説明

分光吸収測定方法及び分光吸収測定装置

【課題】微量成分を正確かつ高感度に測定しうる分光法及び装置を提供すること。
【解決手段】例えばフーリエ変換赤外分光(FT−IR)法において、参照スペクトル及び不純物を含む測定スペクトルを取り込み、測定スペクトルに含まれる不純物による赤外吸収スペクトルのベースラインを平坦化するために、参照スペクトルに対して周波数シフトを含む補正を実施し、差スペクトルを算出する。これにより、従来の差スペクトルに含まれるシリコンのフォノン吸収によるベースラインの変形等は抑えら、置換型炭素による赤外吸収スペクトルが高精度、高感度に得られる。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、例えばフーリエ変換赤外分光測定法(FT−IR)等の分光吸収測定方法及びそれに用いる分光吸収測定装置に関する。
【背景技術】
【0002】
従来、半導体製造プロセスの品質評価等において、FT−IR法を用いてシリコン単結晶中の不純物である置換型炭素の濃度が測定されている。具体的には、差スペクトル法を用い、被測定物(サンプル)であるシリコン単結晶から得られた赤外吸収スペクトルから、実質的に無炭素のシリコン単結晶(リファレンス)から得られた赤外吸収スペクトルを差係数補正して差し引くことで、サンプルに含まれる不純物である置換型炭素の赤外吸収スペクトルを得る手法が知られている(特許文献1参照)。差係数補正は、微小な置換型炭素のスペクトルに重なって存在する、シリコンのフォノン吸収による強い吸収を除くために用いられる。
【0003】
図7は、従来技術における、差係数補正した置換型炭素の赤外吸収スペクトルの例を示す図である。この従来技術においては、差スペクトルに含まれる置換型炭素の吸収ピークの範囲を便宜的に波数595〜615cm−1とし、当該範囲の両端を通る直線をベースライン122として信号強度を求める。
【0004】
また、他の従来技術として、近赤外分光法における検量線補正方法に関し、校正後の測定スペクトルに対して校正前に作成した検量線を適用するための検量線補正方法において、測定スペクトルに対して、その波数をシフトさせる波数シフト補正を施すとともに、波数シフトされた測定スペクトルに対して、吸光度を変化させるスケール補正を施し、補正後のスペクトルに検量線を適用する方法が知られている(特許文献2参照)。
【特許文献1】特開平6−194310号公報
【特許文献2】特開2007−18624号公報
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0005】
特許文献1の差スペクトル法においては、図7に示すように、波数630cm−1付近の歪み121が残存する。これは、上記の強いフォノン吸収による吸光度の変化が急峻な領域と一致しており、参照スペクトルと試料スペクトルの微小な横軸へのシフトが原因であると発明者は考えている。このように、単に差スペクトルを用いる特許文献1の方法では、フォノン吸収による強い吸収がバックグラウンドとして存在し、波数シフトが微小でも存在する場合、その影響を充分に消去しきれない。このため、十分に良好なベースラインが得られず、凹凸の多いベースラインとなり、目的の不純物濃度の正確なピークを得ることができないという問題があった。
【0006】
また、特許文献2における波数シフトの利用は、装置メンテナンス前後における装置のズレ等による検量線の校正が目的であり、上記のように、他の強い吸収が重なる領域における微小な吸収スペクトルを差スペクトル法により正確に拾い出す点については開示も示唆もされていない。
【課題を解決するための手段】
【0007】
本発明らは、上記の従来技術、特に特許文献1の問題点の解決に向けて鋭意検討した結果、差スペクトルのベースライン変動は、サンプル及びリファレンスのスペクトル測定における装置条件や試料条件の相違による微小な周波数シフトによって生じていることを見出した。そして、良好な差スペクトルを得るに必要な微小な周波数シフト量を最小二乗法で見積もることによりバックグラウンドの影響が効果的に消去された良好なベースライン及び吸収ピークを得ることができることを見い出し、本発明を完成するに至った。具体的には、本発明では、以下のような解決手段を提供する。
【0008】
