説明

音響信号変換装置

【課題】スピーカーでの再生を前提とした音響信号をヘッドフオン再生用の音響信号に変換するための従来の方法は、空間定位感と自然な音色の再生という面で不完全なものであり、また受聴者の嗜好に合わせて再生音を調節することは困難であった。
【解決手段】仮想音源からの直接音と反射音をシミュレーションによって求めると同時に、反射音の仮想受聴者への到達時刻に、平均値が0で標準偏差が0.1m秒以上である実質的に乱数と見なせる数列を加えてずれを与え、左右対称性を持つ原音響信号を変換しても変換後の音響信号は左右対称にならないようにした。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、ヘッドフオンあるいはイヤフオンを用いた音響信号受聴に関する。
【0002】
本発明は特に、原音響信号を変換し、ヘッドフオンまたはイヤフオンで変換した音響信号を受聴した場合に原音響信号をスピーカーで再生した場合と同等の空間定位を得ることができるようにする、音響信号変換装置に関する。
【背景技術】
【0003】
受聴者の左右前方に配置された二つのスピーカーで再生されることを前提としたステレオ音響信号を、ヘッドフオンあるいはイヤフオンにて受聴すると、音原が受聴者の頭内にあるように知覚される現象、いわゆる頭内定位がおこる。スピーカーでステレオ信号を再生した場合と同等の空間定位をヘッドフオンあるいはイヤフオンで得るためには原音響信号を適切に変換する必要があり、そのための装置あるいは変換方法が従来より数多く提案されている。
【0004】
従来の変換装置には、実際の試聴室にてダミーヘッドを用いて測定された、反射波の効果を含むフィルタを用いるものがある(例えば特許文献1参照)。またシミュレーションによって求めた直接音と反射音を用いるものがある(例えば特許文献2参照)。
【0005】
まず、実際の試聴室にて測定されたフィルタを用いる方法について図2(a)と図2(b)を用いて説明する。図2(a)において、5は試聴室でありその中にダミーヘッド1が設置されている。ダミーヘッド1の左右の耳に相当する部分にはマイクロフォン2と3が収納されている。また試聴室5には左前方スピーカー4が音源として設置されている。左前方スピーカー4に信号Slを加え、これを左マイクロフオン2で検出することにより、左前方スピーカー4からの音が左耳に到達する時に生じる変換を表すフィルタK’LLが求められる。同様にして左前方スピーカー4からの音が右耳に到達する時に生じる変換を示すK’LRが求められる。次に、図2(b)に示すように、ダミーヘッド1に左ヘッドフオン10、右ヘッドフオン11からなるステレオヘッドフオンを装着する。左ヘッドフオンに信号Slを加えて左マイクロフオン2で検出することにより左ヘッドフオンから左耳へのフィルタThpが求められる。左右の対称性を考慮すれば、Thpの測定は左右どちらか一方で十分である。
【0006】
フィルタKLLを数1のように定義する。ここで、Thp−1はThpの逆フィルタである。左信号Slにこれを作用させ左ヘッドフオン10に加えると、ヘッドフオンから左耳に到達する音はK’LLをSlに作用させたものに等しい。すなわち原信号Slを左スピーカーで再生した場合に左耳に到達する音に等しくなる。同様の操作を右耳に対しても行えば、受聴者にはあたかも左スピーカー4から音が発せられているかのごとく感じられる。スピーカーが複数個ある場合はそれぞれに加えるべき音響信号に同様の操作を施せばよい。
【数1】

