説明

質量分析法

【課題】微量の目的分子および多数の夾雑成分を含む試料に関して、実験者の経験と勘に依存することなしに、高感度で目的分子の質量スペクトル測定を行う方法の提供。
【解決手段】目的分子を含む測定試料の複数の領域に関してプレスキャンMS測定を行い、異なるm/zを有する複数のイオンのシグナル強度を求め、得られたシグナル強度を比較して、前記複数の領域の中から測定領域を選択する工程を含むことを特徴とする質量分析法。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、質量分析法に関する。より詳細には、本発明は、目的分子イオンの強いシグナルを得られる測定試料の領域を選定する工程を伴う質量分析法に関する。
【背景技術】
【0002】
近年、質量分析法において、レーザーを用いて目的分子のイオン化を行う方法が注目を集めてきている。その中で、マトリックス支援レーザー脱離イオン化(MALDI)は、試料とマトリックスの混合結晶を調製し、それにレーザー光を照射することでイオン化を行なう方法である。MALDI法は、イオン化しにくい生体高分子、タンパク質および糖鎖にも適用できることから、生化学や医学の分野で急速に普及してきた。
【0003】
MALDI法を適用する場合には、試料とマトリックスの混合結晶の状態が均一であることが望ましいとされている。混合結晶の状態の均一性によってスペクトルの良否が支配されるため、マトリックスの選択方法やマトリックスと試料の混合方法などについての改良がなされてきた(例えば特許文献1および2参照)。
【0004】
しかし、実際には、マトリックスの存在するところ全てに試料のイオンが測定できることはない。多くの場合、測定試料中に、イオン化効率の高い測定部位(スイートスポットと呼ばれる)が点在している。スイートスポットにおいてのみ、目的分子イオンのシグナル強度が大きく、高感度での質量分析が可能となる。MALDI法において用いるレーザーのビーム径(約200μm)が測定試料の大きさよりも格段に小さいため、適切な測定部位にレーザーを照射する必要がある。特に、生体試料由来の微量サンプルの解析時には、高感度での多段階質量分析(MSn)を可能とするような測定部位を探索する必要がある。
【0005】
従来、このような測定部位の探索は,実験者の経験および勘に依存している。一般的には,質量分析計に内蔵されているCCDカメラなどの画像を観察して、レーザーを照射する測定部位を決定している。このような画像観察に基づく探索は、精度および再現性は低いものとなっている。なぜなら、たとえ高い解像度を持った画像出力装置を用いたとしても、マトリックス結晶の形および状態とイオン化効率の高い部位との良好な相関を得ることはできないからである。
【0006】
また、スペクトルのS/N比を改善するために、プレートを改良してマトリクスを用いることなしに質量分析を行うことも試みられている(たとえば、非特許文献1参照)。この場合は、測定試料中の目的分子は微量であり、したがって質量分析計に内蔵されているCCDカメラの画像では、当該目的分子の存在する部位を特定することができない。すなわち、CCDカメラの画像の観察によっては、測定部位の探索を行うことができない。
【0007】
これらの問題点を解決するために、多くの質量分析計には、ラスタースキャンなどのプレスキャン測定機能が装備されている。しかし、その機能は、極めて高純度で大量にある目的分子イオンについて自動測定することを想定している。現状では、その機能は、プレスキャンデータを総イオン量などに従って序列化する機能、あるいは、総イオン量が設定値以上の部分を自動測定する機能などに限定されている。したがって、微量成分の機能解明あるいはバイオマーカー探索のための生体試料の質量分析において、現状のプレスキャン機能を利用することはできない。なぜなら、生体試料中の目的分子が微量であり、かつ生体試料中に多数の成分が混在するためである。特に、存在量が1pmol以下の試料の場合には、目的イオンのピークよりもノイズのピークを選択することが多く、プレスキャン機能を利用して最適な測定部位を決定することはあまり有効ではなかった。
【0008】
【特許文献1】特開2003−098149号公報
【特許文献2】特開2003−098154号公報
【非特許文献1】Jing Wei et al, Nature, 399 (1999), 243