(1) 測定成分の分光吸収、及び前記測定成分の分光吸収と重なる周波数域にバックグラウンド成分の分光吸収を有する測定試料の試料スペクトルと、実質的に前記測定成分を含まず前記バックグラウンド成分の分光吸収を有する参照試料の参照スペクトルとから、前記測定成分の分光吸収スペクトルのみを得る差スペクトル法において、前記差スペクトルを得る際に、前記バックグラウンド成分の分光吸収を消去するために、前記試料スペクトル又は参照スペクトルのいずれかに対する周波数シフトを含む補正を行なうことを特徴とする分光吸収測定方法。
【0009】
(2) 測定成分の分光吸収、及び前記測定成分の分光吸収と重なる周波数域にバックグラウンド成分の分光吸収を有する測定試料の試料スペクトルと、実質的に前記測定成分を含まず前記バックグラウンド成分の分光吸収を有する参照試料の参照スペクトルとから、前記測定成分の分光吸収スペクトルのみを得る差スペクトル法において、前記差スペクトルを得る際に、ベースラインを略平坦にするために、前記試料スペクトル又は参照スペクトルのいずれかに対する周波数シフトを含む補正を行なうことを特徴とする分光吸収測定方法。
(3) 前記周波数シフトする量は分光吸収測定の周波数分解能以下である(1)又は(2)に記載の分光吸収測定方法。
【0010】
(4) 前記分光吸収測定方法がFT−IR(フーリエ変換赤外分光)法であり、前記測定成分がシリコン単結晶中の不純物であり、前記差スペクトルにおける前記測定成分による分光吸収ピークから前記不純物の濃度測定を行う(1)から(3)のいずれかに記載の分光吸収測定方法。
【0011】
(5) 前記不純物は置換型炭素である、(4)に記載の分光吸収測定方法。
【0012】
(6) 前記差スペクトルにおける置換型炭素による分光吸収ピークを信号と見なし、前記分光吸収ピークの前後の波数領域における差吸光度の標準偏差を雑音と見なして、置換型炭素による赤外吸収差スペクトルの信号対雑音比を計算する、(1)から(5)のいずれかに記載の分光吸収測定方法。
【0013】
(7) コンピュータに、測定成分の分光吸収、及び前記測定成分の分光吸収と重なる周波数域にバックグラウンド成分の分光吸収を有する測定試料の試料スペクトルを記憶するステップと、実質的に前記測定成分を含まず前記バックグラウンド成分の分光吸収を有する参照試料の参照スペクトルを記憶するステップと、前記試料スペクトル又は参照スペクトルのいずれかに対する周波数シフトを含む補正によって、前記バックグラウンド成分の分光吸収を消去し、かつ前記測定成分の分光吸収のベースラインを平坦化するための補正係数を算出するステップと、前記補正係数を用いて、前記試料スペクトルと前記参照スペクトルとの差スペクトルを算出するステップと、を実行させるためのコンピュータプログラム。
【0014】
(8) (7)に記載のコンピュータプログラムを記録したコンピュータ読み取り可能な記録媒体。
【0015】
(9) 測定成分の分光吸収、及び前記測定成分の分光吸収と重なる周波数域にバックグラウンド成分の分光吸収を有する測定試料の試料スペクトルを記憶する手段と、実質的に前記測定成分を含まず前記バックグラウンド成分の分光吸収を有する参照試料の参照スペクトルを記憶する手段と、前記試料スペクトルと前記参照スペクトルとの差スペクトルを算出し出力する手段と、を備える分光吸収測定装置において、前記差スペクトルを算出する手段は、前記バックグラウンド成分の分光吸収を消去し、かつ前記測定成分の分光吸収のベースラインを平坦化するために、前記試料スペクトル又は参照スペクトルのいずれかに対する周波数シフトを含む補正を行うことを特徴とする分光吸収測定装置。
【発明の効果】
【0016】
本発明によれば、例えばFT−IR等の分光吸収測定において差スペクトル法を使用する際に、バックグラウンドの影響を効果的に排除し、良好なベースラインを得ることができるので、検出感度を従来法よりも高めることができる。この方法は、シリコン単結晶中の不純物濃度の測定等に極めて効果的である。
【発明を実施するための最良の形態】
【0017】
以下、本発明の一実施形態について詳細に説明する。なお、これはあくまでも一例であって、本発明の技術的範囲はこれに限られるものではない。
【0018】
<分光吸収測定装置>
