説明

電子分光法

【課題】電子分光法及び電子分光を行う装置に関する。特に、試料から表面層を選択的に除去するために用いることのできる電子分光用イオン源に関する。
【解決手段】電子分光装置2は内部に試料台6を設置した超高真空容器4を備える。イオン銃8は超高真空容器4内に伸びており、多環式芳香族炭化水素イオンビーム10を供給する。イオンビームは使用の際、試料台の上の試料に向けられる。光子源12は、使用時に試料上に投射する光子ビーム14を供給するのに適合している。真空容器4の内部には光電子分光器16が設置され、使用時に試料から放射される電子18を検出する。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、電子分光法及び電子分光を行う装置に関する。特に、本発明は、試料分析に先立って試料から表面層を選択的に除去するために用いることのできる電子分光用イオン源に関する。
【背景技術】
【0002】
電子分光法は、主として試料表面に高エネルギー粒子を照射し、光電効果によって電子を試料から放出させて試料表面を分析する技術である。照射する高エネルギー粒子がX線である場合はX線光電子分光法(x-ray photoelectron spectroscopy, XPS)として、高エネルギー粒子が紫外線放射である場合は光電子放出分光(photoemission spectroscopy, PES)、又は紫外線光電子放出分光(ultra-violet photoemission spectroscopy, UPS)として知られている。照射と放出された電子の検出は超高真空状態の下で行われる。かかる技術は光電子分光法としても知られている。放出された電子の運動エネルギーや数を分析することで試料の組成や試料内での結合に関する情報を推測することが可能になる。
【0003】
このように、電子分光法によって元素組成の評価が可能になるのみならず、各元素の化学的状態を推測する手段を提供できるようになる。特に、スペクトルのそれぞれのピークの正確な位置を解析できれば結合情報を確定することが可能になる。ある元素が同一の、又は他の元素と異なる方法で結合すると、「ピークエンベロープ(peak envelope)」が形成される。ピークエンベロープは部分的に重なり合った複数のピークから成る。このピークエンベロープを分析すると結合タイプやその相対比率が推測され、その試料の化学的組成に関する情報が明らかになる。
【0004】
また、試料中の元素の分布、とりわけ表面からの距離に応じた組成の変化に関する情報の獲得は有益ともなり得る。かかる深さ方向の分析が実施される部分では、分析に向けて下層を露出させるためにその上を覆う層を除去する必要がある。ここで重要な点は、外側の層を除去するためのいかなる技術によっても、その下層に損傷を与えてはならないということである。さもないと下層の分析に障害が発生する。
【0005】
従来から外側の層を除去するためにイオンビームが用いられている。イオンビームはスパッタを大量に行うのに適しており、不要な物質を最小限のイオン量で可能な限り速やかに表面から除去することができる。
【0006】
電子分光装置は、試料台、高エネルギー粒子源、及び放出された電子の検出器を有する。装置は、放出された電子を検出器の方に向ける電子収束光学素子も備えることが適切である。イオンを発生させるイオン源を備える装置も多く、発生したイオンは分析に先立って試料表面から不要な物質を取り除くために試料表面上に向けられる。試料表面を清浄するために用いられるイオンとしてはアルゴンイオンやC60イオンが挙げられる。
【0007】
アルゴンイオンは試料表面から物質を効率的に除去するが、表面に損傷を与える可能性がある。これはその後に行われる試料分析にとって望ましくない影響を与える可能性がある。試料表面から物質を除去するイオンとしてはC60イオンも知られており、試料によるが、アルゴンイオンと比較して表面の損傷が減少することも示されている(特許文献1)。もっとも、C60を用いてスパッタを行うと、表面にC60が蒸着して「偽層(false layer)」を形成する可能性も認められている。このように、C60のイオン源としての実用性には限界があり、誤った結果が生じる可能性がある。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0008】
【特許文献1】EP 1 679505 A1
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0009】
