説明

イオントラップ質量分析装置

【課題】デジタルイオントラップにおいて、q値を略一定に保ちつつ任意のm/zのプリカーサ分離を短時間で行う。
【解決手段】ノッチのあるFNF信号をデジタル化したデータをFNF波形記憶部15に記憶しておき、プリカーサ分離の際に主電圧タイミング制御部7及び主電圧発生部9は基準クロック信号CKに基づき矩形波電圧を発生し、補助信号生成部14はFNF波形記憶部15から読み出したデータを基準クロック信号CKに同期したクロック信号によりD/A変換してFNF信号を生成する。基準クロック発生部6は制御部30の制御の下に、目的イオンのm/zに応じた周波数の基準クロック信号CKを生成するため、目的イオンのm/zが変わると基準クロック信号CKの周波数が変化し、同じ比率で矩形波電圧の周波数、FNF信号のノッチの中心周波数も変化する。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、高周波電場の作用によってイオンを捕捉するイオントラップを備えるイオントラップ質量分析装置に関し、さらに詳しくは、デジタル駆動方式のイオントラップを用いたイオントラップ質量分析装置に関する。
【背景技術】
【0002】
質量分析装置においてイオントラップは、高周波電場の作用によりイオンを捕捉して閉じ込めたり、特定の質量電荷比(m/z)を持つイオンを選別したり、さらにはそうして選別したイオンを解離させたりするために用いられる。典型的なイオントラップは、内面が回転1葉双曲面形状である1個のリング電極と、このリング電極を挟んで対向して配置された内面が回転2葉双曲面形状である一対のエンドキャップ電極とからなる3次元四重極型の構成であるが、これ以外に、平行配置された4本のロッド電極から成るリニア型の構成も知られている。本明細書では、便宜上「3次元四重極型」を例に挙げて説明を進める。
【0003】
従来の一般的なイオントラップ、即ち、後述のアナログ駆動方式のイオントラップでは、通常、正弦波状の高周波電圧をリング電極に印加することで、リング電極及びエンドキャップ電極で囲まれる空間にイオン捕捉用の高周波電場を形成し、この高周波電場の作用によりイオンを振動させつつ該空間に閉じ込める。これに対し、近年、正弦波状の高周波電圧の代わりに矩形波電圧をリング電極に印加することでイオンの閉じ込めを行うイオントラップが開発されている(特許文献1、特許文献2、非特許文献1など参照)。この種のイオントラップは、通常、ハイ、ローの二値の電圧レベルを有する矩形波電圧が使用されることから、デジタルイオントラップ(Digital Ion Trap、以下「DIT」略す)と呼ばれる。
【0004】
DITを利用したイオントラップ質量分析装置(以下「DIT−MS」と略す)においてMS/MS分析を行う場合、所定の質量電荷比範囲のイオンをイオントラップ内空間に捕捉した後に、或る特定の質量電荷比を有するイオンのみを残し他の不要なイオンをイオントラップ内から排除するプリカーサ分離(選択)操作を行う必要がある。非特許文献1に記載のように、DIT−MSにおけるプリカーサ分離には、ラフアイソレーションと呼ばれる高速プリカーサ分離手法と、ラフアイソレーションを行った後にさらに共鳴励起排出を利用する高分解能プリカーサ分離手法とがある。
【0005】
正弦波状の高周波電圧を用いたアナログ駆動方式のイオントラップ(以下「AIT」と略す)に対するDITの優位な点の1つは、共鳴励起排出による質量分離性能が高いことである。通常、DITにおいて共鳴励起排出を行う場合には、リング電極に印加する矩形波電圧の周波数Ωと同期した(典型的には該矩形波電圧を分周した)単一周波数の矩形波信号を一対のエンドキャップ電極に印加する。その状態で、リング電極に印加している矩形波電圧の周波数Ωを下げる方向に走査すると、イオントラップ内に捕捉されているイオンの中で、質量電荷比が大きくなる順にイオンが選択的に共鳴励起されてイオントラップ外部に排出される(フォワードスキャン:即ち、質量電荷比の小さなイオンほど早く排出される)。逆に、リング電極に印加している矩形波電圧の周波数Ωを上げる方向に走査すると、イオントラップ内に捕捉されているイオンの中で、質量電荷比が小さくなる順にイオンが選択的に共鳴励起されてイオントラップ外部に排出される(リバーススキャン:即ち、質量電荷比が大きいイオンほど早く排出される)。そこで、目的の質量電荷比を持つイオンのみがイオントラップ内に残るように、上記のフォワードスキャンとリバーススキャンとを連続的に行うことにより、高いプリカーサ分離能を実現することができる。