図2に、本発明の分光吸収測定装置の一例であるFT−IR装置200の構成を示す。FT−IR装置200は、干渉計205、移動鏡206、固定鏡207、半透鏡208、光源210、試料室220、検出器230、A/D変換器240、コンピュータ250を含む。光源210及び干渉計205により生成された干渉光は試料室220を通過して検出器230に到達して信号強度が検出されて電気信号となり、A/D変換器240において前記電気信号はデジタル変換され、コンピュータ250を用いてフーリエ変換等の計算処理を実施される。得られる情報は、波数領域における赤外吸収強度の分布として出力される。
【0019】
なお、本発明の適用対象となる分光吸収測定手段は、FT−IRには限定されず、従来公知の分光吸収測定手段が適用対象となる。例えば波数領域を掃引して検出器からの出力として赤外吸収スペクトルを得ることも当然に本発明の対象である。また、周波数領域も特に限定されす、紫外、可視、近赤外、赤外、遠赤外等いずれの周波数領域も適用対象となる。なかでも後述するシリコン単結晶中の不純物の測定に対しては、対象不純物と測定感度の点からFT−IR法を用いることが好ましい。また、例えば、本発明の赤外分光測定装置をシリコン単結晶製造ラインに組み込み、自動品質評価手段又は自動検定手段として用いてもよい。
【0020】
<測定試料と参照試料>
本発明に用いる測定試料としては、分光吸収を示す測定成分と、この測定成分の分光吸収と重なる周波数域に分光吸収を有するバックグラウンド成分を含む試料であればよく特に限定されないが、シリコン単結晶を例にすると、チョクラルスキー法(CZ法)シリコン単結晶又はフローティングゾーン法(FZ法)シリコン単結晶のいずれの単結晶も適用対象である。この場合、測定成分はいわゆる不純物成分であり、具体的には炭素や酸素である。この濃度は、具体的には1ppma(百万分の一原子単位)以下でありうるが特に限定されない。一方、バックグラウンド成分はシリコンのフォノン吸収によるものである。具体的には、フォノンの吸収による赤外吸収スペクトルは565〜645cm−1の範囲にあり、605cm−1前後の置換型炭素の赤外吸収スペクトルに重なる。
【0021】
本発明に用いる参照試料としては、実質的に前記測定成分を含まず前記バックグラウンド成分を含む試料であればよく特に限定されない。測定試料が上記の不純物を含むシリコン単結晶である場合には、実質的に不純物を含まない、上記測定試料と同一製法のシリコン単結晶であることが好ましい。なお、「実質的に不純物を含まない」とは、検出限界以下であるか、又は炭素ピークが検出できないことを意味する。
【0022】
なお、本発明における特徴として、測定試料の測定成分を高感度に検出できる点が挙げられる。具体的には、後述するように、シリコン単結晶中の炭素濃度を例にした場合、その検出下限は3×1014a/cm(単位立方センチメートルあたり原子数)程度であり、これは、特許文献1が示した4.5×1015a/cm程度の置換型炭素の定量方法に比べて約15倍優れている。これほど低濃度の炭素濃度をFT−IR法で検出することは従来極めて困難である。
【0023】
<周波数シフト>
本発明の特徴は、バックグラウンド成分の分光吸収を消去し、差スペクトルのベースラインが平坦化されるように、前記試料スペクトル又は参照スペクトルのいずれかに対する最適な周波数シフト量を求め、差スペクトルを得る点にある。試料スペクトルと参照スペクトルは、測定機器の安定度や測定試料自体の温度変動等の影響により微小な波数のずれを生じてしまう。そして、この場合フォノン吸収スペクトルが急な変化を示す波数領域において差スペクトルにはベースラインの変動が生じる。本発明の分光吸収測定方法は、この波数ずれ分の波数シフトを数値計算的に行うことで、ベースラインの変動を解消することを趣旨とするものである。
【0024】
良好なベースラインを与える周波数シフト量は正負いずれの符号も取りえ、測定手段の周波数分解能以下の微小な周波数シフト量であることが多い。具体的には、上記シリコン単結晶中の炭素濃度を測定する場合、波数で0.01cm−1から0.03cm−1の範囲のシフトが多い。具体的な波数シフトの数値に関しては実施例を用いて後述する。
【0025】
最小二乗法にて取り扱われるベースラインのデータの波数領域は、波数565〜645cm−1の範囲に含まれればよく、好ましくは波数565〜590cm−1の範囲又は620〜645cm−1の範囲、より好ましくは波数570〜585cm−1の範囲又は625〜640cm−1の範囲である。信号対雑音比の計算において雑音と見なす波数の範囲は、前記部分から適宜設定しうる。
