説明

電気化学赤外分光装置

【課題】プリズム自身が赤外吸収を有する波数域、特に約1000cm−1以下の低波数域に赤外吸収を有する化学種の検出・同定を可能にする電気化学赤外分光装置を提供する。
【解決手段】全反射測定用プリズム(1)と、該プリズムの底面に密着した金属薄膜からなり、且つ、該プリズム底面と密着した面とは反対側の面に電解液(3)が供給される作用電極(2)と、前記作用電極と対をなす対極(4)と、前記作用電極の電位規定用の参照電極(5)と、赤外光を前記プリズムの内部から該プリズムと前記作用電極との界面に集光し、該界面で全反射する赤外光を検出器へと導いて強度を検出する光学系と、を備える電気化学表面増強赤外吸収分光装置であって、前記プリズムは、該プリズムにおける赤外光の最大光路長が10mm以下となる寸法を有し、前記光学系は、赤外顕微鏡と、Dが10以上の赤外高感度検出器を有することを特徴とする電気化学赤外分光装置。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、電極表面をその場(in‐situ)測定することができる電気化学赤外分光装置に関する。
【背景技術】
【0002】
赤外分光法による電極表面反応のその場測定は、電極表面上や電極表面近傍に存在する化学種を検出・同定することで、電極反応機構の解明が可能となることから、電気化学の発展に大きく貢献する技術として期待されている。具体的には、例えば、燃料電池における触媒反応機構を解明することによって、触媒利用率の向上や、長期間にわたる触媒性能の維持等の達成を実現することができる。
【0003】
赤外分光によって電極表面反応をその場測定する方法としては、高感度赤外吸収反射法(Infrared Reflection Absorption Spectroscopy:IRAS)が挙げられる。IRASは、電極と電解液との界面に赤外光を入射、反射させ、反射光の強度を測定することにより、電極表面を観察するものである(図5参照)。IRASにおいて、赤外光は上記界面への入射前、及び、該界面からの反射後に、電解液層内を通過する(図5参照)が、このとき電解液に強く吸収されてしまう。ゆえに、電解液による赤外光の吸収を抑制するため、電解液層を数μm程度に薄くする必要がある。
【0004】
しかし、電解液層を薄くすると、電極反応における反応種や反応生成物の拡散が行われにくくなり、電極反応がスムーズに進行しないという問題が生じる。特に、電極反応によりガスが生成する場合には、生成したガスが電極表面に滞ってしまい、分光測定が妨害されるため正確な測定が難しくなる。さらに、電解液層が薄いため、電極に電流が流れにくく、電極反応が妨げられやすい。また、電極に電流が流れ難いことから、電極電位を所望の値に制御することが困難である。
しかも、電解液層を薄くしても、電極表面近傍に存在し、検出・同定の目的とする化学種の吸収と比較して、電解液層の吸収(バックグラウンド吸収)は著しく大きいため、完全にバックグラウンド吸収を除去することは非常に難しく、電極表面の情報が得られにくい。
【0005】
上記のようなIRASの問題は、底面に金属薄膜を形成したプリズムを用い、全反射(Attenuated−Total−Reflection;ATR)法を適用することによって解決することが可能である(図1参照)。ATR法は、プリズムと電解液とを密着させ、プリズムから電解液内部へわずかに染み出す光(エバネッセント波)の反射を測定するものである。ATR法において、赤外光は電解液層内を通過しないので、電解液による赤外光の吸収が小さく、電解液層を厚くすることができる。従って、IRASのように電解液層が薄いために生じる諸問題が、ATR法では発生しにくい。
【0006】
さらに、このとき、プリズムに形成する金属薄膜(金属の種類、薄膜を形成する金属の粒径、膜厚等)によっては、金属薄膜の近傍に存在する化学種の赤外吸収が著しく増大し、該化学種を高感度で観察することができる。この金属薄膜による化学種の赤外吸収増強は、表面増強赤外吸収(Surface−Enhanced Infrared Absorption;SEIRA)と呼ばれている(非特許文献1、非特許文献2参照)。
【0007】
このSEIRAをATR法と組み合わせたATR−SEIRAS法において、赤外吸収増強効果は、電極である金属薄膜と電解液との界面付近においてのみ得られるため、電解液層による赤外吸収は増大されることがなく、電極表面近傍に存在する化学種のみを高感度で観察することができる。
【0008】