本発明は既知のイオンビームに関する問題点を解決しようとするものである。特に、下層に与える損傷を最小限に抑えて試料内部の元素の化学的環境を保存しつつ、外側の層から物質をできる限り短時間、かつ効率的に取り除くという課題に取り組もうとするものである。本発明の別の課題は、「外部由来の」物質が試料表面、又は内部に蒸着するのを最小限に抑えつつ、外側の層から物質を取り除く点にある。
【課題を解決するための手段】
【0010】
本発明は、もっとも全般的には、試料の外側の層から物質を取り除くためのイオン源として多環式芳香族炭化水素を用いることを提案している。本発明の発明者は、多環式芳香族炭化水素が従来のイオン源、特にアルゴンイオンやC60イオンといった従来のイオン源と比較して、試料の損傷及び望ましくない物質の蒸着を減少させるという点で改善をもたらすことを見出した。
【0011】
本発明の第一の実施形態は、試料に照射するための高エネルギー粒子源、試料から放出された電子を検出するための電子検出システム、及び多環式芳香族炭化水素のイオンビームを試料に供給するためのイオン銃を有する電子分光装置を提供する。前記イオン銃は多環式芳香族炭化水素のイオン源を有する。
【0012】
本発明は多環式芳香族炭化水素(polycyclic aromatic hydrocarbons, PAHs)が試料表面から物質を効率的に除去できることを発見した。実際に本発明の実施例によってスパッタリングが高レベルで行われることが示された。これは、比較的少量のPAHイオンで表面の物質の相当量が除去できることを意味する。本発明の発明者がさらに実験を行ったところ、下層に重大な損傷を与えずに表面の清浄やエッチングが可能であることが示されている。更に驚くべきことに、PAHイオンは表面から物質を効率的に除去するにも関わらず、PAHイオンが表面に蒸着されるという傾向は認められないことが観察された。ゆえに、「偽層」の問題や下層の汚染問題は本発明の実施例では最小限に抑えられるか回避されている。
【0013】
PAHイオンを用いることに伴うこれらの利点により、電子分光法を用いてより正確に試料の組成を決定することが可能となる。
【0014】
PAHは5〜20個の芳香環からなるものが望ましく、より望ましくは5〜15個、更に望ましくは5〜10個、最も望ましくは6〜8個の芳香環から構成されるものである。特に望ましいものは、7個の芳香環で構成されるPAHグループである。
【0015】
PAHは非置換のものであることが望ましい。
【0016】
特に望ましいPAHはコロネン(C24H12)である。コロネンは下層の損傷や汚染を最小限に抑えつつ、特に効率的に表面清浄やエッチングを行うことが発見されている。
【0017】
構造的にコロネンに関連する別の望ましいPAHはジコロニレンであり、これはコロネンの二量体である。ジコロニレンはそのフラグメント化反応によりコロネンと同様の反応を示すのではないかと考えられている。必要であれば、以下に示すように、望ましくないフラグメントは、例えばウィーンフィルタ等のフィルタで除去することができる。
【0018】
PAHの別の望ましい例としては、アントラセン、ピレン、コロネン、オバレンが挙げられる。理論に縛られるのを望むわけではないが、本発明の発明者は、イオン源としてのPAHの予期せぬ利点は、PAHの縮合環の構造がコンパクトであるために生じるのではないかと考えている。コンパクトな構造はかなりの数の衝突原子が試料表面の狭い領域に集中することを意味する。更に、本発明の発明者は、PAHの芳香族炭素構造が開放的であり、かつ殆どの場合平面的であるためにエネルギーが衝突面全体に均等に広がるのではないかと考えている。これによって浸入深さの制御が可能になり、より精密な清浄、つまり表面層の除去が可能になる。
【0019】
イオン源は(i)PAHの気相分子を生成するガス発生器、及び(ii)PAHの気相分子をイオン化するイオン化装置を有することが適切である。
【0020】
ガス発生器は加熱室(例えばオーブン)を有することが望ましい。これはPAHを気化するのに適している。
【0021】
イオン化装置は電子衝撃イオン化装置を有することが望ましい。電子衝撃イオン化装置ではPAHの気相分子に電子を衝突させることによってPAHイオンが作られる。
【0022】
以上のように、イオン源は加熱室と電子衝撃イオン化装置を有することが望ましい。
【0023】
イオン銃は(iii)イオン引出装置、(iv)イオン光学素子のいずれか一方、又は双方を含むのが適切である。イオン引出装置によってイオンをイオン源から加速させることが望ましい。イオン光学素子によってイオンを収束、かつ/又は軸合わせすることが望ましい。