【0006】
しかしながら、上記方法で不要な質量電荷比を持つイオンを漏れなく除去するには、当該イオンがイオントラップ内から排出される時間だけ周波数Ωを保持しなければならないため、周波数Ωを走査する速度を一定以下に抑える必要がある。このため、十分な質量分離能を実現するには、プリカーサ分離だけで数百msec以上もの時間を要してしまう。例えば、(A)イオントラップに所定の質量電荷比の範囲内のイオンをトラップ・クーリングし、(B)望ましくないイオンを共鳴排出してプリカーサイオンのみを保持し(上記のプリカーサ分離)、(C)プリカーサイオンに衝突解離を誘発させ、(D)衝突解離させたイオンを共鳴排出させてマススペクトルを取得する、という手順で実施されるMS/MS分析においては、上記(A)、(C)、(D)の各行程にそれぞれ数十msec程度の時間を要するから、(B)の行程だけで数百msecもの時間が掛かるとなると、これは分析のスループットを低下させる大きな要因となる。近年の質量分析では、分析のスループットの向上が非常に重要であるため、DITにおけるプリカーサ分離の時間短縮化は避けられない大きな課題である。
【0007】
また、上述した周波数走査によるイオン排除の手法では、イオントラップ内から排出するために共鳴励起されたイオンの一部は衝突誘起解離を生じて、質量電荷比がより小さなフラグメントイオンが発生することがある。また多重電離イオンでは、まれではあるものの電荷移動と解離とにより質量電荷比がより大きなイオンになってしまうこともある。したがって、或るイオンの質量電荷比に対する周波数走査によるイオン排除が終わった後にフラグメントイオン等が発生してしまうと、このイオンが周波数走査では除去されずにイオントラップ内空間に残ってしまうという問題もあった。
【0008】
ところで、AITでは、イオンの振動周波数がリング電極に印加される高周波電圧の振幅に依存して変化するという関係を利用し、目的とするイオン(プリカーサイオン)の振動周波数にノッチ(抜け)がある広帯域の周波数スペクトルを有する信号をエンドキャップ電極に印加することにより、目的イオン以外の不要な質量電荷比を持つ様々なイオンを同時に排除するプリカーサ分離手法が知られている(特許文献3、4など参照)。このような広帯域信号として、特許文献5に記載のFNF(=Filtered Noise Field)信号がよく用いられるが、そのほかに特許文献6に記載のSWIFT(=Stored Wave Inverse Fourier Transform)信号なども知られている。
【0009】
高い質量分離能を得るにはできるだけ高いq値(イオンの安定捕捉条件を示すパラメータの一つ)でプリカーサ分離を行うことが必要であり、通常、AITではq値は0.8程度に設定される。q値を固定すると共鳴周波数に関連したパラメータであるβ値が固定され、FNF信号のノッチ周波数は一義的に決まることになる。このノッチ周波数を中心としてノッチ幅の相違するFNF信号波形を十数個程度予め作成してメモリに格納しておき、いずれか適切なFNF信号波形を選択してプリカーサ分離に利用することにより、指定された質量幅のプリカーサ分離を容易に実現することができる。
【0010】
DITの場合でもAITと同様に、FNF信号等の広帯域信号を用いてプリカーサ分離を行うことが考えられる。ただし、AITとは異なりDITの場合には、リング電極に印加される高周波の矩形波電圧の振幅は基本的に一定であり、その周波数を変化させることでイオンの振動周波数を変える制御が行われる。そこで、任意の質量電荷比を持つイオンを選択するために、AITと同様にDITの場合においてもエンドキャップ電極に印加するFNF信号のノッチ周波数を固定しておき、目的イオンの振動周波数がノッチ周波数に対応するようにリング電極に印加する矩形波電圧の周波数を変化させる、という手法を採り得る。ところが、そうした制御を行うと、プリカーサ分離の際のq値が目的イオンの質量電荷比によって変化してしまう。何故なら、後述するように、q値はリング電極に印加される矩形波電圧の周波数の逆2乗に比例する関数だからである。そのため、q値が小さくなる条件の下では十分な質量分離能を確保することができなくなる。
【0011】