【非特許文献1】M.Osawa “Dynamic Processes in Electrochemical Reactions Studied by Surface-Enhanced Infrared Absorption Spectroscopy (SEARA)” Bull.Chem.Soc.Jpn.,70,2681-2880(1997)
【非特許文献2】「赤外分光法」(実用分光学シリーズ)、尾崎幸洋編、アイピーシー出版部、第4章6節(160−170頁)、大澤雅俊分担執筆
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0009】
ATR−SEIRA法のプリズムとしては、赤外光の透過性、屈折率、電気化学的安定性等の観点から、主にシリコン(Si)が用いられることが多い。しかしながら、シリコンは1000cm−1以下のような低波数域に赤外吸収を有しているため、このような低波数域に赤外吸収を有する化学種に対して感度が低いという問題がある。
【0010】
本発明は上記実情を鑑みて成し遂げられたものであり、プリズム自身が赤外吸収を有する波数域、特に、約1000cm−1以下のような低波数域に赤外吸収を有する化学種の検出・同定を可能にする電気化学赤外分光装置を提供することを目的とするものである。
【課題を解決するための手段】
【0011】
本発明の電気化学赤外分光装置は、全反射測定用プリズムと、該プリズムの底面に密着した金属薄膜からなり、且つ、該プリズム底面と密着した面とは反対側の面に電解液が供給される作用電極と、前記作用電極と対をなす対極と、前記作用電極の電位規定用の参照電極と、赤外光を前記プリズムの内部から該プリズムと前記作用電極との界面に集光し、該界面で全反射する赤外光を検出器へと導いて強度を検出する光学系と、を備える電気化学表面増強赤外吸収分光装置であって、前記プリズムは、該プリズムにおける赤外光の最大光路長が10mm以下となる寸法を有し、前記光学系は、赤外顕微鏡と、Dが10以上の赤外高感度検出器を有することを特徴とするものである。
【0012】
本発明は、プリズム内における赤外光の最大光路長が10mm以下となるような寸法を有するプリズムを用いることによって、プリズム自身による赤外光の吸収を抑制するものである。このように、プリズムによる赤外分光測定の妨害を抑えることで、プリズム自身が赤外吸収を有する波数領域に赤外吸収を有する化学種の検出・同定が可能となる。
また、本発明の電気化学赤外分光装置は、最大光路長が10mm以下となるような小さなプリズムを用いる場合でも、高感度な赤外分光測定を可能とするために、赤外顕微鏡と高感度検出器を備える。
【0013】
プリズムによる赤外吸収をさらに抑えるため、前記プリズムは、該プリズムにおける赤外光の最大光路長が6mm以下となる寸法を有することが好ましい。
プリズム内における赤外光の最大光路長が10mm以下になるような寸法を有するプリズムとして、具体的には、形状が半球状又は半円柱状であり、該プリズムの半円状断面の径が10mm以下であるものが挙げられる。
また、赤外光の透過性、屈折率、電気化学的安定性等の観点から、前記プリズムは、シリコン(Si)からなることが好ましい。
【0014】
赤外分光測定の条件を安定に保持するためには、作用電極に供給される電解液の濃度を一定に保つことが好ましい。電解液の濃度を一定に保つ方法として、例えば、前記電解液が、前記作用電極と前記対極とを内壁の一部として有する空間内を流通させる方法を採用することができる。
【発明の効果】
【0015】
本発明によれば、プリズム自身が赤外吸収を示す波数領域においてもプリズムによる妨害が少ないので、高感度で測定することができる。すなわち、広範囲の波数領域における赤外スペクトルを高感度で観測することができ、あらゆる化学種の同定・検出が可能である。従って、本発明の電気化学赤外分光装置を用いることによって、電極表面における反応を詳細に解析することが可能である。
【発明を実施するための最良の形態】
【0016】
本発明の電気化学赤外分光装置は、全反射測定用プリズムと、該プリズムの底面に密着した金属薄膜からなり、且つ、該プリズム底面と密着した面とは反対側の面に電解液が供給される作用電極と、前記作用電極と対をなす対極と、前記作用電極の電位規定用の参照電極と、赤外光を前記プリズムの内部から該プリズムと前記作用電極との界面に集光し、該界面で全反射する赤外光を検出器へと導いて強度を検出する光学系と、を備える電気化学表面増強赤外吸収分光装置であって、前記プリズムは、該プリズムにおける赤外光の最大光路長が10mm以下となる寸法を有し、前記光学系は、赤外顕微鏡と、Dが10以上の赤外高感度検出器を有することを特徴とするものである。