【0024】
イオン銃は(v)質量フィルタ、(vi)イオン分離器のいずれか一方、又は双方を含むことが適切である。質量フィルタにより、所望の質量のイオンが試料方向に進み、他の質量のイオンの通過を阻むことができるようにするのが望ましい。イオン分離器によって帯電したもののみを残して中性粒子を除去するのが望ましい。
【0025】
イオン銃は(vii)質量フィルタ及び/又はイオン分離器を通ったイオンを収束させるための2番目のイオン光学素子も含んでもよい。2番目のイオン光学素子の例としては対物レンズを挙げることができる。
【0026】
イオン銃は(viii)イオン走査器を含むのが適切である。イオン走査器によってイオンを試料上の異なった領域上に向けるのが適切である。イオン走査器によってイオンを試料の標的領域上に向けることが望ましい。標的領域の場所が移動して、異なるイオンは試料表面上の異なる位置に向けられる。イオン走査器によって、例えば、正方形や長方形といった、試料を横切るラスターパターンが与えられるのが適切である。イオンを「走査する」と流束が試料上でより均一に分布し、物質の除去率が装置の分析領域内の位置に最小限しか依存しなくなるため、イオン走査器は望ましいといえる。
【0027】
以上に述べたように、イオン化したPAH分子を生成し、その後、それらを引き出して収束し、軸合わせし、質量フィルタを通し、電気的に中性の分子から分離し、さらに収束して試料上で走査するように装置を構成することが望ましい。
【0028】
イオン源はPAHを含むことが望ましい。コロネンを含むものが好適である。PAHは予め成型された形状が適切であり、これは典型的にはPAHを圧縮することによって形成される。実施例では、PAHを繊維状の固体で供給してもよい。(例えば、コロネンは繊維状の結晶構造としてイオン源に取り込ませることも可能である。)
【0029】
イオン銃はイオンに種々の荷電状態を供給するのに適合していることが適切である。つまり、イオン銃によってイオンに例えば1+、2+、等の種々の電荷を付与することができる。イオン銃はウィーンフィルタを含むのが適切である。ウィーンフィルタは種々の電荷のイオンを送るように設定できる。これは、特定のイオンの加速電圧で、より高い衝突エネルギーを獲得できる点で有益である。例えば、10kVの電位差によって加速された2+の電荷をもつイオンは20keVの運動エネルギーを獲得する。
【0030】
電子検出システムは電子エネルギー分析器を含むことが望ましい。電子エネルギー分析器は半球型の分析器を含むことが適切である。その代わりに、またはそれに加えて、電子エネルギー分析器は球面鏡分析器を含む。電子検出システムは、特許GB2244369に記載されているように、球面鏡分析器及び半球型分析器を備える電子分析器を含むことが望ましい。
【0031】
電子検出システムは検出器を含むことが望ましく、遅延線検出器が適切である。
【0032】
装置は真空室を含むことが望ましく、超高真空室が適切である。試料及び/又は電子検出システムは真空室内部に設置されていることが望ましい。
【0033】
電子検出段階には、電子の運動エネルギー、及び/又は検出した電子数を検出する段階を含むことが望ましく、双方を検出する段階を含むことが望ましい。
【0034】
装置はXPS装置、又はPES装置のいずれも望ましく、XPS装置が望ましい。
【0035】
本発明の第2の実施形態は、試料に高エネルギー粒子を照射し、試料から放射された電子を検出する段階を含む電子分光方法を提供する。前記方法は、多環式芳香族炭化水素のイオンビームを試料上に向ける段階を含むものである。
【0036】
PAHイオンビームは2〜20keVのエネルギーを有するものが望ましく、5〜15keVのエネルギーを有するものが望ましい。
【0037】
イオンビームのためにイオン化されるPAHの気体の発生は、PAHの加熱によることが望ましく、加熱温度は150℃〜300℃の範囲が適切であり、コロネンの場合には200℃程度がのぞましい。他のPAHでは、必要とされるイオンビーム電流が得られる適正な範囲の蒸気圧を得るために、異なった温度が必要とされるであろう。
【0038】
この方法は、PAHイオンを用いて試料から物質の表面層を除去する段階を含むことが適切である。
【0039】
この方法ではPAHイオンを用いて試料から物質の表面層を繰り返し除去する段階を含むことが望ましい。
【0040】
この方法は試料表面をPAHイオンを用いて清浄する段階を含むことが望ましい。
【0041】