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0009】
上記の点に鑑みて、微量(たとえば、fmolのオーダー)の目的分子および多数の夾雑成分を含む試料に関して、実験者の経験および勘に依存することなしにスイートスポットをより正確に探索し、見いだされたスイートスポットにレーザーを照射することによってイオン化を行い、高感度で目的分子の質量スペクトルを測定する方法を提供することである。特に、本発明は、目的分子の存在量が1pmol以下である生体試料(糖タンパク中の糖鎖など)の質量スペクトルを測定する方法を提供することを目的とする。
【課題を解決するための手段】
【0010】
本発明の質量分析法は、(1)目的分子を含む試料を支持体上に載置して、測定試料を得る工程と、(2)測定試料の複数の領域に関して、MS測定を行う工程と、(3)前記複数の領域のそれぞれにおいて、工程(2)で得られた質量スペクトル中の異なるm/zを有する複数のイオンのシグナル強度を求める工程と、(4)工程(3)で得られたシグナル強度を比較して、前記複数の領域の中から測定領域を選択する工程と、(5)工程(4)で得られた測定領域において、MSn測定を行う工程であって、nは1以上の整数である工程とを含むことを特徴とする。
【0011】
1つの態様においては、工程(3)における複数のイオンは、目的分子に由来するイオンであってもよい。該複数のイオンは、(a)目的分子の親イオンと目的分子の解離によって生じる1つまたは複数のフラグメントイオン、(b)目的分子の解離によって生じる複数のフラグメントイオンのいずれであってもよい。ここで、工程(4)において、測定領域として、前記複数のイオンの少なくとも2つが各イオンにより規定される基準値よりも大きなシグナル強度を示す領域を選択することができる。
【0012】
別の態様においては、工程(3)における複数のイオンは、目的分子に由来する1つまたは複数のイオン、および目的分子に由来しない1つまたは複数のイオンであってもよい。ここで、工程(4)において、測定領域として、目的分子に由来する1つまたは複数のイオンが各イオンにより規定される第1基準値よりも大きなシグナル強度を示し、および目的分子に由来しない1つまたは複数のイオンが各イオンにより規定される第2基準値よりも小さなシグナル強度を示す領域を選択することができる。あるいはまた、工程(4)において、測定領域として、前記複数のイオンのシグナル強度のパーセンテージの総和が基準値よりも大きい領域を選択してもよい(前記パーセンテージは、各領域における全イオンのシグナル強度の総和または各領域においてシグナル強度が最も大きいイオンのシグナル強度を基準とする)。
【0013】
以上の構成において、工程(2)におけるMS測定および工程(5)におけるMSn測定において、レーザー脱離イオン化法を用いることができる。ここで、工程(2)におけるMS測定を、工程(5)におけるMSn測定よりも大きなレーザー強度で実施してもよい。また、工程(1)の試料がマトリックスをさらに含んでもよい。
【発明の効果】
【0014】
以上のような構成を採ることによって、試料とマトリックスの混合結晶中のイオン化効率の高い測定領域を、実験者の経験および勘ならびに総イオン量に基づく選択に依存することなしに、正確に決定することが可能となる。そして、1pmol以下の少ない存在量の目的分子の質量スペクトルおよび高次質量スペクトル(MSn(n>1))を高感度で得ることが可能となる。
【発明を実施するための最良の形態】
【0015】
本発明の質量分析法は、
(1) 目的分子を含む試料を支持体上に載置して、測定試料を得る工程と、
(2) 測定試料の複数の領域に関して、MS測定を行う工程と、
(3) 前記複数の領域のそれぞれにおいて、工程(2)で得られた質量スペクトル中の異なるm/zを有する複数のイオンのシグナル強度を求める工程と、
(4) 工程(3)で得られたシグナル強度を比較して、前記複数の領域の中から測定領域を選択する工程と、
(5) 工程(4)で得られた測定領域において、MSn測定を行う工程であって、nは1以上の整数である工程と
を含むことを特徴とする。
【0016】
工程(1)は、通常のMALDI法を行う場合と同様の方法によって実施することができる。本発明において用いることができる支持体は、当該技術において知られている、プレート(ステンレス、ガラス、シリコンなど)、膜、表面処理プレート(たとえば、金を表面コーティングされたプレートなど)、官能基を導入したケミカルチップ、抗体を結合したプロテインチップ、ナノドットプレート、および多孔性プレートを含む。