こうした事態を避けるにはプリカーサ分離の際にq値をできるだけ一定に保つ必要があり、そのためには、目的イオンの質量電荷比を変更する際に、リング電極に印加される矩形波電圧の周波数を変更するとともに、これに応じてエンドキャップ電極に供給されるFNF信号のノッチ周波数も変更する必要がある。一般に、多数の周波数成分を持つFNF信号波形をコンピュータで生成するには或る程度の時間が掛かるため、分析を実行しながら必要なFNF信号波形をコンピュータ上で生成するのは現実的ではない。そのため、AITにおいては、FNF信号波形を用いる場合、必要となると予想されるFNF信号波形をコンピュータ上で予め作成してその波形を表すデータをメモリに格納しておき、分析時には、メモリから読み出したデータをデジタル/アナログ変換してFNF信号波形を生成するようにしている。
【0012】
一方、DITの場合には、上述したようにノッチ周波数が相違する様々なFNF信号波形が必要になり、それらに対応したFNF信号波形データを用意してメモリに格納しておく必要がある。例えばm/z50〜3000の質量電荷比範囲において0.1単位でノッチ周波数を選択できるようにするためには、約30000種類のFNF信号波形データを用意する必要がある。また、様々な分離質量幅に対応するには、同一のノッチ周波数に対してさらに数十個の異なる波形を用意する必要があるので、必要となるFNF信号波形データの総数は非常に膨大なものとなる。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0013】
【特許文献1】特表2007−527002号公報
【特許文献2】特開2008−282594号公報
【特許文献3】特開2001−210268号公報
【特許文献4】米国特許第5134286号明細書
【特許文献5】米国特許第5703358号明細書
【特許文献6】米国特許第4761545号明細書
【非特許文献】
【0014】
【非特許文献1】古橋、ほか6名、「デジタルイオントラップ質量分析装置の開発」、島津評論、島津評論編集部、2006年3月31日、第62巻、第3・4号、pp.141−151
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0015】
本発明は上記課題を解決するために成されたものであり、DITを用いたイオントラップ質量分析装置において、FNF信号などの広帯域信号波形データを記憶しておくメモリの記憶容量を抑えつつ、高いプリカーサ分離能を確保しながらプリカーサ分離に要する時間を短縮することを主な目的としている。また、本発明は、DITを用いたイオントラップ質量分析装置において、プリカーサ分離のために不要なイオンを排除する過程で発生するより小さな質量電荷比のイオン等が排除されずにイオントラップ内に残留することを防止することを他の目的としている。
【課題を解決するための手段】
【0016】
上記課題を解決するために成された本発明は、3以上の電極で囲まれる空間にイオンを捕捉するイオントラップを有し、少なくとも1つの第1電極にイオン捕捉用の矩形波電圧を印加しつつ、該第1電極とは異なる対向配置された一対の第2及び第3電極にそれぞれイオン共鳴励起用の信号を印加することにより、捕捉されているイオンのうちの不要なイオンをイオントラップ内から共鳴励起排出するイオントラップ質量分析装置において、
a)所定の周波数又は周波数範囲にノッチを有する周波数スペクトルを示す広帯域信号をデジタル化した波形データを記憶しておくデータ記憶手段と、
b)特定の質量電荷比又は質量電荷比範囲のイオンを選択的にイオントラップ内に残すイオン選択行程時に、その特定の質量電荷比又は質量電荷比範囲に応じた周波数に設定したイオン捕捉用の矩形波電圧を生成して前記第1電極に印加する矩形波電圧生成手段と、
c)前記イオン選択行程時に前記矩形波電圧生成手段により生成される矩形波電圧の周波数に同期したタイミングで前記データ記憶手段に記憶されている波形データを順次取得してアナログ化することにより、少なくとも前記特定の質量電荷比又は質量電荷比範囲を除くイオンを共鳴励起させる広帯域信号を生成して前記第2及び第3電極に印加する広帯域信号生成手段と、
を備えることを特徴としている。
【0017】
