説明

低摩擦摺動部材

【課題】モリブデンを含まない潤滑油中において低摩擦係数を示す低摩擦摺動部材を提供する。
【解決手段】本発明の低摩擦摺動部材は、モリブデンを含まない潤滑油を用いた湿式条件で使用され、基材と該基材の表面に形成され相手材と摺接する非晶質硬質炭素膜とを備える。潤滑油は、SおよびPのうちの少なくとも一種ならびにZn、Ca、Mg、Na、BaおよびCuのうちの少なくとも一種を含有する。非晶質硬質炭素膜は、炭素を主成分とし、非晶質硬質炭素膜全体を100原子%としたときに、Hを5原子%以上25原子%以下含み、さらにB、Al、MnまたはMoを所定量含むことを特徴とする。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、潤滑油を用いた湿式条件下で使用される低摩擦摺動部材に関するものである。
【背景技術】
【0002】
資源保護および環境問題などの観点から、エンジンを構成するピストン、動弁系部品などの摺動部材では、摩擦によるエネルギー損失をできるだけ低減することが要求される。このため、従来から、摺動部材の摩擦係数の低減、耐摩耗性の向上などを図るべく、その摺動面に種々の表面処理が施されてきた。なかでも、ダイヤモンドライクカーボン(DLC)膜と呼ばれる非晶質硬質炭素膜は、摺動面の摺動性を高める皮膜として広く利用されている。
【0003】
たとえば、特許文献1には、珪素(Si)を含有するDLC(DLC−Si)膜を有する低摩擦摺動部材が記載されている。DLC−Si膜は、エンジン油のように添加剤を含有する潤滑油を用いた湿式条件下では十分な低摩擦が発現され難い。ところが、エンジン油中に水が存在することで、DLC−Si膜の表面にシラノール層(Si−OH層)を介して吸着水層が形成される。この吸着水層により、摩擦係数が低減される。
【0004】
また、Siに替えて金属元素を添加したDLC膜を備える摺動部材も開発されている。たとえば、引用文献2、3および4には、チタン(Ti)、クロム(Cr)、マンガン(Mn)、鉄(Fe)、ニッケル(Ni)、亜鉛(Zn)、ガリウム(Ga)、ニオブ(Nb)、モリブデン(Mo)またはタングステン(W)を添加したDLC膜を備える摺動部材が開示されている。このようなDLC膜を備える摺動部材は、添加剤を含む潤滑油中で摺動することで、DLC膜の表面に添加剤皮膜を形成して低摩擦係数を得ている。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0005】
【特許文献1】特開2005−336456号公報
【特許文献2】特開2001−316686号公報
【特許文献3】特開2004−115826号公報
【特許文献4】特開2005−256868号公報
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0006】
上述のように、金属元素を添加したDLC膜を備える摺動部材は、添加剤を含む潤滑油中で摺動される。たとえば、引用文献2の実施例では、Moを27原子%含むDLC膜を備える摺動部材(実施例1)、Moを40原子%含むDLC膜を備える摺動部材(実施例7)、をそれぞれ潤滑油中で摺動させる。実施例1および実施例7の摺動部材は、いずれも、鉱油にモリブデンジチオカーバメートを添加した潤滑油、つまりモリブデンを含む潤滑油中で摺動させると、低摩擦係数を示す。しかしながら、モリブデンが添加されていない従来のエンジンオイル中で摺動させると、モリブデンを含む潤滑油中で摺動させた場合よりも摩擦係数は上昇する(表1)。また、引用文献3においても、モリブデンジチオカーバメートを添加した潤滑油を使用している。すなわち、金属元素を含むDLC膜を備える従来の摺動部材の摩擦係数を低減させるには、モリブデンを含む潤滑油中での使用が前提となることが多い。しかしながら、重金属であるモリブデンを含む潤滑油の使用は、環境問題を引き起こす虞がある。そのため、モリブデンを含まない潤滑油中でも低摩擦係数を示す摺動部材が求められている。
【0007】
すなわち、本発明は、モリブデンを含まない潤滑油中において低摩擦係数を示す低摩擦摺動部材を提供することを目的とする。
【課題を解決するための手段】
【0008】
本発明者等は、モリブデンを含まない潤滑油を使用し、活性な(酸化しやすい)元素を含む各種DLC膜を備える摺動部材の摩擦係数について鋭意研究を行った。珪素のような半導体または金属元素を含むDLC膜を備える摺動部材のなかには、モリブデン以外の添加剤成分を含むエンジン油中で使用するよりも、添加剤を含まないベース油中で使用する方が、かえって低摩擦係数を示すものが多いことがわかった。しかし、それらの摺動部材をベース油中で使用した場合の摩擦係数は、十分な値ではなかった。さらに研究を進めた結果、DLC膜に添加する元素の種類によっては、モリブデンを含まないエンジン油中で使用しても、ベース油中よりも低摩擦係数を示すことがあることがわかった。そして本発明者は、この成果を発展させることで、以降に述べる種々の発明を完成させるに至った。
【0009】
すなわち、本発明の低摩擦摺動部材は、モリブデンを含まない潤滑油を用いた湿式条件で使用され、基材と該基材の表面に形成され相手材と摺接する非晶質硬質炭素膜とを備え、
前記潤滑油は、硫黄(S)およびリン(P)のうちの少なくとも一種ならびに亜鉛(Zn)、カルシウム(Ca)、マグネシウム(Mg)、ナトリウム(Na)、バリウム(Ba)および銅(Cu)のうちの少なくとも一種を合計で500ppmを超えて含み、
前記非晶質硬質炭素膜は、炭素(C)を主成分とし、該非晶質硬質炭素膜全体を100原子%としたときに、水素(H)を5原子%以上25原子%以下含み、硼素(B)を4原子%以上30原子%以下含むことを特徴とする。
【0010】
あるいは、上記非晶質硬質炭素膜の替わりに、炭素(C)を主成分とし、該非晶質硬質炭素膜全体を100原子%としたときに、水素(H)を5原子%以上25原子%以下含み、アルミニウム(Al)を7原子%以上20原子%以下含むことを特徴とする非晶質硬質炭素膜を備える低摩擦摺動部材であってもよい。
【0011】
あるいは、上記非晶質硬質炭素膜の替わりに、炭素(C)を主成分とし、該非晶質硬質炭素膜全体を100原子%としたときに、水素(H)を5原子%以上25原子%以下含み、マンガン(Mn)を5原子%以上20原子%以下含むことを特徴とする非晶質硬質炭素膜を備える低摩擦摺動部材であってもよい。
【0012】
あるいは、上記非晶質硬質炭素膜の替わりに、炭素(C)を主成分とし、該非晶質硬質炭素膜全体を100原子%としたときに、水素(H)を5原子%以上25原子%以下含み、モリブデン(Mo)を7原子%以上20原子%以下含むことを特徴とする非晶質硬質炭素膜を備える低摩擦摺動部材であってもよい。
【発明の効果】
【0013】