【0017】
プリズムを用いる分光測定において、測定する化学種が特定されている場合には、当該化学種の測定領域における吸収が小さいプリズムを用いれば、プリズムによる妨害を受けずに分光測定することが可能である。しかしながら、測定しようとする化学種が特定されていない場合や、目的とする化学種が特定されているものの、測定条件下における使用が可能であり、且つ、当該化学種の測定領域における吸収が充分小さいプリズム用光学材料が存在しない場合には、光学材料の選定以外の設計条件によって赤外光の吸収を小さくし、プリズムによる分光測定の妨害をできるだけ抑えることが望まれる。プリズムによる測定上の妨害は、プリズム内における赤外光の光路長が長ければ長いほど大きくなる。
【0018】
例えば、上述したように、シリコン(Si)は赤外光の透過性、屈折率、電気化学的安定性等の観点から、電気化学赤外分光装置用プリズムとして一般的に用いられているが、1000cm−1以下のような低波数領域に赤外吸収を有するため、プリズム内における光路長が長ければ長いほどプリズム自身による上記波数領域における吸収が大きくなり、当該波数領域に赤外吸収を有する化学種の検出・同定は困難となる。
【0019】
そこで、本発明者らは、従来使用されているプリズムと比較してプリズム内における光路長を短くする、すなわち、プリズムを小型化することによって、プリズムによる赤外吸収を抑えられることに着目した。従来のATR−SEIRAS法において使用されているプリズムは、例えば、半円柱状や半球状を有する場合、該プリズムの半円状断面の径(直径)が小さくても20〜25mm程度、すなわち、プリズム内における赤外光の光路長が短くても約20〜25mm以上はあった。従来、このようなサイズのプリズムが用いられてきた理由の一つとして、通常の赤外分光器では、赤外ビームのスポット径が5〜10mmであり、このようなスポット径の赤外ビームを効率良く利用するためには20〜25mm位の径を有するプリズムを用いる必要がある、ということが挙げられる。
【0020】
これに対し、本発明で用いるプリズムは、プリズム内での光路長が最大で10mm以下となるような寸法を有している。このように、プリズムによる赤外吸収の妨害をできるだけ小さくすることによって、プリズム自身が赤外吸収を示す波数領域を含む広範囲な波数領域において赤外分光測定を可能にし、また、目的とする化学種の検出・同定を容易に、且つ、より正確に行うことが可能となる。
【0021】
そして、本発明は、小型化したプリズムに効率良く赤外光を集光させるために赤外顕微鏡を、さらに、赤外顕微鏡によって絞られた赤外光を高感度で検出するためにDが10以上の高感度検出器を用いることによって、小型のプリズムを用いても充分に高い感度を実現した。
【0022】
以下、本発明の電気化学赤外分光装置について、図1を用いて説明する。図1は、本発明の電気化学赤外分光装置に備えられる電気化学赤外分光セルの一形態例を示す模式図である。
【0023】
図1において、全反射測定用プリズム(以下、単にプリズムということがある)1の底面(測定面)には、金属薄膜からなる作用電極2が密着した状態で設けられている。この作用電極2は、プリズム1と接する面とは反対側の面に電解液3が供給される。すなわち、プリズム、金属薄膜、媒質(電解液)をプリズム/金属/電解液の順に配置するkretschmann配置である。
【0024】
作用電極2と対をなし、作用電極2に電流を流す対極4も電解液3と接しており、作用電極2の電解液3との接触面において電極反応が進行する。電解液3には、さらに作用電極2の電位を制御する参照電極5が接触している。図1に示す電気化学赤外分光セルにおいては、電解液3を充填する容器6内に対極4及び参照電極5が配置され、電解液3と対極4及び参照電極5とが接するようになっている。
【0025】
プリズム1は、測定領域における赤外吸収が小さく、屈折率が大きなもの(通常は、水の屈折率1.33よりも大きいもの)であれば特に限定されず、赤外分光において一般的に用いられているもの、例えば、シリコン(Si)、ゲルマニウム(Ge)、KRS−5(臭化ヨウ化タリウム)、硫化亜鉛(ZnS)、セレン化亜鉛(ZnSe)、サファイア等を用いることができる。理論的には、プリズムの屈折率が大きいほど、バルクの電解液の赤外吸収による妨害をさらに抑制することができるため、屈折率の大きなプリズムを用いることが好ましい。
