説明

重水素化化合物製造用触媒及びそれを用いた重水素化化合物の製造方法

【課題】安価、簡便、且つ高純度で、重水素化化合物を製造しうる方法を提供する。
【解決手段】下記の一般式(1)又は(2)で表される錯体触媒の存在下で、有機化合物に重水素を導入することにより重水素化化合物を製造する。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、重水素化された溶媒中で重水素化化合物を製造するための触媒、及びそれを用いた重水素化化合物の製造方法に関し、特に、重水素化された溶媒中で有機化合物に重水素を導入することによる重水素化化合物の製造方法及び重水素ガスの製造方法に関するものである。
【背景技術】
【0002】
重水素化化合物は、反応の追跡による反応機構の解明や生体物質の構造解析などにおいて、標識化合物等として広く利用されている。また、最近では、医薬品、農薬、有機EL材料、光ファイバ等としても興味を持たれている。
しかしながら、従来、重水素化化合物の製造には多数の工程が必要であったため、重水素化化合物は極めて高価であり、得られる重水素化化合物の種類も限られていた。また、重水素源としては、高価な重水素ガスや金属重水素化物であった。一方、比較的安価な重水を重水素源として用いる重水素化化合物の製造方法は、強酸あるいは強アルカリを用いた過酷な条件、あるいは超臨界条件を用いるための高価な装置が必要であった(特許文献1、2参照)。また、低い重水素化率が問題であった。
【0003】
これに対して、入手容易な水素ガス(H)と重水(DO)を用いて、H/D交換反応を利用した触媒的重水素化反応が知られている(特許文献3、非特許文献1参照)。しかしながら、この方法は、一旦重水素ガス(D)を生成させるために24時間の前処理を必要し、その後生じた重水素ガス(D)から接触還元を行っているため、実験操作が煩雑であることが問題であった。
【0004】
また、水溶性ルテニウム及びロジウム錯体存在下、重水(DO)中、水素ガス(H)と反応させることにより、直接重水素化反応させる方法が提案されている(非特許文献2〜4参照)。しかしながら、水素化との競合による重水素化率の低下や汎用性に問題があった。さらには、均一触媒であるために、溶媒からの当該錯体触媒を回収、再利用することが困難であった。
【0005】
このような状況下、低コストで、より簡便な操作で、高純度で、触媒の回収、再利用が可能な重水素化化合物の製造プロセスが求められていた。
【特許文献1】特開2005−145856号公報
【特許文献2】特開平9−143102号公報
【特許文献3】特表2006−080202号公報
【特許文献4】特許第3968431号公報
【特許文献5】特許第4009728号公報
【特許文献6】特開2007−55915号公報
【非特許文献1】Chem.Eur.J. p.3371(2008)
【非特許文献2】Green Chemistry p.213(2003)
【非特許文献3】J.Organomet.Chem.p.45(1996)Vol.512
【非特許文献4】J.Mol.Catal.p.L15(1991)Vol.66.
【非特許文献5】J.Mol.Catal.A p.95(2003)Vol.195.
【非特許文献6】Organometallics p.702(2007)
【非特許文献7】J.Am.Chem.Soc. p.13118(2005)
【非特許文献8】J.Am.Chem.Soc. p.4149(2003)
【非特許文献9】J.Am.Chem.Soc. p.3020(2004)
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0006】
この発明は、以上の通りの状況に鑑みてなされたものであって、重水素化された溶媒中、水素ガス(H)又はギ酸(HCOH)を用いた重水素化化合物の製造において、特許文献3、及び非特許文献2〜4に記載された従来技術の欠点を解消し、(1)高純度、(2)操作が簡便、(3)選択的、及び(4)錯体触媒の回収が可能な重水素化化合物の製造方法を提供することを目的としている。
【課題を解決するための手段】
【0007】
下記の一般式(1)又は(2)で示される錯体が、水素化触媒あるいはギ酸を用いた水素移動触媒(非特許文献5参照)として、pH選択的に作用することは既に知られている。
【化1】