【0017】
試料中の目的分子のイオン化効率向上およびフラグメントイオンの特異的生成を補助するために、目的分子の誘導体化反応を実施してもよい。誘導体化に用いる反応剤は、目的分子中に存在する官能基に依存して選択することができる。たとえば、目的分子中にカルボキシ基が存在する場合には、アミノ基、ヒドラジド基またはジアゾメチル基を含む反応剤を用いることができる。あるいはまた、目的分子中にアルデヒド基(糖の還元末端を含む)が存在する場合には、アミノ基またはヒドラジド基を含む反応剤を用いることができる。本発明において用いることができる反応剤の一例は、アミノピレン、1−ピレンブタン酸ヒドラジドおよび1−ピレニルジアゾメタンなどのピレン誘導体である。以下の記載において、目的分子およびその誘導体を「目的分子」と総称する場合がある。
【0018】
試料を支持体上に分散し、レーザー照射のエネルギー吸収およびプロトンまたは電子の授受による試料中の目的分子のイオン化を実施するために、マトリックスを使用してもよい。本発明においては、マトリックスとして当該技術において知られている任意の材料を使用することができ、該材料は、たとえばCHCA(α−シアノ−4−ヒドロキシケイ皮酸)、DHBA(2,5−ジヒドロキシ安息香酸)、SA(シナピン酸)などを含む。本発明においては、必要に応じて、前述のマトリックスに加えて、イオン化を促進するための添加剤を用いてもよい。あるいはまた、多孔質シリコン支持体、または微細加工によって表面凹凸が形成された支持体を用いることによって、マトリックスを用いなくてもよい。
【0019】
工程(1)において、測定試料を形成する際に、水、アセトニトリル、アセトンなどの当該技術において知られている任意の溶媒を用いてもよい。また、測定試料の形成方法として、Dried droplet法、Crash crystal法、薄膜法、二層法などの当該技術において知られている任意の方法を利用することができる。
【0020】
工程(2)においては、工程(1)にて得られた測定試料を複数の領域に区分し、それぞれの領域に関してMS測定を行う。複数の領域への区分は、それぞれの領域に独立的にレーザー光を照射することが可能である限り、特に制限されるものではない。たとえば、2つの直交する方向(x方向およびy方向)に反復される矩形領域に区分することができる。
【0021】
工程(2)における複数の領域のそれぞれに関するMS測定は、レーザー照射によるイオン化を伴う質量分析法によって実施することができる。たとえば、MALDI法、DIOS法などを適用することができる。MS測定における検出部としては、TOF型、磁場型、四重極型、およびイオントラップ型を含む当該技術において知られている任意の装置を用いることができる。TOF型装置を用いることが望ましい。
【0022】
工程(2)においてパルス状のレーザー光の照射によりイオン化を行う場合、通常のMS測定よりも少ないパルス数を用いて、質量スペクトルを得るようにしてもよい。
【0023】
工程(2)におけるMS測定においては、照射するレーザーの出力を通常よりも増大させて、ISD(in source decay)およびPSD(post source decay)によるフラグメント化を促進してもよい。この方法は、工程(3)および(4)において、目的分子(その誘導体を含む)または非目的分子のフラグメントイオンを利用する際に特に有用である。
【0024】
本工程において複数の領域に関して得られた質量スペクトルは、適切な形態で保存されて、以下の工程で使用される。
【0025】
次に、工程(3)において、異なるm/zを有する複数のイオンを選択する。工程(2)で得られた複数の領域に関する質量スペクトルのそれぞれにおいて、それら複数のイオンのシグナル強度を求める。本発明のシグナル強度は、質量分析計の検出器の出力値あるいは、その出力値から算出された数値(S/N比を含む)であり、生成するイオンの量に比例する。
【0026】