【0026】
中でも、屈折率が大きく、電気化学安定性や、化学的安定性(耐酸性)に優れたシリコンが好適である。また、シリコンは電位窓が広く、さらには、金属薄膜との密着性にも優れるという観点から、ATR−SEIRA法のプリズムとして適している。ただし、シリコンは、1000cm−1以下のような低波数領域において赤外吸収を示すため、当該領域における感度があまりよくない。しかしながら、本発明によれば、プリズム自身による赤外吸収を抑制することが可能であることから、シリコンプリズムを用いても、1000cm−1のような低周波領域における感度の低下を抑えた赤外分光装置を提供することができる。
【0027】
また、例えば、ゲルマニウムは、屈折率が高く、且つ、1000cm−1以下のような低波数領域における赤外吸収が小さく、600cm−1まで赤外光を透過させることができるため、低波数領域の感度が高く優れた光学特性を示す。しかしながら、化学的安定性が低く、作用電極(金属薄膜)2を構成する金属の種類や金属薄膜の作製方法等によっては、プリズム1の底面に所望の形状を有する作用電極2を形成することが困難であるという問題がある。具体的には、プリズムから金属薄膜が剥離しやすくなったり、金属薄膜に比較的大きなサイズのクラックやピットが発生することにより、ゲルマニウムが電解液に晒され、ゲルマニウム自身が溶解してしまう場合もある。従って、ゲルマニウムを用いる場合には、後述の金属薄膜を構成する金属種や金属薄膜の作製方法並びに測定電位領域等を適宜選択することが好ましい。
【0028】
本発明の電気化学赤外分光装置は、上述したように、プリズム自身による赤外吸収を抑制するために、プリズムが、プリズムにおける赤外光の最大光路長が10mm以下となるような寸法を有している点に特徴を有している。ここでプリズムにおける赤外光の光路長とは、赤外光がプリズムの表面から入射し、作用電極と該プリズムとの界面において全反射し、プリズムの表面から出射するまでの光路の長さである。
【0029】
プリズム内における赤外光の光路長は、プリズムの形状や赤外光の集光位置、入射角度等によって異なる。本発明においては、用いるプリズムの測定条件として想定される範囲内の集光位置、入射角度(全反射測定なので臨界角以上の範囲)における光路長のうち、最も長いものが10mm以下となるようなプリズムを用いる。プリズムによる赤外吸収の妨害をより小さくするためには、プリズム内における最大光路長が6mm以下となるようなプリズムを用いることが好ましい。
また、プリズムの寸法は小さいほど本発明には都合がよいが、作製又は入手の容易さという観点から、さらに、電解液漏れを防ぐためにプリズムとセルとの間にシリコンゴム等のO−リング又はシートを挟みこむことを考慮して、通常、その最大光路長が3mm以上のプリズムが用いられる。
【0030】
プリズムの形状は、特に限定されず、赤外分光において用いられている一般的なものを用いることができる。例えば、半球状、半円柱状(かまぼこ状)、ピラミッド状、台形状等が挙げられる。中でも、赤外光のスポット径を焦点をぼかさずに微小領域に絞り込めるという観点から半球状が好ましい。
【0031】
本発明において、半球状や半円柱状等の球面を有する形状のプリズムを用いる場合、最大光路長を10mm以下とするためには、該プリズムの半円状断面の径(直径)を10mm以下とすればよい。さらに、最大光路長を6mm以下とするためには、プリズムの半円状断面の径を6mm以下程度とすればよい。尚、ここでいう半球状又は半円柱状プリズムの半円状断面とは、半球状プリズムの底面となる円の中心を通り、且つ、該底面に対して垂直に交わる面における該プリズムの半円状断面、或いは、半円柱状プリズムの長手方向及び底面に対して垂直に交わる面における該プリズムの半円状断面のことをいう。
【0032】
作用電極2は、表面増強赤外吸収(SEIRA)を示す金属薄膜からなり、作用電極2として機能すると共に、当該作用電極2と電解液との界面近傍に存在する化学種の赤外吸収を増大させるものである。
SEIRAを示す金属薄膜としては、通常、数十nm程度の径を有する金属微粒子が島状に分散した島状薄膜や、20〜100nm程度の薄い金属連続膜上に数十nm程度の径を有する金属微粒子が島状に分散したものが挙げられる。ここで、金属連続膜上に金属微粒子が島状に分散した金属薄膜は、金属連続膜と当該金属連続膜上に存在する金属微粒子の金属種が異なっていてもよいし、同一であってもよい。
