説明

被覆部材およびその製造方法

【課題】オーステナイト組織を有するステンレス鋼からなる母材を加工後、窒化処理を施しても母材と同程度の耐食性を示す基材をもつ被覆部材およびその製造方法を提供することを目的とする。
【解決手段】オーステナイト組織を有するステンレス鋼からなる母材を加工した加工材の表層部を窒化してなり、所定の条件の自然浸漬電位測定で−200mVより貴の自然浸漬電位を示す基材と、該表層部の表面の少なくとも一部に被覆された無機被膜と、を備える。基材は、母材を加工することで加工誘起マルテンサイトが生成した加工材から加工誘起マルテンサイトを減少させる工程、あるいは、母材をステンレス鋼のMd30よりも30℃以上高い温度で温間加工または熱間加工して加工材とする工程を経て、該加工材に窒化処理を行い窒化層を形成することで得られる。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、ステンレス鋼からなる基材の表面に被膜をもつ被覆部材およびその製造方法に関し、特に、オーステナイト系ステンレス鋼からなる基材の表面処理に関する。
【背景技術】
【0002】
ステンレス鋼は、Crを約12mass%以上含む低炭素の鉄基合金である。ステンレス鋼は、表面に安定な不動態被膜を形成して安定化するため、優れた耐食性を示す。不動態被膜の形成に深く関わる合金元素はクロム(Cr)であり、Cr濃度が12mass%を超えると急激に耐食性が向上し、環境によってはほとんど腐食しなくなる。ステンレス鋼のなかでも、オーステナイト系ステンレス鋼は、高温および低温における化学的・機械的性質が安定であるため、建築内外装材、車両、各種化学プラント等、極めて広範囲に用いられている。しかしながら、オーステナイト系ステンレス鋼であっても、使用する環境によっては腐食するため、さらなる耐食性の向上が求められている。ステンレス鋼の耐食性を向上させる方法の一例として、ステンレス鋼の表面に耐食性の高い非晶質炭素(ダイヤモンドライクカーボン:DLC)膜等の被膜を形成することが挙げられる。
【0003】
ステンレス鋼からなる基材の表面に被膜を形成する場合には、基材と被膜との密着性を高めるために、基材に窒化処理が行われる。たとえば、特許文献1には、オーステナイト系ステンレス鋼製の基材を転造加工してから窒化処理を行い、その表面にDLC膜を形成した塗工用ロッドが開示されている。ところが、このロッドを腐食が発生しやすい環境下で使用すると、未処理のオーステナイト系ステンレス鋼が腐食しないような使用環境であっても、DLC膜が剥離する。これは、窒化された基材に腐食が発生し、基材とDLC膜との界面で錆が体積膨張してDLC膜を浮き上がらせたためである。すなわち、基材を窒化する条件によっては、オーステナイト系ステンレス鋼の耐食性は低下する。
【0004】
そこで、特許文献2には、耐食性を向上させるために、オーステナイト系ステンレス鋼を固溶化熱処理した後、表面を研削し、被処理面にオーステナイト組織が現れるようにした状態で浸炭処理および窒化処理して得られるオーステナイト系ステンレス鋼の表面構造が開示されている。また、非特許文献1には、オーステナイト系ステンレス鋼を窒化処理して、耐食性に優れる「S相」を表面に生成させる条件として、S相中にCrの化合物が析出しないように、450℃以下の低温で窒化を行うことが記載されている。
【特許文献1】特開2004−344759号公報
【特許文献2】特開2005−272978号公報
【非特許文献1】市井、外3名,「オーステナイト系ステンレス鋼の低温窒化」,表面技術,2003年,第54巻,第3号,p.28−31
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0005】
本発明者等は、オーステナイト系ステンレス鋼を加工する際に生成する加工誘起マルテンサイトに注目した。特許文献1および特許文献2では、オーステナイト系ステンレス鋼を転造加工したり研削したりすることで、加工誘起マルテンサイトが生成される。本発明者等は、後に詳説するように、マルテンサイト組織の存在により窒化処理後のステンレス鋼の耐食性が低下すると考えた。そのため、非特許文献1に記載のように、450℃以下の低温で窒化を行ったとしても、窒化されるオーステナイト系ステンレス鋼の状態によっては、窒化処理後の耐食性は低下するという問題がある。
