説明

硫黄含有ペプチドの処理法及び硫黄原子含有ペプチドの解析法

【課題】酸化メチオニン残基及び非酸化メチオニン残基が混在しうるタンパク質・ペプチド試料において、選択的にメチオニン残基含有化学種を酸化体として収束させる方法を提供する。質量分析を用いたタンパク質・ペプチドの解析の感度及び定量性を向上させることができる方法を提供する。
【解決手段】S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、メチオニン残基とを有するペプチド(A)を含む試料に、酸化工程として、過酸化水素を加えてメチオニン残基の硫黄原子のみを酸化する工程を行うことを含む、硫黄原子含有ペプチドの処理法。前記硫黄原子含有ペプチドの処理法によって得られた、S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、酸化されたメチオニン残基とを有するペプチドを、質量分析装置を用いて測定する、硫黄原子含有ペプチドの解析方法。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、タンパク質・ペプチド化学、及び質量分析学に関する。より詳しくは、本発明は、硫黄原子を含有するタンパク質の質量分析法に関する。
【背景技術】
【0002】
タンパク質・ペプチド中の酸化されやすい即鎖を有するアミノ酸残基を酸化して、その構造及び生物活性の変化を調べることは、タンパク質・ペプチド化学の主要な研究分野の一つであり、古くから活発に研究が行われている。酸化反応を行う際に重要なことは、目的とする残基のみを選択的に酸化することである。酸化剤としては、オゾン、N−クロロスクシンイミド、N−ブロモスクシンイミド、クロラミンT、トリクロロメタンスルホニルクロリド、過酸化水素などが用いられる。また、メチレンブルーを光増感剤として光酸化を行う方法も知られている。
【0003】
さらに、メチオニンを含むペプチドに、過酸化水素を作用させることによってメチオニンスルホキシドへ、或いは過酸化水素と蟻酸とを作用させることによってメチオニンスルホンへ酸化し、得られた酸化体をFAB−CID−MS/MS測定に供することで、スルホキシドからはCH3SOH部分が、スルホンからはCH3SO2部分が脱落したメタステーブルイオンが発生しやすくなる知見が得られている(例えば、非特許文献1参照)。
【0004】
一方、タンパク質・ペプチド解析方法として、2−ニトロベンゼンスルフェニルクロリド(NBSCl)を用いて同位体標識法を行い、質量分析装置を用いてディファレンシャルディスプレイを行う、NBS法が知られている(例えば、特許文献1及び非特許文献2参照)。
【0005】
【特許文献1】国際公報第2004/002950号パンフレット
【非特許文献1】F・M・ラゲルヴェルフら(F.M.Lagerwerf et al.)、「ラピッド・コミュニケーションズ・イン・マス・スペクトロメトリー(Rapid Communications In Mass Spectrometry)」、1996年、第10巻、p.1905−1910
【非特許文献2】九山浩樹(Hiroki Kuyama)、渡辺真(Makoto Watanabe)、戸田千香子(Chikako Toda)、安藤英治(Eiji Ando)、田中耕一(Koichi Tanaka)及び西村紀(Osamu Nishimura)、「ラピッド・コミュニケーションズ・イン・マス・スペクトロメトリー(Rapid Communications In Mass Spectrometry)」、2003年、第17巻、p.1642−1650
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0006】
タンパク質・ペプチド試料の調製時、試料中において、酸化されやすい側鎖を有するアミノ酸残基が部分的に酸化を受けることがよくある。このようなタンパク質・ペプチド試料は、例えばペプチド断片に断片化されて質量分析装置で測定された場合に、本来の未酸化の状態では単一種としてのピークで見られるはずが、複数種としてのピークに分散して観測されてしまう。これは、当該ペプチド断片の感度低下を意味し、好ましくない現象である。さらに、NBS法によるタンパク質の相対定量分析においては、感度低下もさることながら、酸化体が混在することで定量精度の低下が起こってしまう。
【0007】
