説明

質量分析装置

【課題】イオントラップ内に捕捉しているイオンのうちの特定の単一質量数のイオンを選択して衝突誘起解離させてそのプロダクトイオンを分析したい場合に、目的イオンが十分に励振されずにプロダクトイオンの感度が低い場合がある。
【解決手段】イオントラップ10へCIDガスを導入した際に、CIDガスとの衝突により捕捉されているイオンの永年振動数が若干下がることを考慮して励振信号の周波数を決める。即ち、イオントラップ10を内装する真空室1内のガス圧を圧力センサ4で検出し、制御部20はこのガス圧に応じて求めた周波数ずれ量データに基づき励振信号の周波数を修正する。CIDガスの導入量の増加によりイオントラップ10内のイオンの永年振動数が下がると、検出ガス圧が上昇して励振信号の周波数も下げられるため、正確に目的イオンを励振させて高い効率で解離を起こすことができる。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、イオントラップを備えた質量分析装置に関し、さらに詳しくは、イオントラップ内に捕捉したイオンを選択的に衝突誘起解離させ、それによって生成されたプロダクトイオンを質量分析する質量分析装置に関する。
【背景技術】
【0002】
質量分析装置の1つとして、複数の電極で囲まれる空間に形成した電場によりイオンを捕捉して蓄積するイオントラップと、このイオントラップから排出されたイオンを質量数毎に分離して検出する質量分析計と、を組み合わせた質量分析装置が知られている。質量分析計としては、飛行時間型質量分析計や四重極型質量分析計が用いられることが多い。また、イオントラップとしては、1個の環状のリング電極と、このリング電極を挟んで対向して配置された一対のエンドキャップ電極とから構成される三次元四重極型のイオントラップが使用されることが多い。
【0003】
近年、質量分析の分析対象である物質はますます多様化する傾向にあり、特に化学的構造が複雑であって質量数の大きな物質の分析の要求が大きくなっている。一般に質量分析計では分析可能な質量数には上限があり、質量数が極端に大きな物質を分析することは困難である。そのため、分子イオンを解離させてより小さな質量数のイオンに分解し、各解離イオンを質量分析するMS分析の重要性が一段と増している。
【0004】
上述した質量分析装置では、イオントラップ内に衝突誘起解離(CID=Collision-induced dissociation)ガスを導入することによりイオントラップ内に捕捉されているイオンの解離を促進させ、そうして生成されたプロダクトイオンを含む各種イオンをイオントラップから排出して質量分析することでMS分析が可能である。イオントラップ内で目的とする単一質量数のイオンを解離させたい場合の手法として、特許文献1には、エンドキャップ電極に特定の周波数を有する交流電圧を印加することでその周波数に対応した特定質量数のイオンのみを選択的に共鳴振動させ、イオントラップ内に導入したCIDガスとの衝突により上記共鳴振動させたイオンを解離させることが記載されている。
【0005】
プリカーサイオンとして選択したいイオンの質量数と、そのイオンを共鳴振動させるためにエンドキャップ電極に印加すべき励振信号の周波数との関係は、予め計算により求めておくことができるから、実際の分析の際には、こうして予め求めておいた質量数と周波数との関係を利用して、目的とするイオンの質量数に対応して励振信号の周波数を決定することができる筈である。ところが、実際には、上記のようにして求めた単一周波数成分の励振信号をエンドキャップ電極に印加しても、目的とする質量数のイオンが十分に励起されず、それよりも少し質量数がずれた不所望のイオンが励起されてしまう場合がある。その結果、目的とするイオンの解離によって生じたプロダクトイオンの信号強度が十分に得られず、分析感度や分析精度が低下する。
【0006】
【特許文献1】特許第3470671号公報(段落0003及び図6)
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0007】
本発明は上記課題を解決するために成されたものであり、その目的とするところは、イオントラップ内で単一の質量数のイオンをプリカーサイオンとして解離させたい場合に、そのプリカーサイオンの選択性を高めて目的とするプロダクトイオンの分析感度や分析精度を高めることができる質量分析装置を提供することにある。
【課題を解決するための手段】
【0008】