本発明の低摩擦摺動部材は、Moを含まず、SおよびPのうちの少なくとも一種ならびにZn、Ca、Mg、Na、BaおよびCuのうちの少なくとも一種を含有する潤滑油を用いた湿式条件において、大幅に摩擦が低減される。このような摩擦の低減は、所定量のB、Al、MnまたはMoを含む非晶質硬質炭素膜の表面に、潤滑油に含まれるS、P等を含む添加剤が解離してなるイオンのうち、主として負イオンが、選択的に吸着あるいは反応して形成される境界膜によるものであると推測される。また、本発明の低摩擦摺動部材は、DLC膜のH含有量を5〜25原子%とすることで、低摩擦特性のみならず耐摩耗性にも優れるため、長期にわたって低摩擦が維持される。
なお、本明細書では、潤滑油中の添加剤が解離してなるイオンが膜表面に吸着あるいは膜表面で反応することを「吸着する」、そのようなイオンを「吸着物」と略記することもある。
【0014】
本発明の低摩擦摺動部材は、酸素含有量を好ましくは6原子%未満さらに好ましくは3原子%未満とすることで、摩擦低減効果が良好に発現する。
【図面の簡単な説明】
【0015】
【図1】ブロック・オン・リング型摩擦試験機の概略図である。
【図2】種々の低摩擦摺動部材について、モリブデンを含まないエンジン油を使用した摩擦試験における摩擦係数の測定結果を示すグラフである。
【図3】本発明の低摩擦摺動部材について、ベース油またはモリブデンを含まないエンジン油を使用した摩擦試験における摩擦係数の測定結果を示すグラフである。
【図4】種々の摺動部材について、ベース油またはモリブデンを含まないエンジン油を使用した摩擦試験における摩擦係数の測定結果を示すグラフである。
【図5】炭素および水素からなる非晶質炭素膜(DLC膜)を備える摺動部材に対し、エンジン油中で摩擦試験を行った後の摺動部の表面に吸着した吸着物を分析した結果を示す。
【図6】珪素を含むDLC膜を備える摺動部材に対し、エンジン油中で摩擦試験を行った後の摺動部の表面に吸着した吸着物を分析した結果を示す。
【図7】硼素を含むDLC膜を備える本発明の低摩擦摺動部材に対し、エンジン油中で摩擦試験を行った後の摺動部の表面に吸着した吸着物を分析した結果を示す。
【図8】アルミニウムを含むDLC膜を備える本発明の低摩擦摺動部材に対し、エンジン油中で摩擦試験を行った後の摺動部の表面に吸着した吸着物を分析した結果を示す。
【図9】チタンを含むDLC膜を備える摺動部材に対し、エンジン油中で摩擦試験を行った後の摺動部の表面に吸着した吸着物を分析した結果を示す。
【図10】モリブデンを含むDLC膜を備える本発明の低摩擦摺動部材に対し、エンジン油中で摩擦試験を行った後の摺動部の表面に吸着した吸着物を分析した結果を示す。
【図11】ステンレス鋼材からなる基材に対し、エンジン油中で摩擦試験を行った後の摺動部の表面に吸着した吸着物を分析した結果を示す。
【図12】硼素の含有量が異なるDLC膜を備える摺動部材に関し、エンジン油中で摩擦試験を行った後の摺動部の表面に吸着した吸着物を分析した結果を示す。
【図13】硼素を含むDLC膜を備える摺動部材の摩擦特性を示すグラフであって、硼素含有量に対する摩擦係数の変化を示す。
【図14】各種DLC膜を備える摺動部材のX線回折(XRD)測定の結果を示す。
【図15】硼素を含むDLC膜を備える本発明の低摩擦摺動部材の断面を透過電子顕微鏡(TEM)で観察した結果を示す。
【図16】硼素を含むDLC膜を備える本発明の低摩擦摺動部材の断面をTEM観察して得られた電子線回折像とその解析結果を示すグラフである。
【図17】チタンを含むDLC膜を備える摺動部材の断面をTEM観察して得られた電子線回折像とその解析結果を示すグラフである。
【図18】添加元素を含まないDLC膜を備える摺動部材の断面をTEM観察して得られた電子線回折像の解析結果を示すグラフである。
【発明を実施するための形態】
【0016】
以下に、本発明の低摩擦摺動部材を実施するための最良の形態を説明する。なお、特に断らない限り、本明細書に記載された数値範囲「x〜y」は、下限xおよび上限yをその範囲に含む。そして、これらの上限値および下限値、ならびに実施例中に列記した数値も含めてそれらを任意に組み合わせることで数値範囲を構成し得る。
【0017】
本発明の低摩擦摺動部材は、モリブデンを含まない潤滑油を用いた湿式条件で使用され、基材と該基材の表面に形成され相手材と摺接する非晶質硬質炭素膜(DLC膜)とを備える。以下に、基材、非晶質硬質炭素膜および潤滑油について説明する。
【0018】
<基材>
基材の材質は、摺動部材として使用できれば特に限定されるものではない。金属、セラミックス、樹脂から選ばれる材料を用いればよい。たとえば、炭素鋼、合金鋼、鋳鉄、アルミニウム合金、チタン合金などの金属製基材、超鋼、アルミナ、窒化珪素などのセラミックス製基材、ポリイミド、ポリアミドなどの樹脂製基材、等が挙げられる。
【0019】
基材の表面粗さは、少なくともDLC膜が成膜される表面において、JISに規定の算術平均粗さ(Ra)で0.1μm以下さらには0.04μm以下、0.01μm以下とすることが好ましい。また、基材とDLC膜との密着性の観点から、基材は、その表面に中間層を有してもよい。
【0020】
なお、非晶質硬質炭素膜が摺接する相手材は、炭素鋼、合金鋼、鋳鉄、アルミニウム合金、チタン合金などの金属、超硬合金、アルミナ、窒化珪素などのセラミックス、ポリイミド、ポリアミドなどの樹脂、等が好適である。また、相手材の表面にも、以下に詳説するDLC膜と同様の皮膜を形成すると、より摩擦係数が低減され好適である。
【0021】
<非晶質硬質炭素膜>
DLC膜は、炭素(C)を主成分とし、水素(H)を含み、硼素(B)、アルミニウム(Al)、マンガン(Mn)またはモリブデン(Mo)を含む。なお、これらの元素を含むDLC膜は、炭素と反応して炭化物を形成している可能性もあるが、その構造は全体として非晶質であるのが好ましい。
【0022】
本発明の低摩擦摺動部材は、炭化物を実質的に含まないDLC膜を備えるとよい。特にB、AlまたはMnは炭化物を形成しにくい元素であるため、DLC膜の成膜条件によっては炭化物を実質的に含まないDLC膜の形成が可能である。潤滑油中のイオンは炭化物に吸着したり炭化物と反応したりし易いため、DLC膜に炭化物が存在すると、DLC膜の表面への均一な境界膜の形成が妨げられるため好ましくない。さらに、DLC膜は、配向性が低いのが好ましい。配向性のないDLC膜には、潤滑油中の添加剤がイオンとなって膜表面に均一に吸着し、良好な境界膜が形成されるためである。
【0023】