【0026】
波数シフト量の決定は、波数シフト量を未知数とする最小二乗法を用いて算出することが好ましい。この点についても後述の具体例にて詳細に説明する。他の未知数として、波数に対して1次、2次等の多項式のベースラインオフセットを適宜含んでもよい。波数シフト量を含む未知数は、測定スペクトル又は参照スペクトルのベースライン領域に含まれる数値を用いて算出される。
【0027】
<周波数シフト補正の具体例>
図1に、シリコン単結晶中の不純物である炭素濃度の測定を例として、本発明の一実施形態における、赤外分光差スペクトル測定における波数シフト量及びベースライン補正の手順を示すフロー図を示す。また、図2を用いて上述したFT−IR装置に含まれる機器構成を、当該フロー図の説明のために参照する。なお、以下は赤外分光法におけるステップとして波数を用いて例示するが、波長又は周波数を用いる他の分光法においても、以下のステップと同様に取り扱うことができる。
【0028】
まず、参照スペクトルを測定するステップ(S10)において、試料室220は定量目的以外の成分からなる参照試料(図示せず)を備える。FT−IR装置200は試料室220に設置された参照試料の赤外吸収分光データ(データR)を取得し、コンピュータ250を用いて適宜記憶する。前記参照試料の赤外吸収分光データ(データR)を次式で表す。
【数1】

ここでxは波数、A(x)は波数xでの吸光度値である。
【0029】
同様に試料スペクトルを測定するステップ(S20)において、試料室220は定量目的の成分を含む測定試料(図示せず)を備える。FT−IR装置200は試料室220に設置された前記測定試料の赤外吸収分光データ(データS)を取得し、コンピュータ250を用いて適宜記憶する。前記測定試料の赤外吸収分光データ(データS)を次式で表す。
【数2】

ここでA(x)は波数xでの吸光度値である。
【0030】
次いで、波数シフト量を含む未知数を定義するため、一例として、次式を仮定する。
【数3】

ここで、A(x):補正した参照スペクトルのモデル式
:参照スペクトルと試料スペクトルの振幅誤差を補正する差係数
:波数シフト補正のためのシフト量[cm−1
:0次ベースラインオフセット
:1次ベースラインオフセット
である。モデル式A(x)は、具体的には、参照スペクトルA(x)を試料スペクトルA(x)に近づけるためのものであり、より具体的には、差スペクトルの算出に伴うシリコン単結晶の格子振動による630cm−1付近の歪みを抑圧するためのものである。その目的のためには、モデル式A(x)は、波数シフト補正のためのシフト量aを含んでいればよく、数式3に限らず適宜設計しうる。
【0031】
補正係数算出ステップ(S30)において、次式を用いて残差二乗和を定義する。
【数4】

ここで、Dは試料スペクトルから補正参照スペクトルを差し引いた残差二乗和である。また、xについての和を求める範囲Qは、炭素ピークの左右のベースライン領域を示す。数式3に含まれる補正のための係数a、a、a、aは、例えば、公知の最小二乗法を用い、残差二乗和を極小化する次の条件から算出することができる。
【数5】

補正のための係数を決定する手段としては、線形最小二乗法、非線形最小二乗法等の公知の手法を適宜用いてもよい。このように、本発明の分光吸収測定方法においては、試料スペクトル及び参照スペクトルの計測値に基づいて、補正のための係数a、a、a、aを決定しうる。
【0032】
差スペクトルを算出するステップ(S40)は、前項で決定された未知数a、a、a、aの値を用い、次式で定義される差スペクトルが求められる。
【数6】

数式4は、参照スペクトルA(x)を試料スペクトルA(x)に近づけることにおける残差であり、同時に、測定成分のみによる分光吸収を示す差スペクトルである。
【0033】
定量計算するステップ(S50)は、数式4で表される差スペクトルに基づき、定量を目的とする成分の信号強度を数値化するステップである。信号強度の数値は最大値でもよく、積分強度でもよく、適宜設計しうる。
【0034】
