説明

飛行時間型2次イオン質量分析装置

【課題】試料から2次イオンを効率良く発生させて、試料を高感度で分析する。
【解決手段】(1)イオン発生源と、パルス化手段と、ON状態の時にクラスターイオンの中から特定の質量数のイオンからなる測定用1次イオンを選別し、OFF状態の時にクラスターイオンを通過させる選別手段であって、ON状態とOFF状態を切り替えることが可能な選別手段とを有するイオン照射手段と、(2)試料台と、(3)試料から生じた2次イオンの飛行時間を測定する飛行時間型質量分析部と、を備えたことを特徴とする飛行時間型2次イオン質量分析装置。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、飛行時間型質量分析部を用いて、試料の情報を取得することが可能な飛行時間型2次イオン質量分析装置に関する。より詳しくは、試料を構成する構成物、特にタンパク質、ペプチド(以下、「ポリペプチド」と記載する)などの有機物を種類ごとに効率よく、イメージング検出することが可能な飛行時間型2次イオン質量分析装置に関する。
【背景技術】
【0002】
近年のゲノム(genome)解析の進展により、生体内に存在する遺伝子産物であるタンパク質の解析の重要性が急速にクローズアップされてきている。また、従来から、タンパク質の発現及び機能解析の重要性が指摘されており、その解析手法の開発が進められている。これらの手法は、(1)二次元電気泳動や高速液体クロマトグラフ(HPLC)による分離精製と、(2)放射線分析、光学的分析、質量分析等の検出系、の組み合わせを基本としている。
【0003】
このタンパク質解析技術の基盤はプロテオーム(proteome)解析と呼ばれるもので、これは遺伝子(gene)から作り出され実際に生体内で働いているタンパク質を解析するものである。そして、最終的に細胞の機能や疾患の原因を究明することを目的としている。このプロテオーム解析の代表的な解析手法としては、下記の方法を挙げることができる。
(1)対象とする生体組織や細胞からのタンパク質の抽出。
(2)2次元電気泳動によるタンパク質の分離。
(3)MALDI法(マトリックス支援レーザー脱離−飛行時間型質量分析法:MALDI−TOFMS)などの質量分析によるタンパク質またはその断片の分析。
(4)ゲノムプロジェクトなどのデータベースを利用したタンパク質の同定。
【0004】
一方、本願発明者は、以前に、特許文献1(特開2006−10658号公報)において、TOF−SIMS法(飛行時間型2次イオン質量分析法)をベースとする情報取得手法及び装置を提案した。この情報取得手法等は、プロテインチップや生体組織切片におけるポリペプチドの2次元分布の可視化を目的としている。この手法では、インクジェット法などを用いて、上記プロテインチップや生体組織切片に、イオン化促進物質や消化酵素を付与する。そして、タンパク質の種類に関する情報(消化酵素により限定分解されたペプチドの情報を含む)を、その位置情報を保持したままTOF−SIMS法により可視化するものである。
【0005】
さらに、TOF−SIMS法でポリペプチドを有効に分析した例としては、下記に、MALDI法と同様の前処理を適用したものが開示されている。すなわち、ポリペプチドをマトリックス物質と混合することにより、分子量の大きなポリペプチド親分子を検出する方法が開示されている。
【0006】
・非特許文献1(A. F. Maarten et al., Anal. Chem., 77, 735 (2005))。
ポリペプチドを有効に分析する手法として、TOF−SIMS法での1次イオンに、カーボン60フラーレン(C60)イオンや金やビスマスなど金属元素の3量体クラスター(Au3、Bi3)イオンなどを用いた例が記載されている。これにより、1次イオンの照射によって試料表面の極浅い領域内でのエネルギー多重散乱が起こる。そして、1次イオンが衝突した表面の近傍に存在する高分子がソフトに、数多く放出(スパッタリング)できることが記載されている。
【0007】
・非特許文献2(D.G. Castner, Nature 422, 129 (2003))。
非特許文献2に記載の現象を利用することにより、高分子のフラグメント化を抑えたイオン化を促進し、結果としてイオン検出感度を向上する方法が開示されている。
【0008】
・特許文献2(特開平7−211282号公報)、特許文献3(特開2005−300480号公報)
上記両文献には、TOF−SIMS法以外の飛行時間型質量分析計を備えた分析機器において、イオン化機構の改良によって、高分子のフラグメントイオン化を促進させ、その分子構造の情報を得る方法が開示されている。より具体的には、特許文献2ではイオン源と質量分析部との間に衝突ガスを照射し、特許文献3ではイオン源と質量分析部との間に赤外線レーザーを照射させている。