【0008】
本発明者らは、二酸化炭素と水素を反応させてギ酸を製造する際の水素化触媒において、上記の一般式(1)又は(2)で示される錯体のうち、二座窒素配位子として2,2´−ビピリジン又は1,10−フェナントロリン上に電子供与性置換基が存在する場合、特に、水酸基の導入によって、触媒性能が著しく向上することを見出している(特許文献4、5、非特許文献6参照)。
さらには、本発明者らは、前記ギ酸塩の製造において、一般式(1)又は(2)で示される錯体触媒のうち、二座窒素配位子として2,2´−ビピリジンまたは1,10−フェナントロリン上に水酸基を置換した錯体触媒を用いる場合、反応系のpHにより錯体触媒の溶解性が変化することを利用して、錯体触媒を回収、再利用出来ることを見出している(特許文献6、非特許文献7参照)。
【0009】
また、以前より、上記の一般式(1)又は(2)で示される錯体触媒において、RからR13が全て水素原子であり、かつLが水素原子の場合、重水との間で、H/D交換反応が起こることが知られていたが、この交換反応は極めて遅く、重水素化化合物の製造に用いられていなかった(非特許文献8、9参照)。
【0010】
本発明らは、以上の知見を基に鋭意研究の結果、一般式(1)又は(2)で示される錯体触媒の存在下、重水素化された溶媒中、水素ガス(H)又はギ酸(HCOH)を用いて、還元性官能基を有する基質から、簡便な操作で、高純度な重水素化化合物を製造できることを見いだした。
【0011】
本発明は、これらの知見に基づいて完成に至ったものであり、以下の技術的手段から構成される。
[1]重水素化された溶媒中で重水素化化合物を製造するための触媒であって、
下記の一般式(1)又は(2)
【化1】

(式中、R1〜R及びR14〜R19は、それぞれ独立に、水素原子、アルキル基、芳香族基、水酸基(−OH)、エステル基(−COOR)、アミド基(−CONRR’)、ハロゲン(−X)、アルコシ基(−OR)、アルキルチオ基(−SR)、アミノ基(−NRR’)、カルボン酸基(−COOH)、ニトロ基、又はスルホン酸基(−SOH)であり、同一でも異なってもよい。R〜R13は、水素原子、アルキル基、芳香族基、水酸基(−OH)、オキシアニオン(−O)、アルコシ基(−OR)、エステル基(−COOR)、アミド基(−CONRR’)、ハロゲン(−X)、アルキルチオ基(−SR)、アミノ基(−NRR’)、カルボン酸基(−COOH)、ニトロ基、またはスルホン酸基(−SOH)であり、同一でも異なってもよい。R及びR10は、一体となって−CH=CH−を形成してもよく、すなわち、R及びR10はそれら結合するビピリジン環と一体となってフェナントロリン環を形成してもよく、前記−CH=CH−におけるHは、それぞれ独立に、アルキル基、芳香族基、水酸基(−OH)、オキシアニオン(−O)、エステル基(−COOR)、アミド基(−CONRR’)、ハロゲン(−X)、アルコシ基(−OR)、アルキルチオ基(−SR)、アミノ基(−NRR’)、カルボン酸基(−COOH)、ニトロ基、またはスルホン酸基(−SOH)で置換されてもよい。Mは遷移金属であり、Lは、水素原子(−H)、重水素原子(−D,−T)、水分子(−HO)、重水分子(−DO、−TO)、水酸化物イオン(−OH)、重水酸化物イオン(−OD、−OT)、アルコキシドイオン、ハロゲン化物イオン、炭酸イオン、硫酸イオン、硝酸イオン、酢酸イオンあるいはギ酸イオンの配位子であるか、または存在しなくてもよい。n及びmは、イオンの価数を表し、正の整数、0、又は負の整数である。)で表されることを特徴とする、重水素化化合物製造用触媒。
[2]前記式中のMが、鉄、コバルト、ニッケル、白金、イリジウム、ロジウム、ルテニウム又はオスミニウムである、[1]の重水素化化合物製造用触媒。
[3]前記式中のMが、イリジウム、ロジウム又はルテニウムである、[1]の重水素化化合物製造用触媒。
[4]前記式中のR及びR11が、水酸基(−OH)、オキシアニオン(−O)又はアルコシ基(−OR)である、[1]の重水素化化合物製造用触媒。
[5]前記式中のLが、重水素原子(D、T)である、[1]に記載の重水素化化合物製造用触媒。
[6]下記の一般式(3)又は(4)で表される、[1]の重水素化化合物製造用触媒。
【化2】

(式中、Mは、ロジウム又はイリジウムであり、L及びnは、一般式(1)中のL及びnと同じである。)
[7]下記の一般式(5)又は(6)で表される、[1]の重水素化化合物製造用触媒。
【化3】

(式中、Mはロジウム又はイリジウムであり、L及びnは、一般式(1)中のL及びnと同じである。)
[8]下記の一般式(7)又は(8)で表される、[6]の重水素化化合物製造用触媒。
【化4】