本発明の分光測定方法は、図1に示され、数式1から数式5を用いて説明されるステップを用いて波数シフト補正を含む補正計算を実施することにより、差スペクトルのベースライン部分に含まれる不要な変形、歪み等を低減できる。また、本発明は、特にFT−IRを用いる差スペクトル法において、測定機器の波数分解能以下の微小な波数シフト量により、測定成分の微小信号に重なるバックグラウンド成分を効果的に消去できる。これにより、測定成分の検出感度を高めうる。さらに、本発明は、これらのデータ処理方法をコンピュータ・プログラムとして提供できるので、コンピュータを用いて補正計算を自動的に実施できる。
【0035】
以下、実施例を用いて本発明をさらに詳細に説明する。
<実施例1>
実施例1では、本発明の方法における、差スペクトルの波数シフト依存性を示す。図3は、本発明の一実施形態である差スペクトルの波数シフト依存性を示す図である。参照試料としては実質的に無炭素のCZ法シリコン単結晶を用い、波数540〜660cm−1の範囲を波数分解能1cm−1の条件で測定した。
【0036】
まず、参照試料の赤外分光スペクトル(データR)を取得し、置換型炭素濃度の定量のための試料の赤外分光スペクトル(データS)を取得した。次いで、データRを数式3のaに或る定数値を入れて波数シフトした赤外分光スペクトル(データR’)を、コンピュータを用いて作成した。さらに、データSからデータR’を差し引くときに、数式3におけるa、a、aの未知数を、数式4を最小にするよう最小二乗法によって定め、差スペクトル(データD)を求めた。
【0037】
図3に、数式3におけるaである波数シフト量152として、データR’の作成において用いた複数の波数シフトの値を示す。差スペクトル100、101、102、103、104のそれぞれにおける波数シフトaの値は、0.02、0.04、0、−0.02、−0.04[cm−1]である。
【0038】
置換型炭素の赤外分光スペクトルは605cm−1に存在することが周知であるので、差スペクトルは理想的には平坦なベースライン及び605cm−1の吸収スペクトル成分を有すべきものである。しかし、置換型炭素の赤外分光スペクトルには、シリコンのフォノン吸収による吸収が重なり、波数シフト補正を用いずにデータSからデータRを差し引いた差スペクトル、すなわち波数シフト量をゼロとする場合の差スペクトルは、差スペクトル102のように、605cm−1の置換型炭素の赤外分光スペクトルよりも大きなベースラインの変形を625cm−1付近に含む。この変形は、差スペクトルを用いるシリコン単結晶中の微量の置換型炭素の分光測定における妨害となっている。
【0039】
一方、本発明の赤外分光測定方法により波数シフトした参照スペクトルを用いる差スペクトル、すなわち、差スペクトル100、101、103、104に注目すると、波数シフト量152に依存してそれぞれの差スペクトルの強度分布が変化した。特に、差スペクトル100(波数シフト量は「0.02cm−1」)の条件において、上述の妨害となるベースラインの変動を最も抑えることができた。また、波数シフト量の変化にともなって605cm−1の置換型炭素のピーク高さも変化した。
【0040】
<実施例2>
実施例2では、本発明の方法における補正後差スペクトルの例を示す。図4(a)は、本発明の一実施形態であるシリコン単結晶中置換型炭素の定量測定のためのFT−IR補正後差スペクトルである。本発明における波数シフト補正を用いるFT−IR差スペクトルの横軸は波数[cm−1]であり、縦軸は差吸光度である。
【0041】
差スペクトルの計算法は実施例1において記載のように、実質的に無炭素の参照試料から得られる参照スペクトル、及び、炭素濃度を定量するための測定試料から得られる測定スペクトルをそれぞれ測定した後、残差二乗和を極小化する条件を満たす波数シフト量及びベースラインオフセット量を最小二乗法を用いて決定し、決定した波数シフト量及びベースラインオフセット量を用いて補正後差スペクトルを求めた。波数シフト前の参照スペクトル及び測定スペクトルは、それぞれ波数500〜700cm−1の範囲を波数分解能1cm−1の条件で測定した。
【0042】
図4(a)の補正後差スペクトルは、図中に三角形で示す波数550〜590cm−1の範囲の低波数領域161及び波数620〜650cm−1の範囲の高波数領域163、さらに、図中に黒丸で示す波数590〜620cm−1の範囲に置換型炭素の赤外吸収ピークを有するピーク領域162を含む。図4(a)においては、低波数領域161及び高波数領域163における差吸光度の偏差は、ピーク領域162における差吸光度の最大値よりも小さいので、605cm−1の置換型炭素の赤外吸収ピークを明瞭に読み取ることが可能である。この補正後差スペクトルを得るための波数シフト量は0.021cm−1であり、数式6を用いて機械的計算により得られた。
