍の点からの拡がりが重なったものである。そこで、点拡がり関数をh(u)として、上記(5)式を以下の(13)式のように変形する。
y(1049.0)=Σh(u)×(179.0000−u)+Σh(u)×(138.0001−u)+Σh(u)×(148.9712−u)+Σh(u)×(191.0519−u)+… …(13)
したがって、点拡がり関数を導入した係数行列Aの要素は1だけではなく、h(u)の和が1となる確率密度の値を含んでいる。この場合の係数行列Aの構造の概念を図5に示す。ここで、図5中の塗り潰しの濃淡は要素の値の大小を表している。
【0050】
また、1つの追い越し飛行時間スペクトルと1つの(唯一の)マススペクトルとの関係を表す式は追い越し飛行時間スペクトルと同数だけできるから、それらを連立方程式として考える。例えば、いま測定により得られた追い越し飛行時間スペクトルが2つであってそれらをY1、Y2とし、それぞれの係数行列をA1、A2とすると、行列式(14)により、周回数を補正したマススペクトルXを求めることができる。
【数3】

以上より、イオンが多重周回して測定された追い越し飛行時間スペクトルから、周回数の相違により生じる飛行距離の相違を補正しマススペクトルを求める問題は、(14)式においてYからX(又はy(tof)からx(m/z))を求める逆問題と捉えることができる。これは(6)式の関係と同じである。この場合、係数行列は正方行列ではないので、(9)式に示す正則化一般逆行列を用いるのが一般的であり、これを計算することが可能であればマススペクトルを得ることができる。しかしながら、一般には、図5に示したように要素が複雑で巨大な行列から正則化一般逆行列を求めることはハードウエアの制約から困難である。例えば、図10に示した飛行時間スペクトルをYとする場合の係数行列Aを計算すると、238263行194014列の巨大な行列となり、汎用のコンピュータではメモリの制約から逆行列を計算することはできない。
【0051】
そこで、ここでは点拡がり関数を導入した係数行列に対する逆行列を計算するために、点拡がり関数に対するベイズ的逐次近似解法を利用する。即ち、m/z=iに真のピークが生じる確率をf(i) 、m/z=iで生じたピークがtof=kで観測される確率をh(k|i) 、tof=kで観測されたピークが実はm/z=iで起こった条件付確率をF(i|k)とすると、周知のベイズの定理より(15)式が成り立つ。
F(i|k)=f(i)・h(k|i)/{Σjf(j)・h(k|j)} …(15)
また、元のピークf(i)は、
f(i)=ΣkF(i|k)・h(k) …(16)
である。(15)式を(16)式に代入すると、
f(i)=Σk{h(k|i)f(i)・h(k)/{Σjf(j)・h(k|j)} …(17)
となる。(17)式の右辺のf(i)をfr(i)、左辺のf(i)をfr+1(i) とすると、次の漸化式(18)が得られる。
r+1(i)=fr(i)Σk{h(k|i)f(i)・h(k)/{Σjr(j)・h(k|j)} …(18)
【0052】
このfr(i)がr→∞のときにfr(i)→f(i)に収束するとすると、(18)式でr→∞として求めたfr(i)がf(i)になると考えることができる。ただし、初期値としてr=0ではf0(i)=1とする。ここでは、(17)式中のh(k|i)をm/z=iのピークがtof=kで観測される点拡がり関数(ガウス関数)、h(k)をtof=kで観測されたピーク強度として、rを順に大きくしながらm/z=iにおけるピーク強度f(i)を収束させる。実際には、rの数、つまり繰り返し計算回数が所定値になった段階でそのm/z=iに対する計算を打ち切っても十分な精度を確保することができる。
【0053】
以上説明したベイズ的逐次近似解法で、図7と図10に示した飛行時間スペクトルの周回数補正を行った結果であるマススペクトルを図6に示す。図6のマススペクトル上のピーク強度はピーク面積として求められるので、図13に示したマススペクトルとは異なるが、相対強度は正しく求められているので実用上問題ない。
【0054】
このベイズ的逐次近似解法では上記の平均自乗誤差最小化法とは異なり、質量分解能が低い非追い越し飛行時間スペクトルを必要とせず、質量分解能が相対的に高い追い越し飛行時間スペクトルのみからマススペクトルを求めることができる。このため、処理に供する飛行時間スペクトルの数が少ない場合でも、例えば上記例のように2つであっても、質量分解能が高いマススペクトルを求めることができる。
【0055】
なお、上記実施例は本発明の一例であり、本発明の趣旨の範囲で適宜変形、修正、追加を行っても本願請求の範囲に包含されることは明らかである。
【符号の説明】
【0056】
1…イオン源
2…ゲート電極
4…トロイダル扇形電極
5…周回軌道
6…入射軌道
7…出射軌道
8…検出器
9…データ処理部
10…制御部
11…入出射電圧発生部
12…周回飛行電圧発生部
13…入力部
14…表示部

【特許請求の範囲】
【請求項1】
イオン源から出発した各種イオンを周回軌道に沿って複数回繰り返し飛行させた後に検出器に導入し、その検出信号に基づいてマススペクトルを取得する多重周回飛行時間型の質量分析装置を用いた質量分析方法であって、
a)周回軌道に沿ってイオンを多重周回させることなく又は多重周回させる場合でも異種のイオンの追いつき・追い越しが起こらないことが保証される周回数で以てイオンを飛行させる第1測定モードで被測定試料に対する質量分析を実行し、検出器により得られる検出信号に基づいて非追い越し飛行時間スペクトルを取得する第1測定モード実行ステップと、