工程(3)において選択する複数のイオンは、目的分子(誘導体化を行った場合、その誘導体を含む)に由来する複数のイオンであってもよい。たとえば、目的分子の親イオン([M]+、[M]-、[M+H]+、[M+Na]+、[M−H]-等を含む)、および目的分子のフラグメント化によって得られる1つまたは複数のイオンであってもよい。あるいはまた、目的分子のフラグメント化によって得られる複数のイオンを選択してもよい。たとえば、目的分子がシアル酸含有糖鎖(糖ペプチド)の場合は、m/z=655のフラグメントイオンを選択してもよい。また、試料中にフコース含有糖鎖(糖ペプチド)が存在する場合には、m/z=325、348、364などのフラグメントイオンを選択してもよい。さらには、目的分子の誘導体を行った場合には、目的分子の親イオンと、目的分子誘導体の親イオンとを選択してもよい。
【0027】
あるいはまた、目的分子に由来する1つまたは複数のイオンと、目的分子に由来しない1つまたは複数のイオンを選択してもよい。ここで、目的分子に由来する1つまたは複数のイオンは、目的分子の親イオンまたはフラグメントイオンのいずれであってもよい。一方、目的分子に由来しない1つまたは複数のイオンは、試料中に存在する目的分子以外の化合物(夾雑物)に由来するイオンであってもよい。あるいはまた、マトリックスを用いる場合には、マトリックスに由来するイオンであってもよい。
【0028】
工程(4)において、工程(3)で得られたシグナル強度を比較して、前記複数の領域の中から測定領域を選択する。
【0029】
工程(3)において目的分子に由来する複数のイオンを選択した場合、それら複数のイオンの少なくとも2つが各イオンにより規定される基準値よりも大きなシグナル強度を示すこと、好ましくは、それら複数のイオンの全てが各イオンにより規定される基準値よりも大きなシグナル強度を示すことを基準として、測定領域の選択することができる。工程(4)における基準値は、目的に応じて種々の値を採用することができる。別個のイオンに関しては、各イオン毎に基準値を設定してもよい。
【0030】
たとえば、本発明においては、以下の基準を用いて「各イオンにより規定される基準値よりも大きなシグナル強度を示すこと」を認定することができる。
(A) 全領域の質量スペクトルに関して選択したイオンのシグナル強度の総和を算出し、当該領域のシグナル強度のパーセンテージ(シグナル強度の総和を基準とする)が基準値よりも大きいこと。
(B) 各領域において、全イオンのシグナル強度の総和を算出し、選択したイオンのシグナル強度のパーセンテージ(当該領域の全イオンのシグナル強度の総和を基準とする)が基準値よりも大きいこと。
(C) 各領域において、シグナル強度が最も大きいイオンを決定し、選択したイオンのシグナル強度のパーセンテージ(当該領域においてシグナル強度が最も大きいイオンのシグナル強度を基準とする)が基準値よりも大きいこと。
(D) 全領域を通算して選択したイオンのシグナル強度が上位(たとえば上位10位まで)であること。
(E) 各領域の質量スペクトルに関してベースラインおよびノイズレベルを算出し、選択したイオンのシグナル強度が(ベースラインの値)+(ノイズレベルの値)×(評価ファクター)よりも大きいこと。評価ファクターは、目的に応じて種々の値を採用することができる。
(F) 全領域の質量スペクトルに関して選択したイオンのシグナル強度の平均値を算出し、選択したイオンのシグナル強度が平均値よりも大きなシグナル強度あるいは(平均値)+(一定値)より大きいこと。この場合には、平均値に加えて標準偏差を算出して、各領域のシグナル強度の偏差値が一定の値よりも大きいことを基準とすることができる。ここで、偏差値は、(シグナル強度の平均値からの偏差)/(標準偏差)の式から計算される。
【0031】
あるいはまた、工程(3)において目的分子に由来する複数のイオンを選択した場合、工程(3)において選択したイオンのシグナル強度を総合的に比較して、前記複数の領域の中から測定領域を選択してもよい。たとえば、本発明において、以下の基準を用いて測定領域を選択することができる。
(G) 各領域において、全イオンのシグナル強度の総和を算出し、選択したイオンのシグナル強度のパーセンテージ(当該領域の全イオンのシグナル強度の総和を基準とする)の総和が基準値よりも大きいこと。
(H) 各領域において、シグナル強度が最も大きいイオンを決定し、選択したイオンのシグナル強度のパーセンテージ(当該領域においてシグナル強度が最も大きいイオンのシグナル強度を基準とする)の総和が基準値よりも大きいこと。
【0032】