これを解決するためには、酸化を受けたタンパク質・ペプチドを還元するか、あるいは、酸化されていないタンパク質・ペプチドを酸化することによって、いずれの場合も、単一の化学種に収束させることが考えられる。しかしながら、還元体として化学種を収束させる方法では、サンプル調製中に酸化を受けるほどの反応性を考慮すると、マススペクトル上には、目的のペプチド断片のピークは、酸化体のものが、未酸化体のものに伴って観測されると容易に予測される。逆に、酸化体として化学種を収束させる方法では、酸化体が化学的に安定であることから、目的のペプチド断片のピークは、単一ピークとして観測されると予測できる。
【0008】
本発明者らは、タンパク質・ペプチド中のメチオニン残基に着目し、メチオニン残基硫黄原子を選択的に酸化することで、タンパク質・ペプチド試料中のメチオニン含有化学種を、メチオニン酸化体として収束させることを目的とした。上記従来技術において述べたように、酸化剤に関しては種々の試薬が知られているが、目的とするタンパク質・ペプチド中のメチオニン残基硫黄原子の選択的酸化についてみれば、過酸化水素、N−クロロスクシンイミド、クロラミンTや、光酸化において光増感剤として用いられるメチレンブルーなどの試薬によって可能であると報告されている。しかしながら、N−クロロスクシンイミド、クロラミンT、或いはメチレンブルーを用いる場合は、いずれも微妙な条件設定が必要とされ、さらに反応後の分離・精製が厄介となる場合がある。
【0009】
本発明においては、質量分析を用いたタンパク質・ペプチドの解析に、このようなメチオニン残基の酸化法を応用することも目的としている。従って、酸化反応後の処理工程にかかる時間はなるべくない方がよい。このように考えて酸化剤を見てみると過酸化水素が適しているように思われる。
なお、質量分析装置を用いたタンパク質・ペプチドの解析方法の感度及び定量性の向上を達成するために、タンパク質・ペプチドに酸化反応が利用された例はない。
【0010】
本発明の目的は、硫黄原子を含むタンパク質又はペプチドにおいて、メチオニン残基の硫黄原子のみを選択的に酸化する方法を提供することにある。
また、本発明の目的は、酸化メチオニン残基及び非酸化メチオニン残基が混在しうるタンパク質・ペプチド試料において、選択的にメチオニン残基含有化学種を酸化体として収束させる方法を提供することにある。さらに本発明の目的は、質量分析を用いたタンパク質・ペプチドの解析の感度及び定量性を向上させることができる方法を提供することにある。
【課題を解決するための手段】
【0011】
本発明は、以下の発明を含む。以下、本発明においては、ペプチドとは、オリゴペプチド、ポリペプチド及びタンパク質を含む意味で用いる。
【0012】
下記[1]〜[7]は、硫黄原子含有ペプチドの処理法に向けられる。
[1]
S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、メチオニン残基とを有するペプチド(A)を含む試料に、酸化工程として、過酸化水素を加えてメチオニン残基の硫黄原子のみを酸化する工程を行うことを含む、硫黄原子含有ペプチドの処理法。
【0013】
下記[2]は、酸化メチオニン残基と非酸化メチオニン残基とが混在したタンパク質・ペプチド試料において、メチオニン残基の硫黄原子を選択的に酸化することによって、メチオニン残基含有ペプチド種を酸化体として収束させる形態に向けられる。
【0014】
[2]
前記S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、メチオニン残基とを有するペプチド(A)を含む試料は、S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、酸化されたメチオニン残基とを有するペプチド(A-oxide)をさらに含むものであり、
前記酸化工程を行うことによって、前記試料中の前記ペプチド(A)を、前記ペプチド(A-oxide)と同じ構造を有するS−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、酸化されたメチオニン残基とを有するペプチドに変換する、[1]に記載の硫黄含有ペプチドの処理法。
【0015】
下記[3]は、上記[2]における酸化メチオニン残基と非酸化メチオニン残基とが混在した試料を、システイン残基及び/又はトリプトファン残基に対する処理を行うことによって得る形態に向けられる。この場合において、当該酸化メチオニン残基は、積極的な酸化処理によって生じるものではなく、好ましくは、システイン残基及び/又はトリプトファン残基に対する処理において、副生成物として生じたものである。