【0006】
本発明は、上記問題点に鑑み、オーステナイト組織を有するステンレス鋼からなる母材を加工後、窒化処理を施しても母材と同程度の耐食性を示す基材をもつ被覆部材およびその製造方法を提供することを目的とする。
【課題を解決するための手段】
【0007】
本発明の被覆部材は、オーステナイト組織を有するステンレス鋼からなる母材を加工した加工材の表層部を窒化してなり、40℃に保持した5mass%塩化ナトリウム水溶液中で塩化銀からなる参照電極を用いて測定した自然浸漬電位測定で−200mVより貴の自然浸漬電位を示す基材と、該表層部の表面の少なくとも一部に被覆された機能性被膜と、を備えることを特徴とする。
【0008】
本発明の被覆部材の製造方法は、オーステナイト組織を有するステンレス鋼からなる母材を加工することで加工誘起マルテンサイトが生成した加工材から加工誘起マルテンサイトを減少させる前処理工程と、該加工材に窒化処理を行い窒化層を形成する窒化処理工程と、該窒化層の表面に機能性被膜を形成する被膜形成工程と、よりなることを特徴とする。
【0009】
本発明の被覆部材の製造方法において、前記前処理工程は、加工誘起マルテンサイトが表面側で濃化して生成した前記加工材の表面部を除去する工程であるのが望ましい。もしくは、前記前処理工程は、前記加工材を固溶化熱処理することで加工誘起マルテンサイトをオーステナイト化する工程であるのが望ましい。
【0010】
また、本発明の被覆部材の製造方法は、オーステナイト組織を有するステンレス鋼からなる母材をステンレス鋼のMd30よりも30℃以上高い温度で温間加工または熱間加工して加工材とする加工工程と、該加工材に窒化処理を行い窒化層を形成する窒化処理工程と、該窒化層の表面に機能性被膜を形成する被膜形成工程と、よりなることを特徴とする。
【発明の効果】
【0011】
本発明の被覆部材は、上記の条件で測定した自然浸漬電位が−200mVより貴の電位を示す基材の表面に機能性被膜が被覆された高耐食性の被覆部材である。すなわち、基材は、母材を加工してから窒化しても、耐食性が高く保たれる。本発明の被覆部材は、基材の耐食性が高いため、基材の腐食に伴う機能性被膜の剥離も低減され、その結果、高い耐食性が維持される。
【0012】
なお、基材の耐食性は、後に詳説するように、主として、上記の加工材の表層部(すなわち窒化される部位)に存在するマルテンサイトの量に影響される。本発明の被覆部材では、加工材の表層部に存在するマルテンサイトの量を示す指標として、基材の自然浸漬電位を用いる。
【0013】
また、本発明の被覆部材の製造方法によれば、窒化処理工程の前に、加工誘起マルテンサイトが生成した加工材から加工誘起マルテンサイトを減少させる(前処理工程)、もしくは、オーステナイト組織を有するステンレス鋼からなる母材をステンレス鋼のMd30よりも30℃以上高い温度で温間加工または熱間加工する(加工工程)。前処理工程または加工工程により、窒化層が形成される部位に存在する加工誘起マルテンサイトを低減することで、窒化処理後の基材の耐食性の低下が抑制される。
【発明を実施するための最良の形態】
【0014】
以下、本発明の被覆部材およびその製造方法について詳細に説明する。
【0015】
図1は、オーステナイト系ステンレス鋼からなる母材を加工した加工材を窒化して得られる従来の基材を模式的に示す断面図である。オーステナイト系ステンレス鋼からなる母材を加工することで、剪断変形を助けるような応力が母材に作用すると、オーステナイト組織からなる母材の一部がマルテンサイト組織へと変態する「応力誘起変態」(「歪誘起変態」「加工誘起変態」ともいう)が起こることが知られている。加工材に窒化処理を施すと加工材の表層部が窒化され、窒化層10が形成されるが、加工材の表層部には応力誘起変態により誘起したマルテンサイト(加工誘起マルテンサイト)が存在する。マルテンサイト組織では、窒素原子が浸入しやすく窒化の進行が速いため、表層部に拡散した窒素はステンレス鋼の合金元素であるクロムと結合し、クロム、窒素、炭素の複合化合物15を形成しやすい。そのため、複合化合物15の周囲は、クロムが減少した低クロム層16となる。低クロム層16では、母材のステンレス鋼よりもクロム濃度が低下し、クロム濃度が12mass%に満たない部分は、もはやステンレス鋼ではないため、安定な不動態被膜は形成されず腐食が進行する起点となる。その結果、基材1の耐食性は、母材や加工材の耐食性よりも低下する。