なお、「炭化物を実質的に含まない」とは、たとえば、DLC膜のX線回折から炭化物の存在を示すピークが得られない、または、透過電子顕微鏡(TEM)の電子線回折像から炭化物の存在を示すスポットやリングが観察されない、ことである。あるいは、高分解能のTEMを用いて150万倍以上の高倍率でDLC膜を観察したときに、TEM像に炭化物が検出されないことである。また、「配向性が低い」とは、電子線回折像におけるグラファイトの(002)面に帰属する回折リングがほぼ真円になることである。配向性を定量的に規定するのは困難であるが、たとえばスパッタリング法により成膜した各種DLC膜を比較した場合、本発明の低摩擦摺動部材が備えるDLC膜は、実質的に炭素と水素とからなる他のDLC膜が示す(002)配向よりも配向性が低いとよい。
【0024】
ただし、本発明の低摩擦摺動部材が備えるDLC膜がMoを含む場合には、炭化物(MoC)を含むDLC膜であるとよい。Moを含むDLC膜は、B、AlまたはMnを含むDLC膜と同様に摺接時の表面に負イオンが優先的に存在するが、本発明者等の研究によって、摺接時に膜表面に形成される境界膜は硫化モリブデン(MoS)膜であることがわかった。つまり、Moを含むDLC膜の表面に存在する負イオンのうち、MoCに吸着したSが反応してMoS膜を形成すると考えられる。MoSは、層状構造をもつ潤滑膜であるため、摩擦の低減に効果を発揮する。
【0025】
B含有量は、DLC膜全体を100原子%としたときに、4〜30原子%である。B含有量が4原子%未満では、負イオンの選択的な吸着が行われにくいため、後に詳説するMoを含まない潤滑油において低摩擦を発現することができない。また、B含有量が30原子%を超えるDLC膜の成膜が困難であるため、B含有量は20原子%以下さらには15原子%以下が実用的である。好適なB含有量は、4〜14原子%さらには4.2〜12.3原子%である。
【0026】
Al含有量は、DLC膜全体を100原子%としたときに、7〜20原子%である。Al含有量が7原子%未満では、負イオンの選択的な吸着が行われにくいため、後に詳説するMoを含まない潤滑油において低摩擦を発現することができない。また、Al含有量が20原子%を超えると、Moを含まない潤滑油において低摩擦を発現することができないばかりか、DLC膜の硬さが低下して耐摩耗性が低下する。好適なAl含有量は、10〜18原子%、12〜15原子%さらには13.7〜14.1原子%である。
【0027】
Mn含有量は、DLC膜全体を100原子%としたときに、5〜20原子%である。Mn含有量が5原子%未満では、負イオンの選択的な吸着が行われにくいため、後に詳説するMoを含まない潤滑油において低摩擦を発現することができない。また、Mn含有量が20原子%を超えると、Moを含まない潤滑油において低摩擦を発現することができないばかりか、DLC膜の硬さが低下して耐摩耗性が低下する。好適なMn含有量は、7〜18原子%、10〜15原子%さらには13.5〜13.9原子%である。
【0028】
Mo含有量は、DLC膜全体を100原子%としたときに、7〜20原子%である。Mo含有量が7原子%未満では炭化物が不足してMoS膜が十分に形成されず、後に詳説するMoを含まない潤滑油において低摩擦を発現することができない。また、Mo含有量が20原子%を超えると、炭化物の含有割合が増加して、潤滑油中の正イオンをも吸着するため、Moを含まない潤滑油において低摩擦を発現することができない。好適なMo含有量は、8〜15原子%、9〜13原子%さらには10.5〜10.9原子%である。
【0029】
なお、B、Al、MnまたはMoを含むDLC膜は、耐摩耗性、耐食性、耐熱性などの特性を付与することを目的として、他の半導体および金属元素を含んでもよい。具体的には、B、Al、Mn、Mo、Si、Ti、Cr、W、V、Ni等である。ただし、これらの添加元素は、B、Al、MnまたはMoの摩擦低減効果に悪影響を与えない程度の添加量、具体的には8原子%未満さらには4原子%未満に規制する必要がある。
【0030】
H含有量は、DLC膜全体を100原子%としたときに、5〜25原子%である。H含有量が少ない程DLC膜は硬くなるが、H含有量が5原子%未満の場合には、DLC膜と基材との密着力およびDLC膜の靱性が低下する。そのため、H含有量を8原子%以上さらには10原子%以上とすると好適である。H含有量が25原子%を超えると、DLC膜の硬さが軟質となり、耐摩耗性が低下する。そのため、H含有量を23原子%以下さらには21原子%以下とすると好適である。
【0031】
また、DLC膜は酸素(O)を含んでもよいが、O含有量は、DLC膜全体を100原子%としたときに、6原子%未満さらには3原子%未満に規制されるのが望ましい。たとえば、特許文献3では、金属元素とともに酸素を比較的多く含有するDLC膜の表面には、潤滑剤に含まれる添加剤が吸着しやすいことが記載されている。しかし、酸素を多く添加するとDLC膜のネットワーク構造が崩れるおそれがあり、その結果、DLC膜の硬さが低くなり耐摩耗性を低下させる。本発明の低摩擦摺動部材では、既に述べたように、添加剤由来の負イオンが選択的にDLC膜の表面に吸着あるいは反応して形成される境界膜により低摩擦が発現する。この低摩擦の発現メカニズムは、従来とは異なるため、本発明の低摩擦摺動部材では、DLC膜が酸素を含有しなくてもよい。
【0032】
DLC膜の表面粗さは、JIS B 0031(1994)に規定の算術平均粗さ(Ra)で0.05μm以下さらには0.02μm以下、0.01μm以下が好ましい。Raが0.05μmを超えると潤滑油による潤滑割合の増加は期待できず、摩擦係数を低減することが困難となる。一方、Raが小さすぎると、潤滑油にS、P等を含む添加剤が含まれていてもDLC膜の表面に吸着しにくくなる。そのため、Raは0.001μm以上さらには0.005μm以上が好ましい。
【0033】
DLC膜の硬さは、特に限定されるものではないが、耐摩耗性等を考慮した場合には、12GPa以上が好ましく、13GPa以上、14GPa以上さらには15GPa以上であるとよい。しかし、DLC膜が硬すぎても膜の割れおよび剥離の原因となるため、DLC膜の硬さの上限を規定するのであれば、35GPa以下が好ましく、32GPa以下さらには30GPa以下であるとよい。DLC膜の弾性率は、特に限定されるものではないが、耐摩耗性等を考慮した場合には、100GPa以上さらには115GPa以上、130GPa以上であるとよい。しかし、DLC膜の弾性率が高すぎても膜の割れおよび剥離の原因となるため、DLC膜の弾性率の上限を規定するのであれば、300GPa以下が好ましく、280GPa以下さらには250GPa以下であるとよい。本明細書では、非晶質硬質炭素膜の硬さおよび弾性率の値として、ナノインデンター試験機(株式会社ハイジトロン製トライボスコープ)による測定値を採用する。また、耐久性の観点から、DLC膜は厚い方が望ましいが、0.5〜7μmさらには1〜3μmとするとよい。
【0034】
<潤滑油>