工程(3)において目的分子に由来する1つまたは複数のイオンと、目的分子に由来しない1つまたは複数のイオンとを選択した場合、目的分子に由来する1つまたは複数のイオンが各イオンにより規定される第1基準値よりも大きなシグナル強度を示し、および目的分子に由来しない1つまたは複数のイオンが各イオンにより規定される第2基準値よりも小さなシグナル強度を示すことを基準として、測定領域の選択することができる。この場合に、「各イオンにより規定される第1基準値よりも大きなシグナル強度を示すこと」は、前述と同様の基準(A)〜(H)を用いて認定することができる。
【0033】
第2基準値は、前述の第1基準値と同一であっても異なっていてもよい。別個のイオンに関しては、各イオン毎に第2基準値を設定してもよい。たとえば、本発明においては、以下の基準を用いて「各イオンにより規定される基準値よりも大きなシグナル強度を示すこと」を認定することができる。
(I) 全領域の質量スペクトルに関して選択したイオンのシグナル強度の総和を算出し、当該領域のシグナル強度のパーセンテージ(シグナル強度の総和を基準とする)が第2基準値よりも小さいこと。
(J) 各領域において、全イオンのシグナル強度の総和を算出し、選択したイオンのシグナル強度のパーセンテージ(当該領域の全イオンのシグナル強度の総和を基準とする)が第2基準値よりも小さいこと。
(K) 各領域において、シグナル強度が最も大きいイオンを決定し、選択したイオンのシグナル強度のパーセンテージ(当該領域においてシグナル強度が最も大きいイオンのシグナル強度を基準とする)が第2基準値よりも小さいこと。
(L) 全領域を通算してシグナル強度が下位であること。
(M) 各領域の質量スペクトルのベースラインおよびノイズレベルを算出し、選択したイオンのシグナル強度が(ベースラインの値)+(ノイズレベルの値)×(評価ファクター)よりも小さいこと。評価ファクターは、目的に応じて種々の値を採用することができる。ここで、「高いシグナル強度」の評価ファクターと、「低いシグナル強度」の評価ファクターとは、同一の値であっても異なる値であってもよい。
(N) 選択したイオンのシグナル強度が、全領域の質量スペクトルから得られる選択したイオンのシグナル強度の平均値あるいは(平均値)+(一定値)よりも小さいこと。この場合には、各領域のシグナル強度の偏差値が第2基準値よりも小さいことを基準とすることもできる。
【0034】
ここで、ヒトなどの生体試料に由来する糖タンパクまたは糖鎖のように、目的分子中に存在する部分構造のバリエーションが推定ないし限定されている場合が存在する。この場合には、工程(3)における目的分子に由来する複数のフラグメントイオンの選択の特殊な例として、それら存在が推定ないし限定されている部分構造に由来する複数のイオンを選択してもよい。次いで、工程(4)においては、それら複数のイオンの少なくとも1つが高いシグナル強度を示す領域を、測定領域として選択することができる。
【0035】
また、未知試料で正確な分子量が不明な場合であっても、目的分子が特定の部分構造を有することが推定される場合がある。この場合には、工程(2)においてISDおよび/またはPSDにより前述の部分構造の脱離を起こし、それによって生じるイオンの組を工程(3)において選択してもよい。たとえば、目的分子がポリラクトサミンを含む糖鎖(糖ペプチド)の場合は、1つまたは複数のラクトサミンの脱離により生じる(365×n)Da差(ここで、nは1以上の整数である)の分子イオンの組を検出することが、測定領域の選択に有効である。たとえば、目的分子がシアル酸含有糖鎖(糖ペプチド)の場合は、シアル酸の脱離により生じる291Da差の分子イオンの組を検出することが、測定領域の選択に有効である。あるいはまた、目的分子がフコース含有糖鎖(糖ペプチド)である場合には、フコースの脱離により生じる146Da差をもつ分子イオンの組の存在を検出することが有効である。さらに、目的分子が硫酸含有糖鎖(糖ペプチド)またはリン酸含有糖鎖(糖ペプチド)である場合には、それぞれ、硫酸またはリン酸の脱離により生じる80Da差または98Da差の分子イオンの組を検出することが有効である。
【0036】