本願発明者の検討によれば、前述したような或る単一周波数成分の励振信号に対して共鳴振動されるイオンの質量数のずれの主たる要因は、イオントラップに導入されるCIDガスとイオンとの衝突による抵抗のために、イオントラップ内に捕捉されそれぞれの質量数に応じた永年振動数で以て振動している各種イオンの永年振動数が僅かではあるが低い側にシフトすることであると考えられる。そのCIDガスとの衝突による抵抗の程度はCIDガスの分子密度に依存するから、CIDガスの導入流量やイオントラップが配設される真空雰囲気の真空排気能力などにより、質量数のシフト量は影響を受ける。そこで、上記課題を解決するために成された本発明に係る質量分析装置は、イオントラップ内のCIDガスの分子密度つまりは真空度を考慮して励振信号の周波数を変化させることにより、上記質量数のずれを補正しようとするものである。
【0009】
即ち、本発明は、複数の電極で囲まれる空間にイオンを捕捉するイオントラップを具備し、このイオントラップ内でイオンを解離させ、それにより生成したイオンを質量分析する質量分析装置において、
a)前記イオントラップ内で目的とする質量数のイオンを選択的に共鳴振動させるように、その周波数成分が単一であって所定振幅を有する励振信号を生成して該イオントラップを構成する少なくとも1つの電極に印加する励振信号生成手段と、
b)前記イオントラップ内に衝突誘起解離用のガス(CIDガス)を導入するガス導入手段と、
c)前記衝突誘起解離用ガスが導入された前記イオントラップ内のガス圧を検出する又は推定するガス圧モニター手段と、
d)前記ガス圧モニター手段により得られたガス圧に応じて前記励振信号の周波数成分を補正する補正処理手段と、
を備えることを特徴としている。
【0010】
例えば前述のようにイオントラップがリング電極と一対のエンドキャップ電極とで構成されるものである場合、励振信号が印加されるのは通常、一対のエンドキャップ電極である。
【発明の効果】
【0011】
前述のように、イオントラップ内に捕捉されている各種イオンの永年振動数の変化は主としてCIDガスとの衝突によるものであるから、CIDガスの密度が高いほど、つまりガス圧モニター手段により得られたガス圧が高いほど永年振動数の低下が大きくなる。任意の単一質量数のイオンを選択的に共鳴振動させたい場合、その永年振動数に合わせた周波数成分の電場を形成する必要があるから、補正処理手段は、ガス圧が高いほど励振信号の周波数成分を理論的に求まる値よりも下げるように補正する。これにより、選択対象であるイオンの共鳴周波数と励振信号の周波数とのずれがほぼ解消され、目的とするイオンが共鳴振動してCIDガスとの衝突により解離する。
【0012】
このように本発明に係る質量分析装置によれば、単一質量数のイオンを選択的に解離してそれによるプロダクトイオンを分析したい場合に、イオントラップ内で目的イオンが高い選択性を以て解離されるとともにそれ以外の不所望のイオンの解離が抑制されるので、分析対象のプロダクトイオンの量が増え、その分析感度や分析精度を向上させることができる。
【発明を実施するための最良の形態】
【0013】
以下、本発明の一実施例による質量分析装置について図面を参照して説明する。図1は本実施例の質量分析装置の概略構成図である。
【0014】
図示しない排気手段により真空排気される真空室1の内部には、内側面が回転1葉双曲面形状を有する1個の環状のリング電極11と、それを挟むように(図1では左右に)対向して設けられた、内側面が回転2葉双曲面形状を有する一対のエンドキャップ電極12、13により構成されるイオントラップ10が配設されている。これら電極11、12、23で囲まれる空間にイオンを捕捉するイオントラップ領域が形成される。
【0015】
このイオントラップ10の入口側エンドキャップ電極12に穿設された入射口の外側には、例えばMALDIなどのイオン源2が配設されており、一方、出口側エンドキャップ電極13に穿設された出射口の外側には例えば飛行時間型質量分析計3が配設され、この質量分析計3の検出器による検出信号はデータ処理部24に入力されている。また、イオントラップ10の内部にはガス供給源6からガス供給管5を経てCIDガスが供給されるようになっており、この真空室1内のガス圧(真空度)は圧力センサ(真空計)4により検知される。
【0016】