(式中、Mはロジウムまたはイリジウムである。)
[9]下記の一般式(9)又は(10)で表される、[7]の重水素化化合物製造用触媒。
【化5】

(式中、Mはロジウムまたはイリジウムである。)
[10]重水素化化合物の製造方法において、[1]〜[9]のいずれかの重水素化化合物製造用触媒の存在下、還元性官能基を有する基質を、重水素化された溶媒中、水素ガスと反応させることを特徴とする重水素化化合物の製造方法。
[11]前記重水素化された溶媒が、重水(DO)又はトリチウム水(TO)である、請求項10に記載の重水素化化合物の製造方法。
[12]重水素化化合物の製造方法において、[1]〜[9]のいずれかの重水素化化合物製造用触媒の存在下、還元性官能基を有する基質を、重水中、ギ酸(HCOH)と反応させることを特徴とする重水素化化合物の製造方法。
[13]重水素化化合物の製造方法において、[1]〜[9]のいずれかの重水素化化合物製造用触媒の存在下、還元性官能基を有する基質を存在しない条件で、重水(DO)又はトリチウム水(TO)を水素ガス(H)と反応させることを特徴とする重水素ガス(DあるいはT)の製造方法。
[14]重水素化化合物の製造方法において、[1]〜[9]のいずれかの重水素化化合物製造用触媒の存在下、還元性官能基を有する基質を存在しない条件で、重水(DO)又はトリチウム水(TO)をギ酸(HCOH)と反応させることを特徴とする重水素ガス(D又はT)の製造方法。
[15][10]〜[14]のいずれかの重水素化化合物の製造方法において、反応系のpHを変化させることにより、重水素化される位置及び/又は重水素化率を制御することを特徴とする重水素化化合物の製造方法。
[16][10]〜[14]のいずれかの重水素化化合物の製造方法において、重水素化化合物を製造する反応が終了後、反応系のpHを変化することで、錯体触媒を沈殿させることにより錯体触媒を回収することを特徴とする重水素化化合物の製造方法。・・・
【発明の効果】
【0012】
本発明により、重水素化された溶媒中、水素ガス(H)又はギ酸(HCOH)から、(1)高純度、(2)反応が1段階で済む簡便な実験操作、(3)pHによる選択的な重水素化、および(4)錯体触媒の回収、再利用、が可能な重水素化化合物の製造方法を提供することができる。
【発明を実施するための最良の形態】
【0013】
本発明において、重水素とは、ジュウテリウム(D)又はトリチウム(T)のことを意味し、重水素化とは、ジュウテリウム化及びトリチウム化のことを意味する。また、重水素化還元反応により、還元性官能基を有する化合物の反応部位に重水素が付加された比率を「重水素化率」とする。
【0014】
本発明においては、下記の式で示すように、前記一般式(1)又は(2)で示される錯体触媒(M−L)と水素ガス(H)又はギ酸(HCOH)が反応して発生するヒドリド錯体(M−H)から、重水素化された溶媒中極めて早いH/DO又はH/TO変換反応によって、重水素錯体(M−D又はM−T)が生成する。この重水素錯体が重水素化触媒として、還元性官能基を有する基質を還元することによって、重水素化化合物を製造することができる。
【化6】