本発明の低摩擦摺動部材は、潤滑油を用いた湿式条件で使用される。潤滑油は、Moを含まず、SおよびPのうちの少なくとも一種ならびにZn、Ca、Mg、Na、BaおよびCuのうちの少なくとも一種を含有する。これらの元素は、ベース油に添加される添加剤に含まれる。主な添加剤としては、アルカリ土類金属系添加剤であるCa−スルホネート、Mg−スルホネート、Ba−スルホネート、Na−スルホネートなど、極圧添加剤であるりん酸エステル、亜りん酸エステル、亜鉛ジアルキルジチオフォスフェート(Zn−DTP)など、が挙げられる。また、無灰分散剤であるコハク酸イミド、コハク酸エステルなど、上記の元素を含まない添加剤を含んでもよい。すなわち、本発明の低摩擦摺動部材の表面には、負イオンとして、S、PO、PO、SO、SO、PO、PSO、CNO等が吸着あるいは反応して境界膜を形成する。潤滑油は、DLC膜が形成された本発明の低摩擦摺動部材の摺動の際に、少なくともその摺動面に供給されればよい。
【0035】
SおよびPのうちの少なくとも一種ならびにZn、Ca、Mg、Na、BaおよびCuのうちの少なくとも一種は、潤滑油全体を100質量%としたときに、合計で500ppm(0.05質量%)を超えて含まれるのが望ましい。本発明者等は、DLC膜の表面への負イオンの優先的な吸着および反応は、負イオンを形成する元素(SおよびPからなる群)が潤滑油に含まれてさえいればよいわけではなく、負イオンを形成する元素とともに正イオンを形成する元素(Zn、Ca、Mg、Na、BaおよびCuからなる群)が含まれることで、摩擦低減効果が発揮されることを突き止めた。これらの元素の含有量が少なくとも500ppmであれば、潤滑油にMoが含まれていなくても摩擦低減効果が発現する。なお、これらの元素は化合物の形態でベース油に添加されるが、本明細書に記載の含有量は、潤滑油全体を100質量%としたときに、それぞれの元素に換算した量とする。ベース油は、通常用いられる植物油、鉱油または合成油であればよい。また、Moは、潤滑油に全く含まれない(0ppm)のが望ましいが、潤滑油全体を100質量%としたときに、10ppm以下であれば不可避不純物として許容される。
【0036】
具体的には、潤滑油として、ATF(オートマチック・トランスミッションオイル)、CVTF(無段変速機オイル)、ギヤ油などの駆動系油、ガソリン、軽油などの燃料油、エンジン油などが挙げられる。これらのうちには、極圧剤などとしてモリブデン化合物が添加されている場合が多々あるが、本発明においては、そうしたMo成分を含まないものに限る。
【0037】
なお、添加剤としてモリブデン化合物を含む従来の潤滑油中で摺動を行う際には、潤滑油に含まれるMoおよびSからなるMoS膜が摺動面に形成されて、摩擦が低減される。しかし、モリブデン化合物を含む潤滑油中で摺動時に形成されたMoS膜は、潤滑油の温度が80〜100℃程度において摩擦低減効果を発揮するものであり、それ以下の温度では摩擦低減効果が発揮されないと言われている。本発明の低摩擦摺動部材は、摩擦低減の要因となる境界膜の形成メカニズムが、モリブデン化合物を含む潤滑油中で形成されるMoS膜の形成メカニズムと全く異なる。そのため、本発明の低摩擦摺動部材は、80℃未満の低温においても摩擦低減効果を発揮する可能性がある。また、本発明の低摩擦摺動部材のうち、Moを含むDLC膜を備える場合にも、摺動時の膜表面にMoS膜が形成される。しかし、このMoS膜は、既に詳説したように、モリブデン化合物を含む潤滑油中で形成されるMoS膜とは異なるメカニズムで形成された膜である。そのため、Moを含むDLC膜を備える本発明の低摩擦摺動部材は、80℃未満の低温においても摩擦低減効果を発揮する可能性がある。
【0038】
<低摩擦摺動部材の製造方法>
先に説明したDLC膜は、各種スパッタリング法、特に、マグネトロンスパッタリング法の中でもアンバランスドマグネトロンスパッタリング(UBMS)法により成膜されるのが望ましい。UBMS法は、ターゲットに印加する磁場のバランスを意図的に崩して被処理体(基材)へのイオン入射を強めた方法である。ターゲット蒸発面近傍から、基材の近傍に伸びる磁力線にトラップされた電子により、原料ガスのイオン化が促進されるとともに反応が進みやすくなる。加えて、基材に対して多くのイオンが入射するため、緻密なDLC膜を効率よく成膜することができる。
【0039】
本発明の低摩擦摺動部材をUBMS法により製造する際には、炭素源としてC含有ターゲット、添加元素源としてB含有ターゲット、Al含有ターゲット、Mn含有ターゲット、およびMo含有ターゲットを用いる。さらに、処理ガスとして、スパッタガスとしての希ガスおよび水素源としてのH含有ガスを、反応容器中に導入する。C含有ターゲットとしては、グラファイトターゲット(望ましくは純度が99.9%以上)が望ましい。B含有ターゲット、Al含有ターゲット、Mn含有ターゲット、およびMo含有ターゲットとしては、それぞれの元素の単体ターゲット(望ましくは純度が99.9%以上)あるいは炭化物ターゲットが望ましい。スパッタガスとしては、希ガスから選ばれる一種以上を用いればよく、たとえば、アルゴン(Ar)ガス、ヘリウム(He)ガス、窒素(N)ガスなどである。H含有ガスとしては、メタン(CH)、アセチレン(C)、ベンゼン(C)などの炭化水素系ガスのうちの一種以上を用いるとよいが、主にDLC膜の酸化を防止することを目的として、炭化水素系ガスとともに、水素(H)ガスを導入してもよい。これらのガスの流量は、希ガスを200〜500sccm、炭化水素ガスを10〜25sccmとするとよい。希ガスおよび炭化水素ガスに加え、Hガスを1sccm以上、さらには10〜25sccm導入することにより、膜中の酸素含有量の低減および不純物の混入を防止することができる。なお、単位:sccmは、大気圧(1013hPa)、室温での流量である。
【0040】
また、DLC膜への酸素の混入を低減させるために、成膜前にチャンバー内を10−5Pa以下まで真空排気するのが望ましい。さらに、成膜前の前処理工程として、チャンバー内に水素ガスを導入することにより、成膜前のチャンバー内に残存する酸素および水分量を大幅に減少させることが可能となる。そして、上述のように、成膜時に水素ガスを導入することで、DLC膜の酸素含有量はさらに低下する。その一方、これらの処理を行うことで、膜中の水素含有量が増加する。水素含有量が増加するとDLC膜の硬さが低下する傾向にあることから、DLC膜の物性に応じてHガスの導入量を制御する必要がある。
【0041】
成膜されるDLC膜の構造は、成膜温度に影響を受ける。B、AlおよびMnは炭化物を形成しにくいため、成膜温度を300℃以下さらには150〜250℃で成膜することで、炭化物を実質的に含まず配向性の低いDLC膜が得られる。MoはB等よりも炭化物を形成し易いが、上記の温度で成膜を行うことで微細な炭化物を含むMo含有DLC膜が得られる。なお、成膜温度は、成膜中の基材の表面温度であって、熱電対または放熱温度計により測定可能である。