高エネルギー粒子は光子であることが望ましい。光子はX線、紫外線放射から選択されることが適切である。
【0042】
より一般的には、本装置は電子分光法により表面分析を行い、従来の電子分光装置と同様の方法でスパッタを用いた深さ方向分析(デプス・プロファイリング、depth profiling)を行うために使用することもできる。
【0043】
本発明の第3の実施形態は、第1の実施形態の装置で用いる多環式芳香族炭化水素のイオン銃を提供する。
【0044】
イオン銃は、PAH及びガスを用いて使用するのに適合していることが適切である。換言すると、イオン銃は、PAHイオンビームを産生するのに適合しているのと同様、アルゴン、その他の希ガス、酸素、SF6などの気体を用いてイオンビームを生成できるように構成されていることが望ましい。
【0045】
本発明の第4の実施形態は、電子分光法を用いた試料分析方法における多環式芳香族炭化水素の利用法を提供する。
【0046】
本発明の第5の実施形態は、第1の実施形態の装置の製造方法における多環式芳香族炭化水素の利用法を提供する。
【0047】
本発明の第6の実施形態は、第3の実施形態におけるイオン銃の製造方法における多環式芳香族炭化水素の利用法を提供する。
【0048】
本発明の第7の実施形態は、第2の実施形態における方法を実行できるように電子分光装置を修正する方法を提供する。
【0049】
電子分光装置を修正する方法には、第3の実施形態の多環式芳香族炭化水素イオン銃を装置に備え付ける段階を含むことが適切である。
【0050】
本発明の実施形態のいずれか一つ、又は複数は、本発明の他の実施形態のいずれか一つ、又は複数と結合させてもよい。同様に、いずれかの実施形態における特徴や選択自由な特徴のいずれか一つ又は複数は、他のいずれかの実施形態にも適用可能である。以上のように、選択自由で望ましい特徴としてこの文書中で検討した点は、いくつかの実施形態、または全ての実施形態に適用可能である。特に、本発明に係る装置に関する選択自由で望ましい特徴は、本発明の方法や本発明の利用に適用可能であり、逆もまた同様である。
【0051】
この文書中で用いてきたように、「多環式芳香族炭化水素」、及び「PAH」という用語は縮合芳香族炭化水素環からなる化学化合物を意味する。当業の読者ならPAHの化学上のファミリーに関する用語やそのメンバーに精通している。PAHの具体例として、アントラセン (C14H10、3個のベンゼン環の縮合物)、ピレン(C16H10、4個のベンゼン環の縮合物)、コロネン(C24H12、7個のベンゼン環の縮合物)、オバレン(C32H14、10個のベンゼン環の縮合物)がある。
【0052】
以下、本発明に関して、添付の図のみを参照しつつ実施例を用いて説明する。
【図面の簡単な説明】
【0053】
【図1】図1は本発明の装置の概略図を示している。
【図2】図2は本発明のイオン銃の概略図を示している。
【図3】図3はPTFEで汚染されたPET試料、および、その後本発明のPAHイオン源によってPTFEが除去されたPET試料から得られたスペクトルを示している。
【図4】図4は、本発明のPAHイオン源を用い、物質を200nmだけPAHでスパッタする前後のPLGA試料から得られたスペクトルを示している。
【発明を実施するための形態】
【0054】
本発明の発明者は、様々なPAH(多環式芳香族炭化水素)が、電子分光法、とりわけX線電子分光法(XPS)における表面清浄や深さ方向の分析用のイオン源として効果的であることを発見した。PAHは大量のスパッタを行い、最小限の損傷しか起こさず、他のイオン源(例えばC60)とは異なって、試料上への蒸着傾向(これにより誤った組成が出現する)を軽減していると思われる。
【0055】
PAHの更なる利点は、比較的容易に気化できる点である。実際、PAHの多くは比較的高い蒸気圧を有しているため、少しの加熱で容易に気化され得る。これは、PAHを気化する為には、例えばC60と比較して、低温、つまり低エネルギーしか要しないということを意味する。従って、イオン源のイオン発生器を比較的低いパワーの加熱チャンバー(オーブン)となし得る。
【0056】
イオンを生成するために低エネルギーで済むのみならず、オーブンの温度を低温となし得ることにより、より高温のオーブンの場合と比較してイオン源を操作するときに発生する問題が少なくなる。電気的に絶縁された物質の多くは高温では絶縁が不充分となるため、イオン発生器からのイオンを加速するために必要な高い電圧を失わせるという問題がよく知られている。このため、電力供給装置源から所要の高電圧を供給する際に困難が生じ得る。
【0057】