【0043】
図4(b)は、同一の参照試料及び測定試料に対して、波数シフトなしの従来技術を用いて求めた差スペクトルである。従来法のFT−IR差スペクトルは、上述と同様に、横軸は波数[cm−1]であり、縦軸は差吸光度である。波数シフトは実施せず、差係数及びベースラインのオフセットのみを用いた。測定条件は図4(a)と同一である。
【0044】
図4(b)の差スペクトルは、図中に三角形で示す波数550〜590cm−1の範囲の低波数領域171及び波数620〜650cm−1の範囲の高波数領域173、さらに、図中に黒丸で示す波数590〜620cm−1の範囲に置換型炭素の赤外吸収ピークを有するピーク領域172を含む。この結果、図4(b)においては、高波数領域173にベースラインの変形が残存した。この変形は、従来技術における図7の波数630cm−1の歪み121と同様に、図3を用いて説明したフォノン吸収の影響によるものである。このように、図4(b)においては、置換型炭素の吸収ピークを含むピーク領域172の最大値よりも高波数領域173におけるばらつきが大きい。差スペクトルのベースラインの変形よりも小さなピーク成分は測定誤差とみなしうるので、従来法では置換型炭素の吸収ピークは有意に識別できない。
【0045】
<実施例3>
実施例3では、本発明の方法における検出限界の評価例を示す。
図5は、本発明の一実施形態である補正後差スペクトルにおいて、炭素ピーク高さを信号、左右のベースライン領域のデータばらつきを雑音とみなす信号対雑音比(SN比)の考え方を用いて評価する例である。実測データは前述の図4を用いて説明した本発明における補正後差スペクトル及び従来法における差スペクトルと同一であり、重複する部分は説明を省略する。
【0046】
図5(a)は、シリコン単結晶中置換型炭素の定量測定のためのFT−IR補正後差スペクトルである。図中に点線で示すのはSN比計算のためのベースライン166、実線は波数605cm−1における測定点から当該ベースラインまでのピーク高さ167である。
【0047】
ベースライン領域のデータばらつきの目安である雑音を計算するための波数領域は、置換型炭素吸収ピークの低波数側及び高波数側、565〜590cm−1の範囲及び620〜645cm−1の範囲とした。実測値から、ピーク高さ167の値は差吸光度0.00136[Abs:吸光度の単位]であり、低波数領域161及び高波数領域163にの差吸光度の標準偏差は0.000114[Abs]であり、ピーク高さ167を前記標準偏差で除したSN比は、11.9であった。また、ピーク高さから、この測定試料に含まれる置換型炭素の濃度は1.28×1015a/cmであった。
【0048】
さらに、検出限界を雑音の標準偏差の3倍として見積もると、3.00×1014a/cm程度であった。これは特許文献1に示された4.5×1015a/cm(0.09[ppma])程度の置換型炭素に対して約15分の1の濃度であった。すなわち、本発明の方法においては、公知技術よりも1桁以上少ない微量の置換型炭素でも定量的に濃度を測定できることを意味する。
【0049】
図5(b)は、従来法でのシリコン単結晶中置換型炭素の定量測定のためのFT−IR差スペクトルである。図中に点線で示すのはベースライン176、実線は波数605cm−1におけるピークから当該ベースラインまでのピーク高さ177である。ここで、従来法による差スペクトルでは、図5(b)を用いて前述したように、高波数領域におけるベースラインの変形が大きいために、SN比計算のためのベースライン176は吸収ピークが見いだされるように便宜的に決める必要があり、具体的には波数595cm−1及び波数615cm−1における測定点を通る直線とした。
【0050】
雑音を計算するための波数領域は、図5(a)と同様に設定した。ピーク高さ177の値は差吸光度0.0007[Abs]であり、低波数領域171及び高波数領域173に含まれる測定点の差吸光度の標準偏差は0.000404[Abs]であり、ピーク高さ177を前記標準偏差で除したSN比は、1.75であった。
【0051】