b)前記周回軌道上でイオンの追い越しが生じるように多重周回させた後の所定の時点以降にイオンを周回軌道から離脱させて検出器に導入する第2測定モードで前記被測定試料に対する質量分析を実行し、検出器により得られる検出信号に基づいて追い越し飛行時間スペクトルを取得する第2測定モード実行ステップと、
c)第2測定モードの実行により取得された追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列と、目的のマススペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列に乗じることで、該追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列と等しくなる係数行列を求め、前記目的のマススペクトルを求めるために前記係数行列の逆行列を演算する演算処理ステップと、
を有し、前記演算処理ステップは、前記逆行列の正則化一般逆行列を用い、推定される目的のマススペクトルと、前記非追い越し飛行時間スペクトルで近似した真のマススペクトルとの自乗誤差を最小にするように一般逆行列を求めることを特徴とする質量分析方法。
【請求項2】
請求項1に記載の質量分析方法であって、
係数行列をAとしたときに次式で示す正則化一般行列を用い、該式中の正則化パラメータλをλ=σ(ノイズの標準偏差)、ペナルティ行列PをP=(X00T-1(ただし、X0は真のマススペクトル)とすることにより、推定される目的のマススペクトルと真のマススペクトルとの平均自乗誤差を最小にするようにしたことを特徴とする質量分析方法。
+=AT(AAT+λ2P)-1=AT (ATA+λ2P)-1T
【請求項3】
イオン源から出発した各種イオンを周回軌道に沿って複数回繰り返し飛行させた後に検出器に導入し、その検出信号に基づいてマススペクトルを取得する多重周回飛行時間型の質量分析装置を用いた質量分析方法であって、
a)前記周回軌道上でイオンの追い越しが生じるように多重周回させた後の所定の時点以降にイオンを周回軌道から離脱させて検出器に導入する測定モードによる質量分析を、周回軌道からのイオンの離脱のタイミングを変えて被測定試料に対して2回以上実行し、検出器により得られる検出信号に基づいて2以上の追い越し飛行時間スペクトルを取得する測定実行ステップと、
b)取得された2以上の追い越し飛行時間スペクトルの中の1つと目的のマススペクトルとの関係を、目的のマススペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列に、飛行時間における拡がりを与える点拡がり関数を導入した係数行列を乗じて該追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列を求める関係に整理し、前記取得された2以上の追い越し飛行時間スペクトルに対する前記関係を連立させた係数行列を求め、前記目的のマススペクトルを求めるために該係数行列の逆行列を正則化一般逆行列を用いて演算する演算処理ステップと、
を有することを特徴とする質量分析方法。
【請求項4】
イオン源から出発した各種イオンを周回軌道に沿って複数回繰り返し飛行させた後に検出器に導入し、その検出信号に基づいてマススペクトルを取得する多重周回飛行時間型の質量分析装置を用いた質量分析方法であって、
a)前記周回軌道上でイオンの追い越しが生じるように多重周回させた後の所定の時点以降にイオンを周回軌道から離脱させて検出器に導入する測定モードによる質量分析を、周回軌道からのイオンの離脱のタイミングを変えて被測定試料に対して2回以上実行し、検出器により得られる検出信号に基づいて2以上の追い越し飛行時間スペクトルを取得する測定実行ステップと、
b)取得された2以上の追い越し飛行時間スペクトルの中の1つと目的のマススペクトルとの関係を、目的のマススペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列に、飛行時間における拡がりを与える点拡がり関数を導入した係数行列を乗じて該追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列を求める関係に整理し、前記取得された2以上の追い越し飛行時間スペクトルに対する前記関係を連立させた係数行列を求め、該係数行列の各要素と追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度とに基づき、点拡がり関数に対するベイズ的逐次近似解法を用いて目的のマススペクトル上の各質量電荷比におけるピーク強度を算出する演算処理ステップと、
を有することを特徴とする質量分析方法。
【請求項5】
イオン源から出発した各種イオンを周回軌道に沿って複数回繰り返し飛行させた後に検出器に導入し、その検出信号に基づいてマススペクトルを取得する多重周回飛行時間型の質量分析装置において、
a)周回軌道に沿ってイオンを多重周回させることなく又は多重周回させる場合でも異種のイオンの追いつき・追い越しが起こらないことが保証される周回数で以てイオンを飛行させる第1測定モードで被測定試料に対する質量分析を実行し、検出器により得られる検出信号に基づいて非追い越し飛行時間スペクトルを取得する第1測定モード実行手段と、
b)前記周回軌道上でイオンの追い越しが生じるように多重周回させた後の所定の時点以降にイオンを周回軌道から離脱させて検出器に導入する第2測定モードで前記被測定試料に対する質量分析を実行し、検出器により得られる検出信号に基づいて追い越し飛行時間スペクトルを取得する第2測定モード実行手段と、