【0015】
一般式(1)又は(2)で示される錯体において、Mの遷移金属としては、例えば、鉄、コバルト、ニッケル、白金、イリジウム、ロジウム、ルテニウム又はオスミニウムが挙げられるが、特にロジウム、ルテニウム又はイリジウムが好ましい。
【0016】
一般式(1)又は(2)で示される錯体において、Lの配位子としては、水素原子(−H)、重水素原子(−D,−T)、水分子(−HO)、重水分子(−DO,−TO)、水酸化物イオン(−OH)、重水酸化物イオン(−OD、−OT)、アルコキシドイオン、ハロゲン化物イオン、炭酸イオン、硫酸イオン、硝酸イオン、酢酸イオンあるいはギ酸イオンの配位子であるか、または存在しなくてもよい。アルコキシドイオンとしては、特に限定されないが、例えば、メタノール、エタノール、n−プロピルアルコール、イソプロピルアルコール、n−ブチルアルコール、sec−ブチルアルコール、イソブチルアルコール、またはtert−ブチルアルコール等から誘導されるアルコキシドイオンがあげられる。
【0017】
一般式(1)又は(2)で示される錯体において、配位子であるLは、容易に置換、脱離が極めて容易であることが特徴である。特に、水素原子(−H)、重水素原子(−D,−T)は条件により容易に脱離、置換する。そのため、式1で表されるように、一般式(1)又は(2)で示される錯体触媒と水素ガス又はギ酸から生じるLが水素分子である錯体触媒(M−H)は、重水中容易に重水素原子に置換されてLが重水素分子である錯体触媒(M−DまたはM−T)が生じる。このLが重水素分子である錯体触媒(M−DまたはM−T)が、重水素化触媒として、還元性官能基を有する基質を還元することにより重水素化化合物を製造することができる。
【0018】
一般式(1)又は(2)で示される錯体において、カウンターアニオンとしては、特に限定はされないが、陰イオンとしては、例えば、硫酸イオン、硝酸イオン、酢酸イオン、炭酸イオン、リン酸イオン、水酸化物イオン、トリフルオロメタンスルホン酸イオン、ハロゲン化物イオン(フッ化物イオン、塩化物イオン、臭化物イオン、ヨウ化物イオン)、次亜ハロゲン酸イオン(次亜フッ素酸イオン、次亜塩素酸イオン、次亜臭素酸イオン、次亜ヨウ素酸イオン)、亜ハロゲン酸イオン(亜フッ素酸イオン、亜塩素酸イオン、亜臭素酸イオン、亜ヨウ素酸イオン)、ハロゲン酸イオン(フッ素酸イオン、塩素酸イオン、臭素酸イオン、ヨウ素酸イオン)、過ハロゲン酸イオン(過フッ素酸イオン、過塩素酸イオン、過臭素酸イオン、過ヨウ素酸イオン)、テトラフルオロホウ酸イオン、ヘキサフルオロリン酸イオン、チオシアン酸イオン等が挙げられる。陽イオンとしては、リチウムイオン、マグネシウムイオン、ナトリウムイオン、カリウムイオン、カルシウムイオン、バリウムイオン、ストロンチウムイオン、イットリウムイオン、スカンジウムイオン、またはランタノイドイオン等の各種金属イオンまたは水素イオン等が挙げられる。またこれらのカウンターイオンは、一種類でもよいが、二種類以上併存していても良い。
【0019】
一般式(1)で示される錯体において、シクロペンタジエニル配位子としては、通常は全ての炭素上にメチル基が置換されたペンタメチルシクロペンタジエニルが好ましいが、R〜Rが水素原子、アルキル基、芳香族基、水酸基(−OH)、エステル基(−COOR)、アミド基(−CONRR’)、ハロゲン(−X)、アルコシ基(−OR)、アルキルチオ基(−SR)、アミノ基(−NRR’)、カルボン酸基(−COOH)、ニトロ基、またはスルホン酸基(−SOH)であり、それらは同一でも異なってもよい。
【0020】
一般式(2)で示される錯体において、アレーン配位子としては、通常は全ての炭素上にメチル基が置換されたヘキサメチルベンゼンが好ましいが、R14〜R19は、水素原子、アルキル基、芳香族基、水酸基(−OH)、エステル基(−COOR)、アミド基(−CONRR’)、ハロゲン(−X)、アルコシ基(−OR)、アルキルチオ基(−SR)、アミノ基(−NRR’)、カルボン酸基(−COOH)、ニトロ基、またはスルホン酸基(−SOH)であり、それらは同一でも異なってもよい。
【0021】
一般式(1)又は(2)で示される錯体において、二座窒素配位子として、置換された2,2´−ビピリジンまたは1,10−フェナントロリンなどが挙げられる。R〜R13の置換基としては、水素原子、アルキル基、芳香族基、水酸基(−OH)、オキシアニオン(−O)、アルコシ基(−OR)、エステル基(−COOR)、アミド基(−CONRR’)、ハロゲン(−X)、アルキルチオ基(−SR)、アミノ基(−NRR’)、カルボン酸基(−COOH)、ニトロ基、またはスルホン酸基(−SOH)などが置換していてもよい。
【0022】
一般式(1)又は(2)で示される錯体において、二座窒素配位子として2,2´−ビピリジンまたは1,10−フェナントロリン上に置換された置換基(R〜R13)の電子的効果が反応速度に著しく影響を与え、特に、アルコシ基、水酸基、アミノ基、およびオキシアニオン基などの電子供与性置換基により、錯体触媒が活性化される。中でも、水酸基が窒素に対してパラ位に置換した4,4´−ジヒドロキシ−2,2´−ビピリジン、または4,7−ジヒドロキシ−1,10−フェナントロリンが特に好ましい。
【0023】
本発明の一般式(1)又は(2)で示される錯体触媒の調整方法は特に限定されず、従来公知の方法を適用することができ、例えば、配位子であるビピリジン誘導体と調整原料の遷移金属化合物を溶媒中で反応させた後、溶媒を除去し、得られた固体を再結晶等により、錯体触媒を精製する方法が挙げられる。また、反応させる際に、錯体触媒に代え、調製原料の遷移金属化合物およびピリジン誘導体を反応系に加えて混合することにより、反応系にて本発明の錯体触媒を形成させてもよい。
【0024】
本発明の重水素化化合物の製造法においては、上記の如き触媒を単独で用いても2つ以上を適宜組み合わせて用いてもよい。
【0025】
重水素化された溶媒としては、例えば、重水(DO)、トリチウム水(TO)が挙げられる。また、重メタノール、重エタノール、重プロパノール、重イソプロパノール、重ブタノール、重tert−ブタノール、重ペンタノール、重ヘキサノール、重ヘプタノール、重オクタノール、重ノナノール、重デカノール、重ウンデカノール、重ドデカノール等の重アルコール類、例えば重ギ酸、重酢酸、重プロピオン酸、重酪酸、重イソ酪酸、重吉草酸、重イソ吉草酸、重ピバル酸等の重カルボン酸類等の有機溶媒等が挙げられ、中でも環境面や作業性を考慮すれば、重水が好ましい。これらは単独で用いても、2つ以上を適宜組み合わせて用いてもよい。
【0026】
また、本発明の重水素化化合物の製造法においては、必要に応じて反応溶媒を加えてもよい。利用可能な反応溶媒としては、本発明に於ける重水素化化合物の製造に影響を及ぼさないものであれば何れでもよい。具体的には、例えばジエチルエーテル、ジイソプロピルエーテル、1、2−ジメトキシエタン、オキシラン、1、4−ジオキサン、ジヒドロピラン、テトラヒドロフラン等のエーテル類、あるいはヘキサン、ヘプタン、オクタン、ノナン、デカン、シクロヘキサン等の脂肪族炭化水素類等が挙げられる。これらは単独で用いても、2つ以上を適宜組み合わせて用いてもよい。
【0027】
本発明の重水素化化合物の製造法においては、反応系のpHを変化させることにより、錯体触媒の反応性、重水素化される位置、あるいは重水素化率を制御することを特徴とする。
【0028】
一般式(1)又は(2)で示される錯体触媒において、二座窒素配位子として2,2´−ビピリジンまたは1,10−フェナントロリン上に水酸基を置換した錯体触媒を用いる場合、反応系のpHを変化させることで、錯体触媒の溶解性を制御することができる。特に、下記の一般式(3)又は(4)で示される錯体触媒は、反応溶液を塩酸で弱酸性にすると、錯体の溶解性がほとんどなくなり、沈殿した錯体触媒を瀘取することで回収することができる。
【化2】