また、この測定試料に含まれる置換型炭素の濃度は6.6×1014a/cmと算出された。しかし、従来法でのピーク高さ177は本発明でのピーク高さ167よりも低く、また、従来法での差スペクトルにおいては、置換型炭素の吸収ピークよりもベースラインのばらつきの方が大きいため、従来法では置換型炭素の吸収ピークはノイズ以下の強度であり、定量性は保証されないと考えうる。
【0052】
これらの結果から、本発明の赤外分光測定法のSN比は従来法に対して約6倍の感度向上に達した。また、検出限界は従来法の計測例に対して15分の1程度の微量濃度まで下がった。
【0053】
<実施例4>
実施例4では、本発明の赤外分光測定法における、置換型炭素の赤外吸収ピークを、計算モデルで近似することを示す。
図6は、ローレンツ型のピークシェープを用いてピークフィッティングするための置換型炭素による赤外吸収スペクトルを示す図である。
【0054】
図6(a)は、前述の検出限界の説明において用いた、雑音とみなす、置換型炭素吸収ピークの低波数側及び高波数側、すなわち、565〜590cm−1の範囲(181)及び620〜645cm−1の範囲(182)を示す図である。
図6(b)は、置換型炭素の赤外吸収スペクトル全体がローレンツ型のピークシェープを有する吸収スペクトルであると仮定し、実測との残差二乗和が極小となるようフィッティングする処理における、測定点を示す図である。フィッティングには置換型炭素の赤外吸収ピークを含む波数565〜645cm−1の範囲の測定点を用いた。置換型炭素の赤外吸収ピークに対する吸収線ピークシェープは、例えば、次式で表される。
【数7】

ここに、a:ピーク強度
:ピーク中心の波数
:半値幅
L(x,a,a)は正規化したローレンツ型ピークシェープ
である。ローレンツ型ピークシェープは次式で表される。
【数8】

係数a〜aの算出は、前述の数式5及び数式6を用いる補正係数の算出と同様に線形最小二乗法、又は非線形最小二乗法等を用いてもよい。具体的には、波数605cm−1の付近に置換型炭素による強度及び半値幅を有する吸収スペクトルについて、波数565〜645cm−1の範囲(191)の測定点に対してフィッティングしたローレンツ型のラインシェープを得ることが可能であり、その結果を図6(b)に実線で示す。又、求められた波数シフトは0.0206cm−1であり、ピーク位置は604.92cm−1、半値幅は3.14cm−1であった。
【産業上の利用可能性】
【0055】
本発明の分光吸収測定方法及び分光吸収測定装置は、例えば、シリコン単結晶中の不純物濃度の測定等に使用できる。
【図面の簡単な説明】
【0056】
【図1】本発明の一実施形態である、赤外分光差スペクトル測定における波数シフト量及びベースライン補正の手順を示すフロー図である。
【図2】本発明の一実施形態である、FT−IR装置の構成を示す図である。
【図3】本発明の差スペクトルの波数シフト依存性を示す図である。
【図4】本発明の一実施形態である、シリコン単結晶中置換型炭素の定量測定のためのFT−IR差スペクトルである。
【図5】本発明の一実施形態である、補正後差スペクトルの信号対雑音比を評価する例である。
【図6】本発明の一実施形態である、ローレンツ型のラインシェープを用いてフィッティングした置換型炭素による赤外吸収スペクトルを示す図である。
【図7】従来技術における、差スペクトルを用いてシリコン単結晶中置換型炭素の赤外吸収スペクトル強度を求める方法の、置換型炭素による赤外吸収スペクトルの例を示す図である。
【符号の説明】
【0057】
100、101、102、103、104 差スペクトル
121 波数630−1付近の歪み
122 ベースライン
152 波数シフト量
161、171 低波数領域
162、172 ピーク領域
163、173 高波数領域
166、176 SN比計算のためのベースライン
167、177 ピーク高さ
181 波数565〜590cm−1の範囲の測定点
182 波数620〜645cm−1の範囲の測定点
191 波数565〜645cm−1の範囲の測定点
200 FT−IR装置
205 干渉計
206 移動鏡
207 固定鏡
208 半透鏡
210 光源
220 試料室
230 検出器
240 A/D変換器
250 コンピュータ

【特許請求の範囲】
【請求項1】
測定成分の分光吸収、及び前記測定成分の分光吸収と重なる周波数域にバックグラウンド成分の分光吸収を有する測定試料の試料スペクトルと、実質的に前記測定成分を含まず前記バックグラウンド成分の分光吸収を有する参照試料の参照スペクトルとから、前記測定成分の分光吸収スペクトルのみを得る差スペクトル法において、