リング電極11には主RF電圧発生部14が接続され、エンドキャップ電極12、13には補助RF電圧発生部15が接続されている。この主RF電圧発生部14及び補助RF電圧発生部15は制御部20から与えられる制御信号により、それぞれ所定周波数及び所定振幅の交流電圧を発生するように制御される。制御部20はCPU、ROM、RAMなどを含んで構成されており、後述するようにイオンを選択するために質量数−周波数データテーブル22とガス圧−周波数補正用データテーブル23とが接続されている。質量数−周波数データテーブル22には、イオントラップ10内で励振させるイオンの質量数と励振信号の周波数との対応付けを示すデータが格納されており、例えば質量数を入力すると励振信号の周波数データが導出できるようになっている。一方、ガス圧−周波数補正用データテーブル23には、真空室1内のガス圧と励振信号のずれ量との対応付けを示すデータが格納されており、例えばガス圧を入力すると励振信号の周波数ずれデータが導出できるようになっている。こうしたデータは予め理論的な計算により求めることができるが、実験的に求まったデータでもよい。また、圧力値に対応した補正値を導出可能でありさえすれば、テーブル形式でなく計算式等の適宜の形式でデータを記憶しておくことができる。
【0017】
この質量分析装置において、或る特定の単一の質量数を有するイオンを解離させてそれによって生成されるプロダクトイオンを質量分析したい場合について説明する。オペレータが入力部21により分析対象のプリカーサイオンの質量数を入力設定すると、制御部20は質量数−周波数データテーブル22によりそのプリカーサイオンの質量数に対応した励振信号の周波数を求める。このときの周波数は、真空室1内の真空度が限りなく高いと仮定した条件の下、或いは真空室1内のガス圧が所定の基準条件の下であるとしたときのものである。
【0018】
分析が開始されると、制御部20の制御の下で、まず主RF電圧発生部14からリング電極11に印加される電圧によりイオントラップ10内の空間に四重極電場を形成し、イオン源2において分析対象の試料から生成された各種イオンをイオントラップ領域に閉じ込める。このときには、イオントラップ領域内で様々な質量数を有するイオンがそれぞれに特有の周波数、つまり永年周波数で以て振動している。
【0019】
次に、制御部20は先に求めた励振信号の周波数情報を補助RF電圧発生部15へと送り、補助RF電圧発生部15はこの単一周波数成分の励振信号を生成してエンドキャップ電極12、13に印加する。それと前後して又はそれと同時に、バルブ7を開放してイオントラップ10内にCIDガスを導入し始める。CIDガス導入後に励振を開始するようにしてもよい。
【0020】
エンドキャップ電極12、13に印加された励振信号によりイオントラップ10内に形成される交流電場により、その周波数を共振周波数として持つイオンが共鳴振動し始める。CIDガスの影響がない場合、このときに励振されるイオンはオペレータが入力設定した質量数を持つイオンである。しかしながら、CIDガスが導入されると、イオントラップ10に捕捉されているイオンはCIDガスと衝突して抵抗を受けるため、イオンの種類に限らず全体的に永年振動数が若干下がる。そこで、制御部20は圧力センサ4により真空室1内のガス圧をモニターし、ガス圧−周波数補正用データテーブル23を参照してそのときのガス圧に対応した周波数ずれデータを求める。真空排気能力が同一でもCIDガスの導入流量が多ければ真空室1内のガス圧は相対的に高く、逆にCIDガスの導入流量が少なければ真空室1内のガス圧は相対的に低くなる。即ち、圧力センサ4によるガス圧の検出値はイオントラップ10内のCIDガスの密度を反映したものとなる。
【0021】
制御部20は周波数ずれデータを求めたら、それに基づき補助RF電圧発生部15に送る励振信号の周波数情報を補正する。具体的には、図5に示すように、ガス圧が高いほど元の周波数からのシフト量Δfが大きくなるように低周波数側にシフトさせる。これにより、エンドキャップ電極12、13に印加された励振信号によりイオントラップ10内に形成される電場の周波数が下がるが、その低下量は上述したようなCIDガスとの衝突による目的イオンの共鳴周波数のずれとほぼ同じになる。したがって、イオントラップ10内で目的イオンが選択的に励振され、CIDガスに勢いよく衝突することにより効率よく解離される。例えばCIDガスの導入流量の変動などにより真空室1内のガス圧に変動が生じた場合でも、圧力センサ4により検出されるガス圧に応じて励振信号の周波数は時々刻々と修正されるため、目的とする単一質量数のイオンを高い効率で励振させ解離させることができる。
【0022】
衝突誘起解離によって生成された各種のプロダクトイオンもイオントラップ10内に保持されるから、所定の時間、上記のように目的イオンの励振を試みてその解離を促進させた後、リング電極11、エンドキャップ電極12、13に印加する電圧を切り替えてイオントラップ10内に蓄積されているイオンを排出して飛行時間型質量分析計3に導入する。そして、飛行時間型質量分析計3によりプロダクトイオンを含む各種イオンを質量数毎に分離して検出し、データ処理部24でマススペクトルを作成する。なお、イオントラップ10自体でも質量分離機能を有するが、一般にイオントラップの質量数分解能はあまり良好でない。そこで、高い質量分解能を要する分析では外部の質量分析器を用いるほうがよい。