(式中、Mは、ロジウム又はイリジウムであり、L及びnは、一般式(1)中のL及びnと同じである。)
【0029】
本発明の重水素化方法における基質の還元性官能基として、通常の水素化反応もしくは水素移動反応により還元される官能基であれば如何なるものでもよく、還元性官能基としては、例えば炭素−炭素二重結合、炭素−炭素三重結合、エポキシ基、ハロゲン原子(例えば、フッ素原子、塩素原子、臭素原子、ヨウ素原子等)、ニトリル基、ニトロ基、芳香環に直結した炭素原子に結合する水酸基(ベンジル位水酸基)、カルボニル基(ケトン、アルデヒド)、イミノ基、芳香環、炭素数3〜4の環状アルキル基等が挙げられる。本反応において、基質として、上記の如き還元性官能基を1つ以上有していればよく、また、本発明における錯体触媒に影響されない如何なる官能基を有していてもよい。
【0030】
また、本発明の重水素化方法によって還元される基質として、二酸化炭素が挙げられる。
【0031】
本発明における上記の基質の濃度については、上限及び下限はないが、反応によって高い収率と重水素化率を与える濃度が好ましい。ただし、競争反応であることを考慮すれば、著しく高い基質濃度は好ましくない。
【0032】
さらには、本発明において、還元性の基質を用いない場合、重水素ガス(ジュウテリウム(D)又はトリチウム(T))を製造することが出来る。
【0033】
本発明における反応に用いられる水素ガスの圧力は、特に上限及び下限はないが、一般に常圧以上が用いられる。圧力は高いほうが好ましいが、装置及び運転コスト等の経済的な理由に依存する。また、反応系は、更に、例えば窒素ガス、アルゴンガス等の不活性ガスが添加されていてもよい。なお反応は、低酸素状態若しくは酸素が存在しない条件下で実施するのが好ましく、反応媒体は脱気した後に使用するのが好ましい。
【0034】
本発明における反応に用いられるギ酸の濃度は、特に上限及び下限はないが、一般に基質濃度以上のギ酸の濃度が好ましい。また、反応系は、例えば窒素ガス、アルゴンガス等の不活性ガス雰囲気下で実施することが好ましい。なお反応は、低酸素状態若しくは酸素が存在しない条件下で実施するのが好ましく、反応媒体は脱気した後に使用するのが好ましい。
【0035】
本発明における上記の金属錯体の使用量については、上限及び下限はないが、触媒の反応速度、回収効率、反応液への溶解性及び経済性などに依存する。適切な触媒濃度は1×10-10から1×10-1Mで、好ましくは1×10-6から1×10-3Mである。
【0036】
本発明における反応温度は、触媒が分解することなく、かつ充分な反応速度で反応が進行する方が有利である。好ましくは40度以上80度以下が好ましいが、0度から250度の範囲で反応を実施することができる。反応時間は特に制限はない。
【実施例】
【0037】
次に、本発明を実施例に基づいてさらに具体的に説明するが、本発明は、以下の実施例によって何ら限定されるものではない。
(実施例1)
水素ガスを用いる重水素化化合物の製造方法
【化7】