【非特許文献1】A. F. Maarten et al., Anal. Chem., 77, 735 (2005)
【非特許文献2】D.G. Castner, Nature 422, 129 (2003)
【特許文献1】特開2006−10658号公報
【特許文献2】特開平7−211282号公報
【特許文献3】特開2005−300480号公報
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0009】
本発明者が提案した、特許文献1に記載の情報取得手法等では、病変組織と正常組織のタンパク質に関する情報(消化酵素により限定分解されたペプチドの情報を含む)を取得することができる。しかしながら、試料の種類及び測定条件によっては、その検出感度が十分ではない場合があった。
【0010】
一方、非特許文献1に記載の方法は、分子量の大きなポリペプチドであっても1次イオン照射による分解を抑制し、元の質量を保持したまま親分子を検出できる方法である。しかしながら、非特許文献1の方法では、ポリペプチドとマトリックス物質とを混合したものを測定試料としている。このため、タンパク質チップのような試料を分析する場合には、元の2次元分布情報を取得することができなかった。
【0011】
そこで、上記のような問題点を解決する、TOF−SIMS法を用いた装置の改良方法としては、MALDI法やLC−TOFMS法(液体クロマトグラフ質量分析計)などの手法を応用することが考えられる。その代表的な例として、特許文献2及び3に記載のような、イオン源と質量分析部との間に、衝突ガスや赤外線レーザー光の照射を行い、ポリペプチドの高分子をフラグメントイオン化して検出する手法が考えられる。しかしながら、これらの方法では測定対象となる試料が限定され、衝突ガスや赤外線レーザー光が比較的、低エネルギーであるため、試料からの2次イオン発生量も少なく、測定精度に限界があった。
【0012】
このため、近年、現実的な手法として広く用いられている改良方法は、非特許文献2に記載のような、C60やAu3、Bi3などの金属性クラスターイオンを1次イオンに用いる方法である。この方法では、金属性クラスターイオンを1次イオンとして試料に照射することにより、試料表面の極浅い領域で多重散乱を誘発して、フラグメント化を抑えながら良好に(中性イオンを含む)高分子イオンの放出を行うことができる。この方法では、高分子イオンの検出感度を増大させることができると共に、金属イオンビームの特性であるサブミクロンでの位置分布情報の検出が可能になるという利点を有する。すなわち、この方法を用いると、従来、1次イオン源として用いていたガリウムやアルゴンの場合に比べて、質量数200から1000程度のポリペプチドイオンの検出感度が、数十倍から数百倍程度まで向上するという利点を有する。
【0013】
しかしながら、非特許文献2に記載の方法では、1次イオン照射によって試料表面の改質と測定を同時に行っている。このため、試料からの高分子イオンの放出効率が悪かった。また、広範囲に渡り多重散乱を誘発させて高分子イオンの放出を行うため、実質、この金属性クラスター1次イオンが試料表面に照射される領域は100原子に1原子程度と非常に少なかった。このため、試料表面の多くの部分が、分析に供されずに無駄に消費されるといった問題があった。
【0014】
以上のように、従来のTOF−SIMS法を用いた分析方法では、タンパク質チップや生体標本等の試料に対して位置情報を維持しながら、高感度でポリペプチドの親分子イオンの検出を行うことが困難であった。
【0015】
本発明は上記課題に鑑みてなされたものである。すなわち、本発明の装置では、選別手段をOFF状態とすることによって、試料に対してクラスターイオンを照射して試料の表面状態を改質する。また、選別手段をON状態とすることによって、試料に対して測定用1次イオンを照射して試料から2次イオンを発生させ、飛行時間型質量分析部により2次イオンを測定する。そして、本発明では、選別手段を周期的にON状態とOFF状態にすることにより、試料から2次イオンを効率良く生成させて、試料を高感度で分析することを目的とする。
【課題を解決するための手段】
【0016】
上記課題を解決するため、本発明は、以下の構成を有することを特徴とする。
1.(1)2以上の原子からなるクラスターイオンを発生させるイオン発生源と、
前記クラスターイオンをパルス化するパルス化手段と、
ON状態の時に前記クラスターイオンの中から特定の質量数のイオンからなる測定用1次イオンを選別し、OFF状態の時に前記クラスターイオンを通過させる選別手段であって、前記ON状態とOFF状態を切り替えることが可能な選別手段と、
を有するイオン照射手段と、
(2)試料台と、
(3)試料から生じた2次イオンの飛行時間を測定する飛行時間型質量分析部と、
を備え、
前記選別手段をOFF状態とすることによって、試料に対して前記クラスターイオンを照射して試料の表面状態を改質し、