更に、イオン源やイオン光学要素を構築する際に用いられる多くの物質は高温になると「ガス放出」が発生し、イオン発生器内に余分な望ましくないガスが生じることになる。このような望ましくないイオンを必要なイオンから分離しなければならない。さもないとこれらの望ましくないイオンは試料のところに移送され、例えば希ガスイオンによって引き起こされるのと同様にサンプルに損傷を与えることになるだろう。
【0058】
図1は本発明に係る電子分光装置2の概略を示した図である。本装置は内部に試料台6を設置した超高真空容器4を備える。イオン銃8は超高真空容器4内に伸びており、PAHイオンビーム10を供給する。イオンビームは使用の際、試料台の上の試料に向けられる。
【0059】
光子源12は、使用時に試料上に投射する光子ビーム14を供給するのに適合している。真空容器4の内部には光電子分光器16が設置され、使用時に試料から放射される電子18を検出する。
【0060】
光子源12と光電子分光器18は従来型のものを用いることができ、当業の読者なら適切な具体例に精通している。
【0061】
光電子分光器は光電子を集めて収束させるための電子レンズ(図示なし)を有する。また、エネルギー分散分析装置も有する。これは、本実施例では同心の半球型分析器である。光電子分光器は電子検出システムをも有する。電子検出システムは放出された電子を検出する検出器を備える。本実施例では、検出器は遅延線検出器の読み出しを備えたマイクロチャネルプレートとなっており、光電子分光器は球面鏡分析器と半球型分析器も有する。しかし、他の分析器や検出器(例えばチャネルトロン)を利用することも可能である。
【0062】
光電子分光器の種々の構成要素は、コンピュータ制御された電力供給システム及びデータ収集システムから制御されている。
【0063】
光子の供給源12としては、紫外線エネルギー範囲内の光子を生成し得るガス放電源、又は、分析試料の近傍に配置することができ、金属のターゲットへの電子衝撃に基づいて、Mg-KαやAl-Kαといった特性X線を生成するX線源のいずれでもよいし、X線モノクロメータ又はシンクロトロンの放射源から発生する光子でもよい。図1に示した実施例では、光子源はX線源であり、望ましいものといえる。
【0064】
図2は図1におけるイオン銃8の概略を示した図である。イオン銃8は加熱室22と電子衝撃イオン化装置24を備えるイオン源20を有する。PAHは加熱室に配置されて気化され、PAHの気相が生成される。イオン化装置内に放出されたPAHの気相分子は、次に電子衝撃イオン化装置24で電子衝撃によってイオン化される。次いで、PAHイオンはイオン源から引出電界を介して引き出され、イオン光学素子26を用いて収束され、軸合わせされる。
【0065】
次にPAHイオンは、特定の速度のイオンを選択するためにウィーンフィルタ28を通過することによって質量フィルタ処理をなされる。次に、中性粒子フィルタ30を通ることによって、所望のイオン(帯電した分子)が電気的に中性の分子から分離される。フィルタを通ったPAHイオンは、次に対物レンズ32によってさらに収束され、スキャニングプレート34を用い、サンプル全域に亘って走査される。試料全域に亘ってPAHイオンを走査する過程が行われる結果、サンプル上の流束は、より均一な分布となる。これにより、試料からの物質除去率は、光電子分光器の分析領域内の物質の位置に最小限しか依存しないという利点が生じる。
【0066】
イオン銃はPAH供給源、及びArなどのガス供給源のいずれとも共に動作するのに適合していることが一般に望ましい。特に、銃は、例えば20keVのような高エネルギーのPAHと、例えば数十eV程の低エネルギーのArとで、同等にうまく動作するように設定されている。Arを用いた低エネルギーモードで銃を操作した場合、加熱室(オーブン)22は始動されずに、Arがイオン化装置24に供給(リーク)される。Arイオンのエネルギーは銃の主要部分を通過する間、数keVのエネルギーに維持することができ、対物レンズ32を通過する間に、所望の低エネルギーに抑えることができる。これにより、低エネルギーで、より高い電流密度を実現することが可能になる。イオン銃はPAHモード操作と組み合わせると電子分光に非常に有益な貢献を示す。
【0067】
イオン銃は、(例えば「ガスモード」の際に)イオン化装置にガス(つまり、室温で気体状である分子)を運ぶガス供給手段を有することが適切である。ガスはAr、O2、及びSF6のうちから選択することが適切である。
【0068】