【0016】
一方、本発明の被覆部材は、オーステナイト組織を有するステンレス鋼からなる母材を加工した加工材の表層部を窒化してなる基材を備えるが、基材は、40℃に保持した5mass%塩化ナトリウム水溶液中で塩化銀からなる参照電極を用いて測定した自然浸漬電位測定で−200mVより貴の自然浸漬電位を示す。すなわち、本発明の被覆部材を構成する基材は、優れた耐食性を示す。基材が−200mVより貴の自然浸漬電位を示すのは、基材の表層部に存在するクロム濃度の低い部位(低クロム層)が少ないためである。クロム濃度の低い部位は、窒化される加工材の表層部に存在するマルテンサイトの量が低減するほど形成され難くなる。加工材の表層部に存在するマルテンサイトの量が低減された基材は−200mVより貴の自然浸漬電位を示し、好ましくは−150mVよりも貴、さらに好ましくは−100mVよりも貴の自然浸漬電位を示す。なお、基材の作製方法および自然浸漬電位の測定方法は、後述する。
【0017】
母材は、オーステナイト組織を有するステンレス鋼からなる。母材を構成するステンレス鋼としては、冷間加工により加工誘起マルテンサイトを生成するステンレス鋼であってもよいが、加工誘起マルテンサイトの生成量をできるだけ抑制したいため、オーステナイト組織の相安定性が高いステンレス鋼であるのが好ましい。オーステナイト組織の相安定性は、たとえば、Ms点やMd30で表される。なお、Ms点は、マルテンサイト変態の開始する温度、Md30は、加工誘起マルテンサイトの生成され易さを推定する指標であって引張真歪0.3に対して50%の加工誘起マルテンサイトが生じる温度、である。Ms点およびMd30は、ステンレス鋼の組成から以下の数式を用いてそれぞれ求めることができる。
【0018】
【数1】

【0019】
【数2】

【0020】
なお、上記の数式において、たとえば「%C」と表されるのはステンレス鋼を100mass%としたときのステンレス鋼に含まれる炭素の割合(単位:mass%)であって、他の元素も同様である。ここで、組成の異なるA、BおよびCの3種類のオーステナイト系ステンレス鋼板(厚さ0.15mm)を固溶化熱処理した後、室温で20%板厚減少の圧延を施した加工材の加工誘起マルテンサイトの量を測定すると、表1の結果が得られる。
【0021】
加工誘起マルテンサイトの量の測定には、SUS304の100%加工誘起マルテンサイトの飽和磁化を150emu/gとし、印加磁場18.8kOe(15MA/m)での被測定物(加工材)の磁化の値との比から推定する方法を用いることができる。被測定物の飽和磁化σs[emu/g]は、振動試料型磁力計(本測定では東英工業株式会社製VSM−3S−15)を用い、印加磁場を最大18.8kOe(15MA/m)で掃印して測定できる。マルテンサイト量は、以下の式より算出される。
マルテンサイト量[%]=(σs/150)×100
たとえば、被測定物のσsが30emu/gであれば、マルテンサイト量は20%となる。
【0022】
【表1】

【0023】
なお、表1には、上記の数式を用いて算出したMs点およびMd30の値を合わせて示す。Ms点とMd30は、その値が小さい程、加工誘起マルテンサイトの生成量が抑制される。すなわち、母材は、Ms点であれば0℃以下さらには−100℃以下、Md30であれば90℃以下さらには50℃以下であるオーステナイト系ステンレス鋼であるのが好ましい。具体的には、JISに規格化されている18%Cr−8%Niを基本組成とするオーステナイト系ステンレス鋼であるのが好ましく、SUS301、SUS304、SUS316等が挙げられる。
【0024】
また、Crは、基材の耐食性に関わる合金元素である。基材を構成するステンレス鋼のCr量は、加工材に生成されるマルテンサイト組織の量にもよるが、ステンレス鋼を100mass%としたときに12mass%以上、さらには15mass%以上、17mass%以上であるのが好ましい。Cr量が上記の範囲であれば、−200mVより貴の自然浸漬電位を示す耐食性に優れた基材が得られる。