前記選別手段をON状態とすることによって、試料に対して前記測定用1次イオンを照射して試料から2次イオンを発生させ、前記飛行時間型質量分析部により前記2次イオンを測定するように構成されたことを特徴とする飛行時間型2次イオン質量分析装置。
【0017】
2.前記クラスターイオンが、金、銀、銅、白金、パラジウム、ロジウム、オスミウム、ルテニウム、イリジウム、鉄、錫、亜鉛、コバルト、ニッケル、クロム、チタン、タンタル、タングステン、インジウム、ケイ素、ビスマス、炭素、リチウム、カリウム、ナトリウム、及びガリウムからなる群から選択された少なくとも1種の元素からなり、
1つのクラスターイオンが、2以上、100以下の原子から構成されていることを特徴とする上記1に記載の飛行時間型2次イオン質量分析装置。
【0018】
3.前記試料台は、
前記選別手段がOFF状態の時に試料に負の電圧を印加し、前記選別手段がON状態の時に試料に正の電圧を印加するよう切り替え可能であることを特徴とする上記1又は2に記載の飛行時間型2次イオン質量分析装置。
【0019】
4.前記飛行時間型質量分析部は、
前記選別手段がOFF状態の時にイオン引出電極部に負の電圧を印加し、前記選別手段がON状態の時にイオン引出電極部に正の電圧を印加するよう切り替え可能であることを特徴とする上記1から3の何れか1項に記載の飛行時間型2次イオン質量分析装置。
【0020】
5.前記イオン照射手段は、前記クラスターイオン及び測定用1次イオンの照射方向及び速度を調節することにより、試料の同一の領域で、前記試料の表面状態の改質及び2次イオンの発生が起こるように制御可能であることを特徴とする上記1から4の何れか1項に記載の飛行時間型2次イオン質量分析装置。
【0021】
6.前記飛行時間型2次イオン質量分析装置が、タンパク質、ペプチド、糖鎖、ポリヌクレオチド、及びオリゴヌクレオチドからなる群から選択された少なくとも一種の試料の分析装置であることを特徴とする上記1から5の何れか1項に記載の飛行時間型2次イオン質量分析装置。
【発明の効果】
【0022】
本発明の飛行時間型2次イオン質量分析装置は、細胞または組織を含む生体標本などの試料から2次イオンを効率良く発生させることができる。この結果、試料を高感度で分析することが可能となる。
【発明を実施するための最良の形態】
【0023】
本発明の装置は、(1)イオン照射手段、(2)試料台、(3)飛行時間型質量分析部を備える。この装置は、飛行時間型二次イオン質量分析装置(Time of Flight Secondary Ion Mass Spectrometry:TOF−SIMS)である。
【0024】
この(1)イオン照射手段は、以下の手段を有する。
・イオン発生源:2以上の原子からなるクラスターイオンを発生させる。
・パルス化手段:クラスターイオンをパルス化する。
・選別手段:ON状態の時にクラスターイオンの中から特定の質量数のイオンからなる測定用1次イオンを選別し、OFF状態の時にクラスターイオンを通過させる。また、ON状態とOFF状態を切り替えることが可能である。
【0025】
そして、イオン照射手段は、選別手段がOFF状態の時に、試料に対してクラスターイオンを照射して試料の表面状態を改質できるようになっている。また、選別手段がON状態の時に、測定用1次イオンを照射して試料から2次イオンを発生させ、飛行時間型質量分析部により2次イオンを測定できるようになっている。
【0026】
そして、切り替え手段により、このON状態とOFF状態を切り替えることにより、試料表面にクラスターイオンを保持している間に、試料に対して測定用1次イオンを照射できる。この結果、試料からの2次イオン発生量を増加させて、高精度・高感度な試料の測定が可能となる。
以下、本発明の装置の各手段を詳細に説明する。
【0027】
(イオン照射手段)
本発明のイオン照射手段は、イオン発生源、パルス化手段、選別手段を有する。図1は、本発明のイオン照射手段の一例を示したものである。図1のイオン照射手段では、イオン発生源1として、金属を用いるときは短針形状のフィラメントの加熱による局所高電圧印加イオン化法を用いた液体金属イオン源方式を用いる。また、イオン発生源1として、昇華性の材質を用いるときは加熱による蒸発ガスへの電子線照射イオン化法によるガス化電子衝撃法を用いる。
【0028】
このイオン発生源1は、引出電圧で加速することにより、2以上の原子からなるクラスターイオンを発生させて質量選択チューブ2内へ導入することが可能なようになっている。なお、イオン発生源1の方式は、これらの方式に限られるわけではない。
【0029】
なお、1つのクラスターイオンは、2個以上の原子からなり、選別手段によって特定の質量数m(質量)/z(電荷)のイオンからなる測定用1次イオンを選別可能なものである。また、1つのクラスターイオンは、1種類の元素だけから構成されていても、複数の種類の元素から構成されていても良い。