【0007】
次にシミュレーションによって求めた反射音を用いる方法について説明する。原音響信号は遅延素子を用いた反射音生成回路に加えられ反射音信号が生成される。直接音信号と反射音信号はそれそれ位相回路、振幅制御回路、遅延回路等によって変換された後に加算される。ヘッドフオンで受聴した場合に自然な空間定位と音色を得られるように、上記回路は構成される。
【特許文献1】特開平2−200000号公報
【特許文献2】特開昭58−124395号公報
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0008】
以上に述べた従来技術のうち、実際の試聴室にて測定されたフィルタを用いる方法は、測定に用いたスピーカー4が理想的な変換器である必要がある。スピーカー4が理想的と見なせない場合でも、スピーカー4の正面前方で測定されたスピーカーの変換特性に基づいて上記フィルタを補正することはある程度可能である。しかし、図2に示したように、スピーカー4からの直接音6および7はスピーカー4の軸上に放射されるのに対して、反射音8および9は一般には軸上には放射されていない。スピーカーは一般に強い指向性をもつことが知られており、その軸から離れた方向での振幅と位相の周波数依存性は軸上のそれとは大きく異なる。全ての反射音についてこれを補正することは、反射音の数が膨大であることを考慮すれば事実上不可能である。
【0009】
また、測定に用いる試聴室の音響的特性、とりわけ試聴室で発生する反射音は受聴者が受ける音響に大きな影響を与える。良好な受聴のためには試聴室の大きさ、壁の反射率等多くのパラメータを慎重に調整し、かつ吸音材、音を拡散させる物体等を適切に配置することが必要である。この調整は困難なものであって、理想に近い試聴室というものも現実には存在しない。
【0010】
この結果、得られたフィルタは特定の試聴室の特定の位置に特定のスピーカーを配置した場合のフィルタに過ぎず、部屋とスピーカーにもつ欠点を反映したものにならざるを得なかった。また、受聴者の嗜好に合わせて音色や残響を調節することは、試聴室の特性そのものの変更を伴うがゆえに、きわめて困難であった。
【0011】
シミュレーションにより原音響信号を変換するのに用いられてきた方法は、反射音のシミュレーションを簡単な位相回路、振幅制御回路、遅延回路等の組み合わせに頼っており、現実の複雑な反射波を反映したものではない。このため、空間定位感ならびに自然な音色の再現において不満足なものであった。
【0012】
本発明はこれらの従来の方法が有していた問題点を解決しようとするものであり、ヘッドフオンあるいはイヤフオンにて自然な空間定位と音色を再現することを可能とする、原音響信号の変換装置を与えることを目的とする。
【課題を解決するための手段】
【0013】
そして本発明による第1の解決手段は、仮想の部屋に配置された仮想受聴者と少なくとも一つの仮想音源に対して、各仮想音源からの直接波と複数の反射波のそれぞれについて仮想音源と仮想受聴者の左右の耳との間のフィルタを求め、直接波と反射波の到達時刻の差にもとづいて前記それぞれのフィルタを時間軸上で移動して合成することにより各仮想音源から仮想受聴者の左右の耳へのフィルタを求め、それぞれの仮想音源に対応する原音響信号に仮想音源から左右の耳への前記フィルタを作用させ、しかるのちに全ての仮想音源について和をとるヘッドフオンまたはイヤフオン受聴用の音響信号変換装置であって、このとき少なくとも一部の反射波の到達時刻にずれを与えることにより、左右対称性をもつ原音響信号を変換しても変換結果が左右対称にならないようにしたことを特徴とするものである。
【0014】
また第2の課題解決手段は、上記音響信号変換装置におけるフィルタ導出のいずれかの過程において、ヘッドフオンまたはイヤフオンと耳との間のフィルタの逆フィルタを用いて補正を加えるものである。
【0015】
また第3の課題解決手段は、前記第1あるいは第2の課題解決手段による音響信号変換装置において、前期反射波の到達時刻にずれを与える方法として、各反射波の到達時刻に平均値が0であり標準偏差0.1m秒以上である実質的に乱数である数列を加える方法を採用したものである。
【0016】
また第4の課題解決手段は、前記第1、第2もしくは第3の課題解決手段による音響信号変換装置において、少なくとも、直接波から5−15m秒遅れて到達する反射波に対して前記到着時刻をずらす操作を行うものである。
【0017】
上記第1の解決手段による作用は次のとおりである。反射波の到達時刻をずらすことにより反射波の左右対称性をなくすと、受聴者は反射波を正しく識別可能となる。したがって、反射波を直接波と比較することにより音源の位置を正しく推定するというメカニズムが有効に働く結果、自然な空間定位が得られる。本発明は反射波の計算をシミュレーションによって行っているため、特定のスピーカーの特性や部屋の音響特性に変換結果が依存することはない。
【0018】
また、第2の解決手段による作用は、ヘッドフオンあるいはイヤフオンに応じた補正を加えることにより、より自然な音色と空間定位を得ることにある。
【0019】
また、第3の解決手段による作用は、反射波にずれを与える際に乱数を用いることにより、原音響信号がいかなる仮想音源の配置を想定したものであっても、自然な空間定位を得ることにある。
【0020】
また、第4の解決手段における作用は、少なくとも、直接波から5−15m秒遅れて到達する反射波に対して前記到着時刻をずらす操作を行うことにより、自然な空間定位と音色を得ることにある。
【発明の効果】
【0021】
上述したように、原音響信号を本発明による装置にて変換し、これをヘッドフオンあるいはイヤフオンにて受聴することにより、原音響信号が仮想音源のいかなる配置を想定したものであっても自然な空間定位と音色を得ることができる。
【0022】
また、本発明は反射波をシミュレーションの基づいて求めているので、シミュレーションに用いるパラメータを適切に選択することにより、再現された音響の音色や残響を受聴者の嗜好に合わせて容易に変更可能であるという利点も有する。
【発明を実施するための最良の形態】
【0023】
以下本発明の実施の形態を図1、図3〜図6に基づいて説明する。以下の説明において、信号は離散的であるとする。但し、本発明は離散的信号に限定されるものではない。またフィルタは、インパルス応答にて表現されているものとする。もちろん周波数応答や伝達関数を用いても全く等価な説明が可能である。なお、頭部伝達関数についてもインパルス応答で表現されているものとする。
【0024】
本実施例では無響室で測定された頭部伝達関数H’(θ,φ)を利用した。これは以下にようにして測定されたものである。図3(a)において、1は左右のマイクロフオン2と3をもつダミーヘッド、4はスピーカー、12は無響室である。スピーカー4はダミーヘッド1に対して水平方向の角度θ、仰角φの角度で設置され、その軸はダミーヘッドの方向に向けられている。測定中はスピーカー4とダミーヘッド1の距離Dをθ、ψに無関係に一定に保っている。スピーカー4にインパルス信号1を加え左マイクロフオン3で検出することにより頭部伝達関数H’(θ,φ)を各種のθ、φに対して測定する。左右の対象性を考慮すれば測定は左右どちらかのマイクロフオンに対して行えば十分である。
【0025】
次に、無響室内12内でスピーカー4の軸上にマイクロフオン(図示せず)を設置し、スピーカー4にインパルス信号1を加えた時の応答を測定することによりスピーカー単体のフィルタTspを求める。さらにこの逆フィルタを計算しTsp−1とする。H’(θ,φ)、Tsp−1ともインパルス信号に対する応答であり、FIRフィルタである。数2に従ってこの二つのFIRフィルタを畳み込むことにより、スピーカー4の応答を補正した頭部伝達関数H(θ,φ)の組を得ることができる。スピーカー4の軸は必ずダミーヘッドを向いているのであるから、この方法でスピーカー4の理想変換器からのずれを完全に補正することができる。
【数2】