【0025】
本発明の被覆部材は、上記基材と、基材の表層部の表面の少なくとも一部に被覆された機能性被膜と、を備える。機能性被膜は、基材の表層部すなわち窒化により形成された窒化層の表面の少なくとも一部に被覆される。機能性被膜は、非晶質炭素膜、窒化クロム膜、窒化チタン膜および金属被膜のうちの1種または2種以上であるのが好ましい。機能性被膜は、無機被膜やCrやNi等の金属被膜などであればよいが、少なくとも耐食性を有する被膜であるのが好ましい。特に好ましくは、非晶質炭素膜(DLC膜)、窒化クロム膜、窒化チタン膜などが挙げられる。これらの被膜であれば、基材の耐食性が高く維持される。特にDLC膜は、耐摩耗性、固体潤滑性などの機械的特性に優れ、耐食性のほか、絶縁性、可視光/赤外光透過率、酸素バリア性などを合わせもつため、DLC膜を被覆した本発明の被覆部材には、耐食性に加えて他の特性も付与される。
【0026】
機能性被膜の膜厚に特に限定はないが、たとえばDLC膜であれば、0.05〜50μmであるのが好ましい。DLC膜の膜厚がこの範囲にあれば、優れた耐食性を発揮するとともに、基材との密着性にも優れる。
【0027】
本発明の被覆部材の製造方法は、前処理工程または加工工程と、窒化処理工程と、被膜形成工程と、よりなる。本発明の被覆部材の製造方法は、表層部を窒化する前の加工材を、加工誘起マルテンサイトが無いあるいは少ない状態とすることで、窒化処理による耐食性の低下を抑制するものである。そのため、オーステナイト組織を有するステンレス鋼からなる母材を加工することで加工誘起マルテンサイトが生成した加工材から加工誘起マルテンサイトを減少させる前処理工程、あるいは、オーステナイト組織を有するステンレス鋼からなる母材をステンレス鋼のMd30よりも30℃以上高い温度で温間加工または熱間加工して加工材とする加工工程、を行う。
【0028】
前処理工程は、母材を加工することで加工誘起マルテンサイトが生成した加工材から加工誘起マルテンサイトを減少させる工程である。母材は、転造加工、プレス加工などの塑性加工、切削加工、研削加工、剪断加工などの一般的な加工法で加工されればよいが、加工誘起マルテンサイトの生成量は、加工条件によっても変化する。そのため、加工誘起マルテンサイトが生成されにくい条件で加工を行うのが望ましい。得られる加工材には、加工誘起マルテンサイトが生成するが、加工材の表面側で濃化して存在するのが一般的である。
【0029】
加工材から加工誘起マルテンサイトを減少させる方法としては、加工材の表面部を除去する方法がある。たとえば、切削加工のような表面加工の場合には、加工誘起マルテンサイトは加工材の表面側で濃化して生成するため、加工材の表面部を除去することで、後の窒化処理工程で窒化される表層部の加工誘起マルテンサイトを減少させることができる。加工材の表面部を除去する際には、加工材の表面から数μmまでを除去すればよいため、基材に大きな寸法変化が生じることがない。また、表面部のみを除去すればよく、加工材全体を処理する必要がないため加工材の変形も抑制される。
【0030】
加工材の表面部を除去するには、酸を用いて表面部を溶解するとよい。具体的には、電解溶解または化学溶解により表面部を溶解して除去する方法が挙げられる。特に、電解研磨または化学研磨であれば、研磨により加工材に応力が作用することがなく、加工誘起マルテンサイトが生成されることがないため望ましい。また、表面粗さも小さく抑えられる(十点平均粗さRzjisで0.1〜3μm)。電解研磨や化学研磨は、ステンレス鋼の表面処理として通常行われている条件で行えばよい。
【0031】
前処理工程で除去される表面部は、0.1〜20μmさらには1〜20μmの厚みで除去されるのが望ましい。また、加工材から加工誘起マルテンサイトを減少させる方法として、加工材を固溶化熱処理することで加工誘起マルテンサイトをオーステナイト化する方法を用いてもよい。固溶化熱処理は、たとえば、950〜1150℃で1分以上保持した後、低温に急冷するとよい。
【0032】