【0030】
例えば、クラスターイオンが1種の元素Aのみからなる場合、このクラスターイオンは異なる電荷のイオンや、単量体・多量体のイオンから構成されている。このようなイオンとしては例えば、A+、A2+、A-、A2-、A2+、A22+、A2-、A22-、A3+、A32+、A3-、A32-が挙げられる。なお、元素Aの種類によっては、この中の一部のイオンしか存在しなかったり、これ以外のイオンが存在しても良い。また、クラスターイオンが2種以上の元素からなる場合、典型的には、このクラスターイオンは各元素毎に異なる電荷のイオンや、単量体・多量体のイオンから構成されている。
【0031】
典型的には、クラスターイオンは、その原子数が2個以上、5個以下の比較的、小さなものとなるが、中にはカーボンフラーレンのように60個以上で安定な構造のものとなる場合もある。また、クラスターイオンの中には、2価以上の電荷を持つものも含まれるが、ほとんどのクラスターイオンは1価の電荷となる。なお、1つのパルス中に含まれるクラスターイオンの数はファラデーカップ機能を利用した電流計により計測することができる。
【0032】
本発明の装置では、試料表面に照射するクラスターイオンの量(電流値)をイオン発生源1の引出電圧の調整等により、適度な値に調節することが好ましい。例えば、有機物試料表面の改質と測定を行うのに適切なクラスターイオンの量(電流値)は、クラスターイオン源の種類、イオンの引出電圧などによって異なるものとなる。ただ、通常の試料では、10kVの引出電圧でクラスターイオンの照射量が1014個/cm2以上、1015個/cm2以下となる量が好ましい。
【0033】
また、クラスターイオンは、以下の(A)及び(B)の構成を有することが好ましい。
(A)クラスターイオンが、金、銀、銅、白金、パラジウム、ロジウム、オスミウム、ルテニウム、イリジウム、鉄、錫、亜鉛、コバルト、ニッケル、クロム、チタン、タンタル、タングステン、インジウム、ケイ素、ビスマス、炭素、リチウム、カリウム、ナトリウム、及びガリウムからなる群から選択された少なくとも1種類の元素からなる。
(B)1つのクラスターイオンが、2以上、100以下の原子から構成されている。
【0034】
クラスターイオンを、上記(A)及び(B)の構成とすることによって、試料表面内部にクラスターイオンを導入しやすくなる。この結果、試料表面から、より効果的に2次イオンを発生させることができる。
【0035】
また、イオン照射手段は、クラスターイオン及び測定用1次イオンの照射方向及び速度を調節することにより、試料の同一の領域で、試料の表面状態の改質及び2次イオンの発生が起こるように制御可能であることが好ましい。
【0036】
このためには、例えば、試料とイオン照射手段との間に偏光手段を設けても良い。具体的には電磁レンズの適用が望ましい。この偏光手段によって、イオン照射手段から照射されたクラスターイオン及び測定用1次イオンが、それぞれの質量数差のために生じる微細な照射位置のずれを補正し、試料の特定の同一表面位置に照射するように指向させることができる。
【0037】
(パルス化手段)
このようにして質量選択チューブ2内へ導出されたクラスターイオンは、図1(a)ように、第1のチョッピング機構3にまで導かれる。ここで、第1のチョッピング機構3(パルス化手段)は図1(b)のように、その一部に開口が設けられており、高速で回転している。従って、この回転により、イオン発生源1からその導出方向に第1のチョッピング機構3の開口が来たときのみ、クラスターイオンは第1のチョッピング機構3を通過することができるようになっている。このようにして、第1のチョッピング機構3は、イオン発生源1から導出されたクラスターイオンをパルス化することができる。
【0038】
また、この第1のチョッピング機構3(パルス化手段)の回転数を調節することにより、測定用1次イオン及びクラスターイオンのパルス幅を制御することができる。測定用1次イオン及びクラスターイオンのパルス幅は、0.01ns以上、10ns以下が好ましく、0.1ns以上、1ns以下がより好ましい。
【0039】
(選別手段)
また、図1(a)のように、質量選択チューブ2の出口近傍には、クラスターイオン中から特定の質量数のイオンを選別可能な第2のチョッピング機構4(選別手段)が設置されている。そして、図1(c)のように、第2のチョッピング機構4は、典型的には0.1kHz以上10kHz以下の周期でON状態とOFF状態に切り替えることが可能となっている。
【0040】
本発明の装置では、選別手段4がOFF状態の時、試料7に対してクラスターイオン6を照射して試料7の表面状態を改質できるようになっている。また、選別手段4がON状態の時、第1のチョッピング機構3と第2のチョッピング機構4の間の距離と、各チョッピング機構の回転同期のずれにより、試料7に対して特定の質量数のイオンからなる測定用1次イオン5を照射する。そして、試料7の表面から2次イオンを発生させ、飛行時間型質量分析部(図示していない)によって2次イオンを測定できるようになっている。