前記差スペクトルを得る際に、前記バックグラウンド成分の分光吸収を消去するために、前記試料スペクトル又は参照スペクトルのいずれかに対する周波数シフトを含む補正を行なうことを特徴とする分光吸収測定方法。
【請求項2】
測定成分の分光吸収、及び前記測定成分の分光吸収と重なる周波数域にバックグラウンド成分の分光吸収を有する測定試料の試料スペクトルと、実質的に前記測定成分を含まず前記バックグラウンド成分の分光吸収を有する参照試料の参照スペクトルとから、前記測定成分の分光吸収スペクトルのみを得る差スペクトル法において、
前記差スペクトルを得る際に、ベースラインを略平坦にするために、前記試料スペクトル又は参照スペクトルのいずれかに対する周波数シフトを含む補正を行なうことを特徴とする分光吸収測定方法。
【請求項3】
前記周波数シフトする量は分光吸収測定の周波数分解能以下である、請求項1又は請求項2に記載の分光吸収測定方法。
【請求項4】
前記分光吸収測定方法がFT−IR(フーリエ変換赤外分光)法であり、
前記測定成分がシリコン単結晶中の不純物であり、
前記差スペクトルにおける前記測定成分による分光吸収ピークから前記不純物の濃度測定を行う請求項1から請求項3のいずれかに記載の分光吸収測定方法。
【請求項5】
前記不純物は置換型炭素である、請求項4に記載の分光吸収測定方法。
【請求項6】
コンピュータに、
測定成分の分光吸収、及び前記測定成分の分光吸収と重なる周波数域にバックグラウンド成分の分光吸収を有する測定試料の試料スペクトルを記憶するステップと、
実質的に前記測定成分を含まず前記バックグラウンド成分の分光吸収を有する参照試料の参照スペクトルを記憶するステップと、
前記試料スペクトル又は参照スペクトルのいずれかに対する周波数シフトを含む補正によって、前記バックグラウンド成分の分光吸収を消去し、かつ前記測定成分の分光吸収のベースラインを平坦化するための補正係数を算出するステップと、
前記補正係数を用いて、前記試料スペクトルと前記参照スペクトルとの差スペクトルを算出するステップと、
を実行させるためのコンピュータプログラム。
【請求項7】
測定成分の分光吸収、及び前記測定成分の分光吸収と重なる周波数域にバックグラウンド成分の分光吸収を有する測定試料の試料スペクトルを記憶する手段と、
実質的に前記測定成分を含まず前記バックグラウンド成分の分光吸収を有する参照試料の参照スペクトルを記憶する手段と、
前記試料スペクトルと前記参照スペクトルとの差スペクトルを算出し出力する手段と、を備える分光吸収測定装置において、
前記差スペクトルを算出する手段は、前記バックグラウンド成分の分光吸収を消去し、かつ前記測定成分の分光吸収のベースラインを平坦化するために、前記試料スペクトル又は参照スペクトルのいずれかに対する周波数シフトを含む補正を行うことを特徴とする分光吸収測定装置。

【図1】
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【図2】
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【図3】
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【図4】
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【図5】
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【図6】
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【図7】
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【公開番号】特開2009−162667(P2009−162667A)
【公開日】平成21年7月23日(2009.7.23)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2008−1677(P2008−1677)
【出願日】平成20年1月8日(2008.1.8)
【出願人】(000184713)SUMCO TECHXIV株式会社 (265)
【Fターム(参考)】