【0016】
[3]
前記ペプチド(A)と、さらに前記ペプチド(A-oxide)を含む試料は、下記工程:
システイン残基及び/又はトリプトファン残基と、メチオニン残基とを有するペプチドに、
前記システイン残基を有する場合、前記システイン残基のS−アルキル化を行うこと、及び/又は、
前記トリプトファン残基を有する場合、前記トリプトファン残基のスルフェニル化を行うこと、
を含む処理を行うことによって、
主生成物として、前記S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、メチオニン残基とを有するペプチド(A)と、
副生成物として、前記S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、酸化されたメチオニン残基とを有するペプチド(A-oxide)とを得る工程
によって得られるものである、[2]に記載の硫黄含有ペプチドの処理法。
【0017】
[4]
前記S−アルキル化されたシステイン残基は、S−カルバミドメチル化されたシステイン残基である、[1]〜[3]のいずれかに記載の硫黄原子含有ペプチドの処理法。
【0018】
[5]
前記スルフェニル化されたトリプトファン残基は、2−ニトロベンゼンスルフェニル化されたトリプトファン残基である、[1]〜[4]のいずれかに記載の硫黄原子含有ペプチドの処理法。
【0019】
[6]
前記2−ニトロベンゼンスルフェニル化されたトリプトファン残基は、トリプトファン残基に2−ニトロベンゼンスルフェニルクロリドを作用させることによって得られたものである、[5]に記載の硫黄原子含有ペプチドの処理法。
【0020】
[7]
前記メチオニン残基の硫黄原子は、スルホキシドに酸化される、[1]〜[6]のいずれかに記載の硫黄原子含有ペプチドの処理法。
【0021】
下記[8]の発明は、タンパク質の質量分析法に向けられる。上記[1]〜[7]のいずれかに記載の方法を用いることによって、メチオニン残基含有ペプチド種が酸化体として収束させられているため、マススペクトルにおいて当該ペプチド種が感度及び定量性良く検出される。
【0022】
[8]
[1]〜[7]のいずれかに記載の硫黄原子含有ペプチドの処理法によって得られた、S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、酸化されたメチオニン残基とを有するペプチドを、質量分析装置を用いて測定する、硫黄原子含有ペプチドの解析方法。
【発明の効果】
【0023】
本発明によると、硫黄原子を含むタンパク質又はペプチドにおいて、メチオニン残基の硫黄原子のみを選択的に酸化する方法を提供することができる。
【0024】
また、本発明によると、酸化メチオニン残基及び非酸化メチオニン残基が混在しうるタンパク質・ペプチド試料において、選択的にメチオニン残基含有化学種を酸化体として収束させる方法を提供することができる。さらに本発明によると、質量分析を用いたタンパク質・ペプチドの解析の感度及び定量性を向上させることができる方法を提供することができる。
【0025】
より具体的には、従来、質量分析試料を調製するためのペプチド処理において副産物として生じた酸化体の存在の影響により、メチオニン残基含有ペプチドのピークが分散して検出されていたが、本発明によって、すべてのメチオニン残基が酸化体として収束されるため、当該メチオニン残基含有ペプチドのピークを、単一のピークとして検出することが可能になる。また、質量分析において、メチオニンの酸化体は非酸化体よりも開裂を受けやすいため、PSD(ポストソースディケイ)測定やMSの二乗以上の多段階測定において、より多くの構造情報を得ることができる。
【発明を実施するための最良の形態】
【0026】
以下において、タンパク質又はペプチドをまとめてペプチドと記載する。
<硫黄原子含有ペプチドの処理法>
本発明においては、硫黄原子含有ペプチドの処理法を提供する。本発明の硫黄原子含有ペプチドの処理法においては、硫黄原子を含むペプチドにおいて、メチオニン残基の硫黄原子のみを選択的に酸化する。より具体的には、硫黄原子を含むタンパク質又はペプチドは、硫黄原子含有アミノ酸残基として、システイン残基或いはS−修飾されたシステイン残基、スルフェニル化されたトリプトファン残基、メチオニン残基を含む。
【0027】
本発明は、例えば、ペプチド中のメチオニン残基を酸化して、その構造および生物活性の変化を調べる場合などに、ペプチド中のメチオニン残基を選択的に酸化する目的で用いることができる。