以下、本発明の選別手段4がON状態と、OFF状態の時の試料表面の状態について、更に詳細に説明する。
【0041】
(a)選別手段4がOFF状態の時
選別手段4がOFF状態とされている時には、パルス化した金属クラスターイオン6が試料に直接、照射され、試料7表面の改質を行うことができる。
【0042】
すなわち、図2に示すように、以下の表面改質効果を得ることができる。
・試料15表面への多数のクラスターイオンの照射により、試料15内部にクラスターイオン13及びその構成イオンが多数、配置されることとなる。これにより、試料15表面の導電性が向上して、2次イオン検出時(選別手段がON状態のとき)の測定用1次イオン11の照射による試料15表面の帯電化を防ぐことができる。
【0043】
・試料15からの電荷供給率の向上によって2次イオン12のイオン化率を向上させることができる。
・試料15の表面内部に一定の深さでクラスターイオン13が導入・配置されることから、測定用1次イオン11が有機膜を通してクラスターイオン13の表面に当たることとなる。この結果、この際の反跳エネルギーにより、試料15の表面から2次イオン12を上方に効率良く跳躍させることが可能となり、2次イオン12の生成効率を向上させることができる。
【0044】
(b)選別手段がON状態の時
選別手段4がON状態とされている時には、選別手段4によりクラスターイオン6中から特定の質量数m(質量)/z(電荷)のイオンからなる測定用1次イオン5が質量選択される。なお、この選別手段による質量選択は、2つのチョッピング機構間の距離と回転同期のずれによって飛行時間分解を行うものである。これにより、第2のチョッピング機構4から、特定の質量数を持つイオンだけを引き出すことができる。この時、測定用1次イオン5としては、1種類のイオンだけであっても、複数の種類のイオンであっても良い。また、測定用1次イオン5は1種類の元素だけから構成されていても、複数の種類の元素から構成されていても良い。
【0045】
具体的な例として、25kVのビスマスクラスターイオンを用いる場合、この両チョッピング機構間の距離を10cm、回転周期を10kHzとする。この時、第2のチョッピング機構4に対する第1のチョッピング機構3の回転同期ずれ(遅れ)を40から60nsecほどにする。すると、クラスターイオンの中からビスマス3量体のクラスターイオン(Bi3+)だけを選択抽出することが可能となる。
【0046】
この測定用1次イオンを構成するイオンとしては、ガリウムイオン、セシウムイオン、金(Au)イオン等とすることが好ましい。これらのイオンを用いることによって、イオン化効率、質量分解能を向上させることができる。これらのイオンの中でも、Auイオンを用いると、極めて高感度の分析が可能となる点でより好ましい。この際、Auイオンの代わりに、又はAuイオンと共に、Au2イオン、Au3イオンを用いることができ、この順で感度の上昇が図られる場合が多いため、金の多原子イオンの利用は更に好ましい形態となる。なお、金以外の多原子イオンとして、ビスマスイオンやC60イオンなどを使用することもできる。
【0047】
この選別手段をON状態とすることによって、測定用1次イオンとして、特定の元素・質量の1次イオン5を、パルス化した状態で、先の試料15の改質を行った領域へ照射することが可能となる。このように、選別手段がON状態のとき、改質された状態の試料15の表面に測定用1次イオン5が照射されるため、試料表面からは2次イオン12を効率良く発生させることができる。この結果、試料中の対象物の分布状態を保持したまま、高感度で分析を行うことが可能となる。
【0048】
そして、本発明では、選別手段は、上記ON状態とOFF状態を、0.1kHz以上10kHz以下の周期で切り替わるようになっていることが好ましい。これによって、クラスターイオンが試料表面に滞留可能な短時間のうちに、試料に測定用1次イオンを照射して効率的に2次イオンを発生させることができる。
【0049】
なお、本発明の装置では、選別手段がON状態、OFF状態となっている時間に対して、測定用1次イオン及びクラスターイオンのパルス幅が短い(通常、数百ps〜数千pn)。このため、選別手段が1回のON状態、OFF状態時に、それぞれ照射される測定用1次イオン及びクラスターイオンは数百〜数万パルスとなる。
【0050】
なお、選別手段をON状態とOFF状態とする時で、測定用1次イオン及びクラスターイオンの照射エネルギー値やパルス周期などを変更する必要はない。また、通常のTOF−SIMSの1次イオン銃と同様に、選別手段をON状態とする時で、機能質量分解能を高める効果のあるパルス集束(バンチング)モードや、電磁レンズによる集光、ビームの走査を行っても良い。