或いは、SEIRAを示す金属薄膜として、表面に深さ10〜100nm程度の微細凹凸を有する薄い金属連続膜でもよい。
【0033】
SEIRAを発現する金属としては、例えば、Ag、Au、Cu、In、Li、Sn、Pt、Pd、Ni、Al、Pb、Fe、Ir、Rh、Ruやこれら金属の合金(例えば、Pt−Fe合金)等が挙げられるが、これらに限定されず、理論的にはほとんどの金属で同程度の増強効果が期待される。上記にて例示した金属のうち、特にAg、Au、Cu、Ptは、高い赤外吸収増強効果を示すことが実験的に示されている。
【0034】
作用電極2を形成する金属薄膜は、SEIRAを示し、且つ、エバネッセント波が電解液に到達する膜厚であって、電気導電性を確保できる膜厚を有するものであれば、金属微粒子の径や、金属薄膜の膜厚等は特に限定されない。充分なSEIRA強度を発現するためには、金属微粒子が表面に存在する金属薄膜の場合、金属微粒子の平均粒径が5〜100nm程度、特に50〜100nm程度が好ましい。金属微粒子の平均粒径が100nmを超えるような大きさになると、赤外吸収増強効果が減少する場合がある。
【0035】
また、表面に微細な凹凸形状を有する金属連続膜の場合、充分なSEIRA強度を発現するためには、微細凹凸の表面からの深さが50〜100nm程度であることが好ましい。原子レベルで平滑な表面では、SEIRA効果が低くなるおそれがあるからである。
金属薄膜のプリズム側表面の形状(金属微粒子の大きさや形状、連続膜上の凹凸サイズや形状等)によっては、得られるスペクトルが大きく歪む場合があることを考慮して、金属薄膜の表面構造を適宜設計することが好ましい。
【0036】
また、金属薄膜の膜厚は5〜100nm程度、十分な電気導電性を確保するためには特に20〜100nm程度であることが好ましい。金属薄膜の膜厚が100nmを超えると、金属微粒子の分散性が低下し、金属微粒子の融合が生じて島状に金属微粒子が分散した金属薄膜が形成されにくい。その結果、SEIRA強度が低下してしまう場合がある。但し、金属微粒子同士が互いに融合しあった金属薄膜でも、金属薄膜表面には多くのピットやクラック等の凹凸が存在し、これら金属薄膜の凹凸により赤外吸収の増強が生じる場合がある。従って、金属薄膜として、表面に金属微粒子が島状に分散していること、或いは、表面に上記したような微細凹凸があることは必ずしも必要なことではないが、赤外吸収増強効果が高いことから、クラックやピット等の比較的大きな凹凸を有する金属薄膜よりも、島状に分散した金属微粒子が存在している金属薄膜や上記したような微細凹凸を有する金属薄膜が好ましい。
【0037】
尚、金属薄膜の膜厚とは、金属薄膜の膜全体の厚みであり、連続膜上に金属微粒子が存在するものや、微細凹凸を有するものは、これら金属微粒子や微細凹凸を含めた厚みを金属薄膜の厚みとする。
【0038】
作用電極としての充分な電気導電性と、高いSEIRA効果とを同時に確保するためには、金属連続膜上に金属微粒子が島状に密に分散したもの、或いは、金属連続膜上に微細凹凸を有する金属薄膜が好ましい。
【0039】
以上のようなSEIRAを示す金属薄膜は、エバネッセント波がプリズムと接する面とは反対側の面(電極表面)まで十分に染み込むことができる薄さであり、電極の裏側から赤外光を当てることによって電極表面を観察することが可能である。
【0040】
ここで金属微粒子の平均粒径とは、金属微粒子の長径、短径の平均値であって、走査電子顕微鏡(SEM)、走査型トンネル顕微鏡(STM)、走査型原子間力顕微鏡(AFM)等による観察によって測定することができる。また、金属薄膜の膜厚は、水晶微量天秤による重量測定から換算したり、SEM、STM、AFM等によって測定することができる。
【0041】
上記のような金属薄膜の作製方法は特に限定されず、例えば、真空蒸着法や電解メッキ、無電解メッキ、スパッタ法等が挙げられる。真空蒸着法は、SEIRAを発現する金属薄膜を作製しやすく、金属種の選択性が広い。また、無電解メッキは、充分な電気導電性とSEIRA効果を同時に確保する金属薄膜を形成することができる。しかも、無電解メッキは、最も簡便な方法であり、且つ、プリズムとの密着性に優れた金属薄膜を形成することができる。無電解メッキによる金属薄膜形成条件が確立されているものとしては、例えば、Ag、Au、Cu、Pt、Pd等が挙げられる。
金属薄膜作製時の条件(例えば、真空蒸着法における蒸着速度、無電解めっき法におけるめっき液の組成とめっき温度、など)によって、SEIRA効果が大きく左右されるため、適宜条件設定することが好ましい。