本発明に係るイオントラップ質量分析装置におけるイオントラップは、3次元四重極型イオントラップ又はリニア型イオントラップである。3次元四重極型イオントラップの場合、前記第1電極はリング電極であり、該リング電極を挟んで対向配置された一対のエンドキャップ電極が前記第2及び第3電極である。一方、リニア型イオントラップの場合、イオントラップは中心軸を取り囲むように互いに平行に配置された4本のロッド電極からなり、中心軸を挟んで対向する2本のロッド電極が前記第1電極に相当し、別の2本のロッド電極がそれぞれ第2電極及び第3電極に相当する。
【0018】
上記「所定の周波数又は周波数範囲にノッチを有する周波数スペクトルを示す広帯域信号」とは、典型的には上述した周知のFNF信号であるが、周波数スペクトル上で特定の周波数又は周波数範囲にノッチを有し多数の周波数成分を含む広帯域信号であれば、FNF信号に限るものではない。もちろん、データ記憶手段に記憶する前の段階におけるFNF信号を一例とするノッチ付き広帯域信号波形の生成方法も特に限定されず、既存の様々な方法(アルゴリズム)を用いることができる。
【0019】
本発明に係るイオントラップ質量分析装置では、矩形波電圧生成手段が、イオン選択行程に際しイオントラップ内に残すイオンの質量電荷比又は質量電荷比範囲を変更するべく第1電極に印加する矩形波電圧の周波数を変化させると、広帯域信号生成手段において生成される広帯域信号のノッチ周波数(中心周波数)も同様の比率で変化する。したがって、イオントラップの安定領域の包絡線β=0、β=1を境界として定義されるβ値を略一定とした条件の下で、共鳴励起排出されない、つまりはイオントラップ内に選択的に残すイオンの質量電荷比を変化させることができる。即ち、データ記憶手段に記憶してある1種類の波形データを用いて、β値つまりはq値を略一定に保ちつつイオントラップ内に残す目的イオンの質量電荷比を所定範囲で任意に定めることができる。
【0020】
ただし、広帯域信号の波形データを1種類だけとした場合には、選択されるイオンの分離質量幅が質量電荷比に対して一義的に決まってしまい、任意の分離質量幅を設定することができない。したがって、1つの質量電荷比に対して複数の異なる分離質量幅を選択的に設定したい場合には、その分離質量幅に対応したノッチ幅のノッチを形成した広帯域信号をデジタル化した波形データをそれぞれ用意しておく。そして、イオン選択行程時に、目的イオンの質量電荷比と要求される分離質量幅に応じて適切な波形データを選択し、該波形データをアナログ化した信号を生成して第2及び第3電極に印加すればよい。
【0021】
本発明に係るイオントラップ質量分析装置の一実施態様は、イオン選択行程時にイオントラップ内に残すイオンの質量電荷比又は質量電荷比範囲に応じた周波数の基準クロック信号を生成する基準クロック信号生成手段をさらに備え、前記矩形波電圧生成手段は前記基準クロック信号に基づいて矩形波電圧を生成するとともに、前記広帯域信号生成手段は前記基準クロック信号又は該信号と同期関係にあるクロック信号に従って前記データ記憶手段から読み出した波形データをアナログ化することにより広帯域信号を生成する構成とすることができる。
【0022】
この構成によれば、基準クロック信号発生手段で生成されるクロック信号又はこれを分周した別のクロック信号などの、或る1つのクロック信号の周波数を目的イオンの質量電荷比に応じて変更することによって、第1電極に印加される矩形波電圧の周波数と第2及び第3電極に印加される広帯域信号のノッチ周波数とが共に適切に設定される。例えば、基準クロック信号発生手段としてダイレクトデジタルシンセサイザ(DDS)などの周波数可変型信号発生素子を用いれば、目的イオンの質量電荷比を任意に且つ容易に定めることができる。
【0023】
なお、本発明に係るイオントラップ質量分析装置におけるイオントラップ駆動制御は、プリカーサ分離等のイオン選択行程時のみならず、そのほかのイオン共鳴励起を利用したイオン操作の際の駆動制御に用いることができる。例えば、1乃至複数の特定の質量電荷比を有するイオンを選択的に共鳴励起させ、衝突誘起解離によりプロダクトイオンを発生させたい場合に、「所定の周波数又は周波数範囲にノッチを有する周波数スペクトルを示す広帯域信号」に代えて、所定の周波数又は周波数範囲のみにピークを有する周波数スペクトルを示す信号を用いればよい。
【発明の効果】
【0024】