【0042】
また、成膜されるDLC膜の構造は、イオンの入射エネルギーを決める基材のバイアス電圧に影響を受ける。B、AlおよびMnは炭化物を形成しにくいが、バイアス電圧の影響により炭化物が形成されやすくなる。そのため、基材に印加するバイアス電圧は、100〜500Vの負のバイアス電圧とすることが望ましい。MoはB等よりも炭化物を形成し易いが、上記の範囲のバイアス電圧で成膜を行うことで微細な炭化物を含むMo含有DLC膜が得られる。
処理ガス圧は、0.5〜1.5Paとするのが望ましい。また、ターゲットに印可する電力は1kW〜3kW、基板近傍の磁場の強度は6〜10mTとするのが有効である。
【0043】
なお、Mo含有ターゲット、Al含有ターゲットおよびMn含有ターゲットは、スパッタリングされやすいが、B含有ターゲットはスパッタリングされにくい。DLC膜中のB、Mo、AlまたはMnの含有量を制御するときには、出力および磁場の強度の最適化が必要である。
【0044】
以上説明したUBMS法の他、アークイオンプレーティング(AIP)法によってDLC膜を成膜してもよい。なお、AIP法は、真空中に大電流(40〜80A)が流れるアーク放電を生じさせて、各ターゲットからCおよびB等を蒸発させた後、反応容器内に導入された処理ガスと反応させて、DLC膜を基材の表面に成膜する方法である。
【0045】
以上、本発明の低摩擦摺動部材の実施形態を説明したが、本発明は、上記実施形態に限定されるものではない。本発明の要旨を逸脱しない範囲において、当業者が行い得る変更、改良等を施した種々の形態にて実施することができる。
なお、本発明の低摩擦摺動部材は、Moを含まない潤滑油中で既に説明した相手材と摺接させることを特徴とする摺動方法として捉えることも可能である。
【実施例】
【0046】
以下に、本発明の低摩擦摺動部材の実施例を挙げて、本発明を具体的に説明する。
【0047】
上記実施形態に基づいて、基材の表面に種々の非晶質炭素膜を形成し、摺動部材を作製した。そして、それぞれの摺動部材について異なる二種類の潤滑油を用いた摺動試験を行い、各部材の摩擦特性を評価した。以下、摺動試験および摩擦特性の評価について説明する。
【0048】
<基材>
基材として鋼材(マルテンサイト系ステンレス鋼:SUS440C)を準備した。基材は、6.3mm×15.7mm×10.1mmであり、表面硬さ:HRC60、表面粗さ:Ra0.005μmであった。
【0049】
<非晶質炭素膜の成膜>
基材の表面に、アンバランスドマグネトロンスパッタリング装置(株式会社神戸製鋼所製UBMS504)を用い、添加元素の種類および添加量の異なる非晶質炭素膜を成膜した。装置内には、基材を配設するとともに、グラファイトターゲットおよび添加元素の単体からなるターゲット(たとえば、添加元素がBであれば純硼素ターゲット、添加元素がAlであれば純アルミニウムターゲット)を装置に付属のマグネトロンに一つずつ載置した。このとき、各ターゲットの表面と基材の成膜面とが向かい合うようにした。基材の表面からターゲットの表面までの距離は100〜800mmであった。なお、マグネトロンは、各ターゲットの裏側に位置し、外側磁極(強磁場)と内側磁極(弱磁場)とからなる。それらのバランスを意図的に崩す(非平衡磁場)ことで、外側磁極からの磁力線の一部が基板まで伸び、プラズマの一部が磁力線に沿って基板近傍まで拡散し易くなる。
【0050】
《中間層の形成》装置内を排気し、純クロムターゲットをArガスでスパッタし、基材の表面に柱状晶のCr膜を形成した。さらに、CHガスを導入し、Cr膜の表面にCr−C系膜を形成した。こうして、合計の厚さが厚さ0.8μm程度の中間層を形成した。
【0051】
《DLC膜の形成》装置内を1×10−5Paまで排気し、その後、200sccmのArガス、10sccmのCHガスおよび1sccmのHガスを導入した。このときの装置内のガス圧は、0.7Paであった。次に、電源装置により、グラファイトターゲットに2.5kW、添加元素を含むターゲットに添加量に応じて1.0kW〜2.5kWをそれぞれ印加することにより、ターゲットをプラズマ放電させた。成膜条件は、基材に対するバイアス電圧:−100V、成膜温度(基材の表面温度):200℃、成膜時間:120分、とした。こうして、中間層の表面に膜厚1.5μmのDLC膜を成膜した。
【0052】
上記の手順で、添加元素として所定量のBを含むDLC−B膜、Alを含むDLC−Al膜、Mnを含むDLC−Mn膜およびMoを含むDLC−Mo膜、を形成して#05、#06、#B1、#B2、#10、#18、#23および#24の摺動部材を得た。また、添加元素の含有量の異なるDLC−B膜、DLC−Al膜、DLC−Mn膜およびDLC−Mo膜、さらに、マグネシウム(Mg)、チタン(Ti)、バナジウム(V)またはニッケル(Ni)を添加元素としたDLC−Mg膜、DLC−Ti膜、DLC−V膜およびDLC−Ni膜、添加元素を含まないDLC膜、を形成して、比較例の摺動部材を得た。なお、珪素(Si)を添加元素としたDLC−Si膜は、直流プラズマCVD法により形成した。
【0053】
<皮膜の組成と機械的特性の測定>
上記手順で得られた摺動部材(試料#00〜#24、#B1および#B2)について、各種DLC膜の組成、表面の硬さ、弾性率および表面粗さを測定した。
【0054】
それぞれのDLC膜の硬さおよび弾性率は、ナノインデンター試験機(株式会社東陽テクニカ製MTS)による測定値から算出した。表面粗さは、非接触の表面形状測定機(Zygo社製NewView5000)により測定した。
【0055】
それぞれのDLC膜中の添加元素および酸素の含有量は、電子プローブ微小部分析法(EPMA)、X線光電子分光法(XPS)、オージェ電子分光法(AES)、ラザフォード後方散乱法(RBS)により定量した。また、膜中のH含有量は、弾性反跳粒子検出法(ERDA)により定量した。ERDAは、2MeVのヘリウムイオンビームを膜表面に照射して、被膜からはじき出される水素を半導体検出器により検出し、被膜中の水素濃度を測定する方法である。測定結果を表1に示す。
【0056】
【表1】

【0057】
なお、表1において*で示す箇所に値は明記されていないが、いずれのDLC膜にも酸素はほとんど含まれておらず、酸素含有量は3原子%未満であった。具体的には、添加元素の含有量が15原子%以下のときの酸素含有量は0.8原子%以下であり、添加元素の含有量が16原子%を超えても酸素含有量は2%以下であった。なお、表1において「<0.1」とは、分析感度以下の酸素しか含まない、つまり酸素量が0.1原子%未満であることを示す。
【0058】