本発明の被覆部材の製造方法では、上記の前処理工程を、母材をステンレス鋼のMd30よりも30℃以上高い温度で温間加工または熱間加工して加工材とする加工工程とすることもできる。加工工程では、加工誘起マルテンサイトが生成され難い温度条件で母材が加工される。温間加工または熱間加工の温度は、加工される母材の合金組成にもよるが、Md30よりも30℃以上さらには60℃以上高い温度で加工するのが望ましい。加工方法に特に限定はなく、転造加工、プレス加工などの塑性加工、切削加工、研削加工、剪断加工などが挙げられる。
【0033】
なお、前処理工程および加工工程において用いられる母材に関しては、既に述べた通りである。
【0034】
窒化処理工程は、加工材に窒化処理を行い窒化層を形成する工程である。前処理工程または加工工程を経た加工材では、窒化される表層部のほとんどをオーステナイト組織が占める。オーステナイト組織には窒化により窒素原子が固溶するが、上記の複合化合物は形成されにくい。そのため、前処理工程または加工工程を経た加工材を窒化処理して得られる基材は、Cr濃度の低い部分が形成されにくく、高い耐食性を示す。具体的には、基材は、40℃に保持した5mass%塩化ナトリウム水溶液中で塩化銀からなる参照電極を用いて測定した自然浸漬電位測定で−200mVより貴の自然浸漬電位、さらには、−150mV、−100mVよりも貴の自然浸漬電位を示すのが望ましい。
【0035】
窒化処理工程は、イオン窒化法、ガス窒化法または溶融塩窒化法により窒化処理する工程であるのが望ましく、ステンレス鋼の表面処理として通常行われている条件で行えば、いずれの方法を用いても所望の基材を作製することができる。たとえば、ガス窒化法であれば、アンモニアガスとともに不動態被膜を破壊する腐食性ガスを導入することで、低い処理温度でも加工材の表面に窒素が固溶する。また、溶融塩窒化法では、窒化物イオン(N3−)を含有する溶融塩を用いるが、この際、溶融塩を電解質として電気化学的に窒化処理を行うことで、ステンレス鋼の表面に不動態被膜があっても、非処理材の表層部に容易に窒化層を形成することができる。
【0036】
なお、窒化処理の処理温度に特に限定はないが、350〜600℃さらには370〜470℃で行われるのが望ましい。また、窒化深さにも特に限定はないが、0.1〜200μmさらには1〜50μmであるのが望ましい。窒化処理温度や窒化深さが上記の範囲であれば、基材の表面を十分な硬度にできるとともに、基材と機能性被膜との密着性の点で望ましい。
【0037】
被膜形成工程は、窒化層の表面に機能性被膜を形成する工程である。機能性被膜は、プラズマCVD法、イオンプレーティング法、スパッタリング法など、既に公知のCVD法、PVD法により形成することができる。しかし、スパッタリング法に代表されるように、PVD法は指向性の成膜方法である。よって、PVD法で均一に成膜するためには、装置内に複数のターゲットを配置したり成膜する基材を回転させたりすることが必要となる。その結果、成膜装置の構造が複雑化し、高価になる。また、PVD法では、複雑な形状の基材、たとえば、円筒形状の基材の内周面への成膜は容易ではない。
【0038】
一方、プラズマCVD法は、反応ガスにより成膜するため、複雑な形状のものにでも容易に成膜することができる。また、成膜装置の構造も単純で安価である。プラズマCVD法には、たとえば、高周波放電を利用する高周波プラズマCVD法や、直流放電を利用する直流プラズマCVD法等がある。特に、直流プラズマCVD法は、真空炉と直流電源とからなるシンプルな構成の成膜装置で実施できるため好適である。また、窒化処理工程がプラズマ窒化処理法により窒化処理する工程であれば、真空炉内に導入するガスの種類を変更するのみで、同じ装置を用いて窒化処理工程と被膜形成工程とを行うことができる。
【0039】
たとえば、非晶質炭素膜を、直流プラズマCVD法により成膜する場合には、まず、真空容器内に基材を配置して、反応ガスおよびキャリアガスを導入する。そして、放電により反応ガス中のプラズマイオンを基材に付着させればよい。反応ガスには、メタン(CH)、アセチレン(C)等の炭化水素ガス、珪素を含む非晶質炭素膜(DLC−Si膜)を成膜するのであれば、TMS[Si(CH]、SiH、SiCl、SiH等の珪素化合物ガスを用い、キャリアガスには水素ガス、アルゴンガス等を用いればよい。