【0051】
測定用1次イオンのビーム径は、1μm以上、10μm以下の範囲に設定することが好ましい。また、試料表面へのクラスターイオン及び測定用1次イオンの照射角度は、試料台の法線方向に対して45°以上、60°以下とすることが好ましい。また、この範囲の角度の中でも、試料表面でのスパッタリングと、クラスターイオンの埋め込みの効果が両方、適度に生じる角度が好ましい。
【0052】
(試料台)
本発明の装置の試料台は、真空チャンバー内に設けられており、試料を保持できるようになっている。
試料台は、選別手段がOFF状態の時に試料に負の電圧を印加し、選別手段がON状態の時に試料に正の電圧を印加するよう切り替え可能であることが好ましい。
【0053】
図3を用いて、上記試料台に電圧を印可した場合の有機物分析の一例を説明する。まず、イオン照射手段により、試料の表面改質用にクラスターイオン21を照射する(この時、選別手段はOFF状態となっている)。これによって、試料表面の有機分子中に多く含まれる水素原子から多数のプロトンイオン(H+)23が生成する。このH+は、他の電子や中性粒子と一緒に、一旦、試料より放出される。しかし、この時、サンプルバイアス(試料台24に印加する電圧)の極性を負に設定しておくことにより正の電荷を持つH+を試料表面に引き戻し、短時間の間、試料内に安定に滞留させることができる。
【0054】
次に、このH+の電荷が消滅しないうちに、サンプルバイアス(試料台24に印加する電圧)の極性を反転して正とし、これと同時に、改質した表面領域に測定用1次イオン21を照射する(この時、選別手段はON状態となっている)。この時、試料台に印加される正電圧と、試料中のH+は同極性の電圧となるため、斥力によりH+は試料から遊離し易くなる。この結果、スパッタリング作用によって生じた中性イオンにH+が付着して正の電荷を持ったH+付加イオン22が多数、形成される。従って、測定用1次イオン21を照射したことによる有機分子の2次イオン22の量が増大して、測定感度を増大させることができる。
【0055】
また、特に、H+は有機分子との吸着性が非常に高いため、このH+付着のイオン生成の効果は有機分子分析において特に顕著に高くなる。すなわち、通常の細胞や組織などの有機分子で構成される試料の分析に、本発明の装置を最も好適に使用できる。この有機分子としては、タンパク質、ペプチド、糖鎖、ポリヌクレオチド、及びオリゴヌクレオチドからなる群から選択された少なくとも一種の試料を分析することができる。
【0056】
(飛行時間型質量分析部)
次に、上記のようにして発生した2次イオンは、収束手段により電場を用いて一方向に収束されて、試料台から一定距離、離れた飛行時間型質量分析部に導入される。
【0057】
この飛行時間型質量分析部では、試料表面から発生した2次イオンの飛行時間を測定することによって質量分析を行うことが可能となっている。すなわち、測定用1次イオンを試料表面に照射すると、試料表面の組成に応じて様々な質量をもった2次イオンが発生する。この際、軽いイオンほど速く、重いイオンほど遅い速度で飛行することとなる。このため、2次イオンが発生してから検出されるまでの時間(飛行時間)を測定することで、発生した2次イオンの質量分析を行うことが可能となる。
【0058】
なお、本発明の装置では、測定用1次イオンが照射された試料表面の最も外側の構成成分からのみ2次イオンが発生するため、試料最表面(深さ数ナノメートル程度)の微細な情報を得ることができる。また、本発明の装置では、クラスターイオンによって試料表面を改質するため、非常に少ない測定用1次イオンの照射量で分析を行うことができ、試料表面の化学構造を壊したり劣化させたりすることがない。このため、本発明の装置は化学構造が劣化しやすい試料、例えば、タンパク質、ペプチド、糖鎖、ポリヌクレオチド、及びオリゴヌクレオチドからなる群から選択された少なくとも一種の試料の分析装置として用いることができる。更に、本発明の装置では、試料表面上を、測定用1次イオンビームを走査させることによって、試料表面のイオン像(マッピング)を測定することができる。この飛行時間型質量分析部は、連続的に2次イオンの飛行時間の測定が可能なように構成されていることが好ましい。
【0059】
また、本発明の飛行時間型質量分析部の、2次イオンの飛行時間を測定する検出部はイオン引出電極部を有する。この飛行時間型質量分析部は、選別手段がOFF状態の時にイオン引出電極部に負の電圧を印加し、選別手段がON状態の時にイオン引出電極部に正の電圧を印加するように切り替え可能であることが好ましい。本発明の飛行時間型質量分析部では、典型的には、イオン引出電極部の試料に対する距離は約1.5mmと非常に近接している。このため、OFF状態の時にイオン引出電極部に負の電圧を印加することにより、上述の試料台のサンプルバイアスの極性を負にするのと同じ効果がある。このため、より効率的に正の電荷を持つH+を試料表面に引き戻して、有機分子の2次イオン量を増大させ、測定感度を向上させることができる。この結果、より効率的に2次イオンの分析を行うことができる。