装置は第1(PAH)モードと第2(ガス)モードとの間で操作を切り替えるイオンビーム制御器を有することが適切である。イオンビーム制御器は、コンピュータ、若しくはイオン銃を制御するのに用いられる他の制御装置であることが望ましい。
【0069】
図2で示した実施例では、加熱室22はPAHを含む。加熱室22には必要なPAHを追加供給することができる。
【0070】
PAHは、上で概説した、イオンビーム生成に必要な段階を容易に実現できるという点で特に有益である。実際、PAHイオンビームの生成はC60と比較してかなりエネルギー効率がよく、技術的にもより簡単になし得るかもしれない。PAHイオン銃が実際に使用された場合、装置のメンテナンス、使いやすさ、総合的な効率性の良さの面で非常に大きな利益をもたらし得る。
【0071】
図3及び図4で示されたスペクトルはクレイトス社製のAXIS Ultra装置を用いて得られた。この装置は、イオン銃に図2に関連して上で説明したPAHを含むように適合されている。
【0072】
XPSスペクトルを得るために、PAH(コロネン)を温度制御された加熱セルに入れ、加熱して気体状にした。気体はイオン化装置で電子衝撃によりイオン化され、電界を経由して、イオンビームの流束を収束させて制御するコンデンサーレンズ内に向けられた。その後イオンは、軸に沿って特定の速度のイオンを通過させるウィーンフィルタを通過した。イオン化されていない中性分子は中性粒子フィルタでビームから分離された。その後、フィルタを通過したイオンは、対物レンズによって小さなスポットに収束された。このスポットはその後、分析に必要な領域に適合したパターン(典型的には正方形か長方形のパターン)で、試料全域に亘って走査された。
【0073】
図3は、ポリエチレンテレフタレート(PET)基板に塗布されたPTFE層を含む試料を分析して得られた2つのXPSスペクトルを示している。具体的には、PET基板にPTFE層が機械的に塗布されている。
【0074】
スペクトルを得るために用いられた動作条件は以下の通りである。AlKαX線モノクロメータの動作は150Wで行われ、分析領域は110μm、半球型分析器の通過エネルギーは40eVであった。
【0075】
上のトレース線40は、PETの下層由来のよく知られた特徴的なスペクトル43に加え、PTFEの-CF2結合に特徴的な結合エネルギー291eVに化学的にシフトしたピーク42を有するスペクトルのC1s領域を示している。
【0076】
下のトレース線44は、12keVのコロネン(C24H12)で600秒間、スパッタした後に得られたものである。スペクトルから読み取れるように、PETから得られた特徴的なスペクトルは視覚的に変化が認められないのに対し、-CF2のピーク42は殆ど消失している。
【0077】
重要なことに、スペクトルには、コロネンのイオンビームによる汚染、又は偽層の形成のいずれの痕跡もない。この結果は、コロネンが下層の組成や構造を保護し、試料による汚染を防ぎつつも、試料表面の清浄(上部層の除去)に効果的であることを示している。
【0078】
図4は更に2つのXPSスペクトルを示している。これらは、乳酸・グリコール酸共重合体(PLGA)の薄層で被膜されたシリコンウェハーからなる試料から得られたものである。図3で示したと同様の操作条件が用いられた。
【0079】
上のトレース線50は、シリコンウェハー上のPLGA試料のXPSスペクトルのうち、炭素の1s領域である。観察されるピークは、予想通りPLGAに起因するものである。下のトレース線52は12keVのコロネン(C24H12+)イオンビームで試料表面から物質を200nmスパッタした後の同一のスペクトル領域である。これら2つのスペクトルを比較すると、PLGAの炭素原子の化学状態のタイプ及び比率に大きな変化がないことが明らかである。この結果は、PAHが下層に損傷を与えることなく試料表面から物質を効率的に除去することを示してしている。このことから、物質の層を連続的に除去することによって、試料の深さ方向の分析が可能になる。図4の2つのスペクトルから、PAHの顕著な堆積は発生していないことも分かる。
【0080】