【0026】
反射波のシミュレーションは虚像法によった。これは音が光線のように入射角と反射角が等しく壁で反射すると仮定して反射波を計算する公知の手法である。図4において13は仮想の部屋であり、14は仮想受聴者の位置である。部屋には左右の仮想スピーカーが、受聴者の前方に設置されているとした。15は左仮想スピーカーの位置である。
【0027】
左仮想スピーカーから発生し、部屋の左の壁面で反射した後に受聴者に到達する反射波は、左壁面に関して15と面対称である虚像位置16に仮想スピーカーがあるとした場合の直接波に等しい。多重反射波の方向と伝播距離を求めるには反射ごとに虚像の位置を動かせばよい。反射波が左右の壁面で反射した回数をl、前後の壁面で反射した回数をm、上下の壁面で反射した回数をnとした。反射波が右の壁面で最初に反射した場合はlの符号を正、左の壁面で最初に反射した場合は負とした。同様にmが正の場合は前方の壁で最初に反射したとし、nが正の場合は上方の壁で最初に反射したとした。これらの指数(l,,m,n)の組を指定することにより、対応する虚像位置が求まり、反射波が受聴者に到達するまでの距離Dlmnと、受聴者に対する方向が計算できる。例えば、図4に示した反射波は(l,m,n)=(−1,0,0)で表現される。また(0,0,0)は直接波を示す。
【0028】
仮想の部屋における仮想の左スピーカーにインパルス信号を加えたときの左耳の応答を示すフィルタHLLを以下の手順で求めた。(l,m,n)で指定される虚像のそれぞれに対して受聴者への反射波の到達方向をもとめ、それにもっとも近い方向のH(θ,φ)を選び、これをHLlmnとする。また虚像と受聴者の距離Dlmnを求める。次にHLlmnを数3に従って合成する。
【数3】