本発明に係るイオントラップ質量分析装置によれば、プリカーサ分離等のイオン選択行程時に、質量電荷比が異なる多数の不要なイオンが同時に共鳴励起されてイオントラップ内から排除される。したがって、共鳴励起排出のために周波数走査を行う場合のようにイオン選択に時間が掛からず、短時間で不要なイオンを排除して衝突誘起解離などの次行程を実行することができる。それにより、例えばMS/MS分析等におけるスループットを向上させることができる。具体的には例えば、高分解能が必要な場合においても、数十msec程度になることが期待できる。また、イオン選択対象の目的イオンの質量電荷比を変化させる場合でもイオントラップのq値を一定に維持することができ、目的イオンの質量電荷比に依存する分離能の低下などの問題がない。加えて、本発明は、プリカーサ分離のために不要なイオンを排除する過程を所定の質量電荷比の範囲で同時に行うことができるので、不要なイオン等が排除されずにイオントラップ内に残留することを防止することができる。さらにまた、広い質量電荷比範囲の目的イオンに対して用意しておくべき波形データの種類は少なくて済むので、波形データを記憶しておくメモリの記憶容量を節約でき、さらに波形データの生成に要する時間も短くて済む。
【図面の簡単な説明】
【0025】
【図1】本発明の一実施例であるDIT−MSの要部の構成図。
【図2】FNF信号の周波数スペクトルの概略図。
【発明を実施するための形態】
【0026】
本発明に係るイオントラップ質量分析装置の一実施例であるDIT−MSについて、添付図面を参照して説明する。図1は本実施例のDIT−MSイオントラップの要部の構成図である。
【0027】
本実施例によるDIT−MSは、目的試料をイオン化するイオン源1と、イオンを一時的に保持して質量分離、衝突誘起解離などのイオンに対する各種操作を実施する3次元四重極型のイオントラップ2と、イオンを検出する検出器3と、該検出器3で得られたデータを処理して例えばマススペクトル等を作成するデータ処理部4と、を備える。
【0028】
イオン源1におけるイオン化法は特に限定されず、試料が液体状である場合にはエレクロトスプレイイオン化(ESI)法や大気圧化学イオン化(APCI)法などの大気圧イオン化法が用いられ、試料が固体状である場合にはマトリクス支援レーザ脱離イオン化法(MALDI)などが用いられる。
【0029】
イオントラップ2は、1個のリング電極21と、これを挟むように対向して配置された、入口側エンドキャップ電極22及び出口側エンドキャップ電極24と、からなり、これら3個の電極21、22、24で囲まれた空間がイオン捕捉領域となる。入口側エンドキャップ電極22の略中央にはイオン入射口23が穿設され、イオン源1から出射したイオンはイオン入射口23を通過してイオントラップ2内に導入される。一方、出口側エンドキャップ電極24の略中央にはイオン出射口25が穿設され、イオン出射口25を通ってイオントラップ2内から排出されたイオンは検出器3に到達して検出される。
【0030】
検出器3は例えば、入射したイオンを電子に変換するコンバージョンダイノードと、その変換された電子を増倍して検出する二次電子増倍管とからなるものとすることができる。また、検出器3に代えて例えば飛行時間型質量分析器を設け、イオントラップ2に蓄積した各種イオンを一斉にイオン出射口25を通して吐き出して飛行時間型質量分析器に導入し、そこでイオンを質量電荷比に応じて高い分離能で以て分離して検出する構成としてもよい。
【0031】
イオントラップ2を駆動するためのトラップ駆動部5は、基準クロック発生部6、主電圧タイミング制御部7、主電圧発生部9、補助信号生成部14、などを含む。リング電極21にイオン捕捉用の矩形波電圧を印加するための主電圧発生部9は、第1電圧VHを発生する第1電圧源10と、第2電圧VL(VL<VH)を発生する第2電圧源11と、第1電圧源10の出力端と第2電圧源11の出力端との間に直列に接続された第1スイッチ12及び第2スイッチ13と、を含む。スイッチ12、13は電力用MOSFET等の高速動作可能な電力用スイッチング素子である。
【0032】