【0028】
本発明には、S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、メチオニン残基とを有するペプチド(A)を含む試料に、酸化工程を行う形態が含まれる(下記式1)。酸化工程においては、過酸化水素の作用により、メチオニン残基の硫黄原子のみが酸化される。
【0029】
下記式1においては、S−アルキル化されたシステイン残基の例としてカルボキシメチル化されたシステイン残基、スルフェニル化されたトリプトファン残基の例として、ニトロベンゼンスルフェニル化されたトリプトファン残基が記載されている。下記式1中、Cはシステイン残基、C(CAM)はカルボキシメチル化されたシステイン残基、Wはトリプトファン残基、W(NBS)はニトロベンゼンスルフェニル化されたトリプトファン残基、Mは酸化されていないメチオニン残基、M*は酸化されたメチオニン残基、点線はペプチド鎖を表す。
【0030】
従って、下記式1においては、カルボキシルメチル化されたシステイン残基とメチオニン残基とを有するペプチド;ニトロベンゼンスルフェニル化されたトリプトファン残基とメチオニン残基とを有するペプチド;及び、カルボキシメチル化されたシステイン残基とニトロベンゼンスルフェニル化されたトリプトファン残基とメチオニン残基とを有するペプチドの3種のペプチド種が、それぞれ過酸化水素を用いた酸化反応によって、変換されたことが示されている。
【0031】
【化1】

【0032】
さらに、本発明は、例えば、解析すべきペプチドを、測定・解析等のための試料として適宜処理される際、当該ペプチドがメチオニン残基の酸化を受けやすい環境にさらされ、メチオニン残基の部分的酸化によって、その後の測定・解析等に支障をきたす場合などに、目チオにイン残基の選択的且つ完全な酸化を行う目的で用いることができる。
【0033】
本発明には、上記式1に示した前記S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、メチオニン残基とを有するペプチド(A)を含む試料が、前記ペプチド(A)の酸化体である、S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、酸化されたメチオニン残基とを有するペプチド(A-oxide)をさらに含む場合に、当該試料に対して酸化工程を行う形態が含まれる(下記式2)。
【0034】
【化2】

【0035】
より実践的には、本発明には、下記式2に示したペプチド(A)とペプチド(A-oxide)とを含む試料が、システイン残基及び/又はトリプトファン残基と、メチオニン残基とを有するペプチドを含む試料に、システイン残基のS−アルキル化及び/又はトリプトファン残基のスルフェニル化を含む処理工程を行うことによって得られる形態が含まれる(下記式3)。この場合、S−アルキル化及び/又はスルフェニル化を含む処理によって、主生成物としてペプチド(A)が、副生成物としてペプチド(A-oxide)が生じる。
【0036】
【化3】

【0037】
上記式2及び3に示されるように、試料のメチオニン残基含有ペプチド種は、酸化工程後には酸化体として収束させられる。
以下、S−アルキル化及び/又はスルフェニル化を含む処理(すなわち、メチオニン残基の部分的酸化を伴いうる)ペプチドの処理工程を工程(1)とし、酸化工程を工程(2)とし、本発明をさらに説明する。
【0038】
(工程1:メチオニン残基の部分的酸化を伴いうるペプチドの処理工程)
本発明では、システイン残基及び/又はトリプトファン残基と、メチオニン残基とを有するペプチドを標的ペプチドとすることができる。この場合、標的ペプチドが有するアミノ酸残基のうち、メチオニン残基及びシステイン残基は硫黄原子含有アミノ酸残基であり、トリプトファン残基は、NBS法などによってスルフェニル化合物による処理が行われた場合に、硫黄原子含有アミノ酸残基(スルフェニル化トリプトファン残基)となるものである。
【0039】
本発明は、標的ペプチドがトリプトファン残基を有しており、且つ、当該トリプトファン残基が特異的修飾能を有するスルフェニル化合物を用いた処理が行われる場合に特に有用である。
一方、標的ペプチドがシステイン残基を有する場合は、システインのスルフヒドリル基を、置換されていても良い適当なアルキル基によって修飾する。置換されていても良いアルキル基による修飾の形態としては特に限定されないが、当業者にとって周知の技術であるカルバミドメチル化が一般的である。