【0029】
数3において、τ(t)は時間をtだけ遅らせる演算子であり、Sは音速である。γは壁の反射率であり、これを変化させることにより残響時間を調節した。残響時間は0.2−0.5秒が一般に好まれ、ここでは0.25秒とした。Lp(D)は音波が距離Dだけ伝播した時の空気の吸収による高域の減衰を与える低域通過フィルタである。D/Dlmnは距離による音波の減衰を与える項であり、DはH(θ,φ)を測定した際のスピーカーとダミーヘッドの間の距離である。反射波は残響時間経過後に1/1000に減衰することを考慮すれば、数3の和は残響時間の1.5倍程度までに受聴者に到達する波についてとれば充分である。
【0030】
次に図3(b)のごとくステレオヘッドフオンをダミーヘッド1に装着し、左ヘッドフフオン10にインパルス信号1を与えることによってフィルタThpを測定し、この逆フィルタThp−1を計算した。これとHLLを畳み込むことにより、フィルタFLLを得た。FLLを左チャンネルの音響信号と畳み込み、これを左ヘッドフオンに加えれば、元の音響信号を左スピーカーに加えた場合と同じ音響が左耳に加わるはずである。図5は計算したFLLの一例で、直接波20aの付近を拡大して示している。横軸はサンプル数で表現した時間であり、縦軸は任意目盛りである。本実験にはサンプリング周波数44.1kHzを用いた。直接波の後に間接波20bが多数続いており、現実の反射波に近い波形が得られている。
【0031】
左スピーカーから右耳に到達する音波の場合は数3の代わりに数4を使用した。ここで、HRlmnはHLlmnのθを2π−θに置き換えたものである。これとThp−1を畳み込むことによりFLRを得る。
【数4】

【0032】
本実施例で使用したH’(θ,φ)はダミーヘッドに外耳道を模したチャンバを取り付け、その端に装着されたマイクロフオンで測定されたものであり、Thp−1を畳み込んで補正することが必要である。H’(θ,φ)を、ダミーヘッドの耳朶付近に設けられたマイクロフオンで測定するならば、Thp−1による補正を省略することも可能である。しかし、本実施例のように正しく補正を行ったほうが、良好な空間定位と音色が得られる。
【0033】
次に数5により左右の原音響信号S,Sをヘッドフオンに加えるべき音響信号Shp,Shpに変換した。ここでFRL、FLLは右スピーカーに対応するフィルタである。
【数5】