添加元素を含まないDLC膜(#00)は、水素を20原子%含むが、非常に硬い膜であった。添加元素を含む#01〜#24、#B1および#B2の試料では、各DLC膜の硬さは、#00のものよりも軟質であった。そして、添加元素の添加量が多い程DLC膜の硬さは低下する傾向にあった。弾性率に関しても、同様であった。
【0059】
硼素を含有するDLC膜に関しては、他の添加元素に比べ、少量の添加でもDLC膜の硬さおよび弾性率に影響しやすいことがわかった。DLC−B膜の耐摩耗性の観点からは、B含有量を13原子%以下とすることで、15GPa以上の硬さが維持された。
【0060】
<摩擦係数の測定>
ブロック・オン・リング型摩擦試験機(FALEX社製LFW−1型試験機)を用いて摩擦試験を行い、表1に示した#00〜#24の各試料の摩擦特性を評価した。図1にブロック・オン・リング型摩擦試験機の構成を示す。図1に示すように、ブロック・オン・リング型摩擦試験機は、ブロック試験片1と、相手材となるリング試験片2と、から構成される。ブロック試験片1は、表1に示す各試料のいずれかであり、基材1sおよび皮膜1fからなる。リング試験片2はSAE4620浸炭鋼であり、外径φ35mm幅8.8mmのリング状(外周面の十点平均粗さRz1.3μm)を呈する。リング試験片2は、その外周面21がブロック試験片1の皮膜1fの表面に当接する状態で設置される。
【0061】
摩擦試験は、リング試験片2にブロック試験片1を荷重130N(最大ヘルツ面圧:210MPa)で押圧した状態で、リング試験片2を図1の矢印方向に回転させて行った。回転数は160rpm(0.3m/秒)とした。リング試験片2は、その半分程度が油槽3に満たされた潤滑油L(80℃)に入っている。リング試験片2が回転すると、ブロック試験片1との摺動部には、潤滑油が供給される。このように、ブロック試験片1とリング試験片2とを30分間摺動させた。摩擦係数は、試験終了直前に測定した。
【0062】
潤滑油には、(1)Moを含まないエンジン油、(2)添加剤を一切含まないベース油(無添加鉱油)、を用いた。いずれの潤滑油も、粘度グレード5W−30であった。なお、(1)のエンジン油は、添加剤としてCa−スルホネート、Zn−DTPおよびコハク酸イミドを含み、油中金属成分の分析結果および潤滑油メーカーの配合データから、エンジン油を100質量%としたとき、元素に換算して、S、P、ZnおよびCaを合計で500ppm以上含むことを確認した。これ以後、(1)の潤滑油を「エンジン油」、(2)の潤滑油を「ベース油」と略記する。
【0063】
図2に、試料#00〜#24および基材(SUS440C)のエンジン油中での摩擦試験の結果(摩擦係数)をそれぞれ示す。Moを含まないエンジン油中では、皮膜をもたない場合(SUS440C)には、摩擦係数が0.1を超えて高かった。SUS440Cに各種DLC膜を成膜することで摩擦係数は低下した。さらに、添加元素を含むDLC膜を備える試料#01〜24は、CおよびHからなるDLC膜を備える試料#00と同等、あるいはそれ以下の摩擦係数を示した。
【0064】
DLC−Mg膜を備える試料#07および#08、DLC−Ti膜を備える試料#12〜15、DLC−V膜を備える試料#16および#17またはDLC−Ni膜を備える試料#20および#21は、添加元素の添加量を変えても、摩擦係数に際立った変化は見られなかった。しかしながら、DLC−B膜を備える試料#02〜06では、#05および#06の摩擦係数は顕著に小さい値であった。DLC−Al膜を備える試料#09〜11では、#10の摩擦係数は顕著に小さい値であった。Mnを13.7原子%含むDLC−Mn膜を備える試料#18は、Mnを28.1原子%含むDLC−Mn膜を備える試料#19よりも非常に小さい摩擦係数を示した。また、DLC−Mo膜を備える試料#22〜24では、#23および#24の摩擦係数が小さく、Moを10.7原子%含む試料#23は、特に小さい摩擦係数を示した。
【0065】
図3に、エンジン油中で非常に小さい摩擦係数を示した試料#05、#06、#10および#18のベース油中での摩擦試験の結果(摩擦係数)を、エンジン油中での結果とともに示す。いずれの試料においても、ベース油中での摩擦係数よりも、エンジン油中での摩擦係数の方が小さい値を示した。また、図4に、SUS440C、試料#01、#03、#09、#14および#23のベース油中での摩擦試験の結果(摩擦係数)を、エンジン油中での結果とともに示す。試料#01および#14では、エンジン油中での摩擦係数よりも、ベース油中での摩擦係数の方が小さい値を示した。また、#03および#09においても、エンジン油よりもベース油中での摩擦係数の方が小さくなるという同様の結果が得られた。図3および図4に示されるこれらの結果は、DLC膜に所定の割合のB、AlまたはMnを含む図3に示された本発明の低摩擦摺動部材と、図4に示された他のDLC膜を備える摺動部材と、で摩擦低減のメカニズムが異なることを示唆している。
【0066】
<摩擦試験後の非晶質炭素膜の表面分析>
境界摩擦の低減要因を調べるため、試料#00、#01、#03、#06、#B1、#10、#13、#23および基材(SUS440C)について、エンジン油中での摩擦試験後の表面の吸着物を分析した。吸着物の分析は、二次イオン質量分析(TOF−SIMS)により行った。図5〜図12に、吸着物の分析結果をそれぞれ示す。各図において、点線で囲まれた領域が、リング試験片と摺接した摺動部に相当する。なお、図5〜図11において分析した各成分の後に括弧書きで示す数値および図12の写真左下の数値は、測定した表面全体を100としたときの各成分の質量割合を示す。しかし、各成分が多く存在するのは明るく見える箇所であるため、図中の数値と摺動面のみにおける成分の質量割合とは異なる。
【0067】
図11は、摩擦試験後の基材の表面分析結果を示しており、Ca、Zn、SおよびPOが多く検出された。これは、基材であるステンレス鋼の表面に無機被膜(FeS)が形成され、その表面にCa、Zn、SおよびPOが吸着したことを示す。無機被膜は、耐焼付き性を付与し安定した摩擦係数が得られる。ところが、表面にDLC膜をもたない基材は、摩擦係数が0.1を超えた。これは、無機被膜の剪断力が影響して、吸着物により形成される境界膜による摩擦低減効果が発現しなかったと考えられる。
【0068】
図6は、DLC−Si膜表面の分析結果である。図6では、Ca、Zn、Sが多く検出された。また、図9は、6.3Ti−DLC膜表面の分析結果である。図9では、Caが多く検出された。これらのDLC膜の表面には正イオンが検出されたため、摩擦係数が0.07程度と高かった。
【0069】