【0040】
上記スルフェニル化合物としては、ペプチド中のトリプトファン残基を特異的に修飾することができるものであれば特に限定されないが、好ましいものとして、2−ニトロベンゼンスルフェニルクロリド(2-nitrobenzenesulfenyl chloride;NBSCl;NBS試薬)が挙げられる。質量分析を用いたディファレンシャルディスプレイを行う場合(すなわちNBS法を行う場合)は、重い試薬として2−ニトロ[136]ベンゼンスルフェニルクロリド(NBSCl heavy)と、軽い試薬として2−ニトロ[126]ベンゼンスルフェニルクロリド(NBSCl light)とを組み合わせて用いることができる。NBSCl heavy試薬及びNBSCl light試薬は、ともに島津製作所製13C NBS(R) Stable Isotope Labeling Kit-Nに収容されて販売されている。
【0041】
なお、ペプチド中のトリプトファン残基に対する特異的修飾能を有するスルフェニル化合物については、国際公報第2004/002950号パンフレットなどに詳述されている。
【0042】
スルフェニル化合物を用いた修飾方法としては特に限定されない。例えばNBSClを用いる場合、好ましい例として、以下の方法が挙げられる。
NBSCl試薬は、酢酸溶液として用いることが好ましい。例えば、酢酸25μlに2−ニトロベンゼンスルフェニルクロリドを0.17mg溶解させた溶液として用いることができる。このようなNBSCl試薬はペプチド試料の20倍当量程度の大過剰を用いることができる。例えば、ペプチド試料100μgに対し、溶液中の2−ニトロベンゼンスルフェニルクロリドが0.17mgとなるように用いると良い。
修飾反応は、ペプチド試料にNBSCl試薬を加え、インキュベートすることによって行うことができる。反応時間は4時間程度で十分である。すなわち、反応開始直後〜4時間以内に反応を終了させて良い。標準プロトコルとしては、反応時間は1時間とすると良い。
【0043】
上記スルフェニル化合物によるトリプトファン修飾においては、しばしばペプチド中のメチオニン残基が部分的に酸化される。また、システイン残基のS−アルキル化においても、同様にメチオニン残基の部分的酸化が起こることがある。上記以外の処理、すなわちペプチドに対して通常行われる種々の処理によっても、しばしばペプチド中のメチオニン残基が部分的に酸化される。
【0044】
具体的には、上記スルフェニル化及び/又はS−アルキル化、及びその他ペプチドに対して行われうる処理によって、ペプチド(A)及びその酸化体(A-oxide)を含む、ペプチド混合物が生じる。すなわち、主生成物として、S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、メチオニン残基とを有するペプチド(A)が生じる。そして、この主生成物とともに、副生成物としてS−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、酸化されたメチオニン残基とを有するペプチド(A-oxide)が生じる。
【0045】
従来のように、このペプチド混合物を、例えば質量分析装置を用いて測定を行うと、検出すべきペプチド(A)が、その酸化体(A-oxide)とともに検出される。元のペプチド中の同じ配列に由来するにもかかわらず、ペプチド(A)のピークとその酸化体(A-oxide)のピークとに分散されて検出されてしまうことは、検出すべきペプチドの感度低下及び定量性低下を引き起こすことになる。
【0046】
(工程2:メチオニン残基の硫黄原子の選択的/完全酸化処理工程)
前記工程(1)で得られたペプチド混合物中の、ペプチド(1)中の硫黄原子のうちメチオニン残基の硫黄原子のみを酸化する。本発明では、過酸化水素を酸化剤として用いた酸化反応を行う。本発明における酸化反応では、ペプチド(A)中の硫黄原子のうちメチオニン残基の硫黄原子のみが酸化され、S−アルキル化されたシステイン残基の硫黄原子及びスルフェニル化されたトリプトファン残基の硫黄原子は酸化されない。その結果、前記工程(1)で生じた副生成物としてのペプチド(A-oxide)と同じ構造を有するペプチド、すなわち、S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、酸化されたメチオニン残基とを有するペプチドが生じる。このことによって、前記工程(1)において、元のペプチド中の同じ配列に由来するにもかかわらず、メチオニン残基酸化体とメチオニン残基非酸化体との異なる形態で存在していたペプチド種が、メチオニン残基酸化体として収束する。