主電圧タイミング制御部7はRF電圧波形記憶部8を含み、RF電圧波形記憶部8に記憶されているRF電圧波形データを読み出し、該データに基づく例えば相補的な2系統の駆動パルスを生成してスイッチ12、13に供給する。第1スイッチ12がオンし第2スイッチ13がオフするとき第1電圧VHが出力され、逆に第2スイッチ13がオンし第1スイッチ12がオフするとき第2電圧VLが出力されるから、主電圧発生部9からの出力電圧VOUTは理想的には、ハイレベルがVH、ローレベルがVLである所定周波数fの矩形波電圧となる。通常、VHとVLとは絶対値が同じで極性が逆の高電圧であり、例えば、その絶対値は数百V〜1kV程度である。また、周波数fは通常数十kHz〜数MHz程度の範囲である。なお、通常、リング電極21に印加される矩形波電圧は所定周波数の繰り返し波形であるため単純であるが、RF電圧波形記憶部8に記憶しておいたRF電圧波形データを用いることにより、デューティ比を任意に決めたり、2系統の駆動パルスが同時にオンしないように微妙にタイミングを調整したりすることが容易になる。
【0033】
一方、補助信号生成部14はFNF波形記憶部15のほか、図示しないD/A変換器などを含む。FNF波形記憶部15には、図2に示すように、中心周波数がfnで周波数幅がΔfnであるノッチが形成され、それ以外に多数の周波数成分を含む周波数スペクトルを示すFNF信号をデジタル化した波形データが格納されている。ただし、ここでいうfn、ΔfnはアナログFNF信号生成時の周波数及び周波数幅であり、このアナログFNF信号をA/D変換する際のサンプリング周波数と同じ周波数でD/A変換が行われたときに、ノッチの中心周波数はfn、周波数幅はΔfnとなる。また、アナログFNF信号をA/D変換する際のサンプリング周波数の1/2の周波数でD/A変換が行われた場合には、ノッチの中心周波数はfn/2となる。
【0034】
即ち、FNF信号のノッチの中心周波数はFNF波形記憶部15から読み出された波形データをD/A変換する際のクロック信号の周波数に依存する。一方、FNF信号のノッチの周波数幅はD/A変換する際のクロック信号の周波数に依存しない。ノッチの周波数幅はイオンの分離質量幅に対応するから、ノッチの中心周波数が変化したときに周波数幅が不変であると、目的イオンの質量電荷比が変化したときに分離質量幅も同時に変化してしまう。そのため、分離質量幅を一定に維持したまま目的イオンの質量電荷比を変化させたい場合には、ノッチの中心周波数が同一で周波数幅が相違する複数種類のFNF信号波形データを予め用意しておく必要がある。そして、要求される分離質量幅に応じて、FNF信号生成時に用いる波形データを適宜選択する。
【0035】
補助信号生成部14において生成されたFNF信号は、ドライブ回路16を通して入口側エンドキャップ電極22に供給されると共に、反転回路17で正負極性が反転されドライブ回路18を通して出口側エンドキャップ電極24に供給される。
【0036】
基準クロック発生部6は例えばDDS(ダイレクトデジタルシンセサイザ)を用いたクロック発生回路であり、その周波数が連続的に可変である基準クロック信号CKを生成する。この基準クロック信号CKが主電圧タイミング制御部7と補助信号生成部14とに入力され、主電圧タイミング制御部7及び補助信号生成部14は基準クロック信号CKに同期したタイミングで矩形波電圧生成及びFNF信号生成の処理を行う。ただし、主電圧タイミング制御部7と補助信号生成部14とに供給されるクロック信号は必ずしも同一周波数、同一位相である必要はなく、両クロック信号の周波数が一定の比率を有して同期していさえすればよい。したがって、例えば、一方を基準クロック信号CKとし、他方を基準クロック信号CKを所定の分周比で分周して得たクロック信号としてもよい。
【0037】
基準クロック発生部6における基準クロック信号CKの周波数、主電圧タイミング制御部7において利用されるRF電圧波形データの選択、補助信号生成部14において利用されるFNF波形データの選択などは、CPU、ROM、RAMなどを含んで構成される制御部30により制御される。さらに、制御部30には分析条件などを設定するための入力部31が接続されている。
【0038】
本実施例のDIT−MSにおけるMS/MS分析動作を説明する。イオン源1で生成された各種イオンはイオン入射口23を経てイオントラップ2内に導入される。このとき、主電圧発生部9から所定周波数の矩形波電圧がリング電極21に印加される一方、エンドキャップ電極22、24は一定電位に維持され、それによりイオントラップ2内に形成される捕捉電場によって各種イオンは捕捉される。次に、入力部31により設定された目的とするプリカーサイオンの質量電荷比や分離質量幅に従って、制御部30は基準クロック発生部6で生成する基準クロック信号CKを所定周波数に設定する。また、指定された質量電荷比及び質量幅に応じて、主電圧タイミング制御部7はRF電圧波形記憶部8から所定のRF電圧波形データを読み出し、補助信号生成部14は所定のFNF信号波形データを読み出す。