図7は、6.4B−DLC膜表面の分析結果である。また、図8は、13.9Al−DLC膜表面の分析結果である。図7および図8では、CaおよびZnはあまり検出されなかった。つまり、6.4B−DLC膜および13.9Al−DLC膜の表面には、Ca、Zn等が吸着するための無機被膜が形成されなかったと考えられる。しかし、いずれにおいても、SおよびPOが多く検出された。さらに詳細な分析によると、6.4B−DLC膜の表面にはPO、SO、CNO、13.9Al−DLC膜の表面にはPSO、SO、CNO、が多く検出された。すなわち、これらの膜表面には、負イオンのみが選択的に吸着あるいは反応し、それにより形成された境界膜により摩擦係数が0.04以下の低摩擦が発現した。
【0070】
図10は、10.7Mo−DLC膜表面の分析結果である。図10では、CaおよびZnはあまり検出されなかった。つまり、10.7Mo−DLC膜の表面には、Ca、Zn等の正イオンが吸着されなかったと考えられる。一方、SおよびPOが多く検出された。さらに、X線光電子分光法(XPS)を用いた分析により、10.7Mo−DLC膜の表面にMoSが生成していることがわかった。つまり、潤滑油にモリブデン化合物が含まれない場合であっても、摺接時に、適量のMoを含有するDLC膜の表面にはMoS膜が生成されることがわかった。
【0071】
図12には、Bの含有量の異なるB−DLC膜表面の分析結果をまとめて示した。正イオン(CaおよびZn)も負イオン(SおよびPO)もいずれも検出された#03は、0.08程度の高摩擦係数を示した。一方、#06および#B1では、#03と比較して、正イオンの検出は減少し、負イオンの検出が目立った。#06および#B1は、負イオンを選択的に吸着し、その結果、摩擦係数が低減したと考えられる。つまり、B含有量を適切な範囲とすることで、膜表面に負イオンが選択的に吸着あるいは反応し、それにより形成された境界膜により低摩擦が発現した。
【0072】
なお、図5は、添加元素を含まないDLC膜表面の分析結果である。図5では、CaおよびZnはあまり検出されなかった。また、SおよびPOも、あまり検出されなかった。
【0073】
<硼素含有DLC膜のB含有量と摩擦係数について>
B含有量の異なるB−DLC膜を有する試料#B1および#B2に対して、試料#02〜#06と同様の摩擦試験を行い、摩擦係数を測定した。結果を図13に示す。
【0074】
B含有量が4.4〜13.5原子%で摩擦係数が0.04以下となった。また、図12の表面分析の結果より、B含有量がこの範囲にあれば、膜表面に負イオンが選択的に吸着あるいは反応して低摩擦をもたらす境界膜が形成されたものと考えられる。
【0075】
<X線回折測定と透過電子顕微鏡観察>
上記手順で作製したうちのいずれかのDLC膜について、XRD測定を行った。また、試料#00、#06および#13が備えるDLC膜の構造を、TEMを用いて調べた。なお、TEMには、日本電子株式会社製JEM−2010Fを用いた。XRD測定結果を図14、TEMによる観察結果および電子線回折像の解析結果を図15〜18に示した。
【0076】
図16〜図18に示した電子線回折像の解析方法について説明する。電子線回折像は、DLC膜の断面において厚さ方向の中央部に電子線を照射して得た。得られた電子線回折パターンの強度を、回折リングの半径に一致する異なる二方向(図のHおよびV)に沿って、それぞれ解析ソフトを用いて測定した。測定結果を、横軸を透過波と回折波との距離(r:単位はnm−1)、縦軸を強度としてグラフに示した。なお、JCPDSカードに記載されているグラファイトおよびTiCの面間隔をPDF番号とともに図17に示した。r(nm−1)および面間隔d(nm)は、d=r−1の関係にあるため、JCPDSカードに記載の面間隔と照合することで、特定のd値の回折リングの帰属を知ることができる。
【0077】
図14に見られるFeのピークは、基材から検出されたものである。そのため、いずれの膜も非晶質構造であることがわかった。しかし、Moを含むDLC膜を備える#23および#24の試料では、MoCの回折線が認められ、炭化物の形成が確認された。なお、図示しないが、MnあるいはBを含むDLC膜を備える試料のXRD測定では、炭化物の存在は確認されなかった。つまり、特に低い摩擦係数を示したB、AlまたはMnを含むDLC膜を備える試料では、DLC膜は、炭化物を含まず、全体に均一に元素が分散した非晶質膜であることが確認された。
【0078】
図15の左上図は、試料#06の断面構造を示す。ここで、B−DLC膜の表面に形成された保護膜は、断面観察用TEM試料の作製のために形成されたAl膜およびW膜である。また、図15の右下図は、B−DLC膜の部分をさらに高倍率で観察した結果とともに、電子線回折パターンを示す。いずれの観察結果からも、炭化物の存在は認められなかった。さらに、図15の電子線回折像の解析結果を示した図16のグラフから、V方向、H方向ともにr値が大きくなるにしたがい強度がなだらかに減少するとともに、V方向とH方向とで電子線回折パターンの強度に差がないことから、B−DLC膜は炭化物を含まず配向性が無いことがわかった。
【0079】
比較のため、図17に、試料#13が備える6.3Ti−DLC膜についても、電子線回折像およびその解析結果を示した。図17のグラフには、r=2.803付近でV方向とH方向とで電子線回折パターンの強度に差が認められた。JCPDSカードに記載の面間隔と照合すると、グラファイトの(002)面に帰属することから、Ti−DLC膜は(002)配向であることがわかった。また、r=4.072、4.601および6.452の付近では、回折リングに相当する強度の揺らぎが見られた。JCPDSカードに記載の面間隔と照合すると、それぞれ、TiCの(111)、(200)および(220)面に帰属することから、Ti−DLC膜には炭化物の微粒子が存在することがわかった。つまり、Ti−DLC膜は、TiCの存在により正イオンが吸着しやすく、非晶質相の配向性によりイオンの均一吸着が妨げられたため、摩擦の低減効果が得られなかった。
【0080】
なお、図18は、試料00が備えるDLC膜の電子線回折像およびその解析結果である。このDLC膜は、主として炭素および水素からなりB等の添加元素を含まない。図18のグラフには、r=2.803付近でV方向とH方向とで電子線回折パターンの強度に差が認められた。つまり、このDLC膜は(002)配向であることがわかった。B、AlまたはMnを添加することで、DLC膜の配向性が低減されることがわかった。
【0081】
以上の通り、本発明の低摩擦摺動部材は、Moを含まない潤滑油を用いた湿式条件下で使用されても、低摩擦、摩擦係数にして0.06以下、0.05以下さらには0.04以下を示した。

【特許請求の範囲】
【請求項1】
モリブデンを含まない潤滑油を用いた湿式条件で使用され、基材と該基材の表面に形成され相手材と摺接する非晶質硬質炭素膜とを備える低摩擦摺動部材であって、