【0047】
なお、前記工程(1)で得られたペプチド混合物中の、メチオニン酸化体(A-oxide)は、通常、スルホキシドである。そのため、本工程の酸化処理は、通常、メチオニン残基のチオエーテル基をスルフィニル基へ変換する条件で行う。
【0048】
本工程の酸化反応は、具体的には、前記ペプチド混合物に対し、酸化剤として過酸化水素を作用させることによって行う。過酸化水素を用いることは、上記工程(1)で得られたペプチド混合物中において、メチオニン残基の硫黄原子のみを酸化できることだけでなく、条件設定の容易さ、反応後の処理工程の少なさなどの点においても好ましい。過酸化水素は、水溶液として用いることができ、過酸化水素水の濃度や使用量は当業者が適宜選択することができる。例えば、重量基準で、過酸化水素が対象とするタンパク質の1/100〜1/6倍量となるように用いることができる。
過酸化水素を用いた場合の酸化反応の温度としては、たとえば、15℃〜30℃とすることが好ましい。また反応時間としては、10分〜1時間とすることができる。
【0049】
酸化反応後の試料を質量分析装置によって測定する場合は、過酸化水素を用いた酸化処理は、MSプレート上で行っても良い。この場合、まず、前記工程(1)で得られたペプチド混合物をMSプレートに滴下し、その後、滴下したペプチド混合物上にさらに過酸化水素水を重ねて滴下すると良い。酸化反応を終えた後、直接当該MSプレートによって質量分析が可能となる。このように、酸化剤として過酸化水素を用いることは、反応後の処理工程が少ない点でも好ましい。
【0050】
<硫黄原子含有ペプチドの解析法>
上記本発明の硫黄原子含有ペプチドの処理法は、それによって得られたペプチド試料を、質量分析装置を用いて測定する場合に、特に有用に用いられる。
そこで本発明においては、さらに、硫黄原子含有ペプチドの解析法を提供する。従来、質量分析試料を調製するためペプチド処理において副生成物として生じた酸化体の存在の影響により、メチオニン残基含有ペプチドのピークが分散して検出されていたが、本発明によって、すべてのメチオニン残基が酸化体として収束されるため、当該メチオニン残基含有ペプチドのピークを、単一のピークとして検出することが可能になる。このことから、本発明は、従来法に比べて解析の感度及び定量の精度を向上させる効果を有する。
【0051】
メチオニン残基を酸化メチオニン残基に変換することは、さらに以下の利点を有する。すなわち、硫黄原子が酸化されたペプチドは、非酸化体よりも、質量分析において開裂を受けやすい。そのため、PSD(ポストソースディケイ)測定はMSの二乗以上の多段階測定において、より多くの構造情報を得ることができる。この点でも、本発明は、従来法に比べて解析の精度を向上させる効果を有する。
【0052】
具体的な解析プロトコルとして、NBS法が好ましく用いられる。以下に、本発明の方法を応用したNBS法の一例を紹介する。
<1>解析すべきタンパク質試料Iとその対照タンパク質試料IIとの2種類の状態のタンパク質試料を用意する。
<2>前記タンパク質試料Iを、2−ニトロ[136]ベンゼンスルフェニルクロリド及び2−ニトロ[126]ベンゼンスルフェニルクロリドのいずれか一方を用いて修飾し、別途、前記タンパク質試料IIを、2−ニトロ[136]ベンゼンスルフェニルクロリド及び2−ニトロ[126]ベンゼンスルフェニルクロリドのいずれか他方を用いて修飾する。
<3>修飾されたタンパク質試料I及び修飾されたタンパク質試料IIを混合する。
<4>脱塩カラムを用いて未反応の試薬を除く。
<5>還元アルキル化処理を行う。
<6>得られた修飾タンパク質混合物を還元・アルキル化した後、修飾ペプチド断片と非修飾ペプチド断片とを含むペプチド混合物へ消化する。
<7>ペプチド混合物に対して過酸化水素を用いた酸化処理を行う。
<8>ペプチド混合物から修飾ペプチド断片を濃縮分離する。
<9>質量分析を行う。
【実施例】
【0053】
以下に実施例を示し、本発明を具体的に説明するが、本発明は下記の実施例に制限されるものではない。
【0054】
[実施例1]