工程(5)において、工程(4)で得られた測定領域において、MSn測定(ここで、nは1以上の整数である)を行う。本工程におけるMSn測定は、前述のようにレーザー照射によるイオン化(たとえば、MALDI法、DIOS法など)を伴う質量分析法によって実施することができる。その際の検出部としては、TOF型、磁場型、四重極型、およびイオントラップ型を含む当該技術において知られている任意の装置を用いることができる。TOF型装置を用いることが望ましい。本工程におけるMSn測定は、当該技術において知られている任意の手順に従って実施することができる。
【実施例】
【0037】
(比較例1) 特定の1点のシグナル強度による序列化
本実施例においては、以下に示す構造を有する糖鎖1(200fmol)を主成分とする試料を用いた。試料を金でコーティングしたプレート上に載置し、乾燥させた。その上に、1−ピレニルジアゾメタン500pmol含有DMSO溶液0.25μLを滴下し、25分間にわたって40℃に加熱して乾燥させることにより、ピレン標識された標識糖鎖1を得た。次に、DHBA(マトリクス)の溶液(溶媒:アセトニトリル−水)を滴下して、乾燥させて、測定試料を調製した。得られた測定試料の写真を図1に示す。図1の写真は、明瞭性のためにネガポジ変換を行っている。
【0038】
【化1】

【0039】
得られた測定試料を、x×y=21×21の合計441の領域に分割し、質量分析計(AXIMA−QIT、島津製作所)のラスタースキャンによって各領域のネガティブイオンを測定した。ラスタースキャンによって得られた各領域の測定ファイルの情報を、測定位置座標(x,y)、m/zおよびシグナル強度を含むテキストに変換した。
【0040】
得られたプレスキャンの結果を、装置に付属している機能を用いて、クロマトグラム表示した(図2参照)。このクロマトグラムからは、どの測定領域において目的とする糖鎖に由来するイオンが良好に検出できるかは不明であった。通常、このようなクロマトグラムが得られた場合は、測定試料が不適であるとしてこれ以上の解析は断念していた。
【0041】
また、テキスト変換したデータに基づいて、標識糖鎖1由来脱プロトン化イオン(m/z=2582)の分布を、公開ソフトGraph−Rを用いて二次元で表示した。ここで、m/z=2582のイオンのシグナル強度およびその上位5箇所の測定領域を図3に示し、当該測定領域における質量スペクトルを図4に示した。図4(a)〜(e)においては、100%が同一のシグナル強度になるように縦軸を規格化した。
【0042】
経験的に、試料とマトリックスとの混合結晶の周縁部において、目的分子イオンを生じやすいといわれている。この場合にも、m/z=2582のイオンは周縁部にかなり局在しており、プレスキャンが有効であるように思われた。しかし、図4(a)〜(e)を一見して判るように、5箇所の測定領域のスペクトルのうち、No.304の領域のスペクトル(図4(b)参照)においてのみ目的分子イオンが検出されており、その他の領域にはノイズしか見出すことができなかった。
【0043】
また、既存の質量分析計に具備された機能として一般的である、トータルのイオン強度(総イオン量に相当)が設定値を越えた領域のスペクトルを測定する機能、およびS/N比が設定値を越えた領域のスペクトルを測定する機能も、No.304の領域を選択することができず、実際に最適な測定領域を決定する機能として満足すべきものではなかった。以上の結果から、これらの機能は、イオンが検出されるか否かを判断基準としており、比較的大量にプレート上に存在する高純度の試料に対しては有効であるが、生体試料のような多くの夾雑成分が混在している低純度の試料および目的分子が微量である試料には全く応用できないことが明らかとなった。
【0044】
(実施例1) 目的分子に由来する2つのイオンのシグナル強度による序列化
比較例1と同様にして試料調製、プレスキャンおよび測定ファイル情報のテキスト変換を行った。
【0045】
テキスト変換したデータに基づいて、標識糖鎖1由来脱プロトン化イオン(m/z=2582)のシグナル強度の上位5箇所を選択し、次いで、その5箇所の領域について未標識の糖鎖1に由来する脱プロトン化イオン(m/z=2077)のシグナル強度に基づいて序列化することによって、ノイズのみが検出される領域ではなく、目的分子イオンを検出することができる領域番号No.304の領域を選択することができた。着目した各領域におけるm/z=2582および2077のイオンのシグナル強度を第1表に示した。
【0046】
この結果から、目的分子に由来する複数のイオンのシグナル強度に着目することによって、より正確に測定領域を選択できることが明らかとなった。