【0040】
なお、機能性被膜の成膜温度に特に限定はないが、600℃以下が望ましい。また、機能性被膜の成膜時間は、所望の膜厚に応じて適宜選択すればよい。
【0041】
以上、本発明の被覆部材およびその製造方法の実施形態を説明したが、本発明の被覆部材およびその製造方法は、上記実施形態に限定されるものではない。本発明の被覆部材およびその製造方法は、本発明の要旨を逸脱しない範囲において、当業者が行い得る変更、改良等を施した種々の形態にて実施することができる。
【実施例】
【0042】
次に、実施例を挙げて本発明をより具体的に説明する。
【0043】
[基材の作製]
母材として、オーステナイト系ステンレス鋼SUS304製の丸棒状母材(直径6.5mm、長さ60mm、表面粗さRzjis1.5μm)を準備した。上記の数式から算出したSUS304のMs点は−150℃、Md30は30℃であった。丸棒状母材の表面には、母材に生じる剪断変形を極力抑えた条件で切削加工を施し(加工工程)、#A0の基材を作製した。
【0044】
また、#A0と同様な加工を施した後、後述のプラズマ窒化処理法により窒化処理を施し(窒化処理工程)、#A0−1および#A0−2の基材を作製した。なお、#A0−1は500℃、#A0−2は400℃、で窒化を行った。
【0045】
また、#A0と同様な加工を施した後、市販の化学研磨処理液を所定の条件にて用い、最表面から5μmまでの表面部を除去した(前処理工程)。その後、後述のプラズマ窒化処理法により窒化処理を施し(窒化処理工程)、#A1−2の基材を得た。なお、#A1−2は400℃で窒化を行った。
【0046】
[実施例1]
#A1−2の基材の表面に後述のプラズマCVD法によりDLC−Si膜を成膜し(被膜形成工程)、実施例1の被覆部材を作製した。
【0047】
[比較例1]
#A0−1の基材の表面に後述のプラズマCVD法によりDLC−Si膜を成膜し、比較例1の被覆部材を作製した。
【0048】
[比較例2]
#A0−2の基材の表面に後述のプラズマCVD法によりDLC−Si膜を成膜し、比較例2の被覆部材を作製した。
【0049】
<窒化処理工程および被膜形成工程>
窒化処理およびDLC−Si膜の成膜は、図2に示す直流プラズマCVD装置を用いて行った。図2に示すように、直流プラズマCVD装置2は、ステンレス製の容器20と、基台21と、ガス導入管22と、ガス導出管23とを備える。ガス導入管22は、バルブ(図略)を介して各種ガスボンベ(図略)に接続される。ガス導出管23は、バルブ(図略)を介してロータリーポンプ(図略)および拡散ポンプ(図略)に接続される。
【0050】
<プラズマ窒化処理>
容器20内に設置された基台21の上に、加工材3を配置した。次に、容器20を密閉し、ガス導出管23に接続されたロータリーポンプおよび拡散ポンプにより、容器20内のガスを排気した。容器20内にガス導入管22から水素ガスを14sccm(standard cc/min)導入し、ガス圧を約133Paとした。その後、容器20の内側に設けたステンレス製陽極板24と基台21との間に200Vの直流電圧を印加して、放電を開始した。そして、加工材3の表面温度が窒化処理温度になるまで、イオン衝撃による昇温を行った。次に、ガス導入管22から、窒素ガス500sccmおよび水素ガス40sccmを導入し、圧力約425Pa、電圧300V(電流1〜2A)、400℃または500℃でプラズマ窒化処理を1時間行った。得られた基材の断面組織を観察したところ、窒化深さは約10μmであった。
【0051】
プラズマ窒化処理後、ガス導入管22から水素ガスとアルゴンガスとを30sccmずつ導入し、圧力約500Pa、電圧250V(電流1〜2A)とし、プラズマ窒化処理と同じ温度でスパッタリングし、基材の表面に微細な凹凸を形成した。
【0052】
<DLC−Si膜の成膜>
プラズマ窒化処理に引き続き基材の表面にDLC−Si膜を成膜する際には、ガス導入管22から原料ガスであるメタンとTMSを供給し、各ガスを、メタン:50sccm、TMS:1sccm、水素ガス:30sccm、アルゴンガス:30sccmの流量で導入し、圧力約400Pa、電圧300V(電流1〜2A)とし、プラズマ窒化処理と同じ温度で40分間成膜して、膜厚が約3μmのDLC−Si膜を得た。