Neuromedin C(GNHWAVGHLM−NH2:配列番号1、M−NH2は、アミド化されたメチオニン残基を表す)を解析すべきペプチド試料とした。このペプチド試料100マイクログラムを、0.1v/v%TFA水溶液50マイクロリットルに溶解した。得られたペプチド液に、NBS試薬(2-nitrobenzenesulfenyl chloride; 12C-6)0.3mgを酢酸50マイクロリットルに溶解したものを加え、室温で1時間反応させた。反応後、LH20のカラムで脱塩、ついで減圧濃縮することにより、NBS化Neuromedin C試料を得た。
このNBS化Neuromedin C試料に0.1v/v%TFA水溶液を300マイクロリットル加えて溶解した。そのうちの100マイクロリットルをとり、30v/v%過酸化水素水1マイクロリットルを加えた。室温で反応させ、30分後及び1時間後に反応をモニターしたところ、1時間で酸化反応が収束した。
【0055】
酸化反応を行う前のNBS化Neuromedin C試料、及び、酸化反応を行った後の酸化/NBS化Neuromedin C試料について、質量分析装置AXIMA-FCR(島津製作所製)を用いて測定を行った。NBS化Neuromedin C試料のマススペクトルを図1(a)に、酸化/NBS化Neuromedin C試料のマススペクトルを図1(b)に示す。なお、全ての図において、横軸は質量電荷比(Mass/Charge)、縦軸は相対強度を表す。
【0056】
図1(a)においては、NBS化Neuromedin C分子のピークとともに、当該ピークより16Da大きいピークが検出されている。このことから、NBS化Neuromedin C試料の調製において、NBS化Neuromedin Cの酸化体(すなわち酸化/NBS化Neuromedin C分子)が副生成物として生じたために、このような+16Daピークが検出されたといえる。
図1(b)においては、図1(a)で検出されたNBS化Neuromedin C分子のピークが消失し、酸化/NBS化Neuromedin C分子に収束されて検出されたことがわかる。また、酸化反応によって、NBS化トリプトファン残基の硫黄原子は酸化されず、メチオニン残基の硫黄原子のみが選択的に酸化されたことが分かった。
【0057】
[実施例2]
egg white lysozymeを解析すべきタンパク質試料とした。このタンパク質試料100マイクログラムを、6M塩酸グアニジン(guanidine hydrochloride)25マイクロリットルに溶解した。得られたタンパク質液に、NBS試薬(2-nitrobenzenesulfenyl chloride; 12C-6)0.2mgを酢酸25μlに溶解したものを加え、室温で1時間反応させた。反応後、LH20のカラムで脱塩、ついで減圧濃縮した。濃縮残渣にTris-HCl bufferを加えて溶解し、TCEPによる還元及びヨードアセトアミドによるアルキル化を行った。ついで、トリプシン溶液(Trypsin6.7マイクログラム/buffer300マイクロリットル)を加えて消化(37℃、14時間)を行うことにより、NBS化egg white lysozyme消化物を得た。
【0058】
酸化反応を行う前のNBS化egg white lysozyme消化物、及び、酸化反応を行った後の酸化/NBS化egg white lysozyme消化物について、質量分析装置AXIMA-FCR(島津製作所製)を用いて測定を行った。得られたマススペクトルのうち、質量電荷比が1977−2030の範囲を図2に、1295−1320の範囲を図3に示した。
【0059】
図2(a)においては、NBS化egg white lysozyme消化物に含まれるNBS化ペプチド断片(IVSDGNGMNAW(NBS)VAW(NBS)R:配列番号2、W(NBS)はNBS化されたトリプトファン残基を表す)のピークとともに、当該ピークより16Da大きいピークが検出されている。このことから、NBS化egg white lysozyme消化物の調製において、当該NBS化ペプチド断片の酸化体(酸化/NBS化ペプチド断片)が副生成物として生じたために、このような+16Daピークが検出されたといえる。
図2(b)においては、図2(a)で検出されたNBS化ペプチド断片のピークが消失し、対応する酸化/NBS化ペプチド断片に収束されて検出されたことがわかる。また、酸化反応によって、NBS化トリプトファン残基の硫黄原子は酸化されず、メチオニン残基の硫黄原子のみが選択的に酸化されたことが分かった。
【0060】