【0042】
また、金属薄膜とプリズムとの密着状態が悪いと、測定中に金属薄膜がプリズムから剥離する等の問題が生じるため、金属薄膜とプリズムの密着性は重要である。プリズムと金属薄膜との密着性を向上させるために、金属薄膜を形成する前に、例えば、プリズム底面に表面処理を施してもよい。プリズムと金属薄膜との密着性を向上させることによって、測定の感度を高めることができる。例えば、シリコンプリズムを用いる場合の表面処理としては、メルカプトシラン処理等が挙げられる。
電極表面は、電解液中で電位による酸化還元(酸化物形成域−水素発生域)を繰り返すことで洗浄しておくことが好ましい。電極表面の汚染は、電極反応の観察を著しく妨げるためである。
尚、SEIRAについては、上記した非特許文献1、非特許文献2等を参考にすることができる。
【0043】
プリズム1の内部からプリズム1と作用電極2との界面に集光された赤外光は、臨界角より大きい入射角で当該界面に入射し、全反射される。このとき、エバネッセント波が作用電極2である金属薄膜の反対側の面(電極表面)まで染み込み、反射の際に作用電極2と電解液3との界面近傍に存在する化学種による吸収を受ける。ゆえに、プリズム1と作用電極2との界面から出射する反射光の強度を測定し、吸収スペクトルを解析することによって、作用電極2と電解液3との界面近傍に存在する化学種の検出や同定ができる。このときの化学種の赤外吸収は、作用電極2である金属薄膜の赤外吸収増強効果によって、著しく増大されるため、高感度で検出・同定が可能である。
【0044】
尚、ここでいう作用電極2と電解液3の界面近傍に存在する化学種とは、作用電極の表面に吸着している吸着種のみならず、作用電極2の表面に吸着することなく作用電極2と電極液3の界面近傍に浮遊しているものも含まれ、電極反応における反応生成物や反応中間体、反応副生成物等が挙げられる。
【0045】
本発明の電気化学赤外分光装置は、SEIRAによる赤外吸収の増大効果を利用したものであり、電極表面の高感度なその場測定が可能である。また、ATR配置を利用することによって、IRASとは異なり、赤外光をプリズム側からプリズムと作用電極との界面に入射させるため、電解液による赤外光の吸収が小さく、電極表面近傍に存在する化学種測定の妨害がほとんどない。
また、電解液層を1〜2μm程度に薄くする必要があるIRASに対して、ATR配置を利用する本発明の赤外分光装置は、電解液層の厚みに制限がないため、電解液内における成分の拡散が妨げられず、電極反応がスムーズに進行する。特に、電極反応によりガスが生成する場合でも、IRASに比べて、生成ガスが電極表面に滞りにくいため、生成ガスによる赤外分光測定の妨害が少ない。さらに、IRASのように、電流が流れ難いことによる電極反応の妨害や、電極電位の制御が困難であるといった問題が生じない。
【0046】
電解液3は、作用電極2・対極4間に電流を流すための媒体となるものであって、作用電極2において酸化又は還元反応する反応種を含むものである。電解液としては、例えば、酸化反応種又は還元反応種、或いは、酸化反応種又は還元反応種を生成する電解質を溶解した電解質溶液や、酸化反応種又は還元反応種とイオン伝導を行う成分とを含むもの等が挙げられる。ここで、酸化反応種又は還元反応種には、測定条件下の電解液中において、酸化反応種又は還元反応種を生成する前駆体も含まれる。具体的には、酸素ガスと水素ガスを溶解させた酸性水溶液や、メタノールと酸性溶液との混合液等が挙げられる。
電解液は、酸素の還元反応の測定等の目的がある場合を除けば、再現性の確保や反応の複雑化を避けるために、ArガスやNガス等を用いて、電解液中の酸素を除く必要がある。
【0047】
対極4は、観察しようとする作用電極2に電流を流すことができれば、材質、形状等は特に限定されない。また、参照電極5は、使用する電解液内において作用電極の電位の基準となる安定な電位を示すものであればよく、標準水素電極(SHE又はNHE)や、飽和カロメル電極(SCE)、可逆水素電極(RHE)、銀−塩化銀電極(Ag/AgCl)等を用いることができる。
【0048】
作用電極2に供給される電解液3の濃度は、電極表面の観察条件として、一定に保たれることが好ましい。このような観点から、電解液3は、図2に示すようなフローシステムにより供給されることが好ましい。
図2においては、電解液3を収容した容器7と連通する導管8を電解質3が流通するようになっており、作用電極2の表面で電解液3が滞留しないようになっている。また、図2においては、作用電極2と共に対極4が導管8の内壁を構成し、且つ、対峙した構造となっている。このとき、参照電極5は容器7内に配置することができる。