【0053】
[基材の評価]
以上の手順により得られた4種類の基材に対して、自然浸漬電位および腐食速度を測定した。測定方法を図3および図4を用いて説明する。
【0054】
自然浸漬電位測定には、上記4種類の基材のいずれかを用いて作製した試料電極E1と、塩化銀からなる参照電極E2と、電位計(図示せず)と、容器Cと、からなる測定装置を用いた(図3)。容器Cに、試験液Lとして5mass%塩化ナトリウム水溶液を満たし、試験液Lの温度を40℃とした後、試料電極E1および参照電極E2を挿入した。この状態で、試料電極E1と参照電極E2との間の電位差ΔE(自然浸漬電位)を電位計で測定した。結果を表2に示す。
【0055】
また、腐食速度は、分極抵抗法により測定した。腐食速度の測定には、上記4種類の基材のいずれかを用いて作製した試料電極E1と、塩化銀からなる参照電極E2と、白金電極(対極)E3と、電位計(図示せず)と、容器Cと、からなる測定装置を用いた(図4)。容器Cに、試験液Lとして5mass%塩化ナトリウム水溶液を満たし、試験液Lの温度を40℃とした後、電極E1、E2およびE3を挿入した。試料電極E1と白金電極E3との間に微少電流ΔI(ΔEが10mVを超えないように調整する。本測定では0.1〜10μAの任意の値。)を流して分極させたときの電位の変化量を、試料電極E1と参照電極E2との間の電位差ΔEを電位計で測定することにより求めた。腐食速度は、ΔI/ΔEに比例するため、それぞれの基材についてΔI/ΔE値を求めることで、相対的な腐食速度を得た。結果を表2に示すが、表2において腐食速度は、#A0の基材の腐食速度を1としたときの相対値とした。なお、本測定では、上記の測定装置として北斗電工株式会社製腐食速度計HK−103を用いた。
【0056】
【表2】

【0057】
切削加工のみを施した加工材の状態である#A0の基材は、+30mVで貴な自然浸漬電位を示した。すなわち、#A0の基材は耐食性に優れる。
【0058】
次に、切削加工後に窒化処理を施した#A0−1および#A0−2の基材では、自然浸漬電位はそれぞれ−400mV、−210mV、腐食速度はそれぞれ#A0の基材の70倍、10倍以上であった。つまり、#A0の基材には切削加工により生成された加工誘起マルテンサイトが存在したため、この基材に窒化処理を施すことで、耐食性が低下した。また、窒化処理温度を低温の400℃とした#A0−2の基材では、500℃で窒化処理した#A0−1の基材よりも貴の自然浸漬電位を示したが、加工誘起マルテンサイトが存在する基材に対しては低温処理をしても耐食性の低下を抑制することはできなかった。
【0059】
窒化処理を施す前に表面を化学研磨した#A1−2の基材の自然浸漬電位は+30mV、腐食速度は(#0の基材を1としたとき)0.6であった。すなわち、#A1−2の基材は、窒化処理後の耐食性の低下が表れなかった。これは、表面部を化学研磨したことで、切削加工で生成された加工誘起マルテンサイトが濃化して存在する部分が除去されたからである。
【0060】
[被覆部材の評価]
実施例1、比較例1および2の被覆部材に対して、塩水噴霧試験を行った。塩水噴霧試験は、40℃に保った試験槽内に被覆部材を配置し、試験槽内に試験液として5mass%塩化ナトリウム水溶液を霧状にして吹き込んで行った。試験開始から48時間後の被覆部材の表面を目視で観察し、錆の発生の有無を確認した。結果を表3に示す。なお、表3において、「○」は錆が発生しなかった、「×」は錆が発生したことを示す。
【0061】
【表3】

【0062】
実施例1の被覆部材は、DLC−Si膜の剥離も見られず、耐食性に優れた。一方、比較例1および2の被覆部材では、錆が発生した。これは、DLC−Si膜の厚さ方向に貫通する欠陥から試験液が侵入し、基材の表面を腐食させたためである。
【図面の簡単な説明】
【0063】
【図1】加工誘起マルテンサイトをもつ加工材を窒化して得られる従来の基材を模式的に示す断面図である。
【図2】直流プラズマCVD装置の概略図である。
【図3】基材の自然浸漬電位の測定に用いる装置の概略図である。