PAHの予期せぬ優れた効能についての一つの可能性のある説明として、一次クラスターイオンのエネルギーが衝突する分子の構成原子の間で分かち合われている結果、クラスターイオンは10keVのエネルギーを持ち得る一方、例えばコロネンを構成する各々の炭素原子は400eV程度の比較的低エネルギーを持つということがいえる。従って、各々の衝突原子の表面への浸入深さが小さく、表面下のミキシング効果が最小限に抑えられている。以上によって、PAHを使用した際に観察された汚染や偽層の堆積がわずかであることが説明できるかもしれない。この点に関して言うと、PAHは一般的にコンパクトな構造をとるため、衝突によるクレーターが広がる領域は最小限に抑えられる。しかし、原子あたり同一のエネルギーのC60イオンと比較すると、そのエネルギーが衝突領域により均一に広がるため、浸入深さが減少するのかもしれない。実際、分子動力学に基づくシミュレーションによると、C60クラスターは表面へ衝突する際、2つのより小さなクラスターに分裂することができ、その内の一つが表面内のより深部に浸入する。PAHの芳香族炭素の、より開放的で平面的な構造によって、この浸食作用の深さが減じられているのかもしれない。

【特許請求の範囲】
【請求項1】
試料に照射する高エネルギー粒子源、試料から放出された電子を検出する電子検出システム、及び試料に多環式芳香族炭化水素(PAH)イオンビームを供給するイオン銃を含む電子分光装置であって、前記イオン銃は多環式芳香族炭化水素イオン源を有する電子分光装置。
【請求項2】
PAHがプリ・フォーム、即ち粉状又は繊維状の固体としてイオン源に供給される前記請求項に記載の電子分光装置。
【請求項3】
PAHが5〜20の芳香環を有する請求項1又は2に記載の電子分光装置。
【請求項4】
PAHが5〜15の芳香環を有する請求項2に記載の電子分光法装置。
【請求項5】
PAHが5〜10の芳香環を有する請求項4に記載の電子分光装置。
【請求項6】
PAHが6〜8の芳香環を有する請求項5に記載の電子分光装置。
【請求項7】
PAHがコロネンである請求項6に記載の電子分光装置。
【請求項8】
先行する請求項のうちのいずれか1項に記載の電子分光装置であって、前記イオン源はPAHの気相分子を生成する気体発生器、及びPAHの気相分子をイオン化するイオン化装置を有するものである電子分光装置。
【請求項9】
前記気体発生器は加熱室を有する、請求項8に記載の電子分光装置。
【請求項10】
前記加熱室は100℃〜300℃の範囲で運転するのに適合している請求項8に記載の電子分光装置。
【請求項11】
前記イオン化装置は電子衝撃イオン化装置を有する、請求項8又は9のいずれかに記載の電子分光装置。
【請求項12】
前記イオン銃は気体をイオン化装置に供給する手段を有する請求項8〜11のいずれか1項に記載の電子分光装置。
【請求項13】
前記気体はAr、O2、及びSF6の中から選択される、請求項12に記載の電子分光装置。
【請求項14】
当該装置は第1のPAHイオンビームモードと第2の気体イオンビームモードとを切り替えるためのイオンビーム制御器を有する、先行する請求項のうちのいずれか1項に記載の電子分光装置。
【請求項15】
前記イオン銃はイオンをイオン源から加速させるイオン引出装置を有する、先行する請求項のうちのいずれか1項に記載の電子分光装置。
【請求項16】
前記イオン銃はイオンを収束、及び/又は軸合わせするためのイオン光学素子を有する、先行する請求項のうちのいずれか1項に記載の電子分光装置。
【請求項17】
前記イオン銃は質量フィルタを有する先行する請求項のうちのいずれか1項に記載の電子分光装置。
【請求項18】
前記質量フィルタがウィーンフィルタである、請求項17に記載の電子分光装置。
【請求項19】
前記イオン銃は中性粒子を除去するイオン分離器を有する、先行する請求項のうちのいずれか1項に記載の電子分光装置。
【請求項20】
前記イオン銃は質量フィルタリング、及び/又はイオン分離されたイオンを収束させる第2のイオン光学素子を有する、請求項17〜19のいずれか1項に記載の電子分光装置。
【請求項21】
前記イオン銃はイオンを試料の異なる領域上に向けるイオン走査器を有する、先行する請求項のうちのいずれか1項に記載の電子分光装置。
【請求項22】
前記イオン銃は異なる荷電状態のイオンを供給するのに適合している、先行する請求項のうちのいずれか1項に記載の電子分光装置。
【請求項23】
前記電子検出システムは電子エネルギー分析器を有する、先行する請求項のうちのいずれか1項に記載の電子分光装置。
【請求項24】
前記電子エネルギー分析器は半球型分析器を有する、請求項23に記載の電子分光装置。
【請求項25】
前記電子エネルギー分析器は球面鏡分析器を有する、請求項23又は24に記載の電子分光装置。
【請求項26】
前記電子検出システムはチャネルトロン又はマイクロチャネルプレート電子検出器を有する、先行する請求項のうちのいずれか1項に記載の電子分光装置。
【請求項27】
前記検出器は遅延線検出器の読み出し器を有する、請求項26に記載の電子分光装置。
【請求項28】