【0047】
【表1】

【0048】
(実施例2) 未知試料に関する測定領域の選択およびMS2測定
本実施例は、糖鎖を含む試料中の目的とする糖鎖の正確な分子量が不明であると仮定し、糖鎖を同定するためのMS解析の例を示す。最初に、比較例1と同様にして測定試料を調製した。得られた測定試料に対して、ISDおよびPSDを促進するために通常の測定よりも20%位レーザー出力を増加して、x×y=21×21の合計441の領域に関するプレスキャンを行なった。
【0049】
テキスト変換したデータに基づいて、シアル酸が結合した糖鎖から生じるフラグメントイオン(m/z=655)および代表的な夾雑イオン(m/z=799)のシグナル強度を抽出し、m/z=655のイオンのシグナル強度の上位10個のファイルを、第2表に示した(図3)。
【0050】
【表2】

【0051】
第2表においては、m/z=655のイオンのシグナル強度が、m/z=799のイオンのシグナル強度よりも大きい測定領域を、「○」と評価した。「○」と評価されなかった測定領域の代表として、No.130の領域を選択し、その質量スペクトルを図5(a)に示した。図5(a)から分かるように、この測定領域においてはノイズが見いだされるのみであり、目的とする糖鎖に由来するイオンのシグナルは得られなかった。
【0052】
一方、「○」と評価された測定領域の代表として、No.290の領域を選択し、その質量スペクトルを図5(b)に示した。なお、図5(a)および(b)においては、100%が同一のシグナル強度になるように縦軸を規格化した。この測定領域においては、糖鎖に由来するフラグメントであるm/z=655,879,1113,1478のイオンの他に、これらフラグメントを生成したm/z=1930,2077,2582の糖鎖イオンを検出することができた。この結果から、目的とする分子量不明の糖鎖から生じるフラグメントイオンと夾雑イオンとを判断基準とし、フラグメントイオンが多く存在することに加えて、夾雑イオンが少ない測定領域を選択することがきわめて有効であることが分かった。そして、そのような選択によって、目的とする糖鎖の質量スペクトルを高いS/N比で得ることができた。
【0053】
次に、No.290の領域において得られたm/z=2582の糖鎖イオンをプレカーサーイオンとして選択して、MS2測定を行った。MS2測定によって得られる質量スペクトルを図5(c)に示した。さらに、MS2測定によって得られるm/z=655.0、1113.6、1548.7および2215.1の各イオンをプレカーサーイオンとして選択して、MS3測定を行うことができた。
【0054】
No.290の領域において高次のMSが容易になった重要な理由は、以下の通りである:(1)プレスキャンを行った全441領域におけるm/z=2582のイオンのシグナル強度の平均が約10mVであるのに比較して、No.290の領域におけるm/z=2582のイオンのシグナル強度は約200mVであったこと、すなわち、No.290の領域が平均の約20倍のイオンを生成する部位であったこと;および(2)No.290の領域においては、夾雑物に起因するイオンが少なく、S/N比が良好であったこと。
【0055】
以上の結果から、正確な分子量が不明な未知試料についても、ISDおよび/またはPSDで生じる特異的イオンをプレスキャンで検出することで、最適な測定領域を決定することが可能であることも示された。
【図面の簡単な説明】
【0056】
【図1】比較例1で得られた測定試料の写真を示す図である。
【図2】比較例1のプレスキャンの結果のクロマトグラムを示す図である。
【図3】比較例1におけるm/z=2582のイオンのシグナル強度、およびその上位5箇所の領域を示す図である。
【図4】比較例1におけるm/z=2582のイオンのシグナル強度の上位5箇所の領域における質量スペクトルを示す図であり、(a)〜(e)は、それぞれNo.96、304、154、177および220の領域における質量スペクトルを示す図である。
【図5】実施例2において得られる質量スペクトルを示す図であり、(a)は、No.130の領域における質量スペクトルを示す図であり、(b)は、No.290の領域における質量スペクトルを示す図であり、(c)は、No.290の領域において、m/z=2582のイオンをプリカーサーイオンとして用いたMS2測定によって得られる質量スペクトルを示す図である。