【0049】
このように作用電極に電解液を供給する手段として、作用電極及び対極を内壁の一部として有する空間内(導管8)に電解液を流通させるフローシステムを採用することによって、電極表面における物質の拡散性を向上させる他、電気化学赤外分光セルをコンパクト化することができ、プリズムの小型化に伴う電気化学赤外分光セルのコンパクト化設計が容易となる。尚、フローシステムを採用してセルを小型化する場合、ArガスやNガス等を用いて電解液から酸素を除く処理をセル内において行うことが難しいため、予め酸素を除いた電解液をフローさせることになる。
【0050】
電気化学赤外分光セルの小型化、電解液の高流速化が可能であることから、フローシステムにおける電解質層の高さ(導管の高さ、作用電極−該作用電極と対向する壁の距離)は、0.1〜5mm程度とすることが好ましい。電解液の高流速化は、物質の拡散の影響を低減できるという利点がある。
また、フローシステムを採用することにより、反応生成物を高速液体クロマトグラフィー(HLPC)や質量分析器に導いて分析することも可能となる。
【0051】
本発明のような小型のプリズムを用いる場合、赤外光をプリズム底面の寸法に見合ったスポット径に絞って集光させないと、光のロスが生じ、赤外分光測定を実行することが難しい。そのため、赤外顕微鏡を用いて赤外光を絞り込む必要がある。赤外光のスポット径の絞込みは、用いるプリズムの形状や寸法、観察したい電極領域の大きさによって適宜調節すればよいが、本発明の赤外分光装置に備えられるプリズムの寸法では、通常、2mm以下に絞り込む必要がある。赤外顕微鏡を用いれば、原理的には10〜20μm程度まで赤外光のスポット径を絞り込むことが可能である。赤外顕微鏡としては、赤外顕微分光器に用いられる一般的なものを用いればよい。
【0052】
以上のように小型のプリズム底面、すなわち、微小領域に赤外顕微鏡を用いて赤外光を集光させる場合には、反射光の検出には微弱光を検出することができるD10以上の高感度検出器を用いる必要がある。Dは検出器の感度を表すパラメータであり、値が大きいほど検出器の感度が高いことを示す。目安としては、FT−IR分光器に標準設置されている焦電型検出器DTGS或いはTGSよりも高感度な半導体検出器が挙げられる。高感度検出器は、通常、液体窒素若しくはヘリウムで冷却しながら用いる。
が10以上の高感度検出器としては、一般的に用いられているもの、例えば、800〜4000cm−1の波数領域では液体窒素冷却高感度MCT検出器、2000cm−1以上の波数領域における測定ではInSb検出器、1000cm−1以下の波数領域における測定ではボロメータ、等を用いることができる。
【0053】
本発明において、赤外光をプリズムの内部から該プリズムと作用電極との界面に集光し、且つ、該界面で全反射する赤外光を検出器へと導き、該全反射赤外光の強度を検出する光学系には、上記赤外顕微鏡及び高感度検出器の他、赤外光の光源、放射光から平行光や収束光を生成、抽出するためのレンズや反射鏡、スリット等、その他の部材が適宜組み合わされて含まれる。光源として、シンクロトロンの高輝度光源を用いることで、より高いS/N比が得られることが期待できる。
【0054】
図4に、本発明の電気化学赤外分光装置の形態例(FT−IR分光器)を示す。図4の(4A)において、光源から照射された赤外光は、ビームスプリッターや反射鏡により、試料室内の作用電極とプリズムの界面へと導かれ、当該界面で反射した反射光が検出器へと導かれる。赤外顕微鏡へは平面鏡を用いて赤外光を分光器から赤外顕微鏡へと導く(図4(4B)参照)。また、イメージ測定の場合には、平面鏡を用いて、赤外光をイメージ測定用の外部光学系(図示せず)へと導く。
【0055】
本発明の電気化学赤外分光装置による電極表面のその場測定は、一般的な方法に順じて行うことができる。
また、必要に応じて、電位制御用ポテンショスタットを用いて、作用電極の電位を制御し、電位を一定に保ったり、電位を走査して電流を測定しながら、赤外吸収スペクトルを測定してもよい。また、本発明のようにSEIRAを利用した電気化学赤外分光装置は、マイクロ秒からミリ秒オーダーで変化する赤外吸収スペクトルを測定する時間分解測定に有効である。時間分解測定はシグナルが十分に大きい必要があるが、SEIRAを利用した電気化学赤外分光装置はシグナルを大きくすることができるからである。時間分解測定により、寿命の短い反応中間体の検出・同定が可能となる。