【0039】
そして、主電圧タイミング制御部7は上述したように基準クロック信号CKに基づいてRF電圧波形データを順次繰り返し送出することにより主電圧発生部9に駆動パルスを供給し、主電圧発生部9はリング電極21に矩形波電圧を印加する。一方、補助信号生成部14は基準クロック信号CKに同期したクロック信号によりFNF信号波形データをD/A変換して生成したFNF信号をエンドキャップ電極22、24に供給する。
【0040】
一例を挙げると、基準クロック信号CKの周波数を100MHzとした場合、主電圧タイミング制御部7ではこの基準クロック信号CKを元にして2MHzの周波数を持つ駆動パルスを生成する。主電圧発生部9で発生する矩形波電圧の周波数も2MHzとなる。一方、補助信号生成部14では、基準クロック信号CKの周波数が100MHzであるときに、FNF信号波形データに基づいて500kHzを中心周波数とする所定幅のノッチを持つFNF信号が生成されるものとする。ここでは、500kHzのノッチ周波数はβ値では0.5、またq値でも0.5となる。このため、イオントラップ2が内接半径r0=10mmの大きさであるとすると、おおよそm/z50のイオンを中心としたプリカーサ分離が行われる。即ち、m/z50付近のイオンのみが共鳴励起されずにイオントラップ2内に残り、他の質量電荷比を持つイオンは共鳴励起排出によりイオントラップ2内から排除される。
【0041】
これに対し、基準クロック発生部6において基準クロック信号CKの周波数が100MHzの√(1/60)=約1/7.7倍に下げられ、約13MHzとなった場合を考える。このとき、主電圧発生部9で発生する矩形波電圧の周波数、補助信号生成部14で生成されるFNF信号のノッチ周波数はいずれも同じ比率で変化するから、約1/7.7倍に下がる。そのため、リング電極21に印加される矩形波電圧の周波数は約260kHz、FNF信号のノッチ周波数は約65kHzとなるが、イオントラップのβ値、q値は約0.5に維持される。このときには、約m/z3000のイオンのみが共鳴励起されずにイオントラップ2内に残り、他の質量電比を持つイオンは共鳴励起排出によりイオントラップ2内から排除される。ただし、上述したように同じFNF信号波形データを用いた場合、ノッチ周波数が下がってもノッチ周波数幅は変わらず、質量分離幅は実質的に狭くなってしまう。したがって、目的イオンの質量電荷比をm/z50→m/z3000に変更したときに分離質量幅を同一に維持したければ、FNF波形記憶部15から読み出すFNF信号波形データをノッチ周波数幅が相違するものに変更する必要がある。
【0042】
以上のように、基準クロック発生部6において発生させる基準クロック信号CKの周波数を100MHz〜13MHzの範囲で任意に設定することにより、m/z50〜m/z3000の質量電荷比囲で上記周波数に応じた質量電荷比のイオンをプリカーサイオンとして選択することが可能となる。このときにイオン選択する質量電荷比の設定分解能は基準クロック発生部6の周波数分解能に依存する。したがって、基準クロック信号CKの周波数が連続的に可変であれば、m/z50〜m/z3000の質量電荷比範囲内で実質的に任意の質量電荷比を目的イオンとして設定することができる。
【0043】
上述したように目的イオンをプリカーサイオンとして残すようにプリカーサ分離を実行した後には、従来と同様に、イオントラップ2内にCIDガスを導入し、残留しているイオンを共鳴励起させるような信号をエンドキャップ電極22、24に印加してプリカーサイオンを解離させる。その後に、解離により生成したプロダクトイオンを質量電荷比に応じて共鳴励起排出して検出器3で検出する。
【0044】
なお、イオン選択を行う目的イオンの質量電荷比m/zと矩形波電圧の周波数Ωとの関係は、イオントラップのq値を一定とすると、m/z∝1/Ω2である。したがって、この関係を用いて選択される質量電荷比の較正を行うようにすればよい。
【0045】