【図4】分極抵抗法による腐食速度の測定に用いる装置の概略図である。

【特許請求の範囲】
【請求項1】
オーステナイト組織を有するステンレス鋼からなる母材を加工した加工材の表層部を窒化してなり、40℃に保持した5mass%塩化ナトリウム水溶液中で塩化銀からなる参照電極を用いて測定した自然浸漬電位測定で−200mVより貴の自然浸漬電位を示す基材と、
該表層部の表面の少なくとも一部に被覆された機能性被膜と、
を備えることを特徴とする被覆部材。
【請求項2】
前記ステンレス鋼のMs点が0℃以下かつMd30が90℃以下である請求項1記載の被覆部材。
【請求項3】
前記機能性被膜は、非晶質炭素膜、窒化クロム膜、窒化チタン膜および金属被膜のうちの1種または2種以上である請求項1記載の被覆部材。
【請求項4】
前記基材は、−150mVより貴の自然浸漬電位を示す請求項1記載の被覆部材。
【請求項5】
オーステナイト組織を有するステンレス鋼からなる母材を加工することで加工誘起マルテンサイトが生成した加工材から加工誘起マルテンサイトを減少させる前処理工程と、
該加工材に窒化処理を行い窒化層を形成する窒化処理工程と、
該窒化層の表面に機能性被膜を形成する被膜形成工程と、
よりなることを特徴とする被覆部材の製造方法。
【請求項6】
前記前処理工程は、加工誘起マルテンサイトが表面側で濃化して生成した前記加工材の表面部を除去する工程である請求項5記載の被覆部材の製造方法。
【請求項7】
前記前処理工程は、電解溶解または化学溶解により前記表面部を溶解して除去する工程である請求項6記載の被覆部材の製造方法。
【請求項8】
前記前処理工程は、前記加工材を固溶化熱処理することで加工誘起マルテンサイトをオーステナイト化する工程である請求項5記載の被覆部材の製造方法。
【請求項9】
オーステナイト組織を有するステンレス鋼からなる母材をステンレス鋼のMd30よりも30℃以上高い温度で温間加工または熱間加工して加工材とする加工工程と、
該加工材に窒化処理を行い窒化層を形成する窒化処理工程と、
該窒化層の表面に機能性被膜を形成する被膜形成工程と、
よりなることを特徴とする被覆部材の製造方法。
【請求項10】
窒化処理後の前記加工材は、40℃に保持した5mass%塩化ナトリウム水溶液中で塩化銀からなる参照電極を用いて測定した自然浸漬電位測定で−200mVより貴の自然浸漬電位を示す請求項5〜9のいずれかに記載の被覆部材の製造方法。
【請求項11】
前記自然浸漬電位は、−150mVよりも貴である請求項10記載の被覆部材の製造方法。
【請求項12】
前記ステンレス鋼のMs点が0℃以下かつMd30が90℃以下である請求項5〜9のいずれかに記載の被覆部材の製造方法。
【請求項13】
前記窒化処理工程は、イオン窒化法、ガス窒化法または溶融塩窒化法により窒化処理する工程である請求項5〜9のいずれかに記載の被覆部材の製造方法。
【請求項14】
前記窒化処理工程は、350〜600℃で窒化処理する工程である請求項5〜9のいずれかに記載の被覆部材の製造方法。
【請求項15】
前記被膜形成工程は、非晶質炭素膜、窒化クロム膜、窒化チタン膜および金属被膜のうちの1種または2種以上を形成する工程である請求項5〜9のいずれかに記載の被覆部材の製造方法。

【図1】
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【図2】
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【図3】
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【図4】
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【公開番号】特開2008−31522(P2008−31522A)
【公開日】平成20年2月14日(2008.2.14)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2006−206456(P2006−206456)
【出願日】平成18年7月28日(2006.7.28)
【出願人】(000003609)株式会社豊田中央研究所 (4,200)
【Fターム(参考)】