【実施例】
【0060】
(実施例1)、(比較例1)
以下に、本発明のTOF−SIMS装置を用いて分析を行った実施例1を示す。このTOF−SIMS装置としては、ION TOF社製 TOF−SIMS5型装置(商品名)のイオン照射手段を改良したものを用いた。すなわち、イオン発生源として2以上のBi原子からなるBiクラスターイオンを発生可能な銃(イオン発生源)を用い、第1のチョッピング機構(パルス化手段)、第2のチョッピング機構(選別手段)を設けたイオン照射手段を用いた。また、第1及び第2のチョッピング機構の回転周波数を制御できるようにした。更に、第2のチョッピング機構(選別手段)は、0.1kHz以上10kHz以下の周期で、下記ON状態とOFF状態を切り替えることが可能なようにした。
・OFF状態:Biクラスターイオンを透過させて、イオン照射手段から試料に向かって、Biクラスターイオンを照射する試料の表面改質モード。
・ON状態:Biクラスターイオン中からBi3+だけを測定用1次イオンとして選別し、イオン照射手段から試料に向かって、Bi3+だけを照射する2次イオン測定モード。
【0061】
なお、この装置には、飛行時間型質量分析部が設けられており、試料表面から発生した2次イオンの飛行時間を測定することによって質量分析を行うことが可能となっている。
そして、上記装置を用いて、ポリペプチド膜試料の測定を行った。使用した試料の概要と、測定条件を以下に要約する。
【0062】
試料の作成
最初に、以下のようにして試料を作成した。不純物を含まない1×1cm2シリコン基板を準備し、これをアセトン、脱イオン水の順番に洗浄した。
次に、以下の3つのポリペプチド10ng/1μM水溶液をそれぞれ、milQ水(超純水製造装置WR600G、ヤマト科学社製)を用いて1ng/μlに調製した。この後、3つのポリペプチド水溶液 各100μlを全て混合した混合溶液を調整した(以下、この混合溶液を「混合ポリペプチド溶液」と記載する)。
・Angiotensin I(以下、「Angiotensin」と記載する)(Asp−Arg−Val−Tyr−Ile−His−Pro−Phe−His−Leu(平均分子量:1295.51、NEB社製)。
・Neurotensin(Glu−Leu−Tyr−Glu−Asn−Lys−Pro−Arg−Arg−Pro−Tyr−Ile−Leu(平均分子量:1672.96)。
・ACTH(18−39)(以下、「ACTH」と記載する)(副腎皮質刺激ホルモンArg−Pro−Val−Lys−Val−Tyr−Pro−Asn−Gly−Ala−Glu−Asp−Glu−Ser−Ala−Glu−Ala−Phe−Pro−Leu−Glu−Phe(平均分子量:2465.72)。
【0063】
次に、マイクロピペッターにより、この混合ポリペプチド溶液をシリコン基板上に20μl、滴下し、自然乾燥させて直径2mm程度で膜厚が数μmほどの膜を形成することにより試料を形成した。そして、この試料を上記装置の試料台に設置した。
【0064】
次に、本発明の効果を適切に検証するため、同じ試料上のほぼ近傍付近位置で、本測定(実施例1)とリファレンス測定(比較例1)を行った。
【0065】
以下に、本測定(実施例1)における分析条件を記す。
クラスターイオン:Biクラスターイオン群、15kV 100pA(パルス電流値)
測定用1次イオン:Bi3+、15kV 0.3pA(パルス電流値)
スキャニング:sawtoothスキャンモード、300×300μm2
測定用1次イオン及びクラスターイオンのパルス周波数:3.3kHz
測定用1次イオンのパルス幅:約0.8ns
測定用1次イオンのビーム直径:約3μm
ON状態とOFF状態のモード切替の周波数:0.1kHz
サンプルバイアス(試料台の印加電圧):選択手段が、OFF状態時−30V、ON状態時+30V
飛行時間型質量分析部の検出器の印加電極:測定時のみ+2kV
積算時間:約400秒。
【0066】
なお、リファレンス測定(比較例1)の場合は、上記「本測定(実施例1)における分析条件」において、クラスターイオンの照射を行わず、Bi3+による測定用1次イオンの照射のみを実施した。また、このとき、サンプルバイアス(試料台の印加電圧)を常時、+30Vに設定した。
【0067】
上記本測定(実施例1)とリファレンス測定(比較例1)により、試料の2次イオン質量スペクトルの測定を行った結果を図4に示す。なお、図4(a)は、本測定とリファレンス測定の広域質量領域における測定結果を表す。また、図4(b)は[Angiotensin+H]+、図4(c)は[Neurotensin+H]+、図4(d)は[ACTH +H]+の測定結果の拡大図を表す。図4の結果より、本発明の装置を用いることにより、何れもスペクトルの値が大きくなっており、2次イオンが効率的に検出されて測定感度が向上していることが分かる。