【0038】
アクア(4,4´−ジヒドロキシ-2,2´−ビピリジン)[(1,2,3,4,5−η)−1,2,3,4,5−ペンタメチル−2,4−シクロペンタジエン−1−イル]イリジウム(III)硫酸塩(3.2 mg)とイタコン酸(65 mg)を、20 mlのガラスフラスコ中で充分に脱気した重水(5 ml)に溶解した。この溶液を、水素ガス雰囲気下、60度で、8時間で攪拌を行った。反応後、核磁気共鳴装置(以下、H NMR)で生成物を確認した。その結果を表1に示す。
また、この反応後の溶液に希塩酸を加え、pHを5前後に調整すると、錯体触媒が沈殿し、これを瀘取することで回収、再利用することができた。
【0039】
(実施例2)
アクア(4,4´−ジメトキシ−2,2´−ビピリジン)[(1,2,3,4,5−η)−1,2,3,4,5−ペンタメチル−2,4−シクロペンタジエン−1−イル]イリジウム(III)硫酸塩(3.3 mg)とイタコン酸(65 mg)を、20 mlのガラスフラスコ中で充分に脱気した重水(5ml)に溶解した。この溶液を、水素ガス雰囲気下、60度で、8時間で攪拌を行った。反応後、H NMRで生成物を確認した。その結果を表1に示す。
【0040】
(実施例3)
アクア(2,2´−ビピリジン)[(1,2,3,4,5−η)−1,2,3,4,5-ペンタメチル−2,4−シクロペンタジエン−1−イル]イリジウム(III)硫酸塩(2.8 mg)とイタコン酸(65 mg)を、20 mlのガラスフラスコ中で充分に脱気した重水(5ml)に溶解した。この溶液を、水素ガス雰囲気下、60度で、8時間で攪拌を行った。 反応後、H NMRで生成物を確認した。その結果を表1に示す。
【0041】
【表1】

【0042】
実施例1〜3の結果から、一般式(1)又は(2)で示される錯体触媒において、二座窒素配位子として2,2´−ビピリジン配位子上の置換基によって、基質の還元速度や重水素化率が影響されることがわかる。例えば、ビピリジン配位子上の4位および4´位の置換基は、電子供与性が強いほど、収率や重水素化率が高い。
【0043】
(実施例4)
アクア(4,4´−ジヒドロキシ−2,2´−ビピリジン)[(1,2,3,4,5-η)−1,2,3,4,5−ペンタメチル−2,4−シクロペンタジエン−1−イル]イリジウム(III)硫酸塩(3.2 mg)とシトラコン酸(65 mg)を、20 mlのガラスフラスコ中で充分に脱気した重水(5ml)に溶解した。この溶液を、水素ガス雰囲気下、60度で、8時間で攪拌を行った。反応後、H NMRで生成物を確認したところ、収率68%、重水素化率94%であった。
【0044】
(実施例5〜7)
ギ酸を用いる重水素化化合物の製造方法
アクア(4,4´−ジヒドロキシ−2,2´−ビピリジン)[(1,2,3,4,5−η)−1,2,3,4,5−ペンタメチル−2,4−シクロペンタジエン−1−イル]イリジウム(III)硫酸塩(3.2 mg)を、下記の表2に示す基質(0.5 mmol)とギ酸(0.1 ml)を含む充分に脱気した重水(5 ml)に溶解した。この溶液を、40度で、12時間で攪拌を行った。反応中、ギ酸分解に伴う二酸化炭素ガスおよび水素ガス(H,D,及びHD)が発生した。反応後、H NMRで生成物を確認した。その結果を表2に示す。
【0045】
【表2】