図3(a)においては、NBS化egg white lysozyme消化物に含まれる、メチオニン残基を有しないペプチド断片(W(NBS)W(NBS)C(CAM)NDGR:配列番号3、W(NBS)はNBS化トリプトファン残基、C(CAM)はS−カルバミドメチル化されたシステイン残基を表す)が検出されている。この断片においては、酸化反応の前後において分子量の変化が見られなかった。このことから、NBS化トリプトファン残基の硫黄原子やカルバミドメチル化されたシステインの硫黄原子は酸化されないことが確認された。
【図面の簡単な説明】
【0061】
【図1】実施例1で得られた、Neuromedin Cの質量分析結果を示す。
【図2】実施例2で得られた、Lysozymeの質量分析結果を示す。
【図3】実施例2で得られた、Lysozymeの質量分析結果を示す。

【特許請求の範囲】
【請求項1】
S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、メチオニン残基とを有するペプチド(A)を含む試料に、酸化工程として、過酸化水素を加えてメチオニン残基の硫黄原子のみを酸化する工程を行うことを含む、硫黄原子含有ペプチドの処理法。
【請求項2】
前記S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、メチオニン残基とを有するペプチド(A)を含む試料は、S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、酸化されたメチオニン残基とを有するペプチド(A-oxide)をさらに含むものであり、
前記酸化工程を行うことによって、前記試料中の前記ペプチド(A)を、前記ペプチド(A-oxide)と同じ構造を有するS−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、酸化されたメチオニン残基とを有するペプチドに変換する、請求項1に記載の硫黄含有ペプチドの処理法。
【請求項3】
前記ペプチド(A)と前記ペプチド(A-oxide)とを含む試料は、下記工程:
システイン残基及び/又はトリプトファン残基と、メチオニン残基とを有するペプチドを含む試料に、
前記システイン残基を有する場合、前記システイン残基のS−アルキル化を行うこと、及び/又は、
前記トリプトファン残基を有する場合、前記トリプトファン残基のスルフェニル化を行うこと、
を含む処理を行うことによって、
主生成物として、前記S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、メチオニン残基とを有するペプチド(A)と、
副生成物として、前記S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、酸化されたメチオニン残基とを有するペプチド(A-oxide)とを得る工程
によって得られるものである、請求項2に記載の硫黄含有ペプチドの処理法。
【請求項4】
前記S−アルキル化されたシステイン残基は、S−カルバミドメチル化されたシステイン残基である、請求項1〜3のいずれか1項に記載の硫黄原子含有ペプチドの処理法。
【請求項5】
前記スルフェニル化されたトリプトファン残基は、2−ニトロベンゼンスルフェニル化されたトリプトファン残基である、請求項1〜4のいずれか1項に記載の硫黄原子含有ペプチドの処理法。
【請求項6】
前記2−ニトロベンゼンスルフェニル化されたトリプトファン残基は、トリプトファン残基に2−ニトロベンゼンスルフェニルクロリドを作用させることによって得られたものである、請求項5に記載の硫黄原子含有ペプチドの処理法。
【請求項7】
前記メチオニン残基の硫黄原子は、スルホキシドに酸化される、請求項1〜6のいずれか1項に記載の硫黄原子含有ペプチドの処理法。
【請求項8】
請求項1〜7のいずれか1項に記載の硫黄原子含有ペプチドの処理法によって得られた、S−アルキル化されたシステイン残基及び/又はスルフェニル化されたトリプトファン残基と、酸化されたメチオニン残基とを有するペプチドを、質量分析装置を用いて測定する、硫黄原子含有ペプチドの解析方法。

【図1】
image rotate

【図2】
image rotate

【図3】
image rotate


【公開番号】特開2007−292523(P2007−292523A)
【公開日】平成19年11月8日(2007.11.8)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2006−118648(P2006−118648)
【出願日】平成18年4月24日(2006.4.24)
【出願人】(000001993)株式会社島津製作所 (3,708)
【Fターム(参考)】