【図面の簡単な説明】
【0068】
【図1】本発明のイオン照射手段の一例を示す図である。
【図2】本発明の飛行時間型2次イオン質量分析装置による、試料の分析過程を表す概念図である。
【図3】本発明の飛行時間型2次イオン質量分析装置による、試料の分析過程を表す概念図である。
【図4】実施例1及び比較例1における2次イオン質量スペクトルの測定結果を示すスペクトル図である。
【符号の説明】
【0069】
1 イオン発生源
2 質量選択チューブ
3 第1のチョッピング機構(パルス化手段)
4 第2のチョッピング機構(選択手段)
5 測定用1次イオン
6 クラスターイオン
7 試料
11 測定用1次イオン
12 2次イオン
13 クラスターイオン
14 試料構成物
15 試料
21 測定用1次イオン
22 プロトンが付着した2次イオン
23 試料表面のプロトン
24 試料
25 試料台の電圧印加手段

【特許請求の範囲】
【請求項1】
(1)2以上の原子からなるクラスターイオンを発生させるイオン発生源と、
前記クラスターイオンをパルス化するパルス化手段と、
ON状態の時に前記クラスターイオンの中から特定の質量数のイオンからなる測定用1次イオンを選別し、OFF状態の時に前記クラスターイオンを通過させる選別手段であって、前記ON状態とOFF状態を切り替えることが可能な選別手段と、
を有するイオン照射手段と、
(2)試料台と、
(3)試料から生じた2次イオンの飛行時間を測定する飛行時間型質量分析部と、
を備え、
前記選別手段をOFF状態とすることによって、試料に対して前記クラスターイオンを照射して試料の表面状態を改質し、
前記選別手段をON状態とすることによって、試料に対して前記測定用1次イオンを照射して試料から2次イオンを発生させ、前記飛行時間型質量分析部により前記2次イオンを測定するように構成されたことを特徴とする飛行時間型2次イオン質量分析装置。
【請求項2】
前記クラスターイオンが、金、銀、銅、白金、パラジウム、ロジウム、オスミウム、ルテニウム、イリジウム、鉄、錫、亜鉛、コバルト、ニッケル、クロム、チタン、タンタル、タングステン、インジウム、ケイ素、ビスマス、炭素、リチウム、カリウム、ナトリウム、及びガリウムからなる群から選択された少なくとも1種の元素からなり、
1つのクラスターイオンが、2以上、100以下の原子から構成されていることを特徴とする請求項1に記載の飛行時間型2次イオン質量分析装置。
【請求項3】
前記試料台は、
前記選別手段がOFF状態の時に試料に負の電圧を印加し、前記選別手段がON状態の時に試料に正の電圧を印加するよう切り替え可能であることを特徴とする請求項1又は2に記載の飛行時間型2次イオン質量分析装置。
【請求項4】
前記飛行時間型質量分析部は、
前記選別手段がOFF状態の時にイオン引出電極部に負の電圧を印加し、前記選別手段がON状態の時にイオン引出電極部に正の電圧を印加するよう切り替え可能であることを特徴とする請求項1から3の何れか1項に記載の飛行時間型2次イオン質量分析装置。
【請求項5】
前記イオン照射手段は、前記クラスターイオン及び測定用1次イオンの照射方向及び速度を調節することにより、試料の同一の領域で、前記試料の表面状態の改質及び2次イオンの発生が起こるように制御可能であることを特徴とする請求項1から4の何れか1項に記載の飛行時間型2次イオン質量分析装置。
【請求項6】
前記飛行時間型2次イオン質量分析装置が、タンパク質、ペプチド、糖鎖、ポリヌクレオチド、及びオリゴヌクレオチドからなる群から選択された少なくとも一種の試料の分析装置であることを特徴とする請求項1から5の何れか1項に記載の飛行時間型2次イオン質量分析装置。

【図1】
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【図2】
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【図3】
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【図4】
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【公開番号】特開2008−282726(P2008−282726A)
【公開日】平成20年11月20日(2008.11.20)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2007−126895(P2007−126895)
【出願日】平成19年5月11日(2007.5.11)
【出願人】(000001007)キヤノン株式会社 (59,756)
【Fターム(参考)】