c)第2測定モードの実行により取得された追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列と、目的のマススペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列に乗じることで、該追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列と等しくなる係数行列を求め、前記目的のマススペクトルを求めるために前記係数行列の逆行列を演算する手段であって、前記逆行列の正則化一般逆行列を用い、推定される目的のマススペクトルと前記非追い越し飛行時間スペクトルで近似した真のマススペクトルとの自乗誤差を最小にするように一般逆行列を求める演算処理手段と、
を備えることを特徴とする質量分析装置。
【請求項6】
イオン源から出発した各種イオンを周回軌道に沿って複数回繰り返し飛行させた後に検出器に導入し、その検出信号に基づいてマススペクトルを取得する多重周回飛行時間型の質量分析装置において、
a)前記周回軌道上でイオンの追い越しが生じるように多重周回させた後の所定の時点以降にイオンを周回軌道から離脱させて検出器に導入する測定モードによる質量分析を、周回軌道からのイオンの離脱のタイミングを変えて被測定試料に対して2回以上実行し、検出器により得られる検出信号に基づいて2以上の追い越し飛行時間スペクトルを取得する測定実行手段と、
b)取得された2以上の追い越し飛行時間スペクトルの中の1つと目的のマススペクトルとの関係を、目的のマススペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列に、飛行時間における拡がりを与える点拡がり関数を導入した係数行列を乗じて該追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列を求める関係に整理し、前記取得された2以上の追い越し飛行時間スペクトルに対する前記関係を連立させた係数行列を求め、前記目的のマススペクトルを求めるために該係数行列の逆行列を正則化一般逆行列を用いて演算する演算処理手段と、
を備えることを特徴とする質量分析装置。
【請求項7】
イオン源から出発した各種イオンを周回軌道に沿って複数回繰り返し飛行させた後に検出器に導入し、その検出信号に基づいてマススペクトルを取得する多重周回飛行時間型の質量分析装置において、
a)前記周回軌道上でイオンの追い越しが生じるように多重周回させた後の所定の時点以降にイオンを周回軌道から離脱させて検出器に導入する測定モードによる質量分析を、周回軌道からのイオンの離脱のタイミングを変えて被測定試料に対して2回以上実行し、検出器により得られる検出信号に基づいて2以上の追い越し飛行時間スペクトルを取得する測定実行手段と、
b)取得された2以上の追い越し飛行時間スペクトルの中の1つと目的のマススペクトルとの関係を、目的のマススペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列に、飛行時間における拡がりを与える点拡がり関数を導入した係数行列を乗じて該追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度を要素とする行列を求める関係に整理し、前記取得された2以上の追い越し飛行時間スペクトルに対する前記関係を連立させた係数行列を求め、該係数行列の各要素と追い越し飛行時間スペクトル上の各ピークの強度とに基づき、点拡がり関数に対するベイズ的逐次近似解法を用いて目的のマススペクトル上の各質量電荷比におけるピーク強度を算出する演算処理手段と、
を備えることを特徴とする質量分析装置。

【図1】
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【図2】
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【図3】
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【図9】
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【図11】
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【図14】
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【図15】
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【図16】
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【図4】
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【図5】
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【図6】
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【図7】
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【図8】
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【図10】
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【図12】
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【図13】
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