【0046】
(実施例8)
アクア(4,4´−ジヒドロキシ−2,2´−ビピリジン)[(1,2,3,4,5、6−η)−1,2,3,4,5、6−ヘキサメチルベンゼン]ルテニウム(II)硫酸塩(2.9 mg)を、イタコン酸(65 mg)を含む充分に脱気した重水(5 ml)に溶解した。この溶液を、水素ガス雰囲気下、60度で、8時間で攪拌を行った。反応後、H NMRで生成物を確認したところ、収率31%、重水素化率97%であった。
【0047】
(実施例9)
アクア(4,4´−ジヒドロキシ−2,2´−ビピリジン)[(1,2,3,4,5−η)−1,2,3,4,5−ペンタメチル−2,4−シクロペンタジエン−1−イル]ロジウム(III)硫酸塩(2.9 mg)を、イタコン酸(65 mg)とギ酸(0.1 ml)を含む充分に脱気した重水(5 ml)に溶解した。この溶液を、40度で、8時間で攪拌を行った。反応後、H NMRで生成物を確認したところ、収率99%、重水素化率98%であった。
【0048】
(実施例10)
酸性条件での重水素化化合物の合成
アクア(4,4´−ジヒドロキシ−2,2´−ビピリジン)[(1,2,3,4,5−η)−1,2,3,4,5−ペンタメチル−2,4−シクロペンタジエン−1−イル]イリジウム(III)硫酸塩(3.2 mg)を、2-シクロヘキセン-1-オン(48 mg)とギ酸(0.1 ml)を含む充分に脱気した重水(5 ml)に溶解した。この溶液を、40度で、12時間で攪拌を行った。反応後、H NMRとガスクロマトグラフィーで生成物を確認したところ、重水素化されたシクロヘキサノール(収率:87%、重水素化率:76%)と2−シクロヘキセン−1−オール(収率:13%)が生成した。
【0049】
(実施例11)
中性条件での重水素化化合物の合成
アクア(4,4´−ジヒドロキシ−2,2´−ビピリジン)[(1,2,3,4,5−η)−1,2,3,4,5−ペンタメチル−2,4−シクロペンタジエン−1−イル]イリジウム(III)硫酸塩(1.6 mg)を、2-シクロヘキセン-1-オン(48 mg)とギ酸ナトリウム(68 mg)を含む充分に脱気した重水(5 ml)に溶解した。この溶液を、40度で、1時間で攪拌を行った。反応後、H NMRとガスクロマトグラフィーで生成物を確認したところ、重水素化されたシクロヘキサノンが99%以上生成し、その重水素化率は84%であった。
【産業上の利用可能性】
【0050】
本発明により、従来の高価な重水素ガス(D)等を用いていた重水素化化合物の製造において、重水素化された溶媒中、入手容易で安価な水素ガス(H)若しくはギ酸(HCOH)と反応させることにより、簡便な手段で高純度かつ高効率で重水素化化合物を製造することが可能となり、かつ、反応後に錯体触媒を回収し、再利用することが可能になった。