前記装置は真空室を有する、先行する請求項のうちのいずれか1項に記載の電子分光装置。
【請求項29】
前記真空室は超高真空室である、請求項21に記載の電子分光装置。
【請求項30】
前記電子検出システムは、運動エネルギー、及び/又は電子数を検出するのに適合している、先行する請求項のうちのいずれか1項に記載の電子分光装置。
【請求項31】
当該装置はXPS装置である、先行する請求項のうちのいずれか1項に記載の電子分光装置。
【請求項32】
当該装置はPES装置である、請求項1〜30のいずれか1項に記載の電子分光装置。
【請求項33】
試料に高エネルギー粒子を照射する段階、及び試料から放出された電子を検出する段階を有する電子分光法であって、前記方法は多環式芳香族炭化水素イオンビームを試料上に向ける段階を有する電子分光法。
【請求項34】
前記PAHイオンビームは2〜20keVのエネルギーを有する、請求項33に記載の電子分光法。
【請求項35】
前記PAHイオンビームは5〜15keVのエネルギーを有する、請求項34に記載の電子分光法。
【請求項36】
前記PAHイオンビームはPAHを加熱することによって発生する、請求項33〜35のいずれか1項に記載の電子分光法。
【請求項37】
当該方法は、PAHイオンビームで試料から物質の表面層を除去する段階を有する、請求項33〜36のいずれか1項に記載の電子分光法。
【請求項38】
PAHイオンビームで試料から物質の表面層を繰り返し除去する段階を含む、請求項37に記載の電子分光法。
【請求項39】
前記方法はスパッタを用いた深さ方向分析方法である、請求項33〜38のいずれか1項に記載の電子分光法。
【請求項40】
前記方法はPAHイオンビームで試料表面を清浄する段階を含む、請求項33〜39のいずれか1項に記載の電子分光法。
【請求項41】
前記高エネルギー粒子は光子である、請求項33〜40のいずれか1項に記載の電子分光法。
【請求項42】
前記光子はX線及び紫外線放射から選択される、請求項41に記載の電子分光法。
【請求項43】
請求項1〜32のいずれか1項に記載の装置で用いる多環式芳香族炭化水素イオン銃。
【請求項44】
前記イオン銃は請求項1〜22のいずれか1項で定義された、請求項43に記載の多環式芳香族炭化水素イオン銃。
【請求項45】
前記イオン銃はPAHイオンビーム及び気体イオンビームを供給するのに適合している、請求項43又は44に記載の多環式芳香族炭化水素イオン銃。
【請求項46】
前記イオン銃は、PAHの気相を生成する加熱室と、PAHの気相をイオン化するイオン化装置と、室温の気体をイオン化装置に供給する気体供給手段とを有する、請求項43〜45のいずれか1項に記載の多環式芳香族炭化水素イオン銃。
【請求項47】
前記の室温の気体は、Ar、O2、及びSF6の中から選択される、請求項46に記載の多環式芳香族炭化水素イオン銃。
【請求項48】
電子分光法による試料分析方法における多環式芳香族炭化水素の利用。
【請求項49】
請求項1〜32のいずれか1項で定義された装置の製造方法における多環式芳香族炭化水素の利用。
【請求項50】
請求項43〜47のいずれか1項で定義されたイオン銃の製造方法における多環式芳香族炭化水素の利用。
【請求項51】
請求項33〜42のいずれか1項に記載の方法を遂行できるように電子分光装置を修正する方法。
【請求項52】
請求項51に記載の方法であって、当該方法は、請求項43〜47のいずれか1項に記載の多環式芳香族炭化水素イオン銃を装置に供給する段階を有する方法。


【図1】
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【図2】
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【図3】
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【図4】
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【公開番号】特開2010−25912(P2010−25912A)
【公開日】平成22年2月4日(2010.2.4)
【国際特許分類】
【外国語出願】
【出願番号】特願2008−261565(P2008−261565)
【出願日】平成20年10月8日(2008.10.8)
【出願人】(508302822)クレイトス アナリティカル リミテッド (2)
【氏名又は名称原語表記】Kratos Analytical Limited
【Fターム(参考)】