【0023】
上記構成において、イオントラップ10内で励振されるイオンの質量数分解能はエンドキャップ電極12、13に印加される励振信号の振幅に大きく依存する。即ち、励振信号の振幅が大きいと所望の質量数を持つイオンだけでなく隣接する質量数を持つイオンも同時に励振されてしまい易い。一方、励振信号の振幅が小さいと隣接する質量数を持つイオンは励振されないものの所望の質量数を持つイオンの励振も十分に行われない可能性がある。そこで、ここでは、衝突誘起解離により、目的とする単一質量数のプリカーサイオンのピークP1の強度を50%以上減衰させ、隣接する質量数を持つイオンのピークP2、P3の強度が80%以上残存するように励振信号の振幅を調整するものとする(図4参照)。
【0024】
上記装置において取得されるマススペクトルの実測例を図2に示す。この例は、グルフィブリノペプチド(Glu-Fibrinopeptide)試料を用いて単一質量数(m/z=1552.8)のピークを選択的に励振したときのマススペクトルの変化を示すもので、(a)が励振信号を印加する前の状態、(b)が励振信号を印加した後の結果である。励振信号の印加により単一質量数のイオンのみが選択的に励振されて衝突誘起解離により失われるため、対応するプリカーサイオンのピーク強度が大きく減少していることが判る。このように単一質量数のイオン種のみを選択的に励振することで、図3に示すように、このイオン種の衝突誘起解離により生成されるいくつかのフラグメントイオン種を観測することができる。そして、このフラグメントイオン種の質量数やそのピーク強度から、プリカーサイオンとして選択した目的とする分子イオンの分子構造を解析することができる。
【0025】
なお、上記実施例は本発明の一例であり、本発明の趣旨の範囲で適宜に変更、修正、追加を行っても本願特許請求の範囲に包含されることは当然である。例えば、上記実施例の構成ではイオン源をイオントラップの外側に設けたが、イオントラップの内部でイオン化を行うこともできる。また、上述したように質量分析計の質量分析器としてイオントラップを用いてもよい。
【図面の簡単な説明】
【0026】
【図1】本発明の一実施例による質量分析装置の全体構成図。
【図2】本実施例の質量分析装置において取得されるマススペクトルの実測例を示す図。
【図3】プリカーサイオンの励振及び衝突誘起解離により生成されるフラグメントイオン種のマススペクトルの例を示す図。
【図4】励振信号の振幅を調整する際の目的とするプリカーサイオンのピーク強度と隣接イオンのピーク強度の変化状態を示す模式図。
【図5】ガス圧の検出結果に応じた励振信号の周波数シフトの動作を説明するための模式図。
【符号の説明】
【0027】
1…真空室
2…イオン源
3…飛行時間型質量分析計
4…圧力センサ
5…ガス供給管
6…ガス供給源
7…バルブ
10…イオントラップ
11…リング電極
12、13…エンドキャップ電極
14…主RF電圧発生部
15…補助RF電圧発生部
20…制御部
21…入力部
22…質量数−周波数データテーブル
23…ガス圧−周波数補正用データテーブル
24…データ処理部


【特許請求の範囲】
【請求項1】
複数の電極で囲まれる空間にイオンを捕捉するイオントラップを具備し、該イオントラップ内でイオンを解離させ、それにより生成したイオンを質量分析する質量分析装置において、
a)前記イオントラップ内で目的とする質量数のイオンを選択的に共鳴振動させるように、その周波数成分が単一であって所定振幅を有する励振信号を生成して該イオントラップを構成する少なくとも1つの電極に印加する励振信号生成手段と、
b)前記イオントラップ内に衝突誘起解離用のガスを導入するガス導入手段と、
c)前記衝突誘起解離用ガスが導入された前記イオントラップ内のガス圧を検出する又は推定するガス圧モニター手段と、
d)前記ガス圧モニター手段により得られたガス圧に応じて前記励振信号の周波数成分を補正する補正処理手段と、
を備えることを特徴とする質量分析装置。


【図1】
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【図2】
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【図3】
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【図4】
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【図5】
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