【0034】
仮想の部屋、仮想のスピーカーならびに仮想受聴者の配置は左右対称とした。従って対称性からFRR=FLL、FRL=FLRとなる。しかし、このような完全に左右対称な変換を行なった音響信号をヘッドフオンにて受聴したところ、左右の音は何とか頭外に定位するものの前方中央に定位するはずの音は頭内に定位していた。これは次のような理由による。
【0035】
原音響信号がS=Sの関係にあったとする。これを左右のスピーカーに加えて試聴すれば音は二つのスピーカーの中心付近に定位する。一方、この信号をFLL=FRR、FRL=FLRとして数5で変換すれば、Shp=Shpであり、ヘッドフオンから発生する音は左右同じである。人間は左右の音の到達時刻の差と周波数スペクトルの違いにより方向を推定しているとされているが、左右の音がまったく同一である場合は、この方法では左右対称面(受聴者の正面、後方あるいは頭上など)に音源があることが推定できるのみであり、正確な方向は推定できない。音源が左右対称面にある場合はそれぞれの周波数スペクトルの違いにより方向を推定しているという説もあるが、もとの音源の周波数スペクトルを知る手段はなく、したがってそれがどのように変化したかを推定する手段はないのであるから、この方法で方位が推定できるとは考えられない。
【0036】
数多くの反射波によって構成される残響音は一般に拡散的、すなわちあらゆる方向から均一に受聴者に到達するとされている。そうであれば、残響音は音源の位置にはあまり関係がないことが予想される。従って、残響音と直接音の周波数スペクトルの違いを比較すれば、左右対称面にある音源の位置を推定することが可能になるはずである。この仮説にたてば、残響音を正しく人間に認識させることができることが自然な音像の定位に重要であるということになる。左右の耳に入る信号が同一である場合、人間は残響音と直接音を分離できず、その結果音源の位置が推定できなくなり、結果として頭内定位を起こすと考えた。そこで残響音を左右で異ならせ、人間が残響音と直接音を分離可能になるようにすれば正しい定位が得られるはずであると考え、以下の実験を試みた。
【0037】
(実験1)
反射音のそれぞれに対して、その振幅にガウス分布に基づくばらつきを加えた。
【数6】

【0038】
数6において、第1項は直接波である。第2項は反射波の項であり、和は反射波についてとる。Glmn(1,δ)は平均値1、標準偏差δであるガウス分布を持つ乱数列であり、異なる(l,m,n)の組に対しては異なる値をとる。これらにThp−1を畳み込みFLL、FLRとし、同様にしてFRR、FRLを求めた。このとき用いたGlmn(1,δ)の値は、FLL、FLRを求めた場合に用いたものとは当然異なっている。δを0−0.4の範囲で変化させ、数5を用いて原音音響信号を変換して受聴実験を行ったが、頭内定位は解消されなかった。
【0039】
(実験2)

【数7】

【0040】

込むことによってFLR、FLL、FRR、FRLを得た。原音響信号を数5に従って変換した後に

0.1msec以上の場合にスピーカーで再生した場合と遜色ない空間定位が得られた。しかし、得られた音色はやや不自然なものであった。
【0041】
(実験3)
反射音のそれぞれに対して、その到達時刻にガウス分布に基づくばらつきを加えた。
【数8】