【0056】
本発明の電気化学赤外分光装置は、電極表面、例えば、燃料電池の触媒表面等における電極反応機構の詳細な解明を可能にするものである。さらに、メッキ過程、金属腐食、各種表面処理等の観察に好適に用いることもできる。
【実施例】
【0057】
(参考実験例)
半円状断面の半径が10mm(すなわち、光路長20mm)の半球状Siプリズムと、半円状断面の半径が5mm(すなわち、光路長10mm)の半球状Siプリズムのシングルビームスペクトルを測定した。結果を図3に示す。
【0058】
光路長が20mmである半径10mmのプリズムでは、1000cm−1以下の波数領域において、信号強度がゼロになり、スペクトルが得られなかった。
一方、光路長が10mmである半径5mmのプリズムでは、630cm−1まで赤外光が透過し、スペクトルを得ることができた。ゆえに、プリズムをさらに小さくし、赤外顕微鏡で赤外光のスポット径を絞り込めば、信号強度がさらに大きくなり、その結果得られるスペクトルの信号−雑音比が大きくなって、精度の高い赤外分光測定が可能となることがわかる。
【図面の簡単な説明】
【0059】
【図1】本発明の電気化学赤外分光装置に備えられる電気化学赤外分光セルの一形態を示す模式図である。
【図2】本発明の電気化学赤外分光装置に備えられる電気化学赤外分光セルの一形態を示す模式図である。
【図3】半径5mm(プリズム内光路長10mm)のプリズム及び半径10mm(プリズム内光路長20mm)のプリズムのシングルビームスペクトルである。
【図4】本発明の電気化学赤外分光装置の一形態例を示す概略図である。
【図5】従来の電気化学赤外分光(IRAS)法に用いられる電気化学赤外分光セルの一形態を示す模式図である。
【符号の説明】
【0060】
1…全反射測定用プリズム
2…作用電極(金属薄膜)
3…電解液
4…対極
5…参照電極
6…容器
7…容器
8…導管

【特許請求の範囲】
【請求項1】
全反射測定用プリズムと、該プリズムの底面に密着した金属薄膜からなり、且つ、該プリズム底面と密着した面とは反対側の面に電解液が供給される作用電極と、前記作用電極と対をなす対極と、前記作用電極の電位規定用の参照電極と、赤外光を前記プリズムの内部から該プリズムと前記作用電極との界面に集光し、該界面で全反射する赤外光を検出器へと導いて強度を検出する光学系と、を備える電気化学表面増強赤外吸収分光装置であって、
前記プリズムは、該プリズムにおける赤外光の最大光路長が10mm以下となる寸法を有し、前記光学系は、赤外顕微鏡と、Dが10以上の赤外高感度検出器を有することを特徴とする電気化学赤外分光装置。
【請求項2】
前記プリズムは、該プリズムにおける赤外光の最大光路長が6mm以下となる寸法を有する、請求項1に記載の電気化学赤外分光装置。
【請求項3】
前記プリズムの形状が半球状又は半円柱状であり、該プリズムの半円状断面の径が10mm以下である、請求項1又は2に記載の電気化学赤外分光装置。
【請求項4】
前記プリズムがシリコン(Si)からなる、請求項1乃至3のいずれかに記載の電気化学赤外分光装置。
【請求項5】
前記電解液が、前記作用電極と前記対極とを内壁の一部として有する空間内を流通している、請求項1乃至4のいずれかに記載の電気化学赤外分光装置。

【図1】
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【図2】
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【図3】
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【図4】
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【図5】
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【公開番号】特開2007−78487(P2007−78487A)
【公開日】平成19年3月29日(2007.3.29)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2005−265859(P2005−265859)
【出願日】平成17年9月13日(2005.9.13)
【出願人】(504173471)国立大学法人 北海道大学 (971)
【出願人】(000003207)トヨタ自動車株式会社 (59,920)
【Fターム(参考)】