実際には、イオントラップ2を構成する各電極21、22、24の機械的寸法誤差やRF波形精度などの影響で、上記のような理論的な関係からのずれが生じることも想定される。このため、例えば、目的イオンの質量電荷比m/zと矩形波電圧の周波数Ωとの関係を、
m/z=1/(αΩ2+βΩ+γ)
などの多項式で表現し、複数の較正点(既知の質量電荷比m/zと周波数Ωとの関係)から、α、β、γの各係数値を求め、この係数値を用いて較正を行うようにするとよい。
【0046】
また、以上の説明では、共鳴励起用の信号波形としてFNF信号を用いていたが、特定の周波数範囲にノッチを有し、そのほかに多数の周波数成分を含む信号波形であればFNF信号に限らない。また、FNF波形記憶部15に格納されるデータを作成する際のノッチ付き広帯域信号をコンピュータ上で生成する方法も、既存の各種方法を用いればよいことは当然である。
【0047】
また上記実施例ではイオントラップとして3次元四重極型イオントラップを用いたが、同様の原理でイオンの捕捉や共鳴励起排出を実行可能なリニアイオントラップを用いたイオントラップ型質量分析装置にも本発明を適用でき、上述した効果を奏することは明らかである。
【符号の説明】
【0048】
1…イオン源
2…イオントラップ
21…リング電極
22…入口側エンドキャップ電極
23…イオン入射口
24…出口側エンドキャップ電極
25…イオン出射口
3…検出器
4…データ処理部
5…トラップ駆動部
6…基準クロック発生部
7…主電圧タイミング制御部
8…RF電圧波形記憶部
9…主電圧発生部
10…第1電圧源
11…第2電圧源
12…第1スイッチ
13…第2スイッチ
14…補助信号生成部
15…FNF波形記憶部
16、18…ドライブ回路
17…反転回路
30…制御部

【特許請求の範囲】
【請求項1】
上記課題を解決するために成された本発明は、3以上の電極で囲まれる空間にイオンを捕捉するイオントラップを有し、少なくとも1つの第1電極にイオン捕捉用の矩形波電圧を印加しつつ、該第1電極とは異なる対向配置された一対の第2及び第3電極にそれぞれイオン共鳴励起用の信号を印加することにより、捕捉されているイオンのうちの不要なイオンをイオントラップ内から共鳴励起排出するイオントラップ質量分析装置において、
a)所定の周波数又は周波数範囲にノッチを有する周波数スペクトルを示す広帯域信号をデジタル化した波形データを記憶しておくデータ記憶手段と、
b)特定の質量電荷比又は質量電荷比範囲のイオンを選択的にイオントラップ内に残すイオン選択行程時に、その特定の質量電荷比又は質量電荷比範囲に応じた周波数に設定したイオン捕捉用の矩形波電圧を生成して前記第1電極に印加する矩形波電圧生成手段と、
c)前記イオン選択行程時に前記矩形波電圧生成手段により生成される矩形波電圧の周波数に同期したタイミングで前記データ記憶手段に記憶されている波形データを順次取得してアナログ化することにより、少なくとも前記特定の質量電荷比又は質量電荷比範囲を除くイオンを共鳴励起させる広帯域信号を生成して前記第2及び第3電極に印加する広帯域信号生成手段と、
を備えることを特徴とするイオントラップ質量分析装置。
【請求項2】
請求項1に記載のイオントラップ質量分析装置であって、
イオン選択行程時にイオントラップ内に残すイオンの質量電荷比又は質量電荷比範囲に応じた周波数の基準クロック信号を生成する基準クロック信号生成手段をさらに備え、
前記矩形波電圧生成手段は前記基準クロック信号に基づいて矩形波電圧を生成するとともに、前記広帯域信号生成手段は前記基準クロック信号又は該信号と同期関係にあるクロック信号に従って前記データ記憶手段から読み出した波形データをアナログ化することにより広帯域信号を生成することを特徴とするイオントラップ質量分析装置。

【図1】
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【図2】
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【公開番号】特開2012−49056(P2012−49056A)
【公開日】平成24年3月8日(2012.3.8)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2010−191730(P2010−191730)
【出願日】平成22年8月30日(2010.8.30)
【出願人】(000001993)株式会社島津製作所 (3,708)
【Fターム(参考)】