前記潤滑油は、硫黄(S)およびリン(P)のうちの少なくとも一種ならびに亜鉛(Zn)、カルシウム(Ca)、マグネシウム(Mg)、ナトリウム(Na)、バリウム(Ba)および銅(Cu)のうちの少なくとも一種を合計で500ppmを超えて含み、
前記非晶質硬質炭素膜は、炭素(C)を主成分とし、該非晶質硬質炭素膜全体を100原子%としたときに、水素(H)を5原子%以上25原子%以下含み、硼素(B)を4原子%以上30原子%以下含むことを特徴とする低摩擦摺動部材。
【請求項2】
モリブデンを含まない潤滑油を用いた湿式条件で使用され、基材と該基材の表面に形成され相手材と摺接する非晶質硬質炭素膜とを備える低摩擦摺動部材であって、
前記潤滑油は、硫黄(S)およびリン(P)のうちの少なくとも一種ならびに亜鉛(Zn)、カルシウム(Ca)、マグネシウム(Mg)、ナトリウム(Na)、バリウム(Ba)および銅(Cu)のうちの少なくとも一種を合計で500ppmを超えて含み、
前記非晶質硬質炭素膜は、炭素(C)を主成分とし、該非晶質硬質炭素膜全体を100原子%としたときに、水素(H)を5原子%以上25原子%以下含み、アルミニウム(Al)を7原子%以上20原子%以下含むことを特徴とする低摩擦摺動部材。
【請求項3】
モリブデンを含まない潤滑油を用いた湿式条件で使用され、基材と該基材の表面に形成され相手材と摺接する非晶質硬質炭素膜とを備える低摩擦摺動部材であって、
前記潤滑油は、硫黄(S)およびリン(P)のうちの少なくとも一種ならびに亜鉛(Zn)、カルシウム(Ca)、マグネシウム(Mg)、ナトリウム(Na)、バリウム(Ba)および銅(Cu)のうちの少なくとも一種を合計で500ppmを超えて含み、
前記非晶質硬質炭素膜は、炭素(C)を主成分とし、該非晶質硬質炭素膜全体を100原子%としたときに、水素(H)を5原子%以上25原子%以下含み、マンガン(Mn)を5原子%以上20原子%以下含むことを特徴とする低摩擦摺動部材。
【請求項4】
モリブデンを含まない潤滑油を用いた湿式条件で使用され、基材と該基材の表面に形成され相手材と摺接する非晶質硬質炭素膜とを備える低摩擦摺動部材であって、
前記潤滑油は、硫黄(S)およびリン(P)のうちの少なくとも一種ならびに亜鉛(Zn)、カルシウム(Ca)、マグネシウム(Mg)、ナトリウム(Na)、バリウム(Ba)および銅(Cu)のうちの少なくとも一種を合計で500ppmを超えて含み、
前記非晶質硬質炭素膜は、炭素(C)を主成分とし、該非晶質硬質炭素膜全体を100原子%としたときに、水素(H)を5原子%以上25原子%以下含み、モリブデン(Mo)を7原子%以上20原子%以下含むことを特徴とする低摩擦摺動部材。
【請求項5】
前記非晶質硬質炭素膜の酸素(O)含有量は、6原子%未満である請求項1〜4のいずれかに記載の低摩擦摺動部材。
【請求項6】
前記非晶質硬質炭素膜の酸素(O)含有量は、3原子%未満である請求項5に記載の低摩擦摺動部材。
【請求項7】
前記非晶質硬質炭素膜の配向性は、スパッタリング法で成膜され主として炭素と水素とからなる別の非晶質炭素膜が有するグラファイトの(002)配向よりも配向性が低い請求項1〜6のいずれかに記載の低摩擦摺動部材。
【請求項8】
前記非晶質硬質炭素膜は、炭化物を実質的に含まない請求項1、2または3に記載の低摩擦摺動部材。
【請求項9】
前記非晶質硬質炭素膜は、モリブデン炭化物を含む請求項4記載の低摩擦摺動部材。
【請求項10】
前記非晶質硬質炭素膜は、摺接時にその表面に硫化モリブデン膜が生成される請求項4または8記載の低摩擦摺動部材。
【請求項11】
前記非晶質硬質炭素膜の硬さは、12GPa以上である請求項1〜10のいずれかに記載の低摩擦摺動部材。
【請求項12】
請求項1〜11のいずれかに記載の低摩擦摺動部材を前記潤滑油中で相手材と摺接させることを特徴とする摺動方法。

【図1】
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【図3】
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【図4】
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【図2】
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【図5】
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【図6】
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【図7】
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【図8】
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【図9】
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【図10】
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【図11】
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【図12】
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【図13】
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【図14】
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【図15】
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【図16】
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【図17】
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【図18】
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【公開番号】特開2011−26591(P2011−26591A)
【公開日】平成23年2月10日(2011.2.10)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2010−151579(P2010−151579)
【出願日】平成22年7月2日(2010.7.2)
【出願人】(000003609)株式会社豊田中央研究所 (4,200)
【出願人】(000003207)トヨタ自動車株式会社 (59,920)
【Fターム(参考)】