【0042】
数8において、Glmn(1,δ)は前と同じく同様に平均値1、標準偏差δであるガウス分布を持つ乱数列であり、反射波が到達する時間にばらつきを与える。この操作を行った後にThp−1を畳み込みFLL、FLRを求め、同様にしてFRR、FRLを求めた。右スピーカーに対するGlmn(1,δ)は前と同様に左スピーカーのものとは値が異なっている。原音響信号を数5に従って変換した後にヘッドフオンにて試聴した。δを0−0.2の範囲で変化させたところδ=0.005以上でスピーカーで再生した場合に遜色ない空間定位が得られ、最良の値はδ=0.1−0.15の範囲であった。
【0043】
実験1から3までに用いた手法を図示したものが図6である。図6(a)で13は仮想の部屋、15と17はそれぞれ左と右の仮想スピーカーの位置、14は仮想受聴者の位置である。左の仮想スピーカーにインパルス信号を与えて発生させた音波が左壁面で反射されて仮想受聴者に到達したものが18a、右の仮想スピーカーにインパルス信号を与えて発生させた音波が右壁面で反射されて仮想受聴者に到達したものが19aである。仮想の部屋とその内部における仮想スピーカー、受聴者の位置は左右対称であるとする。このとき計算上は反射波18aと反射波19aは形状が等しく、かつ到達時刻も等しい。実験1は図6(b)の18b、19bに示したごとく、左右の反射波の振幅を変化させたものであり、実験2と3は図6(c)の18c、19cに示したごとく、左右の波の到達時刻を変化させたものである。図6では簡単のために一次の反射波の場合のみを図示したが、同様の操作を多重反射波に対しても行う。
【0044】
反射波が到達する時間にばらつきを与えることが有効であることがわかったので、次にどの範囲の反射波にばらつきを与えればもっとも効果があるか調べた。
【0045】
(実験4)
実験3と同様に反射音のそれぞれに対して、その到達時刻にガウス分布に基づくばらつきを加えた。ただし、実験3では全ての反射波にばらつきを加えたのに対して、実験4では直接波到達時刻から一定時間Taの間に受聴者に到達する反射波に対してはばらつきを与えなかった。Taを変化させて試聴したところ、Taが約5m秒以下であれば正しい空間定位が得られた。
【0046】
(実験5)
実験4とは逆に、直接波到達時刻から一定時間Tbの間に受聴者に到達する反射波に対してのみ到達時刻にばらつきを与え、それ以降に到達する反射波にはばらつきを与えなかった。Tbを変化させて試聴したところ、Taが約14m秒以上であれば正しい空間定位が得られた。
【0047】
以上をまとめると、左右のスピーカーの中央に位置すべき音像を正しく受聴者に認識させるには、直接波から約5−14m秒遅れて左右の耳に到達する反射波の到達時刻をずらすことにより、反射波を受聴者に認識させることが重要であるとの結論に達した。必要な左右の到達時刻差は実験2の場合は約0.2msecである。
【0048】
実験3の場合の到達時刻差は以下のように計算できる。今回の実験では仮想音源と仮想受聴者の距離は約2.6mとした。従って、直接波は約7.5m秒かかって受聴者に到達する。実験4と実験5から、直接波より約10m秒遅れた反射波が空間定位に最も重要ことがわかる。この波は伝播に17.5m秒かかるので、これに標準偏差0.005のばらつきを与えれば、到達時刻に約0.09m秒のばらつきを与えたことになる。この場合の到達時刻差は0.13m秒程度であり、実験2と概略一致する。
【0049】
左右の反射波の到達時刻に時間差を与える方法は実験2のように機械的に与えてもよいが、実験3のようになるべく反射波の時間差に規則性がないようにしたほうが好ましい音色が得られる。これは、乱数列に基づく到達時間のばらつきを与えることにより部屋の定在波の影響を排除できるためである。また、全ての反射波に対して時間差を与えておいたほうが自然な空間定位が得られる。
【0050】
反射波の到達時刻を左右の耳に対して異ならせるという規則さえ満足すれば、反射波を目的に応じて自由に補正してよい。例えば、壁の反射率を変化させることにより残響時間を好みに応じて変化させることができる。また、直接波から5m秒以内に到達する初期の反射波は、空間定位への影響は小さいものの音色に対する影響は大きい。そこで初期の反射波の振幅を計算で求めた値よりも小さくすることにより、より自然な音色が得ることが可能である。さらに、仮想スピーカーに指向性を与えることにより、仮想スピーカーの後方の壁面からの反射波を減少させてもよい。また、直接波より15m秒以上離れた反射波は音像定位にあまり影響がないことから、この範囲の反射波の計算をより単純なフィルタで置き換えることも可能である。
【0051】
以上の実施形態は原音響信号が2チャンネルの場合であるが、本発明はこれに限られるものではない。図1は受聴者14の前方正面に仮想スピーカー21を配置した場合を示している。左右壁面からの反射波18d、19dは計算上同時刻に受聴者に到達する。実験3と同一の手法を用いて反射波のそれぞれに対して、ガウス分布をもつ乱数列等で到達時刻のばらつきを与えれば、変換信号をヘッドフオンにて受聴した際に音像は正しく受聴者の前方に定位する。一方、反射波を機械的に同一時刻ずらす実験2の方法では、左右の反射波に到着時刻のずれを与えることができない。すなわち、乱数列にて到着時刻にずれを与える方法はより広い適用範囲を持つ。なお、仮想スピーカーが3つ以上ある場合、例えばサラウンド再生信号を変換する場合には、それぞれの仮想スピーカーに対して上記手法を適用すればよい。
【図面の簡単な説明】
【0052】
【図1】本発明の原理を示す図。
【図2】従来の方法によるフィルタの求め方を示す図。
【図3】本発明の実施例で使用した頭部伝達関数の求め方を示す図。
【図4】本発明の実施例における反射波のシミュレーション方法を示す図。
【図5】本発明の実施例によるフィルタの例。
【図6】本発明の実施例で行った実験手法を示す図。
【符号の説明】
【0053】
1 ダミーヘッド
2 左マイクロフオン
3 右マイクロフオン
4 スピーカ
5 試聴室
6、7 直接波
8、9 反射波
10 左ヘッドフオン
11 右ヘッドフオン
12 無響室
13 仮想の部屋
14 仮想受聴者
15 仮想左スピーカーの位置
16 虚像位置
17 仮想右スピーカーの位置
18a、18b、18c、18d 反射波
19a、19b、19c、18d 反射波
20a 直接波
20b 反射波
21 仮想スピーカー位置