【特許請求の範囲】
【請求項1】
(1) 目的分子を含む試料を支持体上に載置して、測定試料を得る工程と、
(2) 測定試料の複数の領域に関して、MS測定を行う工程と、
(3) 前記複数の領域のそれぞれにおいて、工程(2)で得られた質量スペクトル中の異なるm/zを有する複数のイオンのシグナル強度を求める工程と、
(4) 工程(3)で得られたシグナル強度を比較して、前記複数の領域の中から測定領域を選択する工程と、
(5) 工程(4)で得られた測定領域において、MSn測定を行う工程であって、nは1以上の整数である工程と
を含むことを特徴とする質量分析法。
【請求項2】
工程(3)における複数のイオンが、目的分子に由来するイオンであることを特徴とする請求項1に記載の質量分析法。
【請求項3】
工程(3)における複数のイオンが、目的分子の親イオンと目的分子の解離によって生じる1つまたは複数のフラグメントイオンであることを特徴とする請求項2に記載の質量分析法。
【請求項4】
工程(3)における複数のイオンが、目的分子の解離によって生じる複数のフラグメントイオンであることを特徴とする請求項2に記載の質量分析法。
【請求項5】
工程(4)において、測定領域として、前記複数のイオンの少なくとも2つが各イオンにより規定される基準値よりも大きなシグナル強度を示す領域を選択することを特徴とする請求項2から4のいずれかに記載の質量分析法。
【請求項6】
工程(4)において、測定領域として、前記複数のイオンのシグナル強度のパーセンテージの総和が基準値よりも大きい領域を選択し、
前記パーセンテージは、各領域における全イオンのシグナル強度の総和、または各領域においてシグナル強度が最も大きいイオンのシグナル強度を基準とする
ことを特徴とする請求項2から4のいずれかに記載の質量分析法。
【請求項7】
工程(3)における複数のイオンが、目的分子に由来する1つまたは複数のイオンと、目的分子に由来しない1つまたは複数のイオンとを含むことを特徴とする請求項1に記載の質量分析法。
【請求項8】
工程(4)において、測定領域として、目的分子に由来する1つまたは複数のイオンが各イオンにより規定される第1基準値よりも大きなシグナル強度を示し、および目的分子に由来しない1つまたは複数のイオンが各イオンにより規定される第2基準値よりも小さなシグナル強度を示す領域を選択することを特徴とする請求項7に記載の質量分析法。
【請求項9】
工程(2)におけるMS測定および工程(5)におけるMSn測定において、レーザ脱離イオン化法を用いることを特徴とする請求項1に記載の質量分析法。
【請求項10】
工程(2)におけるMS測定を、工程(5)におけるMSn測定よりも大きなレーザー強度で実施する、レーザ脱離イオン化法を用いることを特徴とする請求項9に記載の質量分析法。
【請求項11】
工程(1)の試料がマトリクスをさらに含むことを特徴とする請求項1に記載の質量分析法。

【図1】
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【図2】
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【図3】
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【図4】
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【図5】
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【公開番号】特開2008−269845(P2008−269845A)
【公開日】平成20年11月6日(2008.11.6)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2007−108414(P2007−108414)
【出願日】平成19年4月17日(2007.4.17)
【国等の委託研究の成果に係る記載事項】(出願人による申告)平成18年度、独立行政法人科学技術振興機構、大学発ベンチャー創出推進に係る委託研究契約、産業再生法第30条の適用を受ける特許出願
【出願人】(000173924)財団法人野口研究所 (108)
【出願人】(000001993)株式会社島津製作所 (3,708)
【Fターム(参考)】