【特許請求の範囲】
【請求項1】
重水素化された溶媒中で重水素化化合物を製造するための触媒であって、
下記の一般式(1)又は(2)
【化1】

(式中、R1〜R及びR14〜R19は、それぞれ独立に、水素原子、アルキル基、芳香族基、水酸基(−OH)、エステル基(−COOR)、アミド基(−CONRR’)、ハロゲン(−X)、アルコシ基(−OR)、アルキルチオ基(−SR)、アミノ基(−NRR’)、カルボン酸基(−COOH)、ニトロ基、又はスルホン酸基(−SOH)であり、同一でも異なってもよい。R〜R13は、水素原子、アルキル基、芳香族基、水酸基(−OH)、オキシアニオン(−O)、アルコシ基(−OR)、エステル基(−COOR)、アミド基(−CONRR’)、ハロゲン(−X)、アルキルチオ基(−SR)、アミノ基(−NRR’)、カルボン酸基(−COOH)、ニトロ基、またはスルホン酸基(−SOH)であり、同一でも異なってもよい。R及びR10は、一体となって−CH=CH−を形成してもよく、すなわち、R及びR10はそれら結合するビピリジン環と一体となってフェナントロリン環を形成してもよく、前記−CH=CH−におけるHは、それぞれ独立に、アルキル基、芳香族基、水酸基(−OH)、オキシアニオン(−O)、エステル基(−COOR)、アミド基(−CONRR’)、ハロゲン(−X)、アルコシ基(−OR)、アルキルチオ基(−SR)、アミノ基(−NRR’)、カルボン酸基(−COOH)、ニトロ基、またはスルホン酸基(−SOH)で置換されてもよい。Mは遷移金属であり、Lは、水素原子(−H)、重水素原子(−D,−T)、水分子(−HO)、重水分子(−DO、−TO)、水酸化物イオン(−OH)、重水酸化物イオン(−OD、−OT)、アルコキシドイオン、ハロゲン化物イオン、炭酸イオン、硫酸イオン、硝酸イオン、酢酸イオンあるいはギ酸イオンの配位子であるか、または存在しなくてもよい。n及びmは、イオンの価数を表し、正の整数、0、又は負の整数である。)で表されることを特徴とする、重水素化化合物製造用触媒。
【請求項2】
前記式中のMが、鉄、コバルト、ニッケル、白金、イリジウム、ロジウム、ルテニウム又はオスミニウムである、請求項1に記載の重水素化化合物製造用触媒。
【請求項3】
前記式中のMが、イリジウム、ロジウム又はルテニウムである、請求項1に記載の重水素化化合物製造用触媒。
【請求項4】
前記式中のR及びR11が、水酸基(−OH)、オキシアニオン(−O)又はアルコシ基(−OR)である、請求項1に記載の重水素化化合物製造用触媒。
【請求項5】
前記式中のLが、重水素原子(D、T)である、請求項1に記載の重水素化化合物製造用触媒。
【請求項6】
下記の一般式(3)又は(4)で表される、請求項1に記載の重水素化化合物製造用触媒。
【化2】

(式中、Mは、ロジウム又はイリジウムであり、L及びnは、一般式(1)中のL及びnと同じである。)
【請求項7】
下記の一般式(5)又は(6)で表される、請求項1に記載の重水素化化合物製造用触媒。
【化3】

(式中、Mはロジウム又はイリジウムであり、L及びnは、一般式(1)中のL及びnと同じである。)
【請求項8】
下記の一般式(7)又は(8)で表される、請求項6に記載の重水素化化合物製造用触媒。
【化4】

(式中、Mはロジウムまたはイリジウムである。)
【請求項9】
下記の一般式(9)又は(10)で表される、請求項7に記載の重水素化化合物製造用触媒。
【化5】

(式中、Mはロジウムまたはイリジウムである。)
【請求項10】
重水素化化合物の製造方法において、請求項1〜9のいずれか1項に記載の重水素化化合物製造用触媒の存在下、還元性官能基を有する基質を、重水素化された溶媒中、水素ガスと反応させることを特徴とする重水素化化合物の製造方法。
【請求項11】
前記重水素化された溶媒が、重水(DO)又はトリチウム水(TO)である、請求項10に記載の重水素化化合物の製造方法。
【請求項12】
重水素化化合物の製造方法において、請求範囲1〜9のいずれか1項に記載の重水素化化合物製造用触媒の存在下、還元性官能基を有する基質を、重水中、ギ酸(HCOH)と反応させることを特徴とする重水素化化合物の製造方法。
【請求項13】
重水素化化合物の製造方法において、請求項1〜9のいずれか1項に記載の重水素化化合物製造用触媒の存在下、還元性官能基を有する基質を存在しない条件で、重水(DO)又はトリチウム水(TO)を水素ガス(H)と反応させることを特徴とする重水素ガス(DあるいはT)の製造方法。
【請求項14】
重水素化化合物の製造方法において、請求項1〜9のいずれか1項に記載の重水素化化合物製造用触媒の存在下、還元性官能基を有する基質を存在しない条件で、重水(DO)又はトリチウム水(TO)をギ酸(HCOH)と反応させることを特徴とする重水素ガス(D又はT)の製造方法。
【請求項15】
請求項10〜14のいずれか1項に記載の重水素化化合物の製造方法において、反応系のpHを変化させることにより、重水素化される位置及び/又は重水素化率を制御することを特徴とする重水素化化合物の製造方法。
【請求項16】
請求項10〜14のいずれか1項に記載の重水素化化合物の製造方法において、重水素化化合物を製造する反応が終了後、反応系のpHを変化することで、錯体触媒を沈殿させることにより錯体触媒を回収することを特徴とする重水素化化合物の製造方法。

【公開番号】特開2010−64011(P2010−64011A)
【公開日】平成22年3月25日(2010.3.25)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2008−232996(P2008−232996)
【出願日】平成20年9月11日(2008.9.11)
【出願人】(301021533)独立行政法人産業技術総合研究所 (6,529)
【Fターム(参考)】