【特許請求の範囲】
【請求項1】
仮想の部屋に配置された仮想受聴者と少なくとも一つの仮想音源に対して、
各仮想音源からの直接波と複数の反射波のそれぞれについて仮想音源と仮想受聴者の左右の耳との間のフィルタを求め、前記直接波と前記反射波の到達時刻の差にもとづいて前記それぞれのフィルタを時間軸上で移動して合成することにより各仮想音源から仮想受聴者の左右の耳へのフィルタを求め、それぞれの仮想音源に対応する原音響信号に仮想音源から左右の耳への前記フィルタを作用させ、しかるのちに全ての仮想音源について和をとる音響信号変換装置において、
少なくとも一部の反射波の到達時刻にずれを与えることにより、左右対称性をもつ原音響信号を変換しても変換結果が左右対称にならないようにしたことを特徴とするヘッドフオンまたはイヤフオン受聴用の音響信号変換装置。
【請求項2】
前記フィルタ導出のいずれかの過程において、ヘッドフオンまたはイヤフオンと耳との間のフィルタの逆フィルタを用いて補正を加えたことを特徴とする、請求項1の音響信号変換装置。
【請求項3】
前期反射波の到達時刻にずれを与える方法が、各反射波の到達時刻に平均値が0であり標準偏差0.1m秒以上である実質的に乱数である数列を加えることであることを特徴とする、請求項1または請求項2の音響信号変換装置。
【請求項4】
少なくとも、直接波から5−15m秒遅れて到達する反射波に対して前記到着時刻をずらす操作を行うことを特徴とする、請求項1、請求項2または請求項3の音響信号変換装置。

【図1】
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【図2】
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【図3】
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【図4】
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【図5】
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【図6】
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【公開番号】特開2006−325170(P2006−325170A)
【公開日】平成18年11月30日(2006.11.30)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2005−174231(P2005−174231)
【出願日】平成17年5月18日(2005.5.18)
【出願人】(505223241)
【Fターム(参考)】